「在日韓国・朝鮮人のタブー、朝鮮進駐軍」


朝鮮進駐軍の言葉は現在の造語ですが内容は事実です。このことは日本人全員が過去の事実として知っておくべきことです。

在日韓国・朝鮮人は日本と戦争をした事実は無いにもかかわらず、終戦と同時に「戦勝国民」とし、日本各地において殺人、婦女暴行、略奪、警察署の襲撃、土地・建物の不法占拠、横暴の限りを尽くした。

概要


一般に三国人と言ったときは、おおむね1945年昭和20年以後に現在特別永住権を持つ在日一世(朝鮮人・韓国人)、もしくは現在日本に帰化または半島に帰国した朝鮮民族によって作られた犯罪組織を指す。

戦後、日本がポツダム宣言を受け入れると日本各地で、婦女暴行、窃盗、暴行、殺人、略奪、警察署の襲撃、公的機関への襲撃、土地建物の不法占拠、鉄道や飲食店での不法行為等様ざまな朝鮮人による犯罪が多発した。

自称「戦勝国民」(正しくは戦勝国民ではない)であると主張し、各地で徒党組んで暴れ事件を起こした。
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服装・武器及び組織について


戦後の混乱を利用し、日本刀等の刃物・鈍器以外に多くの銃火器を使用した。銃は三八式歩兵銃や機関銃など盗んだ旧日本軍の武器で武装し組織化を行った。

三国人では旧日本陸軍のパイロットの軍服を好んで着用したが、これは日本兵に対するあてつけとも、日本人(皇民)に対するあてつけとも言わた。

組織ではいくつかの本部設けたが、実際は各地域ごとに部隊名をつけその部隊が、個別に日本人を狙った犯罪行為を繰り返しすことが多かった。

三国人総本部(在日朝鮮人連盟総本部)はのちの在日本朝鮮人連盟。更にこれが在日本大韓民国民団(略称「民団」)と在日本朝鮮人総聯合会に分かれ、これが現在の民団と朝鮮総連となる。

時代背景


当時の日本では戦場に男手が駆り出され極度の男手不足に陥っており、また都市部においても疎開や空爆による被害で人手が足りない状況が長く続いていた。

また警察組織においても、武器の使用が認められないなど戦後特有の制限があり。戦後朝鮮人犯罪が増加の一途をとどった背景には、このような犯罪に対する抑止力の空白化が背景にあったとされている。

いまでは考えられないことではあるが、当時はヤクザ(現在の指定暴力団)が朝鮮人から、日本人の生活を守る役割を一部果たしていた。

この当時は朝鮮人の殆どが実名で暮らしており、通名を使用しだすのは朝鮮の姓に対して嫌悪感や犯罪者といったイメージを日本人が抱くようになってからである。

朝鮮人による犯罪


市民を狙ったものとして白昼に堂々と集団で婦女子に暴行を加えるなど、多数の犯罪行為を行った。拳銃や刃物で武装しており一般市民は無力であり繰り返し行われることも多かったため被害が拡大した。

またGHQの調べでは少なくとも4000人の日本人市民が殺害されており、多い説では1万人以上であったとも言われている。
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終戦後 「三国人」が各地で横暴の限りを尽くした


「三国人」の部隊2000人による「首相官邸襲撃事件」が1946年起きた。約2000人 の在日朝鮮人「三国人」部隊が完全武装して首相官邸に突入。

日本の警官隊は当時武器の所持は禁じられていため、米軍憲兵隊に応援を頼んだ。そこで米軍憲兵隊と「三国人」との間で大銃撃戦闘へと発展した。

戦後の在日朝鮮人は、なんの国際法上の地位もないにも関わらず、勝手に自分たちを「戦勝国民」であると詐称し、三万人もの武装集団となって全国主要都市に出現し暴れまくった。

在日朝鮮人集団は、武装解除された日本軍の武器と軍服を盗用して武装し、勝手に「戦勝国民」と名乗り、無差別に多くの日本人市民を殺害した。

戦後の治安が整っていない空白を良いことに、「戦勝国民」と名乗った在日朝鮮人は、土地の不法略奪、金品略奪、強姦、銀行襲撃、殺略、警察襲撃など暴れ放題の限りを尽くした。

