朝鮮併合の検証2
このページ内の項目へジャンプします
(この色は韓国人の主張)(この色は管理人注)
ハングル・朝鮮史教育の禁止 −
創氏改名と皇民化政策 −
神社参拝の強制 −
強制連行 −
従軍慰安婦 −
大東亜戦争と上海臨時政府
ハングル・朝鮮史教育の禁止
〔日帝の民族抹殺政策〕 日帝は、わが国の物的、人的資源を略奪する一方、韓民族と民族文化を抹殺しようとする政策を実施した。すなわち、学校ではハングルの使用が禁上され、日本語の使用が強要された。韓国歴史の教育も禁上された。 (韓国の中学校用国定歴史教科書1997年版より)
この当時は外国の支配下に置かれたらどこの国も統治国の国語を強制されていた。中国の属国であった朝鮮の公文書は漢文であり、ハングル創製後も変わらなかった。それが日本の支配で日本文に置き換わったのであって、ハングルから日本文に代わったのではない。
李朝時代ハングルは蔑ろにされていた。
「朝鮮とその隣邦」 イザベラ・ビショップ 1897年(「醜い韓国人」 朴泰赫 1993年 光文社より)
朝鮮人は、自分に固有のハングル文字を軽蔑して、中国文字である漢字のみをただひたすら尊重するおかしな国民である。政府の公文書はもちろん、普通の手紙にも、会話の間にも努めて中国文を模倣して使用し国粋というべき語学上もっとも発達したハングルは婦人と子供と、下層階級が使用するものときめ込んでいる。
「朝鮮の歴史と文化」 姜在彦 1993年 明石書店
民衆や女性にも習いやすいこの文字を諺文(
おんもん・俗文)としてさげすみ、漢字こそが真書であるといって尊重したのは朝鮮の儒者たちの悪弊ですが、そのような傾向は「訓民正音」
(ハングルのこと)が制定された当初からありました。集賢殿副提学
(王立アカデミー副学長といったところ)崔万理らの反対上疏がそれです。
そこには六つの反対理由があげられていますが、その基本は『歴代の中国では、わが国をもって箕子
(伝説的な箕子朝鮮を建国した中国渡来人)の遺風があり、文物礼楽が中華に比肩するといっているのに、いま別に諺文を作るのは、中国を捨てて夷狄
(野蛮人)と同じくなる』ことだというものでした。
(中略)
ハングルの受難はその後も続きました。酷かったのは、この文字が創制されてから50余年が過ぎた燕山君(在位1494〜1506)の時のことです。
彼は李朝第十代の国王ですが、暴君として悪名高く、その横暴を誹謗した文書がハングルで書かれていたために、それを教えることも学ぶことも禁止したのです。
またハングル本およびハングルによる訳文も集めて焚書することを命じ、ハングルを使用した者も、それを告発しない者も、厳しく処罰しています。
大量の難解な漢字は、李朝の支配階級である両班の権威を民衆から守る防壁として、きわめて都合のよいものだった。
愚民政策社会を変えた日本人の教育熱
「韓国人の『反日』台湾人の『親日』」黄文雄 1999年 光文社
韓国人は、もともと日本人と同じように教育水準が高かったと考えている人が多い。しかし、それは大きな間違いである。日本は、江戸時代からすでに藩校や寺子屋がかなり発達し、大衆教育が普及していた。
しかし、朝鮮半島は、書堂も学堂も普及していたと思われがちだが、そうではない。李朝時代には、漢文教育が主流で、ハングルは一顧だにされなかっただけでなく、禁止されていた。
両班以外の庶民の教育は反対されていた。そもそも漢字漢文は一知半解の文字体系で、漢学の大家はもっばらその文意の読解に、なぞなぞを解くようにその、生涯の全精力を費やしていた。
ことに両班階級の場合は、わざと漢字を煩雑にして、庶民が読めないようにしていた。漢字が庶民や奴婢にかんたんに読まれたら、権威がなくなり、たまったものではないからだ。
だから儒教文化圏は、韓国にかぎらず、その社会構造が基本的に愚民社会を前提にしている。科挙のための勉強が中心となり、読み書きできない人びとが多いのが定評である。
二十世紀に入ってから、辛亥革命以後の中国では、国民学校教育が提唱されたが、真っ向から反対するのが文人であった。
彼らに言わせると、一般大衆まで教育を受けたら、農民も労働者も文字が読めるようになり、それこそ「斯文掃地」(文化が地に捨てて掃いたものとなろう)と、こぞって反対していた。
朝鮮半島の書堂で教えられていたものは、漢字の読み書きだけであった。ハングルの使用が解禁されてから日は浅く、文章として体系化されていないので、漢字・ハングル混じりの文字体系を確立するには、百年単位の歳月をかけなければならない。
それだけではない。農民も働き手の子どもが学校にとられるのを極力反対して、校長が父母を説得するのが大変であった。それは台湾でも同じであった。今世紀の初めごろ、朝鮮半島のみでなく、台湾でも教育を受けたとみられる学齢期の児童は数パーセントしかいなかった。
李朝朝鮮は、書院、学堂があったが、教育を受けられるものは、ごく少数でしかなかった。ことに女性は、小学校に入れただけでもエリート中のエリートであった。
在日朝鮮人一世は、七〜八割が読み書きできなかったことについて、たとえば姜在彦の『日本による朝鮮支配の40年』(朝日文庫73ページ)でも認められている。
教育普及率の数字から比較してみても、日本の開国維新以後の日本、台湾、朝鮮半島、中国の教育普及の雁行現象は、一目瞭然である。
しかし、日本人が朝鮮で教育を普及させたことを認めたとしても、その教有の目的は、「愚民教育」にあると主張するものも少なくない。なんと非論理的な、ただの言いがかりであろうか。
儒教文化圏の愚民政策社会に教育を普及させたのは、日本の教育熱であることを忘れてはならない。それは論理で論じられるものではなく、数字で語られなければならない問題でもある。
朝鮮語は、東北、西北、中都、西南、東方、済州島の六つの大方言区分に分かれ、李朝時代には、言語的にはけっして統一されてはいなかった。
そこで、朝鮮総督府は、朝鮮語を体系化したのだ。両班は漢文・漢語を中心に、諺文(おんもん)、諺語を排斥、軽蔑していた。
ソウル語を標準語として、漢字、ハングル混じりの文章を体系化したのは、統監政治以後の日本人言語学者と教育学者を中心とする専門家の努力によるものだ。
日本が学校教育でハングル授業を強制したため朝鮮人の反感を買った。
朝鮮総督府の教育が、ハングルを普及させた
「韓国 堕落の2000年史」 崔基鎬 平成13年 詳伝社
初めて民衆に八ングルを替及させたのは、日本だった
ハングルは李朝が滅びるまで、諺文(オンムン)と呼ばれて、女や子供のための文字として蔑まれていた。エリートである両班たちは慕華思想に凝り固まっていたので、漢文しか使わなかっった。
ハングルは1443年に、李朝4代目の世宗王のときに考案された独自の文字であったにもかかわらず、その後、李朝を通じて、国字としての正統な地位が与えられることがなかった。これは日本がカナを公文書にも用いたのと、対照的であった。
もしハングルが日本のカナと同じように使用されたとしたら、民族として自立的な意識を強めて、中国という妖怪を崇める慕華思想の呪縛から脱することができただろうが、そうならなかったのは残念なことである。日本の独特なカナは、日本の文化的独立を強める役割を果たした。
ハングルが全国民に教えられるようになったのは、日帝時代になってからのことである。韓日併合の翌年の1911(明治44)年から、総督府によって朝鮮教育令が施行され、初、中、高等学校で朝鮮人、日本人の生徒の区別なく、ハングルを必修科目とすることに決められた。
もちろん、朝鮮教育令は朝鮮人を、忠良な日本国民に仕立てることを目的としていた。私が日帝時代に小学校へ通っていた時は、朝鮮語がよくできる日本人教師は、月2円の加俸があった。
当時の1円は今日の日本円の数万円に相当しただろう。もっとも、昭和10年代に入ってから「皇民化教育」が強められると、日本語が強調されて、ハングルが教えられなくなった。だがハングルをはじめて韓国民に教えた総督府の功績も、忘れてはならない。
「醜い韓国人 <歴史検証編>」 朴泰赫 加瀬英明 1995年 光文社
朴
欧米諸国の植民地で、あれほど多くの学校を建立し、庶民にまで教育を受ける機会を与えたのは、例がありません。植民地の民衆に、あれほどの教育の恩恵を与えた国は、日本しかなかったと思います。
日本が唱えた「内鮮一体」は、まったくの嘘ではなかった、と思いますよ。もっとも、韓国人のなかには、当時、日本が「内鮮一体」といいながら、多くの学校を建てたのは、「愚民化政策」のためだった、という人が多いんです。
しかし、小、中学校から、高等専門学校や、京城帝国大学のどこにも、「愚民化政策」といえる点は見いだせませんし、韓国に渡った日本人が、自分たちの子供を同じ学校に入れたんですから、まさか、「愚民化教育」を受けさせたはずがなかったでしょう。
小、中学校は、日本人と韓国人の子弟向けに分かれていたものの、同じ教課を学んだのだったし、私の田舎の小学校にも、日本人の子供たちが通っていましたよ。
加瀬
日本は、台湾にも、韓国にも、多くの小学校をつくりました。それに、台湾も、韓国も、日本の一部であって、欧米のいうような植民地だという意識がなかったんですよ。
心ない差別があったことは、事実です。しかし、「一視同仁」ということが強調されましたし、同胞という考えかたが、強かったんです。
もっとも、こういった考えかたが行きすぎて、戦時色が濃くなった1930年代後半から、上から性急な「皇民化運動」を強いることになってしまったんですね。
韓国をとれば、日韓併合のときには、公立の普通学校(小学校)は、100校に満たなかった、総督府のもとで、まず3面に1校というと、3つの村ごとに1校建設することを計画し、1913年までに実現しています。当時の朝鮮には、ざっと2500の面(村)がありました。
つぎに、一つの村に小学校一つをつくることを目標にしましたが、1936年に計画が完成しました。太平洋戦争が始まった翌年の1942年に、1面2校を自標として掲げました。そして、全土でおよそ5000校の小学校が、つくられました。
朴
教育だけをとっても、日本は植民地時代の他の宗主国と、まったく違っていました。今日の韓国の近代国家としての基礎が、日本統治時代に築かれたことは、否定できません。
これが、もし、ロシアの一共和国となっていたとしたら、いったい、どうなっていたでしょうか。かつての旧ソ連の辺境にあった共和国と変わらなかったことでしょう。
今の韓国の若者たちは、わが国の歴史も、ハングルも書堂で教えていた、と思っています。李朝時代の韓国は、中国をひたすら崇めて、自ら「小中華と称していることを誇りとしていました。
ハングルは、婦人や子供が使う字として、蔑まれていました。今日でこそ、「ハングル」は発音のまま読み書きができる、世界でもっとも合理的で、科学的な文字だといって、誇っていますが、ハングルは日韓併合以前は、公文書にも、祝祭祀文にも、まったく使われなかったんですよ。
加瀬
総督府は、このうえの中学校用の「高等朝鮮語読本』も、発行していました。これは、5巻です。私がこの教科書について、新聞に話したら、横浜市に住んでいるK氏から手紙を貰いました。
K氏は日本人です。K氏は、昭和10年に全羅南道麗水邑の小学校に通学したが、「ハングル」の授業があったということでした。そして、昭和7年に韓国の小学校を卒業した。知人の当時の通信簿の写しを送ってくれました。
それが、修身、算術、国語、歴史、地理から、職業まで全課目が「甲」なんですが、「朝鮮語」という欄だけに「乙」と記されていました。
K氏は手紙のなかで、「日本の教育は朝鮮語抹殺であったとの主張は、その教育政策を検証すれば、誤りであることはあきらかです。
太平洋戦争下の緊迫した時代のみを取り上げるのは、誤っています」と書いています。また、K氏からの便りによれば、教員を養成する女子師範学校では、太平洋戦争開戦後も、生徒にチマ、チョゴリをつくることを教えるための課目があった、ということです。
朴
今日、韓国人が、全員、「ハングル」を読み書きできるようになったのは、日本統治時代に小学校で「ハングル」を教えたことから、始まっています。
これは、客観的な事実であって、否定することはできませんよ。日韓併合以前には、「ハングル」があったにもかかわらず、「常人」(サンノム)の9割以上が、読み書きできませんでした。
「歪められた朝鮮総督府」 黄文雄 1998年 光文社
日本では、「日帝三十六年」の「七奪」の一つとして、朝鮮人の言葉を奪ったという批判がずっとまかり通っている。
じつは南総督時代以後、非常時にさいしての「国語(日本語」)の奨励策はあったが、朝鮮総督府による朝鮮語使用禁止という政策はなく、この見方は真っ赤な嘘である。
日本帝国主義による対朝鮮教育侵略の特徴は、韓国民衆を徹底的に日本化、つまり「愚民化政策」に重点をおいて展開したとか、「日帝三十六年」の教育政策によって、戦後の韓国人は、どうしようもない状態に陥ったなどの見方も歴史歪曲である。
朝鮮人から言語を奪った張本人であると批判されている南次郎総督でさえ、朝鮮人から朝鮮語廃止の建策に反対したのが、歴史的事実である。
たとえば、「日本人以上の日本人」といわれた玄永燮や、「三・一独立運動」で三十三人の民族代表の一人であった朴煕道は「朝鮮語使用の全廃」を主張していたとき、南総督は、むしろ極力反対してこう語っている。
「朝鮮語を廃止するのはよくない。可及的に国語を普及するのはいいのだが、この普及運動も、朝鮮語廃止運動と誤解されることがしばしばあるくらいであるから、それはできない相談である」(林鐘国著『親日派』御茶の水書房)
小学校教育の普及速度は、内地とあまり差がなかった。
「韓国・朝鮮と日本人」 若槻泰雄 1989年 原書房
総督府は朝鮮人の教育にはかなり力を入れ、朝鮮に近代学校制度を創設普及させたということができよう。ことに初等教育では着実に努力をつみ重ね、「三面(村)一校」「一面一校」というように順次目標をあげながら、寒村僻地にいたるまでくまなく普通学校(小学校)を設立した。
統治開始後32年たった1942年には、朝鮮人推定学齢児童数の56%が就学するまでになった。日本内地が同じ水準に達したのは、明治政府が発足して25年後のことである。
これらの数字は、日本政府が朝鮮における初等数育に対し、本国におけると同様の、もしくはそれに近い努力を傾注してきたことを示すものといえよう。
1943年には、朝鮮統治多年の懸案であった初等教育の義務制が1946年から実施されることが決定した。
総督府は戦時下の資材不足をおかして、学校、学級の一大拡充に乗り出し、1945年4月からは中等以上の学校に進学しないもののために、内地同様、青年学校も新設したのである。
植民地原住民の中でも、朝鮮人がいち早く近代世界に入ることができたのは、総督府の教育政策により、日本人が咀嚼(そしゃく)した西洋の学問・近代精神を消化したためである。
韓国併合後の朝鮮教育令では朝鮮語の授業は必須科目であったが、昭和13年の朝鮮教育令の全面的改正で、朝鮮語の授業を行うか行わないかは校長の判断に任されることになったが、朝鮮語の授業を行なわなくなったのは日本人校長の学校ではなく朝鮮人校長のいる学校の方であった。
「日本と韓国」 八木信雄 昭和53年 日韓文化出版社
(著者の八木信雄氏は朝鮮総督府の官吏で、終戦時には全羅南道知事であった。)
韓国語の取扱い
K
ところて、韓国語の取扱いはどうなっていたんだろう。僕が耳にしているところでは、学校では一切韓国語を教えなかったとかいうことだったが…。
Y
一切教えなかったというのは間違いだが、南総督時代になってから、教育令の上ではそう言われかねない状態になったね。そもそも、併合(明冶四十三年八月二十九日)当時の韓国の学制では、普通教育機関として普通学校、高等学校、高等女学校があり、その教科目に〃朝鮮語及漢文〃とあって、韓国語を教えていたことはもちろんなんだが、併合の翌年八月、寺内正毅総督によって〃朝鮮教育令〃が制定された後も、韓国人のための普通教育機関である普通学校、高等普通学校、女子高等普通学校ては〃朝鮮語及漢文〃を必須科目として残してあったんだよ。
なお、そればかりじゃなく、日本人の子弟を教育する小学校、中学校、高等女学校でも、土地の情況により附設科目として〃朝鮮語〃の科目を設けることができるようになっていたんだよ。
K
日本人の子弟にも韓国語を教えるなんて、武断政治家の寺内にしてはとてもいい着眼じゃないか。
Y
全くだよ。次に、大正八年(一九一九年)の独立騒擾事件(三・一運動)の後に就任した斎藤実総督(後、総理大臣)は、韓国人の教育水準を日本人と同じ程度に引き上げることにして、大正十一年二月教育令の全面的改正を断行し、国語を常用せざる者(韓国人を指す)のための普通教育機関の修業年限の延長を図ったわけだが、普通学校と女子高等普通学校では〃朝鮮語〃、高等普通学校では〃朝鮮語及漢文〃が必須科目として存置され、日本人の初等・中等学校についても従来通り、〃朝鮮語〃の科目を附設できるようになっていたんだよ。
K
普通学校と女子高等普通学校の教科目が〃朝鮮語及漢文〃がら〃朝鮮語〃に変ったのはどういうわけかな。
Y
韓国は漢文化の国だからというので、最初は初等教育の普通学校でまで初歩の漢文を教えていたのだが、日本人子弟と同じ教育水準に引き上げるとなると、漢文まで教えていたのでは負担が重くなり過ぎるからだと思うよ。
K
なるほど、そういうわけか。
Y
なお、これは学校の教科目のことではないが、総督府では大正九年に『朝鮮語辞典』の編纂を終って公刊しており、これから見ても韓国語を抹殺する意図はなかったことが分るんじゃないかね。
それから、次の宇垣一成総督になると、昭和九年に新しく〃簡易学校〃というものを設けて、まだ普通学校の設置されていない僻陬(へきすう)地の児童を収容して、修身、国語、算術、農業と〃朝鮮語〃を必須科目とした農村向けの簡易な教育を実施することにしたんだよ。
なお、これには、総督自身が発案し提唱した農村振興運動の実施に当り、その中に取り入れた家計簿の記帳に韓国語を役立たせようという狙いもあったようだね。
