三国人の不法行為、何を批判されたのか

このページ内の項目へジャンプします(灰色文字は管理人注)
三国人と闇市 − 三国人と土地占拠 − 共産党と暴動事件 − 「三国人」は差別語か

石原都知事が三国人という言葉を発したため、差別語を使ったとマスコミに叩かれましたが、日本人でも戦勝国民でもないという三国人という言葉に悪いイメージを持たせたのは、戦後の在日韓国・朝鮮人自身にあったのです。

彼らの所業は三国人という言葉とセットになってマスコミに封印されたようですが、おかしなことに日本の過去の悪事を発掘することに熱心な反日マスコミほど三国人の蛮行を封印しているのです。

「韓国のイメージ」鄭大均 1995年 中公新書



(*終戦は1945年)

まずは、戦後日本人の韓国(朝鮮)や韓国(朝鮮)人に対するイメージのおおまかな変化を把握するために、世論調査の結果を概観してみることにする。

表1は、楠弘閣が1939年と1949年に行った「日本人学生」の「諸民族」に対する好悪調査の結果を、鈴木二郎が整理したものである。

同調査は、戦前から戦後にかけての朝鮮人イメージの変化をうかがうことのできる貴重な資料であるが、印象的なのは、39年調査で、比較的好感度の高い集団として位置づけられていた朝鮮人が、49年調査では、最も好感度の低い集団に転落しているということである。

なぜなのだろうか。多分、重要なのは、日本人がかつて朝鮮人との間に共有していた運命共同性の消失と戦後の日本社会における在日朝鮮人の行為という二つの要因であろう。

「内鮮一体」や「内鮮融和」のスローガンが示すように、39年当時の日本人にとって、朝鮮は「大日本帝国」の版図の一部であり、32年満州国建国、37年日中戦争へと時局が推移する過程で、その国策的要請は高まっていた。

敗戦後、こうした運命共同性が消失した時、朝鮮人に対する眺めが変化したのは当然のことであるが、好感度がかくも急激に下落したのは、終戦直後の在日朝鮮人の行為が日本人の心に植え付けた印象であろう。

三国人という言葉に、ならず者のイメージを植え付けたのは、日本人の弱り目につけ込んで、不法行為を行ったの朝鮮人自身にある。

「韓国のイメージ」鄭大均 1995年 中公新書


連合国総司令部(GHQ)の担当官として終戦直後の日本に駐留し、後にハーバード大学教授となったエドワード・ワグナー(朝鮮史)は、『日本における朝鮮少数民族』(原著1951年)という論文で次のように記している。

『戦後の日本においては、朝鮮人少数民族は、いつも刺戟的な勢力であった。数においては大いに減ったものの、朝鮮人は、依然として実に口喧しい、感情的・徒党的集団である。

かれらは絶対に敗戦者の日本人には加担しようとせず、かえって戦勝国民の仲間入りをしようとした。

朝鮮人は、一般に、日本の法律はかれらに適用され得ないものとし、アメリカ占領軍の指令も同じようにほとんど意に介しなかった。そのため、国内に非常な混乱をおこした。』

「一部在日朝鮮人の帰国問題」 日本赤十字社発行 (「別冊宝島 朝鮮総聯の研究」 1995年 宝島社より)


朝鮮人の場合は、今までとは打って変わり、戦勝国民となり、治外法権が認められた。それが彼等にとり、どんなに気持ち良かったかは想像に難くない。

単に精神面においてのみならず物質面においても、彼らは日本人が住むに家なく、着るに衣なく、飢餓にあえいでいる最中、その特権を利用してあらゆるボロ儲けをすることが出来た。(「戦勝国民となり、治外法権が認められた」は法的根拠がない)

「韓国・朝鮮と日本人」若槻泰雄 89年 原書房


戦前から強かった日本人の在日朝鮮人への悪感情は、第二次大戦直後の経験によって更に強まった。それは、日本人が敗戦の苦悩と屈辱に打ちしおれていたとき、在日朝鮮人による犯罪、不法行為が続発したことであった。