「戦勝国民」と名乗る暴徒たちは、個々に部隊名を名乗り、各地で縄張りを作り暴れた。これら「三国人」の元締め組織が「朝鮮総連」、ヤクザなどになっていった。

国有地も、都心駅前一等地周辺も、軒並み不法占拠した。そしてそのまま、パチ ンコ屋、飲み屋、風俗店等々が出現し、そのまま彼らの土地として登記され現在に至っている。

農家、農協倉庫を襲い、貨車を襲撃、商店街、国の食料倉庫も襲い、食料や商品を根こそぎ 奪って行き、それらは全て戦後の闇市で売りさばき、暴利で財を成したのは彼らであった。

財を成したのは彼らは分派し、政治組織として社会主義、共産主義組織へと発展し、政界にも進んだ。

「戦勝国民」と名乗る在日朝鮮人暴徒たちは、通りすがりの市民に言いがかりをつけ集団暴行をはたらく。無銭飲食は当たり前、白昼に目に付いた婦女子を路上で集団強姦するなどを、日常茶飯事に繰り返した。

在日朝鮮人は「戦勝国民」と名乗り、武装して、町をのし歩いた。彼らは闇市を掌握して巨大な利益をあげ、徒党を組んでは瓦礫と焦土の神戸の街を闊歩した。

腰には拳銃をさげ、白い包帯を巻きつけた鉄パイプの凶器を振り回しては、手当たり次第に日本人を殺傷、暴行し、略奪の限りを尽くした。

通りすがりの通行人の目つきが気に入らぬといっては難くせをつけ、無銭飲食をし、白昼の路上で婦女子にいたずらをした。 善良な市民は恐怖のドン底に叩き込まれた。

こうした不良分子は旧日本軍の陸海軍の飛行服を好んで身につけていた。袖に腕章をつけ、半長靴をはき、純白の絹のマフラーを首にまきつけ、肩で風を切って街をのし歩いた。警官が駆けつけても手も足もでない。

終戦後の警官が、一切の銃器の所持が許されていなかったのをよいことにして、「おれたちは戦勝国民だ。敗戦国の日本人がなにをいうか」と、丸腰警官を殴り、ド突き回し、警備用の木刀や飾りのサーベルをヘシ曲げた。

終戦後の第三国人どもは本当に酷かった。軍の兵器を盗んで来たらしく、三八式歩兵銃や南部式拳銃で武装し、小銃には着剣して強盗強姦傷害恐喝脅迫不動産窃盗、時には殺人まで、経済犯、実力犯を中心にあらゆる悪事を重ねていた。

銀座、浅草、新宿は朝鮮人、新橋、渋谷は台湾人に支配され、政府も警察も動揺し、手を拱いていた。戦勝国民は治外法権だったのである。だから食管法に限らず、戦勝国民には日本法を適用出来なかった。

服部時計店や白木屋も米軍の酒歩(PX)に接収され、そこへ行けば食料に限らず物資は山ほどあった。日本人は買えなかったが。そうした情勢に便乗し、朝鮮人は戦勝国民だの「三国人」を僭称して堂々と闇商売を行い、派手に稼いでいた。
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そりゃ儲かるだろう。警察の検問を竹槍日本刀を振り回して強行突破したのだから当時は物不足で、売る方は素人でも出来た。仕入れこそ難しかった。

彼等は日本人露天商を襲って商品を奪う。それで警察が黙認して捕まえないのだから、こりゃあ損のしようが無い。警察が襲撃されることしきりで、署長が叩きのめされたり、捜査主任が手錠を賭けられ半殺しにされるぐらいは珍しからず。

上野で朝鮮人経営の焼肉屋へ国税局査察部が査察に行った際、大金庫を開けて手を入れた瞬間を狙って二十人ぐらいで一斉に金庫の扉を押したものだから査察官は腕を切断されてしまった。

当時は警察署が襲撃される事が珍しくなく、第三国人の襲来によって犯人を奪還された富坂警察署事件、ついでに警官が殺された渋谷警察署事件、共産党が大群で警察署を包囲し外部との連絡を遮断「攻城戦」に出た平警察署事件等、枚挙に暇有りませんでした。