ところが、問題は南総督になってからで、支那事変の勃発に伴って時局が重大化してきたから、大いに〃内鮮一体化〃を図らなければならないということで、昭和十三年三月、朝鮮教育令の全面的改正を断行し、韓国人の普通教育についても日本人同様に小学校令、中学校令、高等女学校令に依ることにしたんだよ。
そして、朝鮮語は正科から外して附設科目にし、朝鮮語の授業を行うか行わないかは校長の判断に委せることに改め、且つ随意科目にして、生徒がその授業を受けても受けなくても勝手だというふうにすることができるという程度にまて大幅に格下げしてしまったわけだ。
なお、日本内地の教育制度改正に追随して、昭和十六年三月、小学校は国民学校に変ったが、朝鮮語の取扱いについては従前通りだ。
K
それじや、朝鮮語をそんなに格下げしてしまった後の、韓国人学校での授業の実際はどんな状態だったんだろう。
Y
それが非常に面白い問題でね。朝鮮語が正科から外されてしまったとたんに、各学校から一斉に消えてなくなってしまったかというと、実際は必ずしもそういうことにはならなかったんだ。
それというのは、朝鮮語の科目を附設するかしないか、附設しても随意科目にするかしないかは校長の権限に委されており、その決定如何によるわけだが、校長としてほその決定に当って、生徒児童の父兄はもちろんのこと、学校所在地の住民一般の意向を全然無視するわけにはいかないというのが実情だったからなんだよ。
父兄や住民の中には道会議員とか、邑会議員、面協議員とかいった公職者を初め色々な土地の有力者がいるわけで、この人たちは正面切って内鮮一体に反対しないにしても、朝鮮語の授業の廃止には内心強い反対意向を持っているわけだから、校長としては、これを無視し去るということは相当の決意を必要とすることだからね。
K
総督府の役人が机の上で決めることは簡単だろうが、実際の仕事をする者にとっては大変なことだからね。
Y
これは、終戦時まて韓国人の通学する国民学校の校長をしていた韓国出身の吉野鎮雄氏から聞いた話なんだが、道(どう・
県)によって多少の相違はあっただろうが、韓国人校長の場合はほとんど朝鮮語の授業を行わず、逆に日本人校長の場合はそのほとんどが週二時間宛教えていたというんだな。
当時の韓国には六年制の国民学校のほかに四年制の国民学校もあり、六年制学校の校長十名か十一名の中一名、四年制学校の校長七、八名の中一名位の割合が韓国人校長だったから、朝鮮語を教えなかった国民学校は教えた学校の一割前後にしかならなかっただろうとも言っていたよ。
K
韓国人の校長こそ朝鮮語の授業をやりそうなものなのに、どうしてやらなかったんだろう。
Y
僕もそれが不思議なので、吉野氏に聞いたところが、「韓国人の教員で校長に選ばれるのには、よほど日本人の上司の点数がよくないと駄目なわけで、朝鮮語は教えずに日本語の教育に熱を入れることが、また、非常な点数稼ぎになったのだ」という返辞だったよ。
K
それは、正に〃内鮮一体悲喜劇〃とも称すべきものだったね。それはそれとして、大部分の学校で朝鮮語の授業が行われていたというのに、どうして、学校では一切教えなかったなどという話になって伝わったんだろう。
Y
それは、まず第一に、教育令の改正で朝鮮語を必須科目から外して附設科目、随意科目に大格下げしてしまったこと、そして幾分ながらその授業を廃止した学校があったことがそういう印象を与えたこと。
第二に、総督府が「日本精神の理解と内鮮一体の信念の体得には、国語即ち日本語教育に特に力を入れる必要がある」として、その徹底方を指示した関係で、一年生を教育する場合は致し方ないとしても、その他の場合は韓国語でなく専ら日本語で教育するようになったこと。
それに、生徒児童が校内で韓国語を使用することを禁じたりしたことなどが、そういう誤解を生むに至った原因じゃないかと思うよ。
K
韓国人にしてみれば、韓国語は、自分たちが祖先以来継承し、守り続けてきた民族の生命なのだから、これを軽々しく取り扱われたのではとても我慢できなかったろうし、それで話に尾鰭(おひれ)がついたり、針小棒大にもなったんだろうね。その辺の事情はよく分るような気がするよ。
Y
南総督の掲げた〃内鮮一体〃という政策には、「韓国人も日本人と全く同じ日本国民てあるという心からの誇りを持たせる」という目的も含んでいたのだが、それは高次元の一視同仁政策によって初めてその可能性が考えられることてあり、日本式創氏をさせたり、韓国語を軽視して日本語使用のみを励行したりといった次元の低いやり方は、逆効果を招くことにはなっても、決していい効果は生まないわけだよ。
その意味においては、父兄や土地の住民の声なき声に耳を傾けて、朝鮮語の科目を附設し、その授業を続行した日本人校長たちのあり方の方が、むしろ一視同仁の真の精神に添ったことになったと思うよ。
(中略)
それで思い出したのだが、僕がまだ警視で慶尚北道警察部の警務課長当時(昭和五年五月から六年二月まで)のこと、大野謙一(後、咸鏡北道知事・総督府学務局長、故人)という警察部長がいて、僕に慶尚北道警察部独自の〃朝鮮語奨励規程〃と、その実施要綱を、何時何時(いついつ)までに作れというんだ。
僕はたまたま風邪で熱を出して寝込んでしまったので、頭の中で草案を作りながら口述して家内に筆記させ、どうやら間に合せたことがあるんだよ。
じつは4、5年前のことなんだが、ある会合の席上で、日本の教育者の一行が、韓国の教育者との交流のために彼地を訪問した際、「日本の統治時代は、韓国語を使うと警察に引っ張って行かれたものだ」という説明を受けたと聞かされて、全く憮然たる気持ちにならざるを得なかったよ。
K
それは、当時の警察に対して無実の罪を着せることになるわけだね。
Y
それは、南総督が内鮮一体の旗印の下で国語(日本語)の常用を奨励し、国語を常用する家庭の入口には〃国語常用の家〃という標識をつけて賞揚したことがあるのだが、恐らくこの時代に若干あったことが、韓国統治なかんずく警察の作用に対する韓国人の反感で誇張された結果だと思うよ。
朝鮮語抹殺を提唱したのは朝鮮人
「日韓共鳴ニ千年史」 名越二荒之助 平成14年 明成社
日本統治時代に朝鮮語は抹殺され、日本語が強制されたと批判する声が強い。しかし実際は、そうすることを熱心に提唱した朝鮮人がいたのである。
玄永燮(げんえいしょう、日本名天野道夫)は、自分の著書『朝鮮人の進むべき道』の中に「朝鮮語僕滅論」を書いている。その一節――
〈朝鮮人は、朝鮮語を忘れてしまわなければならない。朝鮮人が日本語でものを考えた時こそ、朝鮮人が最も幸福になった時である。…われわれは頭のてっぺんから足の爪先まで日本人なのである。…
学校で朝鮮語を教える必要は毫(ごう)もない。朝鮮人を不幸にしようとするならば、朝鮮語を永続させて、朝鮮的な低級な文化を与え、それ以上の発展を阻止することである〉
彼は日本人になりきるために、朝鮮語を使ってはいけないというのである。彼としては、「日本人以上の日本人」になることが目標であったし、「完全に日本人化した朝鮮人から、宰相(首相)が生まれること」が、彼の願いであった。
この著書の反響はよく、売れ行きも前記したように爆発的であった。出版した年の昭和十三年七月八日、南次郎総督は朝鮮人の民意を聞くため、面接を行なった。その時招かれたのは玄永燮ら七人だったが、彼は総督に対して次のようなことを提唱した。
「朝鮮人が完全な日本人になるためには、従来体験しない神道を通じ、また朝鮮語使用全廃を通じてでなければ、駄目だと思う」(毎日申報、昭和十三年七月九日)
それを聞いて南総督は面食らった。総督はこの提案を退け、次のように答えた。「朝鮮語を排斥することは、不可能なことだ。
できるだけ国語(日本語)を普及するのはよいのだが、この国語普及運動が、まま朝鮮語廃止運動であるかのように誤解されることがあるが、これは正しくない」(毎日申報、昭和十三年七月九日)前年の昭和十二年一月十二日の『毎日申報』に「毎日コクゴ面」が新設され、一部に日本語が使われるようになっていた。
そして十三年の四月から使われる中学校の教科書は、すべて日本語で書かれるようになった。しかし総督としては、朝鮮語を廃止するのではなくて、日本語普及を念願していることを強調したかったのであろう。
その後、昭和十四年の一月、純日本語雑誌『東洋之光』が創刊された。発行者は朴煕道(三・一独立運動で、独立宣言書に署名した三十三人のうちの一人)で、彼は皇道文化樹立の先頭に立っていた。
『東洋之光』発刊の目的は、「内鮮一体の具現に対する日本精神昂揚の修養道場」にすることであった。創刊号の「巻頭言」の一節――
〈此際(このさい)、半島二千万同胞の心底に日本精神を昂揚し、陛下の赤子として、皇国日本の公民として例外なく国体の尊厳を体得し、皇国日本の大使命を遵奉し、皇道の宣布、国威の宣揚に精進し、以て東洋の平和は勿論、八紘一宇の大理想を開いて、世界人類文化の発達とその康寧福祉増進に貢献することを期せねばならないと信じます〉
一つの文章の中に「皇道」や「皇国」が三回も出てくる徹底ぶりであった。いずれにしても当時、朝鮮人の間から「内鮮一体」のスローガンと共に、朝鮮語全廃の声を挙げ、それを実践に移した者がいたことは確かである。
李朝時代、歴史といえば中国史のことであり、朝鮮史は一顧だにされなかった。
「韓国近代教育史」 呉天錫 高麗書林(「近い国ほど、ゆがんで見える」 林建彦 1982年 サイマル出版会より)
旧韓国時代
(李朝)の教育は、徹頭徹尾、中国文化を内容としたものであり、教育の材料は全面的に中国的なもので、そこに出てくる逸話まで、晏子、諸葛亮および文天祥のような中国古代の人物に関するものばかりであった。
教育を受ける国民が、自国に関わることを知らず、外国に関わるものだけに精通しており、それをまた自慢にしていた。
「朝鮮事情」 シャルル・ダレ 1874年(金容権訳 1979年 平凡社東洋文庫)
「しかし中国と朝鮮の間には、学問研究と科挙において三つの明確な相違点がある。その一つは、朝鮮における学問は、全く民族的なものではないという点である。
読む本と言えば中国のもので、学ぶ言葉は朝鮮語ではなく漢語であり、歴史に関しても、朝鮮史はそっちのけで中国史を研究し、大学者が信奉している哲学体系は中国のものである。写本はいつも原本より劣るため、朝鮮の学者が中国の学者に比べてかなり見劣りするのは、当然の帰結である」
(中略)
また朝鮮史については、「資料不足のため、真実の、しかも体系だった朝鮮史を記述することは、たとえ不可能ではないにしても、困難なことである。
漢文で書かれたさまざまな朝鮮史の本は、それらを一読した人によると、誇張された朗読用のテキストに使われるため、多かれ少なかれ想像上の事実の雑多な寄せ集めに過ぎないということである。
朝鮮の学者たち自身も、これらの文献に何等の信用もおいておらず、また決して研究対象にする事なく、中国の歴史書だけを読むことにしている。
時々朝鮮語で書かれた簡略な歴史本に出くわすこともあるが、それは婦女子の気晴らし用の真偽取り混ぜた奇譚集に過ぎない。学者達はといえば、それを開いて見ることさえ恥辱だと思っている
(中略)
したがって、朝鮮史についてある程度正確な知識は、主に日本や中国の文献を通してはじめて集め得るというわけである」
朝鮮史研究は総督府から始まった。
「立ち直れない韓国」 黄文雄 1998年 光文社
日本人学者の朝鮮史研究は、どう歴史歪曲されたか
朝鮮の伝統文化の保存と尊重についての、朝鮮総督府の並々ならぬ努力は、けっして朝鮮歴代王朝以下ではない。日本人が朝鮮半島に侵入してくると、すぐ京城の書院を襲い、貴重な文化財を略奪して、日本国内に持ち帰り、歴史書を没収、焼却したと書かれているが、それはただの作文にすぎない。
総督府は、朝鮮の旧慣と古跡についてくまなく調査し、朝鮮文化研究について、多くの貴重な文化遣産を残している。総督府は旧慣民俗に関する調査の結果、膨大な書籍を刊行し、中枢院は、李朝時代の法典類を編纂刊行している。
たとえば、1915年(大正4年)から1920年にかけて、『朝鮮古跡図譜』7冊と解説書5冊を会刊した。その後、1919年から11年間をかけて古跡を再調査し、12冊にのぼる『古跡調査特別報告』を刊行した。
1925年6月に、勅令で「朝鮮史編集会官制」を公布し、独立官庁として「朝鮮史編集会」がつくられた。
また総督府は1913年12月、「朝鮮史編集委員会」を設け、15年の歳月をかけて、計35巻、2万4000ぺージにのぼる巨著『朝鮮史』を刊行した。
さらに20種、100冊にのぼる『朝鮮史料叢刊』、および『朝鮮史料写真及びその解説』を刊行した。日本人学者でつくった「朝鮮古書刊行会」や「朝鮮研究会」の手で、数多くの朝鮮史書が刊行されている。
しかし、朝鮮人学者によれば、それらは朝鮮統治を合理化し、朝鮮民族を劣等民族として歪曲するためにまとめられたものであり、史料蒐集の目的とは、朝鮮人の自国の歴史文化に対する自主研究を排除するための史料奪取で、大々的な史料蒐集と編史事業は、朝鮮支配に利用するためでもあるとも主張されている。
朝鮮史研究の目的が、朝鮮民族の劣等性、後進性と日帝の朝鮮侵略の合法性を立証するための史料捏造、史料歪曲、皇民化遂行への利用をもくろむものであったとまで歪曲したり、曲解する必要はどうしてあるのだろうか。
率直のところ、李朝末期にいたるまで、両班階層が学んだのは支那史だけであって、朝鮮史には一顧だにしなかった。朝鮮史を直視する歴史学者はいなかったのが史実であった。
創氏改名と皇民化政策
1940年総督府は日本人に同化させようと、「皇国臣民化」の名のもとに朝鮮固有の姓名を廃止し、日本式名前に変えさせられる「創氏改名」の暴挙を行った。これは、天皇の臣民となることを強制するものである。
朝鮮は男系血族社会で、血統を誇りにし「異姓養わず、同姓娶(めと)らず」という儒教の教えを厳守していた。それゆえ姓が違うと養子にできないし同姓同士では結婚もできなかった。そのため父親の分からない子供や捨て子は悲惨なことになる。
創氏改名は、日本人風の氏に変更することをを強制するものではなかった。
「NOといえる教科書」 藤岡信勝・井沢元彦 平成10年 祥伝社
井沢
創氏改名をとっても、韓国人にとっては大屈辱で憤激の種だったわけですけれども、日本にしてみればある意味で「親切」なんです。日本人と同じ待遇にするということですからね。
もし本当に差別したければ、名前ですぐ区別がつくほうがいい。日本人と韓国人は外見では区別がつかないのですから。
藤岡
そうですね。むしろ基本的には要求に応えて認めたという性格が強いんですね。
井沢
仕事の上での不利益や不便を避けるためや、他のいろいろな理由で、当時も、日本名を希望する人が、実際にいたわけですね。
藤岡
ですから、そういう声が強くなって、希望するなら日本人式に姓を名乗ってもいいよということを、日本政府が認めたのが、1940年(昭和15年)です。具体的には2月11日付「朝鮮人氏名に関する件」という通達でした。
当初はけっして強制ではなかった。そればかりか当時の朝鮮総督だった南次郎も強制してはならないと訓令を発しているほどです。
ところが地方の末端官僚が創氏改名者の数を増やそうと競争したために、事実上"強制"に近い形になった。これは愚かなことですよ。それとは対照的に、同じ日に同様の通達が出された台湾では、創氏改名者は2パーセントにとどまっています。
井沢
まあ役人が成績をあげるために強制するわけですよね。
藤岡
ですから強制に見えてしまうわけですが、法的な強制力があったわけではない。あえていえば、しつこい勧誘といったらいいでしょうか。
しかも点数稼ぎ競争した地方の面長(日本でいう村長)、郡主は原則として朝鮮人だったんですから、日本人のせいばかりとはいえません。
井沢
そこのところを、まだ日本でも認識してない人が多い。
藤岡
朝鮮ではこの通達の半年後には、79パーセントの人が改名の届け出をしているわけですが、逆にいえば強制でなかった証拠に、改名していない人もたくさんいたわけです。
もっとも有名なところで陸軍中将として戦犯とされた洪思翊という人がいます。また数人の道知事は朝鮮名のままで、何ら差別を受けていません。ですから、名前を奪ったという言い方、いわゆる侵奪という言い方、これはやはり歴史の事実に反することです。
創氏改名制度以前に、通称として日本名を名乗る朝鮮人が少なからずいた。また満州の朝鮮人は、中国人からの圧迫を、日本人の威を借りてかわす目的で創氏改名を要求した。
「歴史民俗朝鮮漫談」 今村鞆 昭和三年(1928) 南山吟社
回顧二十年前
(今村鞆は韓国併合以前の統監府の時代からの官吏であった。)
当時表面的ではあるが、鮮人が日本に同化の意を表はす為めに、吉田権次郎(本名権丙吉)、伊藤彬(本名李胄彬)、吉野柳之助(本名柳学文)といふ様に、日本人名を付ける事が流行した。
その中伊藤(統監と同姓)といふ姓が一番多かつた。此等は民籍が出来て後にも、民籍へ日本名で登録されてあつた。或る時、会計が間違へて朝鮮人官吏へ、日本人額の旅費を払ひ渡し。それが問題になつて、爾来日本名を付することを禁止した。寺内総督の時
(1910〜1916年)である。
「在日朝鮮人の生活状態」 大阪府学務部社会課 昭和九年(1934)(「近代民衆の記録10 ―在日朝鮮人―」 昭和53年 小沢有作編 新人物往来社より)
1.本調査は大阪市内に一戸を構へて居住する朝鮮人の生活並に生計状態を戸別に調査したものであつて、1万1835世帯の調査の結果を収録したものである。
1.本調査は社会事業主事 長部英三を主任とし、臨時採用の調査員50名に朝鮮人通訳者20名を加へて昭和7年6月より同年12月末まで7ケ月に亘り実地調査を施行したものである。
◇
(世帯主の)内地名の有無
世帯主の中種々の便宜の為に本名の他に内地名を有つてゐる者は748人あつて総数の6.31%に当り、、残り93.69%に当る1万1088人は内地名を有つてゐない。
◇家族の内地名の有無
家族人員4万3786の中世帯主1万1835人を除いた3万1951人に就てみると、その中通称として内地名を有するものは1877人あつて5.87%に当り、有してゐないものは2万9959人あつて93.77%に当つてゐる。