もともと戦前から在日朝鮮人の犯罪率は日本人の平均の10倍前後に達し、朝鮮人の住む貧民窟が犯罪の巣であるかのように見なされていた。
(中略)

続発した不法行為

総人口わずか1%以下の在日朝鮮人の公務執行妨害は21%(1949年)、騒擾(そうじょう=不平分子が集まり騒いで社会の秩序を乱すこと『騒擾罪』 )のごときは83%(1948年)、そして密造酒は全密造酒の30%近く(1953,54年)、ことに覚醒剤の販売量では全量の60〜70%を占めるという有様であった。(1953,54年)

公安調査庁坪井豊吉氏は、終戦後間もない頃の在日朝鮮人の犯罪状況について『法務研究』に次のように書いてある。

『本期における大きな傾向としては、個人的感情にもとづく報復的詐欺、脅迫、暴行などの一般犯罪のほか、いわゆる親日派民族反逆者への監禁、暴行、あるいは・・・・・帰国問題に起因する不穏行動、各地の保安隊、警備隊(朝連の自衛組織)などの警察類似行為、主食の集団要求や買出し、彼ら同士の派閥抗争などがみられた・・・・・またそれらの中の主な事件は、各地における集団強窃盗、官公署への横暴な態度と不当な要求、建築物の不法占拠、汽車、電車、バスなどの不法乗車、生産管理、人民裁判などであった・・・・・。彼らの不法行為は、敗戦による日本側当局の無気力と消極的な処置に乗じてやたらと増長され、戦後の混乱をいっそう助長するところとなった・・・・・敗戦の混乱におびえるに日本の一般社会人心は極度に不安な環境におちいり、一時は全く無警察状態が各方面に現出された。彼らの不法行為が、一般日本人はもちろん、在留外国人の間にまでも、彼らの性格が事大主義で、遵法精神が薄く、感情的で、極端な凶暴性をもっているとの深い印象を植え付けたことだけは、まぎれもない事実のようである。この時代は、特にその初期は右翼と称される民団(在日朝鮮居留民団→大韓民国居留民団)、建青(朝鮮建設促進青年同盟)などによっても数々の不法行為が敢行されていた・・・・・』

「在日朝鮮人に関する総合調査研究」新紀元社 1957年 朴在一


成年人口の20%の被検挙者(終戦直後)

『15〜59歳の男女人口を犯罪年齢人口とすると、刑法犯、特別法犯の検挙人員は合計3万7276人(1949年)であるから、在日朝鮮人の成年男女の100人のうち、14.4人が検挙されたことになる。

外国人登録法違反による被検挙者数まで入れると、この数字はもっと増えて100人当たり20.2人になる。このほかに道路交通法違反による検挙者1万9332人もいる。それ故に大都市警察の留置所が、何時でも朝鮮人で一杯であるという事も否定し得ない悲しむべき事実であろう』

今日ではこのような事態は著しく改善されたが、それでも、全在留外国人の中における韓国・朝鮮人の犯罪の人口比は平均より幾分高いのを常としている。一般犯罪のほかに、韓国人には、密入国者が多数にのぼるのが特徴である。

不法人国による年間数千名にもおよぶ検挙者は、一時、長崎県の大村収容所に収容して本国に退去強制となるわけだが、必死の思いで密入国した彼らの抵抗はすさまじく、大村収容所でのトラブルは絶えなかった。

「体験で語る解放後の在日朝鮮人運動」 張錠寿、他 1989年 神戸学生青年センター出版部


あの時代は、日本国内を汽車で行こうとすると汽車の乗車券を購入するのに証明が要ったんです。隣組とか駐在所とか役場とかで貰って、汽車に乗って買い出しに行ったんですが、そんな時に台湾人が汽車でも「中国人専用」とチョークで書くんですね。

すると朝鮮人もまねて「朝鮮人専用」と書く。そんなことをして買い出しに行ったりしていました。買い出しは、新潟とか北陸、九州に行って米や芋やいろいろなもんを買って、専用車に積んで守らないかんわけです。

在日コリアンが闇市の商品買出しで列車の不正占有を行っていたことを証言。当時は戦災による破壊で列車が不足していたうえ、戦後復興による需要増大で列車の運行が逼迫していた。そのような状況下での横暴な行為である。