東京東部(すなはち大東京の中心地)北郊の荒川、古利根−中川、江戸川、利根川流域の牛は皆いなくなった。 当時、あの辺は畜力として農耕牛を使っていたが、深夜、不良朝鮮人が侵入して来て盗み出し、河原へひいて行って屠殺した。

牛はモウと言って泣いたので皆気付いたが、銃砲刀剣で武装しているので追う訳には行かなかった。永年愛育し、慈しんで来た牛が悲しそうに泣きながらズルズル引き出され殺されるのを傍観するのは無念で耐え難かったが、手向へば殺されるのでどうにも出来なかった。

そうして利根川水系流域一帯の牛は皆、不良朝鮮人に盗まれ、殺され、闇市で売られた。この辺へも、新聞紙に包んだ肉塊を売りに来たものだ。上流で屠殺した牛を、そのまま下流へ売りに来たのだろう。かくて南関東から、牛はいなくなった。

家畜相手ならまだしも、人間に対しても、関東以西の大都市を中心に、日本中に灰神楽が立つような勢で数多犯罪を重ねた。 川崎、浜松、大阪、神戸などが酷かった。その最も著しい象徴的事例に、元文部大臣、後の首相・鳩山一郎氏に対する集団暴行・傷害事件がある。

翁が軽井沢の静養先から帰京しようとして信越本線の汽車に乗っていたら、例の「三国人」が後から大勢、切符も買はず、鉄道員を突き飛ばし押入って来て、「俺達は戦勝国民だ、おまえら被支配者の敗戦国民が座って支配者様を立たせるとは生意気だ、この車両は戦勝国民が接収するから全員立って他の車両へ移動しろ、愚図愚図するな!」と追い立てた。

それで鳩山氏が、我々はきちんと切符を買って座っているのにそりゃおかしい、と一乗客として穏やかに抗議したら、たちまち大勢飛び掛かって袋叩きにし、鳩山翁を半殺しにした。幸にして重体にも重傷にも至らなかったが、頭部裂傷だか顔面挫傷だか忘れたが、血に塗れ腫れ上がった痛々しい顔で帰京した。

直後に総理大臣に成る程の大物でもかくのごとし。いわんや庶民におては 土地も屋敷も物資も操も、奪い放題であった。

闇、賭博、傷害、強盗事件が多く、ことには、空襲や疎開で一時的に空いている土地が片端から強奪された。今、朝鮮人が駅前の一等地でパチンコ屋や焼肉屋を営業しているのは、皆、あの時奪った被災者の土地だ。

それでも警察は手が出せなかった。歴代首相大臣等が絞首刑になって行く状況で、警察ごときに何が出来よう。

ある日、警察は何月何日を以て廃止す、再び登庁するを許さず、と命ぜられれば、それ切り警察は消滅する。七百万の大軍を擁した彼の帝国陸海軍ですら、左様にして両総長 両大臣以下、自然廃官になった。まこと敗戦は悲しからずや。

たまりかねた警察が密かにやくざに頼み込み「浜松大戦争」になった訳だが、「小戦争」は日本中に頻発した。最後の頼みの綱は連合国軍であったが、遂にはその憲兵隊でも手に負へぬ非常事態に立ち至った。

それでさすがに米軍も腹に据えかね、日本本土全域の占領を担当していた米第八軍司令官アイケルバーガー中将が、関東と言はず関西と言はず、はたまた北九州と言はず、不良朝鮮人活動地域に正規戦闘部隊の大軍を出動させ、街頭に布陣して簡易陣地を築き、重装甲車両を並べ、人の背丈程に大きな重機関銃を構へて不良朝鮮人共にピタリと狙いをつけ、ようやく鎮圧した。我々はその火器のきらめきを間近に見た。

この時、連合軍総司令官ダグラス・マッカーサー元帥の発した布告が、「朝鮮人等は戦勝国民に非ず、第三国人なり」と言い声名で、これぞ「第三国人」なる語のおこりである。だから、外国人差別用語なはずは無い。

彼等自身、マッカーサー元帥以下、一人残らず皆、外国人ではないか。連合国軍総司令官は、日本人に対してこそ絶大な権勢を振ったが、本国や同盟国、対日理事会や極東委員会に気を使わねばならぬ外交センスの要る役職であった。