「韓国は日本人がつくった ―朝鮮総督府の隠された真実―」 黄文雄 2002年 徳間書店
創氏改名のきっかけとなった理由のひとつに、満州へ移住した朝鮮人からの要求や嘆願があったことは、あまり知られていない。満州はもともと清国を開いた満州人の祖国であり、清朝時代には漢人(中国人)の入植が禁じられていた。
19世紀未には入植が解禁されたが、その少し前から満鮮国境にいた朝鮮農民は、じょじょに入植をはじめていた。それがもっとも多かったのは間島地方
(現在の吉林省延辺朝鮮族自治州)である。
入植解禁前に漢人はすでに満州に入って盗伐や盗墾を行っていたが、朝鮮人は盗伐者たちに雇われて働き、だんだんと定着農民となっていった。
朝鮮人の多くが水田、漢人の多くは旱田耕作という棲み分けはあったが、しばしば衝突もあった。もっとも大きな衝突は「万宝山事件」
(1931年)であり、それをきっかけに韓国人はソウルをはじめとする大都市の支那人へ報復虐殺を行った。
日韓合邦当時、満州には約150万の朝鮮人がいた。彼らは絶えず漢人から圧迫され、搾取され、農奴に近い生活を強いられていた。やがて朝鮮人狩りが起こる。
朝鮮人をもっとも嫌ったの張作霖で、「満州には朝鮮人をひとりも入れさせない」と息巻いていたほどである。この朝鮮人迫害は、漢人・韓人たちの満州資源争奪の争いを助長した。
このような歴史背景下で、朝鮮人にとって唯一の救いは、当時五強のひとつであった大日本帝国の臣民となることだった。唯一、中国人に対抗できる切り札であったため、朝鮮人たちはすすんで創氏改名を強く要求したのである。
日本こそが、朝鮮人にとって合邦国家の民族の誇りであり、中国人の跋扈に対抗できるただひとつの勢力だったのだ。だから満州事変
(1931年)以後、関東軍
(満州に駐屯した日本陸軍部隊)が関東州
(遼東半島にあった日本の租借地)から北上してきたのをもっとも喜んだのは朝鮮人だった。
彼らはいたるところで日章旗を掲げ、関東軍を歓迎し、日本人として集まって日本国民としての誇りと意識を強くもっていた。日本国民になれば、漢人にいじめられることもない。満州事変以後は、農民だけでなく、反日ゲリラもつぎつぎと武器を棄て日本側へと転向したのだ。
満州国建国当初、協和会に参加していた朝鮮人名士のひとり趙悦は、「民族協和運動の進展と朝鮮民族、五族協和の理想実現」という一文を、「大満蒙新聞」と「全満朝鮮人民連合会会報」(16号、1933年8月)に載せた。
そのなかで「在満州の各民族は支那国民党の国家主義的扇動によって、激しく対立し、各民族の軋轢(あつれき)は日増しに増大している。ことに朝鮮民族に対する圧迫や迫害は言語道断であった」と指摘している。
在満の150万人の朝鮮人にとって、「創氏改名」は迫害を避ける唯一の方法であり、ワラをもつかむ心情だったことだろう。よって、皇軍(関東軍)の北満への出動は、在満朝鮮人にとって積極的な救済保護であり、兵匪、満州軍閥の圧迫からの解放だと見るべきだ。
満州事変後、朝鮮人の間で、日本国籍を有し「日本帝国の臣民」として、その権利と義務を果たすべきだとの議論が起こったという事実もある。そして、「帝国臣民」になりたいという声が高くなり、漢人の差別に逆襲するために「創氏改名」を強く要求した。
しかし、「創氏改名」を遂げた過激な一部の朝鮮人が、漢人(支那人)ヘの報復のため満州で跋扈したことから、日本人は「日本鬼子」、朝鮮人は「二鬼子」と呼ばれ、嫌韓感情が高まっていった。
在満朝鮮人の「帝国臣民」としての法的地位要求に対して、当時の朝鮮総督府外事課長の田中武男は、次のような警告をしている。
「在満鮮人が、日本国民たる特権のみをふりかざして驕慢な態度に出、自重を欠き謙譲を失い、不遜暴慢をもって本来の満州国人やその他との間に紛争を引き起こし、ためにその非難忌避の対象となること甚だ多き」韓国人は一度優越意識に浸ると、その自信はどこまでも増長するようだ。
朝鮮総督府の発行した創氏改名の解説書。日本名への強制の意図はなかったことが分かる。
「氏制度の解説 ―氏とは何か氏は如何にして定めるか―」 昭和15年(1940) 朝鮮総督府法務局発行
◇第二 氏制度創設の理由
1、半島人の要望
内鮮人
(内地人と朝鮮人)は歴史的に論証されておるがごとく同祖同根の血縁を有するのですから、精神も形も全く一つに融け合はねばならぬ運命を負ふているのです。
今現に本来の一つの姿に還らんとしております。そのような時期に際して、半島人の一部に法律上内地人式に氏を称へ得るやうに途を拓いてもらひたいという要望が起こって来たのです。
つまり通称として内地人式の氏名を称へておったのでは肝心な場合には名乗れないから、何処へ出ても堂々と内地人式の氏名が称へられるようにしてもらひたいという訳です。
そのような要望は最初支那その他外国及び内地に存在している半島人から起こったのですが、それはもっとも至極な要望といふべきです。帝国臣民が帝国臣民にふさはしい氏名を名乗りたいというのですから、これを拒否する理由は毛頭ありません。
(中略)
半島人が内地人式の氏を称え得るやうにするが為には、朝鮮には元来氏そのものの制度がないのですから、どうしても氏の制度を定めねばならないのです。
◇第三 氏の制度が布
(し)かれても姓は存続する
氏と姓の性質が全然異なることは前に述べた通りであります。判りよくいへば姓の外に新たに氏の制度が布かれただけの事で、姓の制度には全然影響がありません。
つまり姓がなくなる事もなければ姓が変はる事もありません。姓の制度が氏の制度に代はるだとか、氏の創設は改姓だといふものは、何も知らない人のいふ事です。
◇第四 内地人式の氏を設けることが強制されているのではない
このたび氏の制度が布かれたのですから何人も必ず氏を設けねばなりませんが、(もっとも、後に説明するやうに従来の姓を氏に用ふる人は放って置いてよい
(役所に出向いて手続きしなくてもよいということ))必ず内地人式の氏を設けねばばらないことはありません。
後に述べるやうな制限外では各自の好む所に従って氏を定め得るのです。内地人式の氏を設けるやうに、強制されているのだと解している人があれば、それは誤解です。
氏名と姓名の違いを理解しましょう。日本人の名前=氏+名、朝鮮人の名前=姓+名。朝鮮人の『姓』は男親系統の血族集団を示すものなので生涯不変の苗字であり、朝鮮人一家は夫婦別姓・母子別姓であった。
そこで、家族共通の苗字『氏』を名乗るように、新たに氏を創ったことが『創氏』で改姓・廃姓ではない。その証拠に戸籍簿には「姓及本貫」の記載欄もある。
つまり、朝鮮人の名前=(姓)+氏+名、となったのだ。よって、韓国人の主張する『創氏改名で名前を奪われた』というのはデタラメである。
◇現在では氏名と姓名は同義語になっているが本来区別されたものである。
◇従来の朝鮮の姓をそのまま氏にも用いることを「法定創氏」といい(昌徳宮李王垠殿下・朴春琴衆議院議員・洪思翊陸軍中将など)、日本人式の氏にした場合を「設定創氏」という。
◇「改名」制度とは日本人式の氏をつけた場合、従来の下の名が新しい氏と釣り合わない場合に、改名もできるようにした制度で、任意であったので改名手数料をとられた。(例、作家李光洙の場合、→香山光洙→香山光郎)
在日コリアン1世の創氏改名・日本語使用・神社参拝の実施状況。創氏改名をしたというのは、日本人風の氏を選んだ「設定創氏」と思われる。
「アボジ聞かせて あの日のことを -我々の歴史を取り戻す運動報告書-」 1988年 在日本大韓民国青年会中央本部刊
終戦以前に渡日した在日1世
(ただし、渡日時に満12歳未満の者は除く)
1106名のアンケート調査結果から
平均渡日年齢19.1才
それぞれの項目とも「しなかった」という者が大なり小なり存在することから、
役所・学校による強制は、韓国人の主張するような酷いものは例外的なものではなかったかと思われる。
「姓氏」差別をした李氏朝鮮時代
「立ち直れない韓国」 黄文雄 1998年 光文社
朝鮮総督府は、「創氏改名」政策を行ない、いかにも朝鮮人が生命以上に大切にしている先祖代々の「姓氏」を奪ったと、朝鮮近現代史家は厳しく批判する。
「創氏改名」には、絶対反対した人びとが存在したことも事実であろう。しかし、反対した人びとは、なぜ「姓氏」差別をした李朝史を直視しないのであろう。
朝鮮半島では有史以来、李朝末期に至るまで、最下級の「賎民」に姓氏をつけることさえ許さなかった。そのため白丁
(被差別民)の子孫たちは、李朝末期、あるいは内憂外患の社会混乱期に乗じて適当な姓氏をつけ、あるいは祖先の墓に従一品等の碑を建てたり、詞堂、祭室までつくる者も出たりしたのだ。
しかし、新しい姓氏をつける場合でも、馬脚が露われるのを恐れて、なるべく分家、分流の多い金海金氏とか、全州李氏などを利用したといわれる。
姓氏を持たなかった者は、白丁奴(パクジョンノム)や火賊奴(ファジョクノム)と呼ぱれ、虐待、蔑視された。
韓国人は族譜を大事にし祖先を敬うが、肝心の名前は忘れられている
「逆説の日本史1 古代黎明編」 井沢元彦 1993年 小学館
なぜ韓国人の姓は『金』や『李』のように全部『中国風』なのだろうか?つまり日本の『山本』や『田中』のように、『山の本』や『田んぼの中』といったような、土着の言語を基調にした姓がないのか? 実はあったのだ。
『韓国も昔は今と違って中国式の姓名ではなかったようで、これは中国の記録や日本の記録を見るとわかります』
『どんな名ですか』
『日本に来た技術者はといえば、画部・因斬羅我(えかきべ・いすらが)とか医博士・奈率王有りょう陀(くすし・なりつおうゆうりょうだ)とかいった名前でしたな。また有名な医師に、允恭(いんぎょう)天皇3年(414年)に、天皇の病を癒すために新羅から招聘された金波鎮漢記武(こんぱちんかんきむ)がいます』
『フーム。すると韓国も中国式の朴(パク)さんや金(キム)さんじゃなかったんですか』
(「日本人とは何か」 山本七平 PHP 研究所より)
今では、山本氏が実例として挙げているような名はすべて姿を消し、ほとんどが中国風の一字姓になっている。
どうしてなのか? 合理的に考えれば答えは一つしかない。古代のある時期に、韓国人は伝統の姓をすべて捨てて『中国式』に改めたということだろう。
ところが、このことは韓国の歴史書に記録されていない。そこで、私は韓国の知識人や学者に会うたびに、それはいつあったことなのかと質問する。ところが、まともに答えてもらったことがない。それどころか、『そんなことは有り得ない』と
(中略)
日本は白村江の戦で、唐・新羅連合軍に破れるのだが、そのとき日本に亡命した百済人の名を見れば、それがわかる。鬼室集斯(きしつしゅうし)、憶礼福留(おくらいふくる)、木素貴子(もくそきし)、各那晋首(かくなしんす)……金さん、鄭さんは一人もいない。
中国式に創氏改名
「立ち直れない韓国」 黄文雄 1998年 光文社
李光洙は創氏改名に関しても、「我々在来の姓名は、支那を崇拝していた祖先の遺物」であると指摘している。古代朝鮮人の名は、永郎、述郎、初郎、伊宗、黒歯が多かった。
昔の地名も徐羅伐、達久火、斉次巴衣であった。そうした地名や人名を支那風に統一したのはわずか600〜700年前のことだと、氏は喝破している。
そもそも600年前には、朝鮮人はまだハングルを創っていなかったので、漢字漢文ばかりを借用したことはやむをえないだろう。
だから、伝統的な人名と地名をことごとく絶やして、支那風の人名と地名をそっくり借用し、人名でも地名でも、いったい支那なのか、朝鮮なのかわからなくなってしまうのだ。
モンゴル式に創氏改名
「韓国へ、怒りと悲しみ」 豊田有恒 1996年 文藝春秋社
モンゴル人が建てた元朝は、高麗を支配下において、あれこれと干渉してきた。司令官を駐屯させて、王家の世子
(世継ぎの王子)を人質として、元に差し出させた。
この世子がのちの忠烈王である。忠烈王の帰国にあたって元の世祖フビライは娘と結婚させた。つまり、高麗王は、元の大汗
(皇帝)の婿となったわけである。
以後、歴代の王は、元の支配のもとに、有名無実となり、その後の王は、蒙古名を名乗ることとなった。忠宣王はイジリブカ、忠肅王はアラトトシリ、忠惠王はプダシリというふうに、改名させられてしまった。
また、モンゴル風に、弁髪を強いられ、衣服も蒙古風にさせられたという。こういう強制は、のちの清朝の時にも行なわれている。韓半島の歴代王朝が、臣属している中国そのものが、異民族に蹂躙されてしまう。
そうなると、これまで、中国の王朝の意を迎えるため、すぺてに中国式に徹底してやってきたことが、無に帰してしまうのである。韓民族は、パニックに陥ってしまう。
胡服弁髪を強制されることになり、中国に義理立てしてきた価値観が、蒙古なり、満州なり、そして日本なりという、これまで、韓民族が蔑視してきた民族のものに、切り換えられてしまう歴史である。創氏改名は、日本人の専売特許ではなかった。歴史上、何度も、そういう目に遭ってきた民族なのである。
問題です。次の人物の業績を答えなさい。金顕中、金成柱、金ユーラ、安応七、岩田周策、木下昌蔵、金光淳(かねみつじゅん)、権禧老 …初めて見る名前が多いと思うが、実は朝鮮近現代の有名人の本名または別名なのである。(解答は以下を読んでください)
自分たちの名前に誇りを持つ韓国人は、創氏改名で名前を無理矢理変えさせられたと怒り非難するが、それとは無関係に複数の名前を使い分ける民族の英雄や愛国者を彼らはどう思っているのだろうか。更に不可解なのは、たかだか100年前の王妃の実名がよく分らないというのである。
「わたしの自叙伝 -日本へのメッセージ-」 金大中著 構成・訳NHK取材班 1995年 日本放送出版協会
木浦商業の二年生の時には忘れもしないあの「創氏改名」がありました。朝鮮人
(訳文のママ)にとって、「姓」とは生命にかわるほど大切なものなのに、それを朝鮮総督府の命令により強制的に変えさせられたのです。
日本では姓を変えるのは珍しいことではありません。女性の場合は結婚すれば変わりますし、男の場合でも婿養子に行けば変わります。
朝鮮人の場合は全然違います。朝鮮人の「姓」は先祖代々受け継いできた神聖なものなのです。私の家は昔から荷衣島
(金大中氏出身地)にいるのではなく、本土から移住してきたようですが、そういう家やその属する「族」の歴史は、その一族の「族譜」に書かれて、どの家でも大切に保管しています。
(中略)
その族譜に記された私の名前は「大中」ではなく「顕中」なのです。戸籍は「金大中」として届けてありますが、「族譜」の上では「金顕中」です。
朝鮮人の場合、正式には五行思想に基づいた名前を決めなければなりません。そのために、「族譜」に記される正式の名前と戸籍に届ける名前が違う場合が時々あるのです。
五行思想とは「宇宙の万物は木火土金水の五要素から成る」との古代中国の考え方です。朝鮮人の名前の一字はこの五つの要素のいずれかが含まれていることが必要でした。私の「顕」は火を表しています。
五行思想の「木は火を生み、火は土になる」との考えから、親が「木」なら、子供は「火」でなければならない。その孫は「土」でなければならない、と定められています。
その考えに則って、私の父は雲「植」つまり「木」ですので、私は先にも申しましたように「顕」中で火、私の長男は「培」で土といった具合です。長男の名前の弘一も戸籍上の名で族譜の上の名前ではないのです。
私の一族の金海金氏は、北は新義州(中国国境付近)から西は荷衣島まで散らばっています。顔も見たことのない同士ですが、名前を聞けば「あなたは火だから、私の伯父にあたる」と分る。
このように姓は先祖からいただいた。朝鮮人が生きていく上で大切なものなのに、それを日本の総督府は一枚の通達だけで改めさせたのです。
(創氏は新たに「氏」が追加されたということで、「本貫」の「金海金」等は従来通り戸籍に記されており改名は任意であった。)
ときどき日本人から創氏改名の時、どういう名前にしたのですか、と聞かれます。相手は軽い気持ちで聞くのでしょうが、私はそのとき「お答えしたくない」と、いつも返事してきました。
あまりにも屈辱を感じるからです。朝鮮人にとって姓とはそういうものなのです。
(こののち学生時代の日本人恩師に再会した時「先生、豊田です」と日本語で挨拶したことが反金大中派に暴露された。(反日感情の強い韓国では、こんなことでもイメージダウンになる))
「閔妃暗殺」 角田房子 1988年 新潮社
「閔妃」
(びんひ=ミンビ)とは、当然ながら王妃となった後の名で、明成皇后とは死後に贈られた称号である。私は彼女のフルネームを探したが、簡単にわかると思ったその名前はついにわからずじまいであった。
資料はどれも「閔致禄
(閔妃の実父)女」と書いてあるだけで、韓国の学者、研究者にたずねても誰も知らなかった。「閔妃のファースト・ネームは?」という私の質問は、韓国ではおかしなものであったらしい。
ソウル滞在中の私は、作家鄭飛石の長篇小説「閔妃」に、この王妃の名前を「紫英」と書いてある――と教えられた。ハングル文字だけで書かれた小説なので私には全く読めないが、この名前は著者の創作であろうと思っていた。
だが、「いや、私が勝手につけた名前ではありません」と鄭飛石は語った。「今は故人となった歴史研究家が『これが閔妃の名前だ』と教えてくれたのが頭に残っていて、小説を書くときそのまま使ったのです。
さあ、根拠は知りませんが、私はこれを本名と信じております」 「紫英」とはいかにも閔妃にふさわしい美しい名前だが、資料の裏づけなしに私がこれを本名として使うわけにはいかない。
朝鮮では、現代の韓国も同じだが、男も女も生まれた時に、父系によってさかのぼる氏族の一員として位置づけられ、女は結婚しても父の姓のままで生涯変更されることはない。この「父系血族社会」では王妃も例外ではなく、「金妃」「韓妃」というように実父の姓だけで記録され、名前は伝わらない。
これが他の国の有名な女性なら、閔妃より古い時代でも、頼朝の妻は政子、ルイ16世の妃はマリー・アントワネットと、調べるまでもなく名前がわかるのだが、韓国ではそうはいかない。