日本会議掲示板北斗星さんの投稿から


   第三國人の暴行

表題の件に付ては既に一通り書き終えた心算<つもり>であったが、本日郷土、城東葛飾に赴いたところ、偶々<たまたま>老人達が本件を論じてゐ<い>た 中にも地方議員たる七十翁の回顧は愚生の筆より数段迫力有りし故、帰宅早々記憶により再現し、此処<ここ>に記して御歴々の御参考に資せむとするものである 

  --- 録取者 北斗星 ---

終戦後の第三國人どもは本當<本当>に酷かった 軍の兵器を盗んで來た<来た>らしく、三八式歩兵銃や南部式拳銃で武装し、小銃には着剣して強盗強姦傷害恐喝脅迫不動産窃盗、時には殺人まで、経済犯、實力<実力>犯を中心にあらゆる悪事を重ねてゐた 

銀座、浅草、新宿は朝鮮人、新橋、澁谷<渋谷>は臺湾<台湾>人に支配され、政府も警察も動揺し、手を拱いて<こまねいて>ゐた 戦勝國民は治外法権だったのである。

だから食管法に限らず、戦勝國民には日本法を適用出來なかった 服部時計店や白木屋も米軍の酒歩(PX)に接収され、其処<そこ>へ行けば食料に限らず物資は山ほど有った。日本人は買へなかったが。 

斯うした<そうした>情勢に便乗し、朝鮮人は戦勝國民だの「朝鮮進駐軍」を僭称して堂々と闇商賣<商売>を行ひ、派手に稼いでゐた そりゃ儲かるだらう 取締を横目に犯罪のし放題 警察の検問を竹槍日本刀を振り回して強行突破したのだから(流石に<さすがに>銃撃戦は挑まなかった模様) 

當時<当時>は物不足で、賣る<売る>方は素人でも出來た 仕入れこそ難しかったのだが、彼等は日本人露天商を襲って商品を奪ふのだから 其<それ>で警察が黙認して捕まへないのだから、こりゃあ損のし様が無い 

警察が襲撃されること頻り<しきり>で、署長が叩きのめされたり、捜査主任が手錠を賭けられ半殺しにされるぐらいは珍しからず 上野で朝鮮人経営の焼肉屋へ國税局査察部が査察に行った際、大金庫を開けて手を入れた瞬間を狙って二十人ぐらいで一斉に金庫の扉を押したものだから査察官は腕を切断されてしまった 

(録取者註 當時は警察署が襲撃される事が珍しくなく、第三國人の來襲によって犯人を奪還された富坂警察署事件、ついでに警官が殺された澁谷警察署事件、共産党が大群で警察署を包囲し外部との聯絡<連絡>を遮断「攻城戦」に出た平警察署事件等、枚擧<枚挙>に暇有りませんでした) 

東京東部(すなはち大東京の中心地)北郊の荒川、古利根−中川、江戸川、利根川流域の牛は皆ゐなくなった

當時、あの辺は畜力として農耕牛を使ってゐたが、深夜、不逞鮮人が侵入して來て盗み出し、河原へ牽いて<ひいて>行って屠殺した 牛はモウと言って泣いたので皆氣<気>付いたが、銃砲刀剣で武装してゐるので追ふ訳には行かなかった。

永年愛育し、慈しんで來た牛が悲しさうに泣きながらズルズル引き出され殺されるのを傍観するのは無念で耐え難かったが、手向へば殺されるのでどうにも出來なかった 

斯うして<そうして>利根川水系流域一帯の牛は皆、不逞鮮人に盗まれ、殺され、闇市で賣られた この辺へも、新聞紙に包んだ肉塊を賣りに來たものだ 上流で屠殺した牛を、其儘<そのまま>下流へ賣りに來たのだらう 

斯くて<かくて>南關東<関東>から、牛はゐなくなった 

家畜相手ならまだしも、人間に對して<対して>も、關東以西の大都市を中心に、日本中に灰神楽が立つやうな勢で数多犯罪を重ねた 川崎、濱松<浜松>、大阪、神戸などが酷かった。其<その>最も著しい、象徴的事例に、元文部大臣、後の首相・鳩山一郎氏に對する集團<集団>暴行・傷害事件がある 