何人にもせよ、敗戦国民以外を、声名発してまで差別なんぞする筈が無い。「第三国人」の語は、国際法に則って説いた技術的専門用語に過ぎない。

終戦後の朝鮮人の横暴は目に余るものであった。東京のど真ん中、銀座の交番に於いてさえ、朝鮮人を注意した巡査が複数の朝鮮人の襲撃を受け裸にされ警棒を尻に突っ込まれると言う乱暴を受けた。

当時の日本警察は拳銃の携帯が許されておらず、朝鮮人の横暴を止められなかった為、政府はマッカーサーに請願した。これを受けて述べたのが、マッカーサーの「朝鮮人は戦勝国ではない第三者だ」と言う三国人発言である。

1950年にGHQは日本占領を終結し、解放し、実質的に戦後は終わったとされています。その際に朝鮮人は日本籍を剥奪され、韓国籍として朝鮮に帰れと命令しました。不要の朝鮮学校と民団総連も廃止し解散請求しました。

すると在日朝鮮人は、なにを履き違えたか「我々は戦勝国民であり日本を統治する立場だ」と叫びだし、革命を叫んで、公共施設の不法占拠し火炎瓶や武器で武装して決起したのです。

警察も拳銃で対抗し射殺された人もでました警察では対処できなくなり、GHQは軍隊の動員をして戦後初の戒厳令を敷いて朝鮮人による暴動を平定しました。この戦後初の戒厳令が敷かれた朝鮮人動乱(正式名がない)事件は、日本の歴史からスッポリ抜けています。

死人も出ている事件なのに、日本の教科書には掲載されたことはありません。(日本各地で勃発しました、栃木や浅草などは戦場状態です)

逆に朝鮮民族学校の教科書には差別と弾圧として掲載され教育されています。勿論、被害者側としてであり、立ち上がったのは国籍条項と朝鮮民族学校の廃校に対する抗議としてであると述べています。

言っておくが日本国内だけではない。朝鮮半島を朝鮮を近代化させて、恩あるはずの我ら先人の日本人を集団で襲って、強姦強盗不動産窃盗と悪の限りを尽したのを皆忘れてしまったのか。

多くの日本人は、朝鮮人に襲われ、無念にも命を落とし、帰れなかった人は数知れない。彼らの悔しさを思うと、日本人の敵朝鮮人に参政権という言葉は決して出てこないはずである。このことを誰も伝えようとしないが、事実は決して消える物ではない。朝鮮人の日本人に対する犯罪は、触れては成らない理由があるのか不思議な日本人達だ。

なぜ日本にだけパチンコ屋があるのか?


今から70年ほど前、日韓併合後に朝鮮人は自らの意思で日本に渡ってきた。その後日本は第二次世界大戦で連合国(米・英・オランダ・支那・オーストラリア)と戦争に突入。

英・オランダ・支那・オーストラリアには勝ったものの米に敗北し、ポツダム宣言を受け入れ連合国に降伏した。すると朝鮮人たちは「我々は戦勝国民」であると主張し、「戦勝国民」を名乗り、各地で暴れ始めた。

日本の男たちは戦場に駆り出され、残っていたのは女、子供、老人ばかり。朝鮮人はやりたい放題で、駅前の一等地は朝鮮人に襲撃され占領された。

もちろん、そこに住んでいた日本人女性は容赦なく強姦され追放されたのです。当然、日本人は朝鮮人を強く憎むようになった。そのため、在日朝鮮人は日本名を名乗るようになった。

朝鮮名を名乗ることは自分が犯罪者だと宣言しているようなものだったからだ。その後、朝鮮人達は共産主義者と組み、マスコミを使って歴史の捏造を始めた。

「強制連行されて来た」「土地を奪われて仕方なく来た」等など。そして強姦・殺人犯罪を謝罪するどころか、土地を占拠し続けながら、「俺たちは何も悪いことをしていないのに差別される」「不当な差別を受けている」などと宣伝し始めた。

「三国人」を知らない若い世代の日本人たちは在日に対して、罪悪感を持つようになった。そして在日たちは日本人から奪い取った一等地で商売を始めた。それがパチンコである。