李氏朝鮮王朝の歴史を見ると、「閔妃」と呼ばれた王妃は4人である。前述の二人と本篇の主人公である高宗の妃、さらにその実子の第27代の王純宗の妃も、閔氏一族の出である。しかしいま「閔妃」といえば、波瀾万丈の生涯を送って非業の死を遂げた高宗の妃だけを指す呼ぴ名となっている。
「創氏改名」 宮田節子、金英達、梁泰昊 1992年 明石書店
宮田
…特に創氏をする場合に、届出しないと、戸主の姓をもって氏となすという事ですから、当然奥さんなんか全部姓と違う氏がついてしまうわけですね。
私が韓国からいらした先生方に何回もそのことをうかがっても、いや、女房なんかそういうふうに呼ばないから、そんなもの関係ないというわけですよ。
(中略)
宮田
朝鮮では、女性の場合はほとんど本名で呼ばないから。
梁
だから、関係ないということですね。
宮田
誰々の娘だとか誰々のお母さんだとかいう表現をするのでしょう。
金
韓国から来ている先生に聞いたのですが、韓国のテレビドラマでも、自分の母親宛てに本名で書いた手紙が来た時に、母親がこんな人知らんと、手紙を郵便局に返したというのです。後で考えたら、そう言えば、あれは自分の名前だったというようなドラマがあるそうなんです。だから、韓国では今でもそういう状況もありうる。
宮田
それから、宅号で呼ぶといいますよね。どこの出身だとかね。だから、創氏改名など全然関係ないというわけですね。日本が戸籍を勝手にどういじろうと、我々は我々なんだから、やれというのだったら、やっておきましょうというふうなものがあったのではないでしょうか。
(朝鮮の家系図である族譜では女は軽視されていて、族譜に載るのは人の妻になった場合だけ、それも「○家(実家の姓)の女」と名無しで記載されるに過ぎない。これは李王家の場合も同じで、閔妃の実名が不明になったのはこういった事情による。)
「北朝鮮50年史 -金日成王朝の夢と現実-」金学俊著 李英・訳 1997年 朝日新聞社
金日成は1912年4月15日に平壌近郊の平安南道大同郡高平面南里、現在の万景台の農家で生まれた。12年は大韓帝国が滅亡して2年後のことである。父親の金亨稷は1894年に生まれた。
金日成が生まれた時18歳。全州金氏の流れにに属し、祖先をたどれば全羅道にいたる。金日成の曽祖父は李朝末期の大院君の大同江での米国商船シャーマン号事件で反米運動を指導し、祖父も抗日運動の先頭に立ったというのがこの数十年にわたる北朝鮮の一貫した主張だが、この主張はどんな資料によっても裏付けられていない。
金日成の母は康磐石といった。夫より2歳年上で1892年に生まれた。1909年、金亨稷は15歳のときに17歳の康磐石と結婚し、長男・金成柱を生んだ。後の金日成である。…
金日成の母方も抗日独立運動の指導的家柄だと北朝鮮は主張する。北朝鮮の官製史学は、近代朝鮮民族の反帝・反米・反日闘争のすべてが金日成一族から開始されたという歴史の歪曲に専念し、金日成の革命的家族化を試みてきたからである。
(中略)
ここで金日成という名前について考えてみよう。第三節でみたように、彼の本名は成柱である。これについては北朝鮮も公式に認めている。
北朝鮮の官製伝記作家によれば、20年代後半にある同志が、『彼(金成柱)はわが民族の星とならん』と激励し、金一星(キムイルソン)という名を与えた。
ところが他の同志が『星とはなんだ、太陽となれ』と述べ、金日成(キムイルソン)という名を付けたという。「太陽となれ」は漢字にあてれば「日成」となる。
一方では、成柱ではなく聖柱(ソンジュ・成も聖もハングル表記は同じ)だったと主張する学者は、前記のエピソードを全て捏造だという。
1910年代以降、満州とシベリア一帯で神出鬼没の活躍をみせた抗日闘士がいた。彼は「金日成将軍」と呼ばれ、その名声は朝鮮国内にまでとどろいていたという。
金聖柱は遊撃隊の活躍をはじめると、この名前を盗用し、更にそれらしく脚色するために、もとの名は金成柱だったと偽装したというのである。
(中略)
金日成はこのころ、遊撃隊員の一人でともに極東ロシアへ脱出してきた金貞淑(キムジョンスク)(後に、金正淑(キムジョンスク))と結婚している。
金貞淑は七歳年下で咸鏡北道会寧の貧農の家に生まれた。幼いころに孤児となり、長じて金日成遊撃隊に参加し、食事から裁縫、洗濯などの下働きを引き受けた。金日成の命を助けてこともあった。
彼女は42年2月16日ウラジオストック近くのボロシルロプ野営、一名「B野営」で長男を生んだ。金正日である。彼はソ連名でユーラと名付けられた。
金貞淑は1944年に二番目の息子を生んだ。ソ連名でシューラと名付けられたが、47年に平壌で水遊びをしていて溺死した。
「金正日の北朝鮮」 徐大粛著 安倍誠・有田伸訳 1999年 岩波ブックレット
金正日は、金日成と彼の本妻金貞淑との間に産まれた二男一女の長男として、1942年2月16日誕生した。金日成は、1941年3月、日本の討伐軍に追われて満州からソ連沿海州へと向かい、祖国が解放される1945年までソ連に留まっていたのであるが、金正日も、ソ連沿海州のハバロフスク南方にあるブヤーツクという森林地帯で生まれている。
北朝鮮では、金正日は朝鮮の白頭山中にある遊撃隊の密営で産まれたとされているが、これは事実ではない。金日成と金貞淑は、1942年当時、白頭山にではなく沿海州にいたのであり、また、金正日をソ連で出産したため、彼の名前を「ユーラ」と名づけたのである。
金正日は、北朝鮮に戻り、中学校に通うようになるまで、「金ユーラ」として通っていた。また、彼の弟もソ連で生まれ、「シューラ」と名づけられた。シューラは、平壌に戻った後、ソ連人将校の息子と水遊びをしていて溺死している。
「安重根と伊藤博文」 中野泰男 平成八年 恒文社
◇
(伊藤博文暗殺事件の)第1回公判・2月7日午前9時に開廷した法廷は… 真鍋裁判官はまず4人の被告に『氏名年齢身分職業住所本籍地および出生地』を尋ね、安重根(アン・ジュングン)は『氏名は安応七(アン・ウンチル)、年齢は31歳、身分は――、職業は無職、住所は不定(ウラジオストック付近)、本籍地は韓国平安道鎮南浦、出生地は黄海道海州』と答え… 「安応七」の名についての判官の質問に対して、『本国では安重根といっていましたが、今から3年前に安応七と名乗り、近頃では、もっぱら安応七といっています』と答えた。
◇2月21日、高宗
(国王)は世子
(世継ぎの王子)とともにロシア公使館に庇護を求めた。親ロ派のクーデターによって金弘集は倒れ… 親日政権から親ロ政権へと流れが変わる中で… 閔一族の復権を背にして閔泳駿が安家の財産を狙って圧迫を加えてきた。
安一族は対抗することができず、フランス人の天主教(カトリック)教会に隠れて数ヵ月を過ごし、フランス人の助けを受けて、閔氏との事件を無事に解決することができた。
この天主教教会で数ヵ月を過ごした安重根は、ウィレム神父の説教を聞き、バイブル(聖書)を読み始め、真理であると感じて入信して洗礼を受け、イエスの福音を伝道することになった。…
天主教の信者が清渓洞の住民たちに広がる中で… 1897年1月10日に安父子を含めて36人が洗礼をうけた。父泰勲はペトロ、安重根はトーマ(多黙)の洗礼名を受けた。
「韓国人が身勝手に見える理由」 中村欽哉 1996年 三交社
韓国人の在日韓国人(韓国では在日僑胞と呼ぶ)差別を取りあげてみよう。(中略)次に多いのは、「日本で通名として日本名を名乗り、民族名を隠して暮らすとは、民族の誇りを捨てた奴らだ。
韓国人としては認めがたい」との非難である。韓国人は歴史的にみても、「命よりも名前を汚すことを恐れた」民族といわれているように、親や一族から与えられた姓名は大切にしてきた。
たとえば、「在日韓国人が日本名を名乗っていることだね。これは誇り高い本国の人たちには許せない行為なんだよ。日本にいるときは日本人になりすましているくせに、韓国にくると韓国人であると、使い分けをしているのがなんともたまらなく嫌なんだ。
その点アメリカに行ったチェーミ・キョッポ(在美僑胞、美は米国の略称)は、チャーリー・キムとかベティー・パクとか苗字(姓の名)は保っているからまだ許せる」というレポートや…
しかし、と私は思う。明治時代に日本に亡命してきた朝鮮人は、ほとんどが日本式通名をもち、日本名を使っていた。日本を頼ってクーデターを起こし(甲申政変)、近代化を成しとげようとして失敗した金玉均は、亡命中は岩田周策と名乗っていた。
金玉均はまた岩田三平、岩田三和という名前でも署名している。三平、三和の三は、朝鮮、中国、日本の三国を意味し、東洋三国の平和を祈念していたからだという。
1932年(昭和7年)1月8日、東京の桜田門で昭和天皇の馬車に爆弾を投げつけた独立運動家の李奉昌
(韓国では義士とされ尊敬を受けている)は、日本で働いていたときは木下昌蔵と名乗っていた。
日本人になりすましていたほうが、待遇がよかったためだという。作家の金達寿だって、金光淳という日本名をもっていた。金達寿によれば、朝鮮語では「キムグワンスン」、日本語では「かねみつじゅん」、どちらにも使えるようにつけたという。
金達寿はその他にも大沢達雄、金山忠太郎という通称を使用していた。もちろん朝鮮総督府が、朝鮮人に日本式な氏名に変えることを強制した「創氏改名」以前の話である。
(他にも金弘集内閣の内部(内務)大臣であった朴泳孝は山崎永春を名乗り、皇太子(のちの昭和天皇)暗殺の爆弾テロ未遂で無期刑を受けた朴烈の本名は朴準植であった。)
「韓国ナマ中継」 鈴木宙明 2002年 講談社
(「金嬉老事件」:1968年、日頃から対立していた暴力団員2名を射殺した金嬉老は、静岡県寸又峡の温泉旅館に人質を取って立てこもり、殺人の深層には民族差別があると自己弁護しマスコミに訴えた。
金嬉老は日本社会の被害者だと主張する文化人グループが裁判を支援したが、1975年最高裁で無期懲役が確定。1999年韓国渡航を条件に刑務所を仮釈放された。韓国では「民族差別に抗した英雄」ということで凱旋帰国であった。)
先日の金嬉老氏の仮釈放と韓国への出国に関して、どれほど日本の報道やワイドショーが取上げたか知りませんが、韓国でのマスコミ報道はかなりの量でした。
わたしが関心を持ったのは、金の姓で馴染んでいた(?)嬉老氏が、今回のスポットライトの中では、權嬉老と「權(クォン)」の姓で登場したことです
(權は権の旧字、権禧老と表記しているサイトも多い)。「なぜだ?」です。
あの日帝時代の創氏改名にさかのぼってヒントを探すまでもなく、この国の人が二つの姓の間を行き来するということへの戸惑いです。己の本源的アイデンティティにかかわる大問題だと思えるのに、です。
11日放送の韓国MBSのスペシャル番組「權嬉老」で、こまめに取材した関係者へのインタビューを見ていて思わず名前のメモをたくさん取りました。
釜山にいる叔母(父の妹)の姓名が、權ソソン(87歳)
昨年11月に亡くなった母親の名は、朴得淑
本人の名が、金嬉老(71歳)のちに權嬉老
静岡県掛川市に住む妹の名は、權豊子(68歳)
同じく弟の名は、金岡やすお(60歳)と金岡くにお(55歳)
亡き母のお骨が納められたのは、「金岡家の墓」でした。
ここから私なりの仮説を立てました(ご参考までに、朝鮮民族の夫婦は、結婚後も妻は婚前の姓をそのまま姓とし、二人の間の子供は男女ともに父の姓を名乗ります)。
1.弟さんたちは帰化して、金さんから金岡さんになったのであろう。
2.亡母が入った金岡家のお墓は、夫(金のちに金岡)の墓であろう。
3.ヒロと豊子が今名乗っている權は、生みの父の姓であろう。
4.亡母は初め權さんと結婚し男女二児、その後、金さんと再婚し下の男子二児をもうけたのであろう。
5.母の再婚後、ヒロはなんらかの理由で(事件当時も)、新しい父の姓「金」を使っていたのであろう。
6.ヒロは入所中いつからか本来の姓である「權」(実父の姓)に戻したのであろう。
こんな仮説を周りの人に問いかけてみたりしました(中略)正解は、読み過ごしていた朝鮮日報クリッピングの中にありました。「当局はヒロの入国と住民登録証交付にあたり、ヒロの生父である權命述の姓と本籍の使用を認めた。
3歳で父を亡くし、5歳の時の母の再婚により義父の姓になったヒロは66年ぶりに生父の姓に戻れたのだ」という解説記事でした。('99.9.14)
(金嬉老は、この他に近藤安弘、清水安弘、金岡安弘など七つの名前を持っていた。)
ちょっと調べれば若いころから何度も犯罪を犯していた事はすぐに分かりますが、マスコミ関係は異常に在日を擁護する立場に偏っている。
意外と新しい族譜の歴史。ちなみに族譜には「氏」の記載はなく、総督府が族譜を焚書したこともない。「創氏改名」を行ったからといって朝鮮の血族制度の否定につながるものではないのである。
「朝鮮の歴史と文化」 姜在彦 1993年 明石書店
「族譜」の話
党争と関連して、日本人にはなかなか理解しにくいようですけれども、「族譜」にふれておきましょう。この族譜は「本貫」と深いかかわりがあります。
朝鮮では姓が一般化したのは高麗時代だといわれていますが、それに伴って同じ姓を名乗る者のなかにも異族のものが交じってきます。
そこで姓を同じくするばかりでなく、本貫をも同じくする同姓同本のものだけを血縁集団として、同姓同本の異族と区別する必要が生じたのです。
たとえば現在最も人口の多い姓は金氏ですが、その本貫はいろいろ分かれていて、たとえば本貫を慶州とする慶州金氏と、金海を本貫とする金海金氏とは異族なのです。
本貫というのは、簡単にいえばそれぞれの氏族の始祖の出生地、またはその氏族が子々孫々にわたって定住してきた居住地です。また族譜というのは、同姓同本の血縁集団である宗族や、それから分派した家系の系譜を記録したものといえます。
ところで氏族の淵源を古い時代にさかのぼって、有名な歴史上の人物を始祖とする場合が多いのですが、それがどれほどの科学的根拠をもつかは、かなり疑わしい点が多いようです。
というのは、族譜がいつ頃はじまったかについての研究によれば、現在知られている限りでは、1562年につくられた文化柳氏の「嘉靖譜」(嘉靖は明の世宗の年号)が最も古いとされているからです。それが一般化するのは李朝中期の宣祖のとき以降といわれます。
看過できないのは、これが士林派が勲旧派に対抗して中央政界に進出し、党派争いが激しくなる時期と一致することです。すなわち党争が門閥間の対立に発展するにしたがって、一族の結束を固めるためのものとして族譜が登場してきた、ということなのです。
「韓国歳時記」 2000年 金渙 明石書店
族譜とは、同族の系統を父系を中心に記録した本です。同族の始祖から族譜編纂当時の子孫までの系譜を記録しています。ここにいう同族とは、本貫と姓を同じくし、同族意識を持った男系親族をいいます。
(中略)
韓国の族譜はいつ頃から作られたかといいますと、「家牒」「家乗」など、その家の歴史的な事実を記録した文書は、高麗王朝18代毅宗(1147-1170)のとき、金寛毅が編纂した高麗王室の系図「王代実録」がその始まりです。
しかし、同本同姓の広範囲で体系的な族譜は、1423年(世宗5)刊行された文化柳氏の「永楽譜」が最初で、これは現存していません。
最近に至って、1476年(成宗7)に刊行された安東権氏の「成化譜」が、現存する最初の族譜であることが確認されました。
族譜は15世紀に初めて出現しましたが、すべての氏族が同じ時期に族譜を刊行したのではありません。氏族によっては16世紀、17世紀、18世紀、19世紀、あるいは20世紀に初めて族譜を刊行しました。
皇民化推進に積極的に関わっていた朝鮮人
「日韓共鳴ニ千年史」 名越二荒之助 平成14年 明成社
皇民化を推進したのは誰だったのか
「皇国臣民の誓詞」を書いた李覚鐘
日本の朝鮮統治は「内鮮一体」「皇民化(日本人化)」というスローガンのもとに、朝鮮の民族文化を抹殺したとよく非難されます。
この悪名高い「皇民化」政策を本格的に導入したのは第七代朝鮮総督・南次郎大将です。昭和十一年(一九三六)八月に朝鮮に着任した彼がその時に掲げた「朝鮮統治の五大指針」は、
(1)国体明徴(日本の国柄を明らかにして自覚すること)、
(2)鮮満一如(朝鮮人、満洲人と日本人は一つ)、
(3)教学振作、
(4)農工併進、
(5)庶政刷新、
の五項目でした。全文をここで紹介する余裕はありませんが、この中に「内鮮一体」とか「皇民化」とかの文言はありませんでした。
実はこの文言を案出したのは、李覚鐘という朝鮮人なのです。彼は才能ある人物だったのか、左翼から転向した人たちを集めて白岳会を結成し、大同民友会の顧問となりました。
その頃、「内鮮一体」「皇民化」「思想先導」等のスローガンを案出しました。さらに彼は総督府学務局の嘱託の頃、現在では悪名高い「皇国臣民の誓詞」を作ったのです。
それを初代の社会教育課長の金大羽(
朝鮮人・後に全羅北道や慶尚南道の知事となる)に示し、金課長を通じて南総督に建議し、総督は昭和十二年(一九三七)十月二日に決裁しました。
「誓詞」は次のような三ヵ条からなっていました。
(児童用)
一、私共は大日本帝国の臣民であります
二、私共は互に心を合せて、天皇陛下に忠義を尽します
三、私共は忍苦鍛練して、立派な強い国民となります
(学生・一般用)
一、我等は皇国臣民なり 忠誠以て君国に報ぜん
二、我等皇国臣民は 互いに信愛協力し 以て団結を固くせん
三、我等皇国臣民は 忍苦鍛錬力を養ひ、以て皇道を宣揚せん
それ以来この誓詞は、学校や社会団体で行事の度ごとに斉唱され、皇国臣民としての自覚が鼓吹されたのです。
神社参拝の強制
1935年総督府は学生に神社参拝を強制し、キリスト教の立場から神社参拝を拒否する学校の生徒、父兄に対して弾圧をおこなった
日本人だけではなく朝鮮人にも信仰されていた朝鮮半島の神社
「日韓共鳴ニ千年史」 名越二荒之助 平成14年 明成社
日本人は海外に住みつくと、どこでも神社を創建してきました。 …本書では朝鮮の場合を問題としているので、それに限ってとりあげると、日本が朝鮮に神社を建てたのは、今から320年も前のことです。
対馬領主の宗義真が、釜山に「竜頭山神社」を創建しました。日韓通商船の安全祈願のために、金刀比羅宮を奉斎したのが始まりです… これが海外拓殖神社の先達であり、当時の居留邦人の信仰の拠り所となりました。