翁が軽井澤<軽井沢>の静養先から帰京しやうとして信越本線の汽車に乗って居たら、例の「朝鮮進駐軍」が後から大勢、切符も買はず、鐵道<鉄道>員を突き飛ばし押入って來て、俺達は戦勝國民だ、おまへら被支配者の敗戦國民が座って支配者様を立たせるとは生意氣だ、此<この>車両は朝鮮進駐軍が接収するから全員立って他の車両へ移動しろ、愚図愚図するな! と追ひ立てた。 

<それ>で鳩山氏が、我々はきちんと切符を買って座ってゐるのにそりゃおかしい、と一乗客として穏やかに抗議したら、忽ち<たちまち>大勢飛び掛かって袋叩きにし、鳩山翁を半殺しにした 幸にして重体にも重傷にも至らなかったが、頭部裂傷だか顔面挫傷だか忘れたが、血に塗れ腫れ上がった痛々しい顔で帰京した。年老いた祖父を理不尽に叩きのめされて怨まぬ孫も有るまい、如何に<いかに>不出來な孫にせよ 孫共は此<これ>を知らんのだらう 

直後に總理<総理>大臣に成る程の大物でも如斯<かくのごとし> 況や<いわんや>庶民に於て<おいて>をや 土地も屋敷も物資も操も、奪ひ放題であった 闇、賭博、傷害、強盗事件が多く、殊に<ことに>は、空襲や疎開で一時的に空いてゐる土地が片端から強奪された 今、朝鮮人が駅前の一等地でパチンコ屋や焼肉屋を営業してゐるのは、皆、あの時奪った罹災<り災>者の土地だ。

其でも警察は手が出せなかった 歴代總理大臣等が絞首刑になって行く状況で、警察如きに何が出來よう 或日<ある日>、警察は何月何日を以て<もって>廃止す、再び登庁するを許さず、と命ぜられれば、其切り警察は消滅する 七百萬<万>の大軍を擁した彼の帝國陸海軍ですら、左様にして両總長 両大臣以下、自然廃官になった まこと、敗戦はかなしからずや 

堪りかねた<たまりかねた>警察が密かにやくざに頼み込み「濱松大戦争」になった訳だが、「小戦争」は日本中に頻發<頻発>した。最後の頼みの綱は聯合國<連合国>軍であったが、遂に<ついに>は其憲兵隊でも手に負へぬ非常事態に立ち至った。 

其で流石に米軍も腹に据えかね、日本本土全域の占領を担當してゐた米第八軍司令官アイケルバーガー中將<中将>が、關東と言はず關西と言はず、はたまた北九州と言はず、不逞鮮人活動地域に正規戦闘部隊の大軍を出動させ、街頭に布陣して簡易陣地を築き、重装甲車両を並べ、人の背丈程に大きな重機關銃を構へて不逞鮮人共にピタリと狙ひをつけ、漸く<ようやく>鎮圧した 我々は其火器の煌めき<きらめき>を間近に見た 

此時、聯合國軍總司令官ダグラス・マックアーサー元帥の發した<発した>布告が、「朝鮮人等は戦勝國民に非ず<あらず>、第三國人なり」と言ふ声名で、此ぞ「第三國人」なる語のおこりである。だから、外國人差別用語な筈<はず>は無い 彼等自身、マックアーサー元帥以下、一人残らず皆、外國人ではないか 

聯合國軍總司令官は日本人に對してこそ絶大な権勢を振ったが、本國や同盟國、對日理事會<対日理事会>や極東委員會に氣を遣はねばならぬ外交センスの要る役職であった 何人にもせよ、敗戦國民以外を、声名發して迄差別なんぞする筈が無い

「第三國人」の語は、國際法に則って<のっとって>説いた技術的専門用語に過ぎない

近頃の報道人は歳も若く、當時の経緯や語感が全然判らないのだらう 知合ひの報道人幾人かに電話して、テレヴィにでも新聞にでも出て歴史の眞實<真実>を話して進ぜやう、と申入れたら皆、検討させて下さい、と逃げてしまった 眞面目<まじめ>に報道する氣は無いのかの