今でもパチンコ業界の8割が在日が経営者である。パチンコ業界は今や30兆円産業と言われている。なんとあの日本が誇る自動車産業より上なのだ。だが自動車産業とは違いこのパチンコ業界は、日本が誇るどころか日本が恥ずべき業界なのだ。

なぜならパチンコ業界は経営者の脱税と、北朝鮮への不正送金・犯罪の温床など日本人にとって極めて不利益になる事ばかりをしている。

「日本のパチンコがある限り我が国は安泰だ。」(金正日)日本の政治家や警察にもパチンコの金が流れている。だから「パチンコ・パチスロはギャンブルではない娯楽だ。」などという、馬鹿げた論理がまかり通っているのだ。

しかし祖母や曾祖母が朝鮮人に強姦された場所で、今の奴らはパチンコやスロットを打つとは・・・・・。これは「日本人」以前に「人間」として恥ずべき行為ではないのか?在日朝鮮人が経営するパチンコ屋が駅前に多いのではなくて、パチンコ関係の会社の経営者は在日朝鮮人が殆どです。

それぞれの企業の代表者を調べれば中国式(朝鮮式)の名前です。名前が日本風であっても通名である場合もあります。そしてその他の風俗店、焼肉屋などにも多いです。

なぜ強制的に連れて来られたと騙っている彼らが、差別が酷かったと騙りながらも、今のように駅前で莫大な富を生み出す違法な賭博場を開けるまでになったのでしょうか…。

終戦直後、駅前には闇市が出来上がり商売に適した場となりました。当時、自分達を三国人と称して、自分達には治外法権が認められていると勘違いし、日本の闇市を席巻していたのは朝鮮半島出身者達でした。

彼らは「在日朝鮮人連盟」という自治団体を結成し、その組織の力をバックにやりたい事をやりまくりました。警察署でさえ武器を手に持ち押し入って、留置所から仲間を連れ出すことさえやってのけました。(全ての朝鮮人がそうであったとは言いません。しかし、同胞の不正に目を瞑っているというのは酷い事です。)

他の方も書いておられますが、悲しい事にこの勢力に対抗できるのはヤクザしかいませんでした。この事を、今のマスコミも教科書も伝えませんが、こんな酷い話を載せる事を編集者は怖がります。

それが元で憎悪が広がりかねませんから。そしてマスコミも教科書もこの事を書けないのは、常に朝鮮系の圧力団体(朝鮮総聯や韓国民潭)や政治的な圧力団体からの圧力があるからです。教科書などはいつも圧力団体の抗議にさらされていますね。
サイト内:日本の教科書に内政干渉と韓国の捏造教科書⇒⇒

こういった事実を書くと、必ず「それは民族差別である」という方が居られます。しかし、在った事を書けば差別で、見て見ぬ振りをすれば差別ではないのでしょうか?これは民族差別ではなく、犯罪者差別です。

日本人には民族という概念は薄く、犯罪者を嫌う、という感覚が有ると思います。むしろ民族、民族と口やかましいのは外国人であったりします。

最近まで、北朝鮮の拉致はでっちあげだと言っていた人たちがいます。マスコミは拉致事件を大きく取り上げませんでした。

同じように、パチンコの問題も嘘で塗り固められ、マスコミは沈黙したままです。で、不法占拠に関して言えば、駅前一等地をどんどん奪っていったというわけではなく、空襲などが激しくて殆ど元の住人がいなくなった地区単位で丸ごと奪ったという例を(神戸のある地区や柏市など朝鮮人部落などと評された地域のことを)よく聞きます。
サイト内: 在日による不法占拠⇒⇒

なぜこういった不法占拠が既成事実化してしまうところまで放置されてしまったのかは、弱者であることを強みにして暴力や脅迫などで民闘連を推し進めてきた成果でしょう。

新聞でちらっと書くだけで脅迫・暴行の対象になる訳ですから、ましてや教科書なんかには残るはずもない話であります。

在日朝鮮・韓国人は不幸の民でもなんでもないよ。在日朝鮮・韓国人は元々半島で差別を受けていた白丁という奴隷階級。日本との併合で白丁たちは解放されたけど、それでも差別が強かったためにろくな職業につくことができず日本へ渡ってきた。強制連行でもなんでもない。しかも大半が密航。