(中略)
日韓併合とともに日本と朝鮮の交流は一層活発となり、朝鮮に移り住む日本人の数も急増した。移住した日本人たちは、心のより所として神社(祠)を建立したため、大正時代の末にはほぼ朝鮮の主要地域全てに神社が建立されることになった。
朝鮮神職会発行『朝鮮内神社一覧』(昭和12年7月現在)によると、12年当時、朝鮮全土に創立された神社は56社、神祠は301、神職75人となっている…
興味深いのは氏子戸数で、昭和12年現在で、「京城神社」は日本人が約2万7千戸であるのに対して朝鮮人が約10万2千戸、「大邱神社」も日本人が約6千戸で、朝鮮人は1万6千戸となっている。
大正五年創建の「仁川神社」でも日本の氏子3千戸に対して、朝鮮人氏子は1万4千戸である。朝鮮の氏子戸数の方がほぼ倍から4倍も多くなっている。
昭和12年と言えば、「内鮮一体」の掛け声のもと神社参拝が奨励されていた南次郎総督の時代であり、且つ日本人と朝鮮人の人口比なども斟酌(しんしゃく)してこのデータを見る必要があるだろうが、当時、朝鮮の各神社が圧倒的に朝鮮の氏子によって支えられていたことは事実である。
しかし、残念ながら戦後の混乱の中で、これら神社はすべて破壊されてしまった。(江崎道朗)
(中略)
内鮮融和の背景
ここに昭和16年5月10日に、「財団法人・中央協和会」から発行した『内鮮一体随想録』というパンフレットがあります。
独協大学の中村燦教授から借りたものですが、この文章は香山光郎(本名は李光洙、二・八独立宣言を執筆した作家)が書いています。
この本は内鮮一体を実現することの意義を朝鮮人の立場から縷々述べたものですが、日本人の「やらせ」だとたちまち反発されるかも知れません。それはともかく当時このような発想があったことは事実なのですから、貴重な歴史的資科として読んで下さい。
▽
〈日本人とは日本精神を所有し、且つこれを実践するものを指す。我が帝国(日本のこと)は、昔もさうであつたが、今後一層血統国家であつてはならない。
たまたま内鮮(日本内地と朝鮮のこと)は血統に於ても、少くとも全人口の三分の一の混血率を持つてゐるさうで、一体となり一つの国民を形造るのにまことに好都合であることはいふまでもないが、大東亜共栄圏建設のためには、寧ろ血統が邪魔になる場合さへあり得る。
況(ま)して八紘一宇の大理想を以つて、全人類を包容せんとするに於てをやである。しからば如何なるものが、皇民であり、日本人であるか。それは天皇を仰ぎ奉つて日本の肇国の理想たる八紘一宇を理想とする人民であるべきである。
であるから朝鮮人が皇民たるには、皇道を学ばねばならない。皇道を学ばずして皇民たることは出来ない。
言換へれば、朝鮮人はもともとから日本人であつた内地人と同じ気持で、天皇を仰ぎまつり、同じ気持で神社に参拝し、同じ気持で、銃を取らねばならない。その間毫厘(毫釐?ゴウリ= ほんのわずかであること)の隙があつても一体ではないからである。〉
△
この文章を読んで、「異民族をこうまで言わしめた日本の政策を憎む」とか、「筆者の李光洙は保身のために、赤い舌を出しながら書いた」と、批判することは簡単です。
しかしあの頃は、このような発想が自然に受けとめられていたのです。朝鮮人の中にも李光洙のように日本化することに努力したり、日本人以上に日本人になった朝鮮人も多かったのです。
キリスト教を大弾圧したのは李氏朝鮮のほうである。
「歪められた朝鮮総督府」 黄文雄 1998年 光文社
たとえぱ、同じ宗教問題の南次郎総督の神社参詣強制と、大院君の異教徒虐殺とは、まったくその次元が違うとはいえ、その弾圧を比較するとどうなるだろうか。
李朝は19世紀に入ってから、カソリック教徒への激しい弾圧を続けた。たとえぱ1801年の「辛酉教獄」で、清国人宜教師の周文謨をはじめ300余名を処刑した。
1839年の「己亥教獄」では、アンベールら三人のフランス人宜教師をはじめ200余人を処刑、1846年の「丙午教獄」では、金大建ら20余人を処刑した。
1866年の「丙寅邪獄」では、ブルマーをはじめとする9人のフランス人宜教師と南鐘三ら数千人のカソリック教徒を逮捕、処刑した。また1865年からの3年間、約8000余人のカソリック教徒を処刑という弾圧政策をとった。
片岡次雄の『李朝滅亡』(新潮社)によれば、この後の6年間、漢城府では1000人以上の力ソリック教徒が殺害され、全国では数万人の信徒が殺害もしくは収監された。
「閔妃暗殺」 角田房子 1988年 新潮社
大院君
(高宗国王の父で摂政)は1866年初め、天主教
(カトリック)大弾圧を決行するに至る。
(中略)
まず四人の外国人宣教師が刑場にひき出された。彼らは獄中で受けた拷問のため衰弱しきっていたが、流暢な朝鮮語で『一般信徒に寛大な処置を』と訴え、最後の祈りをささげて、従容と刑を受けた。その刑は、二台の牛車で体を左右に引き裂かれるむごたらしいものであった。
(中略)
弾圧はほぼ六ヶ月にわたり、国内のあらゆる地域で続けられた。大院君の腹心である捕盗大将李景夏が持ち前の残虐性を発揮し、五家族を一単位として連帯責任をとらせ、密告を奨励した。
また、一家眷族、近親一族を殲滅する"絶種断族の刑"が実行されたのは、朝鮮王朝五百年を通じてこの時だけであったと伝えられている。
"丙寅教難"と呼ばれるこの天主教大弾圧で、信者とその家族三万二千人のうち、八千人が殉教したという。この時期の大院君は捕盗大将李景夏を励まし、世界のキリスト教受難史の中でも最大の規模の一つといわれる大弾圧を徹底的に遂行した。
強制連行
日帝は太平洋戦争を挑発した後、戦争遂行のために韓国の人的、物的資源収奪に狂奔した。(中略)わが国の青年は志願兵という名目で、また徴兵制と徴用令によって、日本、中国、サハリンなどに強制動員され命を失った。 (韓国高校歴史教科書1996年版より)
朝鮮人の強制連行(徴用)について日本の中学校教科書に書かれたものです。
「国民の油断」 西尾幹二・藤岡信勝 1996年 PHP研究所
次の教科書の記述を見てほしいのです。
[強制連行のようす]
町を歩いている者や、田んぼで仕事をしている者など手あたりしだい、役にたちそうな人はかたっぱしから、そのままトラックに乗せて船まで送り、日本に連れてきた。徴用というが、人さらいですよ。(大阪書籍、260ぺ−ジ)
[朝鮮人強制連行]
警察官や役人が土足で家に上がり、寝ている男を家から連れ出すこともありました。抵抗する者は木刀でなぐりつけ、泣きさけびながらトラックに追いすがる妻子を上からけりつけたともいわれます。(東京書籍、264ぺージ)
[朝鮮・中国から強制連行された人々]
金大植さんは、1943年2月、家で寝ているところを警察官と役場の職員に徴用令状をつきつけられ、集結地まで手錠をかけられたまま、125名の朝鮮人同胞とともに日本に連行されてきた。(教育出版、262ぺ−ジ)
すべてこういう調子です。
『「人さらい」同然の連行、「使い捨て」さながらの酷使、それに堪えかねて逃亡する朝鮮人……しかし、そうした「強制連行」論は、あまりにも戦時動員や労務事情と違っている』
「教科書が教えない歴史 (4)」 藤岡信勝 平成9年 扶桑社
「1939年(昭和14年)から1945年までの間に約70万人もの朝鮮人の人々が強制連行によって日本につれてこられたとされています。」
中学校の教科書では上のように強制連行という言葉を使っています。そして、いやがる人に暴行を加え、手錠をかけて無理矢理連れて行く様子を描いています。それが6年間続いたと教えているのですが、本当でしょうか。
1938年(昭和13年)に、日本の国会で国家総動員法(国民徴用令は1939年)が成立しました。この法律によって、15歳から45歳までの男子と、16歳から25歳までの女子を、国家は徴用できるようになりました。
「徴兵」が兵士になる義務であるように、「徴用」とは、戦時に一定の労働に従事する義務のことです。多くの若者が出征し労働力不足が深刻になり、その穴を埋めるためにやむなくこの法律を作ったのです。
徴兵と同様に、国民は、通知された場所に出頭し、指定された軍需工場などで働きました。当時の日本国民のほとんどは、この徴用を国家非常時の当然の義務だと考えていましたから、進んでこれに応じました。
さて当時、法的には「日本国民」であった台湾や朝鮮では、この法律はどのように適用されたのでしょうか。台湾では、日本本土と同時に徴用令が施行されましたが、朝鮮では施行されませんでした。
その代わり、日本企業が朝鮮で自由に労働者を「募集」することを許可しました。それまでは、朝鮮人労働者が大量に本土に流入すると失業者が増加するので、日本政府は朝鮮人労働者の移住を制限していたのです。制限を取り払ったので、多くの朝鮮人労働者が日本にやってきました。
けれども、1942年(昭和17年)になると、さらに人手不足は深刻になりました。朝鮮でも、総督府が自ら乗り出して朝鮮人労働者を集めなければならない状況になりましたこれを「官斡旋」といいました。
官斡旋は、面(村)ごとに人数を割り当てました。そのため、役所から就職先を斡旋された場合、それは義務に近いものとみなされされましたけれども、朝鮮における官斡旋は、本土や台湾における徴用と同じではありません。
それは、官斡旋で労働現場に来た朝鮮人労働者が就職先を辞めても、罰則がなかったことです。例えば、ある朝鮮人労働者は、官斡旋で本土に来たのですが、なじめなかったかすぐに辞めています。
そして、友人を頼って朝鮮人経営の土木会社に就職しました。正規に住居移転の手続きをして、食糧の配給も受けています。
朝鮮にも「徴用」令が施行されたのは、1944年(昭和19年)になってからでした。けれども、総督府では、なるべく自分の意思で徴用に応じてほしいと願い拒否した者への罰則の流用を控えました。そのため目標の達成率は79パーセントにとどまりました。
1944年11月末に徴用令を受け取った鄭忠海氏は次のように書いています。
「…後を振り返りながら、別れの言葉もそこそこに集合場所である永登浦区庁前の広場に向かった。広場は出発する人、見送る人で一杯だった。徴用者の点呼が終わると一同は隊伍を組んで商工会議所の前に集まり、各地から動員された人々と共に壮行会が催された」(「朝鮮人徴用工の手記」河合出版)
鄭氏は、その後広島の東洋工業に入社し、終戦時までここで働いて帰国しました。本書には、寄宿舎生活の様子や被爆体験、日本人との交流などが綴られています。
これは教科書が描き出す「強制連行」のイメージとはまったく異なっています。
朝鮮人労働者内地導入は3段階、初期は「募集」 ⇒ 中期は「官斡旋」 ⇒ 後期から「徴用」
コリアン・反日左翼は「募集」の段階から"強制連行"だとしているが、当時朝鮮から日本内地へは渡航制限をしていたにもかかわらず出稼ぎ者が密航してまで来ていたのだ。したがって"強制連行"などしなくても労働者は確保できたのである。
「岩波講座 世界歴史19 移動と移民」 水野直樹・他 1999年 岩波書店
1930年代後半、西日本で『密航』の取締りが厳しくなされ、毎年2000人から5000人ほどの密航者が摘発され(1939年は7400人)、大半が朝鮮に送還された。その多くはブローカーの斡旋で労働を目的に渡航した者であったが、なかには『内地人を仮称』して連絡船に乗り込んだたため摘発された者もいる。
戦前の新聞記事見出しより
『四百廿余名の密航鮮人/内地へ続々と侵入』福岡日日 1938/1/30
『福岡沿岸に密航鮮人頻々/ブローカーと連絡/本年に入つて五百名』福岡日日 1938/3/3
『また密航鮮人/西戸崎で六十五名逮捕』 福岡日日 1938/3/3
『密航鮮人四十名西戸崎に上陸(粕屋郡志賀島村)』 福岡日日 1938/3/29
『密航鮮人団上陸/トラック運転手の気転で大半は逮捕される(遠賀郡水巻村)』福岡日日 1938/5/2
『鮮人の内地密航あの手この手/驚くべき大胆な玄海突破や九ヶ月苦心の方法』神戸新聞 1938/5/21
『鮮人十五名が小倉へ密航(小倉市)』 福岡日日 1938/7/24
『密航鮮人団四十二名 悉く逮捕さる(宗像郡津屋崎町)』福岡日日 1938/8/26
『・こ奴怪しい・六感的中/果して密航半島人!/海田市署の槍玉へ』中国 1938/9/1
『密航鮮人丗一名一網打尽に(宗像郡神湊町)』福岡日日 1938/12/17
『津屋崎沖に不敵な密航船/鮮人十八名を逮捕す(宗像郡津屋崎町)』福岡日日 1938/12/20
『又も密航鮮人/怪船行方を晦ます』 福岡日日 1938/12/21
『九十余名の鮮人が密航/五十余名を検挙す(宗像郡岬村)』福岡日日 1939/2/3
『密航半島人二名/倉橋島村で検挙す/発動機船で二十五名潜入/一味検挙に着手』呉日日 1939/2/12
『半島人密航団か/怪機船倉橋島に出没/呉、江田島署が厳重捜査中』中国日報 1939/2/13
『密航者丗八名八幡で捕はる(八幡市)』 福岡日日 1939/5/18
『密航半島人遠賀へ十九名(遠賀郡岡垣村)』福岡日日 1939/6/5
『密航はしたけれど/途方に暮れる気の毒な鮮人/今度は逆戻り失敗(兵庫)』神戸又新日報 1939/6/20 夕
『密航青年を半島へ送還(兵庫協和会)』 大阪毎日 1939/6/20 神版
『全面的検挙は困難/県の密航鮮人狩り/今後は取締りを厳重に』中国 1939/11/30
『手荷物の箱詰め人間/密航?の半島人、小倉で発見さる』大阪毎日 1940/1/14 夕
「日韓誤解の深淵」 西岡力 1992年 亜紀書房
また、いわゆる「強制連行」の実態に関しても、一般で認識されているのとはかなり違う実態があったことが少しずつ明らかになってきている。
たとえば朝鮮総督府が行なった土建労働者の「官斡旋」による道外募集(いわゆる強制連行の一部とされている)では、使用者に対して賃金、待遇などで労働者を厚遇するようにかなり細かく指示している。
たとえば飯場料は賃金の二分の一以下とするとされており、借金づけによるタコ部屋化を禁じている(くわしくは広瀬貞三「『官斡旋』と土建労働者」、『朝鮮史研究会論文集』第29集参照)。
また、1944年に広島の軍需工場に徴用された鄭忠海氏は90年に日本で出版した手記(『朝鮮人徴用工の手記』河合出版)の中で、新築の寄宿舎で新しい寝具が準備され、食事も十分で満足でき、仕事は日本人女子挺身隊員といっしょであり、「女性たちとの恋だの愛だのということに心をうばわれているようで、工場内の風紀は言葉にならないほどだった」と書いている。
先述のように戦争のために国家総動員法による徴用には法的強制力があった。それにより韓国人が強制連行されたが、同様に大多数の日本人も「強制連行」されたというのが歴史の真実なのである。
"徴用"を"強制連行"と言い換えて別の意味を持たせようとするのは、悪質な反日プロパガンダである。
戦争末期に深刻化してきた内地の労働者不足を補うための朝鮮人労働者内地移入では一部に行過ぎがあったようで、強制連行を主張する韓国人の証言を読むと、農作業中などに無理矢理トラックに乗せられて日本内地へ送り出された、というのがあるが、それらを実行したのは内地人ではなく朝鮮人なのである。
「朝鮮新話」 鎌田沢一郎 昭和25年 創元社
(著者の鎌田澤(沢)一郎は、戦前の朝鮮に16年間滞在し、京城郊外に民族経済文化研究所を設立した朝鮮研究家で、6ヶ年にわたる宇垣総督の政策顧問を勤めて、農村振興運動の推進に大いに貢献し、朝鮮の民生向上に大きく貢献した人物で、戦後その経験を買われて、セマウル運動(新しい村運動、実質的には宇垣政策を発展させたもの)の指導のために何度も韓国に招かれている。)
もつともひどいのは労務の徴用である。戦争が次第に苛烈になるにしたがつて、朝鮮にも志願兵制度しかれる一方、労務徴用者の割り当てが相当厳しくなつて来た。
納得の上で応募させてゐたのでは、その予定数に仲々達しない。そこで郡とか面(村)とかの労務係が深夜や早暁、突如男手のある家の寝込みを襲ひ、或ひは田畑で働いてゐる最中に、トラックを廻して何げなくそれに乗せ、かくてそれらで集団を編成して、北海道や九州の炭鉱へ送り込み、その責を果たすといふ乱暴なことをした。
但(ただ)総督がそれまで強行せよと命じたわけではないが、上司の鼻息を窺ふ朝鮮出身の末端の官吏や公吏がやつてのけたのである。
「朝鮮人強制連行」という言葉を造語し世に広めたのは、朴慶植著「朝鮮人強制連行の記録」という本であるといわれているが、この中で強制連行があった証拠として、上記の鎌田沢一郎著「朝鮮新話」が引用されているが、傍線を引いた朝鮮人が暴走して実行したという部分はなんと無視されているのだ。両書を見比べていただきたい。
▼鎌田澤(沢)一郎著「朝鮮新話」320ページ
▼朴慶植著「朝鮮人強制連行の記録」1965年未来社発行70ページ
歴史教科書の一部には強制連行の実態として、『田畑で働いていた朝鮮人をかたっぱしからトラックに乗せ日本内地に連れてきた』などと書いているが、総督府の方針を曲解暴走して人さらい同然の行動を起こしたのは朝鮮人自身であったことを明記すべきだ。
このような非道な行動を起こす朝鮮人の性格を警告している文章があるので紹介しよう。
李朝末期の朝鮮に滞在したアメリカのメソディスト派宣教師で、ジャーナリストでもあり歴史学者でもあったホーマー・ハルバートは著書「朝鮮亡滅」
(「醜い韓国人」朴泰赫 1993年 光文社より)の中で、『朝鮮人は、自分の知的水準を引き上げ、精神世界を拡大しようとするいう努力があわれにもないのに、社会的地位を高めようという激しい欲望だけはある。
自分のものでなくとも少しばかりの金を自由に動かすことができるとか、何人か働くのを監督するとか、ともかく物の面、金の面で人間を支配できるようになると、おしなべて有頂天になる。
朝鮮人は、有力者になる、あるいは名声を博すということだけで、まるで逆上してしまい、ますます尊大な態度をとるようになる。朝鮮人特有のこの感心できない性向が、じつは企業、あるいは教育、宗教の分野で、朝鮮人を登用する際に起こる、ごたごたの原因の一つなのである』と述べている。
韓国人が強制連行を問題とするなら、なぜこれが取り上げられないのか?