貴公、パソコン通信を遣って<やって>なさるさうぢゃが、インターネットとやらは随分と情報を發信出來て、幾百萬の人が見ると聞く 一つ満天下の正義の為に、今の話を發信して下さらんか
日本会議宮城県支部HP:掲示板過去ログの4月30日北斗星氏の投稿へ

上記引用文で述べられていた牛泥棒が福岡でもおきていた。当時の農業は機械化以前で農耕には牛が使われており、現在でいえばトラクターを盗むようなもので、食糧増産が至上命題な時期だっただけに非常に悪質だ。

「興安丸 33年の航跡」 森下研 昭和62年 新潮社


(終戦から間もないこの時期、食料不足が極度に悪化していた)しかし金さえあれば食料は、上原(駅員)のいる博多港駅近く、わずか200メートルほどのところにも溢れていた。

石堂川の川口には引込み線の鉄橋があるが、そこから上流へかけ岸側の水の上に、バラックが連なっている。小屋はいずれも川底に打ち込んだ杭の上に建てられていて、住むのは韓国人たちだ。

ここには、米はもちろん魚や缶詰など、当時の日本で手にいれることのできる食品は何でもあった。上原たちが普通ではまず口にすることもできない牛肉さえ、ふんだんに、かつ安く売られている。

夜、どこからともなく引いてこられた牛が、翌朝までには解体され、角つきの頭などが小屋の中でぐつぐつ煮られていたりする。牛は、たいていが近郊の農家から盗み出し、売られたものだが、この一角には警察官も容易に立ち入れない雰囲気があった。

(朝鮮へ引き揚げる船に乗るために)敗戦とともに博多へ集まってきた韓国人たちは最初の頃、少しでも港近くにいたいと博多港駅を半ば占拠する形で船を待った。彼らは駅舎の板壁をはがして煮炊きするなどの傍若無人ぶりだったが、上原たちはどうすることもできないでいた。

やがてアメリカ軍が進駐し、また引揚援護局が設けられるにしたがい、韓国人たちは近くの寺院などへ分宿するようになった。そのうち、目はしのきいた者たちが川沿いに住みつき、一種の租界をつくって商売を始めたのである。これが、興安丸(引揚船)がきたころの博多港界隈の状況だった。

韓国人たちはまた、ブラックマーケットなどで稼いだ金を、独特の方法で持ち帰る者が多かった。彼らの中には、古い自転車を担いで乗船する者がよくいた。本来なら自転車は、小荷物として船倉に積まなければならない。

それより自転車などを肩にしてタラップを登れば、転落の危険がある。ところが、そういって乗組員や立会いの警察官が制止しようとすると、誰もが、『おまえ、おれの財産を盗む気か』などと血相を変えてくってかかる。

それはじきに周囲の者たちに広がって騒ぎになり、かけつけたMP(進駐軍憲兵)が自動小銃を空にむけて威嚇射撃するまでおさまらない。アメリカ軍の進駐以来、港や引き揚げ船にはMPが警備のため配置され、また乗船するようになっていた。

韓国人たちが古自転車にこだわるのには、訳があった。操舵手の中野正助は戦前の関釜(下関―釜山間の連絡船会社)に入り19年に応召、復員してこの年から興安丸に再勤務を始めた。博多港で韓国人たちの乗船整理をしていたとき、その一人が自転車を海に落とすのを目撃する。

『船員さん、あの自転車を揚げてくれ!』男は、半狂乱になって叫ぶ。『とても無理だ』

中野が首を振ると、男はやにわにタラップから海へ飛び込みかける。それをようやくなだめて話を聞くと、自転車のタイヤには、チューブの代りに紙幣がぎっしり巻き込んであったのだという。(日本引き揚げに際し、GHQにより一人当りの持ち帰り金額が千円までに制限されていた。朝鮮引き揚げの日本人も同様で、莫大な資産が朝鮮のものになった。)

「秘伝少林寺拳法」 宗道臣 光文社(「逆説のニッポン歴史観」 井沢元彦 2000年 小学館より)