関東大震災で朝鮮人が井戸に毒を投げたとかいうデマが広がって、いまだにそのことを捏造してギャアギャア騒いでるけど、なんの根拠もなくそういう噂が広まったわけじゃない。

朝鮮人は、震災で倒壊した建物から金品を盗み出したりしていて、それを戻ってきた住民に見つかって問い詰められると「ココワタシノイエ!」などと開き直って家主を唖然とさせた。

それまでの東京は、家に鍵を掛けなくても泥棒なんて滅多に入らないほど治安がよかったけど、それからはみんな家に鍵を掛けるようになった。
サイト内:関東大震災の朝鮮人の暴力⇒⇒

戦後に到っては、戦勝国でもなんでもないのに(*大韓民国臨時政府は国際的に正式な臨時政府と認められていませんでした。日本と韓国は当時同じ国だったから敗戦国)

「独立だ!オレたちは戦勝国民だ!」とのたまって、各地でレイプや略奪を繰り返していました。

田舎に疎開していた人たちが家に戻ってくると、いつの間にか家が朝鮮人に乗っ取られていて「朝鮮勝った!おまえら負けた!この家はおれのものだ!」と言って、元の住民は、ここが自分の土地だと証明する書類も戦争でなくしてしまい、どうすることもできなかったそうです。

駅前って、パチンコ屋だの金融業者が多いじゃないですか。あれって、大半が戦後に在日朝鮮人が不法占拠した土地なんですよ(*パチンコ屋と金融業は8〜9割が在日企業)。

在日は民潭や総連など暴力団ともつながりのある組織とつながっているため、元の地主は取り返すことができず、田舎でほそぼそと暮らしているらしいです。

さらに許せないことは、戦後の混乱しているときに、朝鮮人は神風特攻隊の飛行服を着て悪逆非道を行っていたということです。わざわざ国のために死んでいった人たちを貶めるためにね!

これは現在の街宣右翼と呼ばれているひとたちも同じで、彼らの目的は愛国心=軍国・民族主義と一般人に刷り込むことです。考えてもみてください、威圧的な車に乗って軍歌を大音量で流してるような人たちを普通の人が見て、こころよく思うはずがありませんよね。彼らの大半も、日本の弱体化を狙う在日や中国人です。

あげく、最近の在日は、自分達にも参政権を寄こせとか言ってくる!外国人に地方参政権なんかあげたら最後、韓国が領有権を主張している竹島や対馬に集団で移り住んで自治宣言→韓国領に編入されてしまいますよ

!在日が日本を愛しているわけがないんです。いや、そもそも本当にこの国を思っているのなら、帰化して日本国籍を取ればいいじゃないですか。

テレビなんかでいかに在日が不幸な民かをやっているけど、本当に彼らの言ってることが正しいのか、自分で様々な資料をよく調べて、考えてみて!

2007年2月6日、税理士法違反の疑いで朝鮮総連兵庫県本部などを正当に家宅捜索する兵庫県警の警察官や機動隊に対して、集団で暴言や妄言を吐き何の躊躇いもなく暴れまわる在日朝鮮人らの映像です。

山口組三代目 「田岡一雄自伝」 1982年 徳間文庫


一瞬、ぎくりと立ちどまり、悲鳴のあがる方角に走った。途中で四、五歳の女の子が泣きながら夢中で駆け寄ってきた。「どないしたんや」「おかあちゃんが、おかあちゃんが」少女は私に泣きじゃくりながらしがみつく。

この世のものとは思えぬ女の狂気じみた悲鳴がきこえつづけていた。「ここにいるんやで。ええな」私は少女をその場において一目散に走った。少女の母親は木立の中で数人の男に犯されていた。飛行服(朝鮮人)の男たちだった。

通りすがりの通行人の目つきが気に食わないといっては難くせをつけ、無銭飲食をし、白昼の路上で集団で婦女子にいたずらをする。 善良な市民は恐怖のどん底に叩き込まれた。