「醜い韓国人」 朴泰赫 1993年 光文社
しかし韓国人が日本に対してだけ怒りを向けるのも、論理的ではない。太平洋戦争前に、ソ連のシベリア沿海州に30万人以上の韓国人が住んでいた。
ところが、スターリンがこれらの韓国人が日ソ戦争が起こった場合に日本に協力することを恐れて、中央アジアへ強制移住させた。スターリンは妄想にとらわれた暴君だった。
カザフ科学アカデミー朝鮮民族センターの調査によると、移住する過程で12万人が死んだ。だが、政府も、マスコミも、ロシアに対して抗議の声をあげることがまったくなく、友好的である。
従軍慰安婦
女性まで挺身隊という名で強引に連行され、日本軍の慰安婦として犠牲になった。(韓国高校歴史教科書1996年版より)
朝鮮戦争時、従軍慰安婦制度が存在し韓国軍が慰安所を直接経営していたことが明らかになりました。この件で日本国内の従軍慰安婦支援者の動向が注目されます。以前のようにニュース番組や新聞で人権問題として大々的に特集が組まれ、支援者が国連にまで出かけて日本政府を糾弾したことが、対象を韓国に代えて再現するのでしょうか。
朝鮮人業者が従軍慰安婦を連れて戦地を回っていたという証言
「石枕 (下巻)」 張俊河 安宇植訳 1976年 サイマル出版会
(著者は日本軍を脱走して中国で活動していた上海臨時政府に参加し、金九主席の側近になっていた。)
私たちをなおのこと嘆かせたのは、新しい事実だった。日本軍が降伏する直前
(1945年8月15日)まで通訳か、それでなければ前線地区を回って阿片を商ったり日本軍慰安婦の抱え主を演じた連中までが、一朝にして光復軍
(韓国臨時政府の軍隊)の帽子を手に入れ、独立運動家、亡命者、革命家などを自称する、とうてい見るに忍びない風潮が横行したことだった。
のみならず、同じく異国にある同胞たちの財産を、そうした連中であればあるほど先に立って没収して回るのが普通だった。
著者は戦後、言論人として民主化運動の先頭に立ち"韓国の良心"といわれた人である。
韓国には今も軍人専門と思われる慰安婦がいる
「いい加減にしろ韓国」 豊田有恒 平成6年 詳伝社
軍隊の行くところ、女はつきものである。日本国内でも、基地の近くには慰安所があった。これらは、すべて民営である。だが、女たちの健康管理には、軍が介入した。
>
なぜなら、当時、性病が蔓延していたため、軍としても放置できなかったからだ。これは、他国の軍隊でも同じことである。いざというとき、兵隊が病気で戦えないのでは、戦争にならないからだ。
非武装地帯
(南北国境)の付近で、韓国軍の兵営のある場所にも、現在、売春街がある。ついでながら、たまには、韓国から北韓(北朝鮮)へ亡命する兵士がでることは、日本ではあまり知られていない。
女と博打と酒で借金がかさんで、にっちもさっちも行かなくなる兵士が、軍事分界線を越えて、北へ逃げることがある。北では、偉大なる首領さまを慕って、やってきた勇士ということで、大歓迎になる。
だが、宣伝に使われたあげく、いつの間にか、消息を聞かなくなる。利用価値がなくなって粛清されたわけだろう。
また、いまは、観光客に人気の街だが、あの梨泰院
(ソウルの繁華街にあるファッションタウン)は、もともと近くにある米軍第八軍団の基地を、あてこんだものだ。70年代初めに行ったときは、怪しげなパーが多く、混血の子を抱いた女を、見かけたものだった。
まえにも説明したが、梨泰院(イーテウォン)は、かつて異胎院(イーテウォン)という文字を宛てられていた。つまり、外国との混血児を収容した場所だった。その伝統は、つい最近まで生きていたというわけだろう。もっとも、いまでは様変わりして、米軍は追い出されかけている。
「立ち直れない韓国」 黄文雄 1998年 光文社
朝鮮半島国家管理売春史の歴史歪曲
最近、朝鮮史の専門家まで、朝鮮の「妓生
(キーセン)」は、ただの「踊り子」や「楽師」、せいぜい日本の「芸者」のようなもので、「娼妓」、「売春婦」ではない、と美化する傾向がある。
それは、朝鮮娼妓史に対する無知か、それとも知っていても、わざと歴史歪曲しているかのどちらかに違いない。朝鮮の妓生は、ただ詞をつくったり、詩を吟じたり、あるいは楽器を弾きながら、両班・貴族たちと酒を汲み交わしたりする、芸能人やら文学少女であったかのように美化することは、明らかに歴史歪曲の確信犯である。
朝鮮半島の妓生は、それが官妓
(官庁に置かれたキーセン)であろうと、芸のみ売って、春を売らなかったという歴史認識は明らかに勉強不足だ。
(中略)
朝鮮の宗主国への営妓
(軍隊慰安婦)、官妓の進貢は元の時代からすでに正史や野史に表われている。しかし統一新羅の時代から、唐軍に強制連行された高句麗、百済人は、婦女子が多かった。
彼女らの運命は奴婢に、もしくは官妓、宮妓、営妓、私妓になることは、当時の社会背景からみれば推測できる。元の時代になってから、朝鮮半島は一躍、東アジア最大の宦官と貢女
(女の献上品)の供給地となったことは、諸史に散見できる。
また貢女や営妓の献上についての要求は、ベつに朝鮮半島とは限らず、すでにジンギスカンの時代に、征服された中央アジア諸国の国王は、競って美女と名馬を献上したので、高麗国王も貢女を要求された。
それは処女を原則とし、しばしば国中の結婚を禁止して、要求に応ぜざるをえない場合もあった。もちろんそれは汗
(皇帝)の宮廷に限らず、諸王や権臣もたびたび貢女を要求した。
貢女には、宮妓だけでなく、官妓や営妓になるものもみられた。高麗が元に服属した後の元宗15年3月、元からの南宋軍人のために、高麗の婦女140名を要求したことがあった。高麗政府は「結婚都監」を設け、市井の独女、逆賊の妻、僧人の女を集めて、数を満たした。
そのときは処女、童女ではなく、独身婦女や罪人の妻を強制連行して、1人の化粧代を絹12匹
(布地24反に相当)で、モンゴル政府に売ったのである。
これは政府という国家権力による人身売買と強制連行ともいえよう。その翌年の忠烈元年に、元は蛮子軍(南宋の降人部隊)1400人を高麗に送ってきたので、蛮子軍に営妓を売るために高麗政府は「寡婦処女推考別監」を設け、役人を諸道に出して婦女を推考、選別していたこともあった。
(中略)
教材として日韓の教科書に採用された幻の「従軍慰安婦」そのものが、はたして存在していたか、いなかったか、今日でも未決のままである。
「なかった」派の主張によれば、「政府が直接関与した例は一つもなかった」である。しかし、韓国人からすれば、かつて朝鮮半島は宗主国の中華帝国諸王朝に貢女を進貢するアジア最大の貢女の産地であった。
現在でも世界有数の国家管埋売春の国である。長い歴史文化と現在の「状況論理」からすれば、「(従軍慰安婦は)存在したに決まっている」と想像するのも無理からぬことだ。
しかし、どうみても「あったか、なかったか」はっきりしないことを、無理やりに「あった」ことにして教科書で教え、相手に「謝罪」を強要することは、はたして良識にかなうものだろうか。そこにも「正しい歴史認識」が必要となろう。
「いい加減にしろ韓国」 豊田有恒 平成6年 詳伝社
妓生は”中国人接待担当”国家公務員
卑近な例をあげると、妓生というサービス嬢が、韓国に存在する。大方の日本人は、日本でいえば、吉原の遊女みたいなものだと思っているらしいが、大間違いだ。
本来、妓生とは、外務省の儀典局の職員みたいな資格なのだ。中国からやってきた天使(エンジェルという意味ではない。天とは、中国という意味なのだ。
つまり、中国の使者という意味)を応接するために、存在している。詩歌管弦の道に秀でていて、中国語がぺらぺらで、頭もよくないと勤まらない役職なのである。
しかも、接待する相手の中国人の好みに合わせて、美人でないといけない。たまたま使節の中国人が、旅の無聊(ぶりょう)を訴えれば、夜伽の相手もするというわけだ。
いわゆる売春婦ではない。れっきとした国家公務員なのだ。現在はともかく、日本の遊女より、はるかに格が上なのだ。
韓国で、有名な暴君の燕山君(在位1494〜1506)は、名刹円覚寺を破壊して、その跡地に妓生の養成所を建てた。この場所が、今のパゴダ公園なのだが、韓国人は、このエピソードについては、あまり語りたがらない。
パゴダ公園は、日本に対する3・1運動の発生地として有名だから、そっちの由来を紹介しておいたほうが、ジャパン・バッシングの役に立つわけだろう。
対中国というケースでは、よりすぐりの美女に教育を施して、高級コールガールみたいなこともさせた。このように、中国に対しては、徹底的に卑屈になりきった歴史を、長いあいだ継続してきた。
妓生は、官庁に制度的に設置された朝鮮の伝統的な芸妓で、歌舞をもって遊宴にはべらなければならなかった。また、両班に侍寝するすることもあり、これを守庁といった。身分的には官庁の所有になる「公奴婢」であり、妓生の娘は「奴婢制度」によって母の身分を継承せねばならなかった。まさしく性奴隷といえよう。
「醜い韓国人」 朴泰赫 1993年 光文社
李朝時代には、両班、中人、奴婢の他に、妓籍(キジョ)という戸籍があった。妓生(キーセン)が妓籍に属した。両班であれば、もちろん金を払わねばならなかったが、妓生とはいくらでも寝ることができた。
両班が妓生を呼びだして、一夜をともにすることを「守庁」(スチョン)といった。庁は役所のことである。役所を守るといって、妓生を呼んで家に帰らなかったのだから、ユーモアがあった。
妓生側からは「スチョントゥンダ」(官庁に入る)といった。夜、一人で役所を守るのは寂しいのだ。そこで妓生と役所で一夜を楽しんだ。役所では「守庁」は公認された。
妓生を愛人として生まれた子は、庶属(ソージョク)となった。庶属は常人扱いだった。両班は、妓生との間にできた娘が年ごろになると、親しい友人に贈ったり、自分の上司の長官に貢ぎ物として棒げた。
「肌の若いのがよいだろう。君、持っていって遊ベ」というようなことを言って、友人に進呈したから、もう人間扱いではない。韓国は好色な文化である。日本よりも、もっと陽気であけっぴろげだ。
「歪められた朝鮮総督府」 黄文雄 1998年 光文社
なぜ韓国の国家管理売春で、日本人だけ非難されるのか
日韓併合後5年後の1916年、「貸座敷娼妓取締規制」が発布された。このことが朝鮮半島初めての公娼制度の全面導入であったという主張となっている。
歴史を直視せず、都合よくつまみ食いするわけである。法治国家だから、売買春を中心とする「水商売」を取り締まるのは当たり前のことである。しかし、過去の「慰安婦」を国家犯罪として非難しながら、現在の国家管理売春を免罪とするのは異常である。
1970年代には、朝鮮半島統一運動勢力が進歩的文化人と手を組み、日本のマスコミを総動員して、朴大統領の売春親光政策の徹底追及に明け暮れていた。
日本の女性問題運動家、市民連動家も競ってこのキャンペーンと呼応し、日本男性の買春旅行を国の「恥」として、同じく徹底的に追及し、マスコミを騒がした。
考えてみれぱ、それは朴大統領のいわゆる「国家戦略産業」としての「観光立国」を潰そうとするキャンペーンだったのであろう。
統一運動勢力は朴政権の国家売春政策を批判し、女性問題運動家も「国辱として日本男性の買春親光を非難し、双方とも大義名分が立つ。アメリカの週刊誌『タイム』は、この日本人観光客のキーセン買春の狂態ぶりを報道し、世界的な話題ともなった。
韓国の国家管理売春は、写真付きの登録制で身分を保険社会部に登録して、証明書を所有し、定期検診を週一回行なうものだった。国家管理下の売春婦の数については、『腐触する社会――公害と妓生観光』(朝鮮統一問題研究会編)によれぱ、全国で20万人にものぼるという。
『腐敗する社会』によれば、韓国の「妓生学校」は「時には有名人の講話を聞かせたり、現代韓国の経済政策、観光誘致の重要性について説教し、もっぱら外貨獲得のために献身する」ことを勧めているという。日本人観光客を相手にしていたので、「日本語学校」を設け、観光客に安心して買える「商品」として高く売り出している)と述ベている。
文教部長、閔寛植は1973年4月、東京の「韓国学園」に教職員や民団幹部まで集めて、韓国女性が国家のための経済的建設に欠くべからざる外貨獲得への献身的努力をしていることに、最大級の賛辞を呈したとも伝えられている。
朴政権が非難されるのは、売春を国策として奨励し、「美徳」として外貨稼ぎに躍起になっていたということにある。
さらに彼女たちを「特訓」して、「芸術使節団」や「芸能人」として証明書を発行し、日本まで遠征させたことである。KCIAの対日政財界工作として、韓国の妓生は「外交官用」の旅券まで持ち、日本政財界の大物相手の専門家として踏んぱっていたのだ。
いわゆる「日韓癒着」は、韓国の妓生が国家のために大きな役割を果たしていたから生じたともいわれ、彼女たちは、さらに対米議会工作にも使われているという。
大東亜戦争と上海臨時政府
わが民族の光復(解放)は米国、英国、中国、ソ連など連合軍が勝利した結果でもあるが、わが民族が国内外でたゆみなく展開してきた独立闘争の結実だった。8・15光復はすべての民族が日帝の支配に対抗して闘争してきた結実であったため、多くの人びとの犠牲と献身は民族運動史の偉大な業績として残ることになった。 (韓国高校国史・下より)
朝鮮人は日本国民として大東亜戦争を戦った。
「韓国人の歴史観」 黒田勝弘 平成11年 文春新書
韓国の国定歴史教料書は、1945年8月15日の日本支配からの解放を次のように記述している。
「われわれが光復
(解放)を迎えることができたのは、連合軍の勝利がもたらしてくれた結果でもあるが、この間、わが民族が日帝に抵抗してねばり強く展開してきた独立運動の結実であるということができる」(『中学国史・下』)
「わが民族の光復は米国、英国、中国、ソ連など連合軍が勝利した結果でもあるが、わが民族が国内外でたゆみなく展開してきた独立闘争の結実だった。
8・15光復はすべての民族が日帝の支配に対抗して闘争してきた結実であったため、多くの人びとの犠牲と献身は民族運動史の偉大な業績として残ることになった」(『高校国史・下』)
こうした記述からもわかるように、日本支配からの脱出、すなわち解放は連合軍の対日戦勝の結果でもあるが、それ以上に自らの独立・抵抗闘争の結果であると「自力」のほうに力点を置いている。
そして「自力」で解放を勝ち取ったはずなのに、1948年まで独立政府を樹立できなかったのは「強大国の利害」が介入したためだというのが、韓国における近・現代史の公式見解である。
しかし日本支配からの解放を、連合軍の対日戦勝より自らの独立闘争の結果だとする歴史認識は客観的ではない。それは米ソ(連合軍)による分割進駐、軍政、そして前述のような「建国」の遅れなどから明らかである。
連合国および国際社会はその「自力」を認定しなかったのである。したがって解放をめぐる韓国の歴史認識は主観的ということになる。
(中略)
韓国の歴史教科書の近・現代史で目を引くのは、日本支配に関し1940年代が一種の空白になっていることだ。もちろんまったく記述されていないわけではない。
1941年、日本が太平洋戦争(大東亜戦争)に突入することによって、日本支配下の韓国(朝鮮)も戦時総動員体制に組み込まれた。
その戦争に動員された様子についての記述が、中学、高校の歴史教科書とも1ぺージ足らず存在するが、きわめて簡単なものである。(中略)それには、いくつかの理由がある。最大の理由は、その「抵抗史観」にしたがえばこの時期には目ぼしい抵抗の歴史が見当たらないためである。
解放後に「金日成抗日革命神話」を作り上げた北朝鮮においてすら、1940年代は空白の歴史になっている。韓国の公式史観が強調する上海亡命政権の流れをくむ「光復軍」が、重慶の蒋介石政権やそれを支援していた米軍の指導下にあったように、旧満州にいた金日成の「人民革命軍」も共産系の中国人の下で極東ソ運軍に組み入れられ、極東ソ連にいた。
つまり海外でも独自の「独立戦争」は存在しなかったのである。そしてより大きな理由は、以上のこととメダルの裏表ということになるが、この時代こそ韓国人の日本に対する「協力」が最も進んだ時代であり、「韓国の歴史」としては本当は思い出したくも触れたくもない時期だったからである。
教科書もいうように、この時代はまさに韓国人を日本人にしようとした時代であり、実際に韓国人の多く日本人になりつつあった。
これは当時を生きた韓国人の多くがそう証言している。とくに当時、少年だった韓国人たちは戦時体制下の教育で意識は90%以上、日本人だったといっている。