こういった不良分子(朝鮮人)は旧陸海軍の飛行服を好んで身につけていた。袖に腕章をつけ、半長靴をはき、純白の絹のマフラーを首に巻きつけ、肩で風を切って町をのし歩いた。腰には拳銃をさげ、白い包帯を巻きつけた鉄パイプの凶器を引っさげたかれらの略奪、暴行には目にあまるものがあった。

警官が駆けつけてきても手も足も出ない。 「俺たちは戦勝国民だ。敗戦国の日本人が何をいうか」警官は小突き回され、サーベルはヘシ曲げられ、街は暴漢の跳梁に無警察状態だ。

玉音放送ののち、今まで同じ日本人として権利を享受してきた 朝鮮人の態度がガラリとかわり、敗戦の責任を日本人とともに背負うのを拒否しだし、それを正当化するために日本人に牙をむきはじめる。

隣組み組織や防空演習等いっしょにやってきて同じ日本人として助け合っていたのに、この変わりように、初め祖父は「冗談だろ?」と思ったらしい。しかし、事は悪夢以上だった。

集団で土地をロープで囲み、バラックを建てていた家族を殺害し占拠する。白昼、商店を襲い、商品を根こそぎ奪いそれを闇市で売りさばく。

バスや列車に無銭で駅員を殴り倒し、どかどか乗り込み、網棚の荷物を外に放り投げ、そこで高いびき。警官狩りをして堂々と殺す等等。祖父曰く「町は彼らの遊び場になった。日本人は逃げ惑うだけになった。

蔡焜燦著『台湾人と日本精神』(2000年、日本教文社)ISBN 453106349X


昭和20年8月15日、終戦の詔勅下る。山奥での作業中に年輩の応召兵が『敗けた!』と隊からの伝令を口にしたまま、呆然と立ちすくんでいた。

我々は何が起こったのかさっぱりつかめない。無理もない、玉音放送があることすら知らされていなかったのである。ただ中隊長の青ざめた表情は自体の深刻さを物語っていた。

しばらくして、敗戦の事実が我々台湾出身生徒にも正式に伝達されたとき、悔しさと無念の気持でいっぱいになり、とめどなく込み上げる涙で頬を濡らしたことはいまでも鮮明に覚えている。無性に悔しかった。それは他の台湾出身生徒も同じ心境だった。

他方、朝鮮出身の生徒達は、その日から食糧倉庫、被服倉庫を集団で強奪するなど、したい放題のありさまで、我々は複雑な心境でただそれを眺めていた。

日本人を殴って、『戦勝国になったんだ』と威張りちらす者もいれば、『独立だ!』と気勢を上げる輩もいる。敗戦の報は、それまで一つだった”国民”を三つの国民に分けてしまったのである。

「敗戦の詔勅」が発せられた翌日の8月16日、水平射撃用に改修を終えた対空機関砲で上陸してくる米兵を迎え撃つべく和歌山に移動するとの伝達があり、四門あった砲の射手の一人を私が務めることになった。

だが、このときは正直いって心が揺れた。『また行くのか… 』、祖国のために殉ずる気持ちで出征したのだが、いまとなっては”生”への執着が顔を覗かせる。


この日の夜も朝鮮人生徒達が独立を叫ぶ傍らで、40名の台湾人生徒も小さな単位でひそひそと今後を話し合う光景が見られた。

『俺達はいったいどうなるのか… 』 『我々は“中国”へ帰るみたいだ』『それなら俺達も一等国の国民じゃないか… 』がっくりと肩を落とした日本人を気遣いながら、そんな会話が小声で交わされるのだった。

そして8月17日の夕方、連合軍の命令で我が隊の武装解除がはじまり、日本人は復員することが決定した。もちろんこれで例の”本土決戦”の計画も自動的についえた。しかし残務整理は日本人事務官でこなせるものの、兵隊がいなくなってしまっては武器庫や飛行機などの警備ができない。

そこで進駐軍がやって来るまでのおよそ二ヶ月間、学校、練兵場、格納庫、武器庫など、あらゆる軍の施設を我々40名の台湾人生徒が守ることになったのである。

『朝鮮人は信用できない。だから君たち台湾人が守ってほしい』そう言い残して去っていった上官の言葉を、これまで経験してきたもろもろに照らし合わせて了解した。

昭和20年10月、奈良教育隊に米軍が進駐してくると、我々もようやく施設警備の任を解かれることになった。
(中略)