筆者の知り合いの韓国人の証言によると、昭和19年の1944年春、留学先の東京から一時帰郷した時、ソウル(当時は京城)の韓国人街だった鍾路の映画館に入ったところ、ニュース映画で上映される日本軍の戦況に関するニュースに観客が熱狂する様子を見て驚いたという。
彼によると当時の東京の映画館でさえこれほどではなかった。彼は「韓国人もとうとう日本人になってしまったなあ」と複雑な心境になったと語っている。
韓国の歴史教科書には日本に対する「協力」の文字はいっさい登場しない。国定史観としての「抵抗史観」からすれば当然である。
日本支配時代は「韓国人の歴史」としては抵抗あるのみであって、協力などあってはならない。あったとしても、それは見たくないし、しかもその協力はすべて強制によるものでなければならないのである。
いわゆる従軍慰安婦問題で韓国側が「強制」にこだわるのも同じ背景である。誤解をおそれずに書けば、従軍慰安婦の本質もまた、戦時体制下の圧倒的な日本人化の流れの中での「協力」現象だったということができるだろう。
しかし「韓国人の歴史」としては「協力」ではなく「強制」でなければならないのである。歴史において最も重要なものは想像力の問題である。
たとえぱ従軍慰安婦問題でも相手が日本軍(将兵)で日本軍の管理下というのは、当時の歴史状況からすればひょっとして悪というよりむしろ相対的には善という位置付けではなかったかというのが、歴史への想像力である。
「日本軍による保証」はむしろ安心と安全の証しになったのではないかというわけだ。しかし現在の韓国の公式歴史解釈では韓国人従軍慰安婦と日本軍(将兵)は絶対的な敵対関係として、すべてが「強制」で語られている。
「韓国人の歴史」ではそうならざるをえないだろう。それは理解できる。だから「強制」という言葉が付くことによってはじめて慰安掃問題は歴史教科書に登場した。
しかし「日本人の歴史」としてはそれは「協力」であり、そうであるがゆえに前述したように「感謝と慰労」を語りたいのである。
韓国の歴史教科書も述べているように、日本の韓国(朝鮮)支配は最後には韓国人を日本人にしようとした。そして韓国人の日本人化は実際にかなり進んだ。
「光復軍」や「朝鮮人民革命軍」に加わった韓国人よりはるかに多くの韓国人が日本軍に加わり、日本将兵として連合軍と戦った(この「協力」に戦後の日本は十分報いているとはいえないが)、したがって連合軍も前者より後者の韓国人を韓国人の多数派と見ただろう。
連合軍が韓国を連合国に加えず、戦勝国として認定しなかった背景は、そうした現実、つまり抵抗より圧倒的な「協力」という現実を見たからかもしれない。
世界の人々の目には、朝鮮民族は日本と一体となって、戦争に邁進していると見えたはずである。
大東亜戦争に共鳴し日本の勝利に歓喜した朝鮮の人々
「日韓2000年の真実」 名越二荒之助 平成9年 国際企画
聖戦完遂に熱狂した朝鮮の人々
昭和12年7月7日の盧溝橋事件に端を発した支那事変において日本軍が中国軍を打ち破り、連戦連勝するようになると、朝鮮民衆の対日感情はにわかに好転し始めたのです。
2000年前の漢時代から朝鮮を圧迫・支配してきた中国の軍隊をいとも簡単に打ち破る日本軍の強さに朝鮮人は驚き、そしてその驚きが尊敬に、尊敬は熱烈な愛国心(日本への協力)へと変わっていったのです。目に見える劇的な変化は、出征軍人の歓送迎でした。
支那事変勃発後、7月12日から多くの兵士が入営出征を見たのですが、北支に出動する日本軍の部隊が続々と朝鮮半島を縦断して北上するに及び、見ず知らずの人々も町内、村内または一地方挙げて駅まで出てきて、これを送迎するようになったのです。
誰誘うとはなしに、駅という駅は国旗の波と万歳の声で溢れるようになりました。もともと個人的には親切な人々が多い朝鮮民族ですから、駅での心のこもった湯茶接待、慰問品の受け渡しばかりでなく、出征兵士との間に涙と笑いの交歓が続きました。
とくに京城駅(現ソウル駅)には、昭和12年9月中だけでも実に43万余人、1日平均1万4300人余りが詰めかけ、日本の兵士たちをいたく感激させたといいます。
朝鮮教科団体連合会編『支那事変に現れたる朝鮮同胞の赤誠』(昭和12年10月発行)というパンフレットには、そうした朝鮮人の愛国ぶりが他にも具体的に紹介されています。
例えば、日本軍人の無事を祈る千人針が流行していることや、朝鮮神宮への参拝者が急増し、9月3日には同神宮でキリスト教徒の尹致昊を代表とする朝鮮の各界代表百数十名が発起人となって『国威宣揚武運長久祈願祭』が挙行されたことや、血書を書いての従軍志願者が何百という数にのぼり、中にはその希望が達せられないので自殺した青年まで現れて総督府を困惑させていること等々、大変な熱気なのです。
興味深いことは、朝鮮の民衆ばかりでなく、それまで日本に対して冷ややかであった朝鮮の民族主義者や民族団体までが、手のひらを返したように積極的に愛国運動をはじめたことへの日本側の戸惑いが、そのパンフレットの端々ににじみでていることです。
日本政府が昭和13年(1938)4月、陸軍特別志願兵制を設置するや、それまで独立運動を指導してきた崔麟らは、『これによって半島の民衆も全的に日本国民になるのだから、一層覚悟を新たにしなければならない』と声明を発表し、かつて大正8年(1919)には2・8独立宣言を執筆した朝鮮を代表する大作家・李光洙が歌謡『志願兵壮行歌』を作詞するなど、3・1運動の指導者や民族文学の第一人者たちが率先して戦争への協力を呼びかけたのです。
これに応えて、朝鮮人青年は続々と志願しました。年を追うごとに応募者が増え、昭和16年に至っては実に45倍の志願者が押し寄せたのです。その倍率に驚かされます。
朝鮮は伝統ある儒教国家であり、応募するには父母、親族の許しが必要でした。青年の一時の血気だけでは志願するのは困難なお国柄です。この驚くべき倍率の影には、圧倒的な朝鮮人の支持があったと見なければならないと思います。
それにしてもなぜ、これほどの朝鮮人青年たちは日本軍に志願したのでしょうか。米英のアジア侵略を阻止し東洋平和を確立するという日本の国家目標の実現が、朝鮮の将来と同一線上にあることを朝鮮民衆が理解するようになっていたこともあると思います。
また、支那事変以来、日本の陸軍士官学校を卒業した朝鮮人士官の活躍ぶりが報道され、青年たちの心を強く揺さぶっていたことが大きかったようです。また、現実的な動機もありました。
志願兵に出て戻ってくれば、自動的に巡査や面事務所(村役場)の役人になれたのです。そうすれば、家族の暮らしも良くなります。
当時の日本青年の多くがそうであったように、朝鮮の青年たちの多くも貧困のため進学を諦めざるを得ませんでした。そんな朝鮮の青年にとって、志願兵は自分の将来を切り開く一つの道でもあったのです。
「朝鮮人BC級戦犯の記録」 内海愛子 1982年 勁草書房
(昭和17年、シンガポールで捕虜になった英国人が朝鮮の収容所に送られてきた)
"歓喜する群衆"
8月、朝鮮に約1000名の白人が到着した。この白人俘虜の与えた影響を、朝鮮軍参謀総長が、詳細に報告している。以下その報告書である。
英人俘虜収容に伴う一般民衆の反響
(中略)
俘虜輸送中の道中に於ける釜山、京城、仁川地方の観衆人員も、鮮人約12万、内地人約5万7千名の多数を算したり。俘虜を通し、目前に見る彼らの醜態と恬然たる態度を嘲笑し、斯かる国家観念に乏しき軍隊が、皇軍に敗るるは当然なりと、皇軍戦勝の事実を再確認し、米英崇拝思想を一掃せさるべからずと○す者、或いは、皇国臣民たるの幸福感と大東亜戦争完遂の決意を○す者多く、(中略)
○の漢字表示不可読み不明
朝鮮人の主なる言動
◇
半島青年が皇軍の一員として俘虜の監視をしているのを見たとき、涙が出る程嬉しかった。之を知らない人々に『見ろ、半島の青年が英国人俘虜の監視をしているではないか』と、大声を挙げて知らしてやりたい衝動に駆られた。
◇
基督教関係者は、英米人より指導を受けた関係上、排外思想が抜けきらなかったが、俘虜を見たとき日本人の誇りと日本基督教の確立をせねばなならぬと謂ふ強い示唆を受けた。
◇
戦争には水を呑んでも敗けてはならぬ、俘虜を見て日本人の有り難さと誇りを自覚した。
◇
われらを下等人として馬鹿にしていた英米人を、俘虜として見るとは夢の様だ。半島人も日本人としての誇りを感じ之で気持ちも一変した。
◇
口笛なんか吹いて平気でいるのを見ても、国家観念に乏しいことが分る。全く、だらしがないものだ。
◇
あの力のないひょろひょろした様子を見れば、日本軍に敗れるのも無理もない。
◇
俘虜を目前に見て、戦争には必ず勝たねばならぬと感じた。彼らを嘲る前に我々はもっと頑張らねばならぬ。
◇
今迄、新聞や映画で皇軍の戦果を見聞きしながら、多少の疑問を抱いたが、俘虜を見て、報道の嘘でないことが解った。
◇
日本人たるの幸福を痛感せしむる為、朝鮮人全部に俘虜を見せてやりたい。
◇
奴等の為に戦争が長引くのだから、死ぬ程働かせてやれ。
◇
俘虜が憐れな有様に較べて、我々が呑気に暮らして行けるのも、全く兵隊さんのお陰だ。
朝鮮人のBC級戦犯は148人うち死刑23人
大東亜戦争の意義に賛同して戦意高揚の演説をした朝鮮の文化人たち
「日韓2000年の真実」 名越二荒之助 平成9年 国際企画
◇申興雨
「祖父の代から受け継いできた黄色人種の積憤をいまこそ晴らさなければならない。一度決戦する以上、帝国行路の癌である敵性国家(米英)を粉砕し、…新東亜建設に邁進しなければならない」(昭和16年12月10日のソウルでの決戦報告大講演会から)
◇普成専門学校教授 張徳秀
「英米の圧迫と屈辱から東亜民族の解放を叫ぶ決戦を開始したのである。いまや東亜民族は圧迫と摂取を受けて骨しか残っていないが、いまやその骨で断固として決起し、仇敵英米を打倒しなければならない」(昭和16年12月10日のソウルでの決戦報告大講演会から)
◇朝鮮農民運動指導者 李晟煥(りせいかん)
「貧欲の牙城、白人帝国主義の張本人米英をいまこそ撃滅せずしては、我等の子孫の発展を望むことはできない」(昭和16年12月14日の米英打倒大講演会から)
◇「二・八独立宣言書」執筆者で朝鮮文芸界の第一人者 李光洙(りこうしゅ)
「私は天皇陛下の子であるという考えを常に忘れずこの聖業完遂に邁進する者であるからして、子々孫々の栄華を得るであろう」(昭和16年12月14日の米英打倒大講演会から)
「米国と英国を撃て」と / かしこくも大詔がくだされた
/ 十二月八日 陽がのぼるとき / 輝く昭和十六年
/ ハワイ真珠湾に / 積悪を撃つ皇軍の最初の霹靂(へきれき)
/ ウェストバージニアとオクラホマ / 太平洋米艦隊はついえた
/ ついで撃つ南洋の陸海空 / プリンスオブウェルズ英艦隊旗艦
/ アングロサクソンの罪悪と運命を抱き / クアンタンの沖の海深く沈みゆく
/ アジアの聖域は元来 / 天孫民族が繁栄すべき基業
/ アングロサクソンに踏みにじられて二百年
/ わが君がいま光復を宣せられた (「宣戦大詔」昭和17年1月)
◇詩人で戦後、韓国の国会議員になった 朱耀翰(しゅようかん)
「正義人道の仮面を被り搾取と陰謀をほしいままにしている世界の放火魔、世界一の偽善君子、アメリカ合衆国大統領ルーズベルト君。君は口を開けば必ず正義と人道を唱えるが、パリ講和会議の序文に、人種差別撤廃文案(提唱者日本)を挿入しようとしたとき、これに反対し削除したのはどこの国であり、黒人と東洋人を差別待遇して同じ席にもつかせず、アフリカ大陸で奴隷狩りを、あたかも野獣狩りをするが如くしたのはどこの国の者であったか。…しかし君等の悪運は最早尽きた。…一億同胞…なかんずく(朝鮮)半島の二千四百万は渾然一体となって大東亜聖戦の勇士とならんことを誓っている」(昭和16年12月14日の米英打倒大講演会から)
「大東亜戦争の目的は東亜10億の民を侵略の魔の手から救い、東亜の新秩序を建設し、東洋を東洋人の東洋にしようとすることである」(毎日申報1943年11月18日号から)
◇三・一独立宣言を起草した歴史家 崔南善
「昔から、春秋に義戦はないといわれているが、…今度の戦争を義戦−聖戦といわずして何といえようか。…大東亜の建設、全人類の解放、主義と信念と理想を生かすための聖なる戦いに行くことは何と快心事であることか。…日本国民としての忠誠と朝鮮男児の意気を発揮して…一人残らず出陣することを願う次第である。」(東京での演説 毎日申報1943年11月20日号から)
ベルリン・オリンピックのマラソン競技で金メダルを取った孫基禎も、朝鮮人学徒の志願兵応募推進団体に参加して、勧誘活動に奔走している(姜徳相著「朝鮮人学徒出陣」に記述あり、1997年岩波書店発行)。
オリンピック優勝を報道した民族系新聞の東亜日報が、孫選手の胸の日の丸を消した写真を掲載して、総督府から発刊停止処分を受けた事件は有名だが、本人は日本政府に協力的だったのは皮肉なことである。
志願兵の募集に殺到した朝鮮人青年たち
「歪められた朝鮮総督府」 黄文雄 1998年 光文社
朝鮮総督府は1938年、初めて志願兵制度を実施した。それは、日韓併合から29年目の、日中戦争の翌年であった。それには、予想外といえるほどの朝鮮人青年が殺到した。次の公式数字からも、その異常な盛況がうかがえる。
|
募集者数 |
志願者数 |
倍率 |
1938年 |
406 |
2946 |
7.26 |
1939年 |
613 |
1万2528 |
20.43 |
1940年 |
3060 |
8万4443 |
28.00 |
1941年 |
3208 |
14万4743 |
45.12 |
1942年 |
4077 |
25万4273 |
62.37 |
1943年 |
6300 |
30万3294 |
48.14 |
1938年 陸軍特別志願兵制度はじまる
1943年 海軍特別志願兵制度はじまる
1943年 朝鮮人学徒特別志願兵制度はじまる(適格者6203名中4385名(70%)が志願した)
1944年 4月 朝鮮人に徴兵制度適用
徴兵制度により徴兵された軍人・軍属は24万2341人で、1943年の志願兵応募者数30万人よりも少ない。
1943年の志願者30万人を現在の日本の人口に当てはめると150万人に相当する。驚くほど多い人数だ。
内地の朝鮮人も志願兵制度実施に燃え立つ
戦前の新聞記事見出しより
『半島人が出征志願/国家を思ふ心に変りなし/“雑役夫にでも”と』
神戸又新日報 1937/7/19
『義勇兵志願など/半島人の赤誠/昨夜内鮮融和座談会』
芸備日日 1937/7/31
『半島青年が/血書の従軍志願/徳山憲兵分駐所へ』
芸備日日 1937/8/2
『半島、台湾人あげて“正義皇軍”に寄す熱情/従軍志願、献金相つぐ』神戸又新日報 1937/8/8
『半島少女が陸軍志願』 大阪毎日 1937/8/16
『半島人血書/従軍志願/国民の愛国熱』芸備日日 1937/8/19
『暴戻支那を一撃/半島出身運ちゃんも侠気、義勇兵を志願(御影)』
大阪朝日 1937/8/22
『朝鮮人志願兵採用制度/熾烈な日本精神が反映!』
大阪朝日 1938/1/16
『僕にもあるぞ・大和魂/夢に描く軍服姿/神戸の半島少年が志願兵に/きのふ憲兵隊に出願』
神戸新聞 1938/1/18
『半島人に感激の渦/志願兵採用制度に揚る万歳/門司署管内在住者が』
福岡日日 1938/1/18
『・半島人志願兵・へ/呉から第一声/熱烈な志願書を出す』
呉新聞 1938/1/19
『颯爽!三番打者/半島青年姫路で入隊の志願/御用帳下げて出頭』
神戸新聞 1938/1/19
『赤誠、奮起の半島青年/早くも第一線従軍志願を』
中国日報 1938/1/19
『憧れの日本兵に/志願兵制度の実施で/福山で最初の半島人』
大阪朝日 1938/1/20
『九人兄弟を代表/お国のため御奉公/模範半島人の洗濯屋外交員が神戸で最初の志願兵(灘)』
大阪毎日 1938/1/20
『半島人志願兵西宮のトップ/烈々の文字連ねて』
大阪毎日 1938/1/21 阪神
『愈よ燃ゆる愛国熱/半島同胞の志願兵制度に申出で更に相踵ぐ/太刀洗でも中年半島人熱心に志願』
福岡日日 1938/1/21
『血書で志願/半島同胞にもこの意義/皇軍の忠誠を聞いて軍人志願』
福岡日日 1938/1/22
『半島の青年また兵役志願/祖国愛は同じ』
大阪朝日 1938/1/25
『歓び勇む半島同胞/一人前の兵隊さんになれるぞ/尼崎で志願兵制度のお祝ひ(内鮮同愛会)』
大阪朝日 1938/1/27
『兵隊に憧れる/半島の青年達/逸早く志願書提出』
大阪朝日 1938/1/29
『志願兵制度を喜び/在京半島人一万円献金』