昭和20年12月、連合軍の命令で台湾への帰還を命ぜられる。苦しいこともあったが、離れて久しい故郷台湾の地を踏める。 そんな喜びに胸を膨らませ、私は引き揚げ列車に揺られた。

新聞は、近衛文麿元首相の自決を報じ、列車の中では戦勝国民となった朝鮮の連中が威張り散らしている。ああ、日本は本当に負けたんだ……目にするそんな光景が私に日本の敗戦を教えていた。

私は終戦の日をもって"戦勝国民"になったはずだが、やはり心の底でまだ自分は日本国民だという意識があり、複雑な心境で"敗戦"を思った。少なくとも、私は戦勝国民になったことを手放しで喜ぶことなどできなかったのだ。

心の切り替えができない私は、誰から見ても敗戦で肩を落とした日本人に見えたのだろう。また日本兵の軍服で汽車に乗り込んでいた私は、8月15日をもって急に威張りはじめた連中の嫌がらせを受けた。

座席の中に置いた新品の飯盒を朝鮮人に盗まれ、それを奪い返そうとすると、『なんだお前、朝鮮人をバカにするな!降りて来い!』と、たちまち数人に取り囲まれてしまった。多勢に無勢、勝ち目はない。こうなっては『すみません、私の記憶違いでした』と謝り、難を逃れるしか術はなかった。

それから佐世保に到着するまでの30時間、連中は執拗に私を含め多くの日本人乗客をいびり続けた。若い女性がトイレに行こうとすると通路を塞ぎ、次の駅で窓から降りるよう指示するなど、この連中のあまりにも情けない行状を、私ははらわたが煮え繰り返る思いで眺めていた。ただ黙って見ているしかなかったのである。
(中略)

佐世保キャンプで私は面白い場面にも遭遇した。あの引き揚げ列車の中で、私を含め敗戦で意気消沈する日本人をいびり続け、肩をいからせていた朝鮮人たちが、「中華民国台湾青年隊」の腕章をつけた我々におべっかを使って擦り寄ってきたのである。それは中華民国が連合軍の一員であったからに他ならない。

弱い者には威張りちらし、強い者には媚びへつらう、そんな彼らの極端な習性を目の当たりにした思いがした。なんとなくいい気がしない。とはいうものの、大国の狭間で生活してゆかねばならなかった地政学的な環境が、そうした一個の民族性を育んだのだから、いまさらそれを責めても仕方なかろう。

こういった真実は現代のマスコミでは完全なタブーとなっている。著名な駐日大使ライシャワーの「日本史」でも戦後の朝鮮人の横暴は記載されていたが、たった1行書かれていただけなのに在日や左翼の抗議が殺到したという。


現代を生きる日本人の皆さん、日本人が終戦を迎えたときに韓国・朝鮮人に何をやられたのかよ〜く心に刻んでください。

強い者には事大し、衰えると手のひらを返して残酷なまでの裏切りをする、それが韓国・朝鮮人です。有史以来、ずっとこの繰り返しです。決して心を許してはならない民族なのです。

そして、都合の悪いことは力で封じようと躍起になります。自分達が悪いことをしても罪の意識が無いのです。都合が悪いことは全て他人のせいにして、己の非は決して認めようとしません。

そんな大げさなと思うかもしれませんが、普段挨拶程度の付き合いならわかりにくいかもしれませんが、利害が絡めば途端に民族性が露になります。

まともな人間もいますが、その人たちの身内までがまともとは限りません。だからこそ、彼らと対峙する時は慎重でなければなりません。もし、朝鮮民族がまともな人たちの集団であれば、自分達がやったことを棚に上げて一方的に日本人を悪者にはしていません。自らの罪をきちんと認め日本人被害者にそれなりの謝罪と償いをしているはずです。

それが戦後63年経つ今でも清算されず放置されたままです。今後も韓国・朝鮮人が変わることはないでしょう。日本人はそろそろ朝鮮民族と決別するべきです。


朝鮮進駐軍(三国人) 朝鮮人騒乱史

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