福岡日日 1938/1/30 夕
『熱血の半島青年/総督へ志願書/防府市兵事課が煮切らぬので/断然、直接に提出す』
芸備日日 1938/2/1
『広島で最初の半島人/現役志願申出る/材木店員の真面目な青年』
芸備日日 1938/2/9
『半島人の血書志願/滴る血潮で綴る祖国愛の熱文/一日も早く軍人に』
神戸又新日報 1938/4/9 夕
『胸に描く兵士/燃えたつ愛国の血潮/半島青年が呉鎮へ採用志願』
中国日報 1938/7/3
『半島の出身者が高く掲げる『日の丸』旗/志願兵制度実施に感激して国体の観念を普及』
大阪毎日 1938/11/17 神版
『新生田川遊園地に燦・尽忠愛国の旗/朝鮮人志願兵制度記念の成果/輝く半島人の赤心(泗龍親睦会)』
神戸新聞 1938/11/24
『半島の志願兵/本社に来訪』 大阪朝日
1939/11/9
夕
『我ら君国に報ぜん/湊川神社に詣でて力強い誓詞/半島志願兵隊神戸へ』
神戸新聞 1939/11/11
『朝鮮出身青年の鑑/宿志叶って/志願兵合格』
中国 1940/9/6
『海鷲へ……半島の児が初志願/涙の手紙に溢る“干城の喜び”』
大阪朝日 1943/5/18
『米英撃滅陣へ続かん/半島同胞が三人揃うて現役志願』
神戸新聞 1943/6/4
『半島少年も陸鷲志願』 大阪朝日 1943/7/8
夕
『病床から海軍へ/半島青年が/至誠の志願』
中国 1943/8/10
『新卒業者にも道開く/鮮台学徒特別志願兵規則改正/一人残らず志願せよ』
大阪毎日 1943/11/12
『熱意揚る半島学徒/赤誠の志願相次ぐ』大阪朝日 1943/11/14
『眼ざすは全員志願だ/あす半島学徒特別志願締切』大阪朝日 1943/11/19 夕
『志願締切迫る/鮮、台の若人起て/神戸地方海軍人事部談』大阪毎日 1944/12/6 神版
徴兵制布告に感激する朝鮮人
朝日新聞 昭和17年5月10日号(「日韓2000年の真実」 名越二荒之助 平成9年 国際企画から)
…昨年の大東亜戦争開始以後の朝鮮人の戦争完遂に関する熱意は、献金に、あるいはその他各種の銃後援護に強く表明され、内鮮一体の機運ますます強固なるものがあるので、政府は朝鮮同胞のこの報国の赤誠(祖国に尽くそうというまごころ)に応え、朝鮮に徴兵制を施行し昭和19年度より実施し得る如く…決定した。
沸きあがる朝鮮同胞の赤誠にこたえて徴兵令が施行せられることになった、内鮮一如、火の玉となって聖戦を戦い抜けという愛国心に目覚めた朝鮮同胞の熱誠は支那事変以来、戦線に銃後の火柱と燃え美はしい数々の祖国愛、同胞愛の物語を聖戦に織りなしていた。…
ところが朝鮮同胞には兵役法の適用がなかったので、朝鮮同胞の赤誠に応えることができなかったのだ。そこでこの熱意に応えるため、昭和13年4月3日から陸軍特別志願兵令が実施されて来たのであった。
朝日新聞 昭和17年5月15日号(「朝日新聞の戦争責任」 安田将三・石橋孝太郎 1995年 大田出版から)
『今こそ真に日本人』朝鮮の徴兵制に血書の感謝状
半島(朝鮮半島)青年も昭和19年から晴れて皇軍兵士の栄誉が適えるように準備をすすめている旨9日情報局から発表されたが、この光栄に勇躍した朝鮮同胞からは早くも感謝の心を綴った手紙が、谷情報局総裁や井野拓相
(拓務大臣)のもとに届けられ、中には血書したものもある。その2,3−−。
[その1] ただただ感謝します。何十万の半島青年のすべてが受けたであろうこの感激は、一体いかなる言葉でいい表したら良いのか分かりません。
『兵役は?』と問われ、『ない』と答える苦しさ。内地の人の中には『時期が早い』と思う人があるかもしれませんが、自分に問い、友に問いしても決して遅くこそあれ、早くはありません。
自分が運良く戦死したら靖国神社に行ける。この気持ちこそ半島青年の気持ちです。必ずや自分もお呼び出し願えるものと固く信じその日を待ち侘びてあます(「あます」は原文のまま) 半島の一青年情報局御中 <これには『感謝』と書いた血書が同封されていた>
[その2] われわれ朝鮮人の一人一人が帝国の防人として内地人と同様大東亜戦争に参加してこそ真の内鮮一体といえましょう。ああこの日本帝国に生まれ合わした幸運。
朝鮮人も祖国日本のため、米英撃滅に参加出来る喜びをお察しください。今こそ、靖国の英霊の仇を討って見せます。天皇陛下万歳、大日本帝国万歳。松本元治郎
(創氏改名者)
情報局総裁閣下
軍人・軍属として出征した朝鮮人は24万人にのぼり、そのうち2万2千余人が戦死した。
1945年8月15日 終戦
敗戦を境に豹変した朝鮮人
「台湾人と日本精神」 蔡焜燦 2000年 日本教文社
(台湾出身の著者は岐阜陸軍航空整備学校奈良教育隊に所属していた)
昭和20年8月15日、終戦の詔勅下る。 山奥での作業中に年輩の応召兵が『敗けた!』と隊からの伝令を口にしたまま、呆然と立ちすくんでいた。
我々は何が起こったのかさっぱりつかめない。無理もない、玉音放送があることすら知らされていなかったのである。
ただ中隊長の青ざめた表情は自体の深刻さを物語っていた。
しばらくして、敗戦の事実が我々台湾出身生徒
にも正式に伝達されたとき、悔しさと無念の気持でいっぱいになり、とめどなく込み上げる涙で頬を濡らしたことはいまでも鮮明に覚えている。無性に悔しかった。それは他の台湾出身生徒も同じ心境だった。
他方、朝鮮出身の生徒達は、その日から食糧倉庫、被服倉庫を集団で強奪するなど、したい放題のありさまで、我々は複雑な心境でただそれを眺めていた。
日本人を殴って、『戦勝国になったんだ』と威張りちらす者もいれば、『独立だ!』と気勢を上げる輩もいる。敗戦の報は、それまで一つだった”国民”を三つの国民に分けてしまったのである。
「敗戦の詔勅」が発せられた翌日の8月16日、水平射撃用に改修を終えた対空機関砲で上陸してくる米兵を迎え撃つべく和歌山に移動するとの伝達があり、四門あった砲の射手の一人を私が務めることになった。
だが、このときは正直いって心が揺れた。『また行くのか… 』、祖国のために殉ずる気持ちで出征したのだが、いまとなっては”生”への執着が顔を覗かせる。
この日の夜も朝鮮人生徒達が独立を叫ぶ傍らで、40名の台湾人生徒も小さな単位でひそひそと今後を話し合う光景が見られた。
『俺達はいったいどうなるのか… 』 『我々は“中国”へ帰るみたいだ』 『それなら俺達も一等国の国民じゃないか… 』がっくりと肩を落とした日本人を気遣いながら、そんな会話が小声で交わされるのだった。
そして8月17日の夕方、連合軍の命令で我が隊の武装解除がはじまり、日本人は復員することが決定した。もちろんこれで例の”本土決戦”の計画も自動的についえた。
しかし残務整理は日本人事務官でこなせるものの、兵隊がいなくなってしまっては武器庫や飛行機などの警備ができない。そこで進駐軍がやって来るまでのおよそ二ヶ月間、学校、練兵場、格納庫、武器庫など、あらゆる軍の施設を我々40名の台湾人生徒が守ることになったのである。
『朝鮮人は信用できない。だから君たち台湾人が守ってほしい』そう言い残して去っていった上官の言葉を、これまで経験してきたもろもろに照らし合わせて了解した。
昭和20年10月、奈良教育隊に米軍が進駐してくると、我々もようやく施設警備の任を解かれることになった。
(中略)
昭和20年12月、連合軍の命令で台湾への帰還を命ぜられる。
苦しいこともあったが、離れて久しい故郷台湾の地を踏める。そんな喜びに胸を膨らませ、私は引き揚げ列車に揺られた。新聞は、近衛文麿元首相の自決を報じ、列車の中では戦勝国民となった朝鮮の連中が威張り散らしている。
ああ、日本は本当に負けたんだ……目にするそんな光景が私に日本の敗戦を教えていた。私は終戦の日をもって"戦勝国民"になったはずだが、やはり心の底でまだ自分は日本国民だという意識があり、複雑な心境で"敗戦"を思った。少なくとも、私は戦勝国民になったことを手放しで喜ぶことなどできなかったのだ。
心の切り替えができない私は、誰から見ても敗戦で肩を落とした日本人に見えたのだろう。また日本兵の軍服で汽車に乗り込んでいた私は、8月15日をもって急に威張りはじめた連中の嫌がらせを受けた。
座席の中に置いた新品の飯盒を朝鮮人に盗まれ、それを奪い返そうとすると、『なんだお前、朝鮮人をバカにするな!降りて来い!』と、たちまち数人に取り囲まれてしまった。多勢に無勢、勝ち目はない。こうなっては『すみません、私の記憶違いでした』と謝り、難を逃れるしか術はなかった。
それから佐世保に到着するまでの30時間、連中は執拗に私を含め多くの日本人乗客をいびり続けた。若い女性がトイレに行こうとすると通路を塞ぎ、次の駅で窓から降りるよう指示するなど、この連中のあまりにも情けない行状を、私ははらわたが煮え繰り返る思いで眺めていた。ただ黙って見ているしかなかったのである。
(中略)
佐世保キャンプで私は面白い場面にも遭遇した。
あの引き揚げ列車の中で、私を含め敗戦で意気消沈する日本人をいびり続け、肩をいからせていた朝鮮人たちが、「中華民国台湾青年隊」の腕章をつけた我々におべっかを使って擦り寄ってきたのである。
それは中華民国が連合軍の一員であったからに他ならない。弱い者には威張りちらし、強い者には媚びへつらう、そんな彼らの極端な習性を目の当たりにした思いがした。なんとなくいい気がしない。
とはいうものの、大国の狭間で生活してゆかねばならなかった地政学的な環境が、そうした一個の民族性を育んだのだから、いまさらそれを責めても仕方なかろう。
時の勝者に乗り換える朝鮮人。これも伝統の事大主義か。
「石枕 (下巻)」 張俊河 安宇植訳 1976年 サイマル出版会
(著者は日本軍を脱走して中国で活動していた上海臨時政府に参加し、金九主席の側近になっていた。)
ことのほか私たちを哀しませたのは、韓同志が、そのころ上海を拠点として日本軍の手先をつとめながら財をなしていた、孫という男の奸計にかかって日本の憲兵隊に逮捕されたことだった。
韓同志はこの孫に、軍資金の調達を申し入れたのだ。孫は日時と場所を定めて、そこで会うことを約束したという。その日、約束の場所にはあらかじめ日本の憲兵たちが待ち受けていた。
これが韓同志の逮捕に関する顛末の全てだった。その孫が、今もぬけぬけと、この国で大手を振って歩いていると聞くにおよんでは。けれども、私たちをなおのこと嘆かせたのは、新しい事実だった。
日本軍が降伏する直前
(1945年8月15日)まで通訳か、それでなければ前線地区を回って阿片を商ったり日本軍慰安婦の抱え主を演じた連中までが、一朝にして光復軍
(韓国臨時政府の軍隊)の帽子を手に入れ、独立運動家、亡命者、革命家などを自称する、とうてい見るに忍びない風潮が横行したことだった。
のみならず、同じく異国にある同胞たちの財産を、そうした連中であればあるほど先に立って没収して回るのが普通だった。
ありていに言って、臨時政府や光復軍が、その名称の大きさに比して機構や人員においてあまりにも弱体だったことは、否定しえない事実だった。
指導者クラスの人材は曲がりなりにも存在したが、青年層の人材はまことに不足の状態にあった。そんなありさまだったから、過去の経歴を問わずに、独立運動家の名を手当たりしだいに分け与えたのだ。誰であろうと参加を希望しさえすれば、相手かまわず鄭重に迎え入れ、光復軍の帽子を一つずつ被せてやった。
当時、光復軍には三個支隊があった。(中略)第三支隊は学徒兵脱走者十数名を中心幹部とする最前線の部隊だった。最前線地域という条件のゆえに人員の確保は容易だったし、したがって兵力も150名に達していた。けれども、そのほとんどが光復軍に入隊してほんの一、二ヶ月の、新入隊員たちだった。
ところで、この三つの支隊が相互に反目し合う状態から、やがては覇権でも競うようになったことから、光復軍の精神におのずと背く結果をひき起こしたのだ。
とりわけ上海、南京を舞台に活動していたある支隊のいわゆる学徒出身幹部どもの傍若無人な専断ぶりときたら、実に常軌を逸したものだった。
(中略)
我が同胞たちの中でもいくぶん富裕な連中は、解放と同時に日本のスパイという意味の漢奸の烙印を捺され、大部分が中国の官憲によって投獄されたり、財産を没収されるありさまにあった。
はなはだしくは、我が革命家をもって任じる例の支隊の隊員たちまでが、韓国人同胞を処刑に処したり、掠奪を繰り返すなどして同胞たちの感情を損ねるまでに及んでいた。
かくも暗澹たる状態に置かれるようになったのは、一言で言って、例の支隊の独善と傲慢さのゆえであったといって言い過ぎることはない。
彼らはあたかも、日本軍からの脱出がこうした独善と傲慢を目的としたものであるかのように振舞ったのだ。それは、脱出の動機を虚栄と功名心に求めたのと替わるところのない行動だった。
現在の韓国政府は、上海臨時政府の後継者だと称しているが、傘下の光復軍に従軍慰安婦の抱え主がいたというのは笑える。
上海臨時政府は亡命者集団で、いくつもの派閥に分れ内部権力党争を繰り返していた。財政難であったということは、民衆の支持を得てはいなかったのではないのか?
戦前の新聞記事見出しより
『労働争議と不逞鮮人何等の関係もない/上海仮政府は財政難に弱る』
大阪朝日 1921/8/21 夕
『鮮人学生から七千円を奪い上海へ向かったらしい不逞鮮人』
大阪毎日 1921/9/29 夕
『窃取した六千八百円は独立運動の費用?/川端署で逮捕した蒋徳夏(朝鮮人銀行頭取の子息から現金を窃取)』
京都日出 1921/10/11 夕
『独立運動を画策し六千八百円を窃取した鮮人コック逮捕
京都市に潜伏中 …焙出の方法で…文通し盛に活動して居る』
九州日報 1921/10/12 夕
『独立運動の前科鮮人/九大生が父の金二千円を持出して姿を晦ます』
神戸又新日報 1922/3/13
『独立運動を企てた大学生行方を晦ます/父の金二千円を持ち出す』
京城日報 1922/3/14
『怪鮮人は春画を売って上海仮政府へ走らうとした不逞の徒』
神戸新聞 1924/7/27
『怪鮮人の行動/大阪の同志等と結んで上海仮政府の密偵及主義宣伝/旅費調達に裸体写真を』
神戸又新日報 1924/7/27
『大掏摸
(スリ)団/独立陰謀団とも気◆を通ず』 京城日報 1924/12/8
夕
『上海不逞団の名で富豪を恐喝す/鶴橋署で逮捕の鄭永斗』
大阪朝日 1926/2/23
韓国人による自国民批判
「苦難の韓国民衆史」 咸錫憲 1980年 新教出版社(「日本のイメージ」 鄭大均 1998 中公新書
より)
(著者の咸錫憲は戦後韓国民主化運動のシンボル的存在であった)
われわれがまず明らかにしなければならないことは、この解放が盗っ人のように不意に訪れたということだ。解放後の腹立たしいこと、醜いざまは一つやニつではないが、その中でもほんとうに腹立たしいのは、この解放を盗もうとするやつらが多いことだ。
彼らは、自分たちだけはこのことを早くからわかっていたと宣伝する。それは彼らがこの盗っ人のようにやってきた解放を、さも自分が送りこんだようにして盗もうとするためである。
それは嘘だ。もし彼らがあらかじめわかっていたなら、それほど先見の明があったなら、どうして8月14日までへりくだって服従していたのか。
その時一言でも予告して民衆を慰め、勇気をひきしめさせていたなら、いまになってことさら宣伝しなくても民衆は指導者としてお迎えしたことだろう。そういうことはやめて率直になろう。君も僕もみな知らなかったのだ。みんな眠っていたのだ。
神社参拝をしろといわれれば腰が折れんばかりに拝み、姓を改めろといわれると競い合って改め、時局講演といえばありったけの才能を傾けて語り、米・英を罵倒し、転向しろといわれれば実にアッサリ転向し、よく見られようと聖書も直し、教会も売り、信用が得られるとなると四つん這いになり、犬の鳴き声もしてみせた。
この国の志士・思想家・宗教家・教育者・知識人・文人に、また海外流浪何十年と格好はよいが、その実、互いに博士派・先生派・なになに系・なになに団と、ハワイやサンフランシスコではアメリカ人の召使いをしながら勢力争いをし、重慶・南京ではとうもろこし粥をもらって食いながら地位争いをしていた人たちが、なにをあらかじめわかっていたというのか。思想はなんの思想で、政治はなんの政治運動をしたというのか。この国が解放されるとあらかじめわかっていた人など一人もいないのだ。
戦後の韓国人・朝鮮人は、日本帝国主義の犠牲者だと自らを位置付け、大東亜戦争を積極的に協力した過去を隠蔽したまま日本の戦争責任・アジア侵略を糾弾している。これこそ『歴史の歪曲』ではないのか。