大きな駅に着いた時、大変なことが始まった。第三国の連盟の腕章を巻いた、あまり風体のよくない若者が、窓から無理やりに乗り込んできた。

周囲の人たちを押し退け、突き飛ばして場所をとり、氷が溶けて水の流れ出る臭い魚の箱をたくさん積み込んだのである。 総勢七人のその連中はまったく言語道断で、座っている者を追い立てて、全員が座り込んだ。
(中略)

それから少しして連中の一人が、「さあ、寝るとしようか」と言って立ち上がった。どうするのか見ていると、網棚の上の荷物を払い落とし始めた。棚の上に寝るつもりである。

立っている人間の方を踏み台にして、棚に這い上がったその男は、まだ場所が十分でないのか、足元の荷物を蹴り落とした。ところがその荷物が運悪く、子どもを抱いていた婦人の上に落ち、子どもに当たったので、火のついたように泣きだしてしまった。

それまで辛抱に辛抱を重ねていた私は、とうとう我慢できなくなり、つい無意識のうちに「無茶をするな」と大声で怒鳴ってしまった。

終戦後の三国人の所業を明らかにすると、コリア系団体と反日サヨクの執拗な抗議を受けることから、日本のマスコミではタブーとなってしまいました。現在新しく三国人の実態を知ることができるのは、台湾人の書いた本しかないというのが情けない現実です。

「台湾人と日本精神」蔡焜燦 2000年 日本教文社

(台湾出身の著者は岐阜陸軍航空整備学校奈良教育隊に所属していた)

昭和20年8月15日、終戦の詔勅下る。 山奥での作業中に年輩の応召兵が『敗けた!』と隊からの伝令を口にしたまま、呆然と立ちすくんでいた。

我々は何が起こったのかさっぱりつかめない。無理もない、玉音放送があることすら知らされていなかったのである。 ただ中隊長の青ざめた表情は自体の深刻さを物語っていた。

しばらくして、敗戦の事実が我々台湾出身生徒にも正式に伝達されたとき、悔しさと無念の気持でいっぱいになり、とめどなく込み上げる涙で頬を濡らしたことはいまでも鮮明に覚えている。無性に悔しかった。それは他の台湾出身生徒も同じ心境だった。

他方、朝鮮出身の生徒達は、その日から食糧倉庫、被服倉庫を集団で強奪するなど、したい放題のありさまで、我々は複雑な心境でただそれを眺めていた。

日本人を殴って、『戦勝国になったんだ』と威張りちらす者もいれば、『独立だ!』と気勢を上げる輩もいる。敗戦の報は、それまで一つだった”国民”を三つの国民に分けてしまったのである。

「敗戦の詔勅」が発せられた翌日の8月16日、水平射撃用に改修を終えた対空機関砲で上陸してくる米兵を迎え撃つべく和歌山に移動するとの伝達があり、四門あった砲の射手の一人を私が務めることになった。

だが、このときは正直いって心が揺れた。『また行くのか… 』、祖国のために殉ずる気持ちで出征したのだが、いまとなっては”生”への執着が顔を覗かせる。

この日の夜も朝鮮人生徒達が独立を叫ぶ傍らで、40名の台湾人生徒も小さな単位でひそひそと今後を話し合う光景が見られた。『俺達はいったいどうなるのか… 』 『我々は“中国”へ帰るみたいだ』 『それなら俺達も一等国の国民じゃないか… 』がっくりと肩を落とした日本人を気遣いながら、そんな会話が小声で交わされるのだった。

そして8月17日の夕方、連合軍の命令で我が隊の武装解除がはじまり、日本人は復員することが決定した。もちろんこれで例の”本土決戦”の計画も自動的についえた。

しかし残務整理は日本人事務官でこなせるものの、兵隊がいなくなってしまっては武器庫や飛行機などの警備ができない。そこで進駐軍がやって来るまでのおよそ二ヶ月間、学校、練兵場、格納庫、武器庫など、あらゆる軍の施設を我々40名の台湾人生徒が守ることになったのである。

『朝鮮人は信用できない。だから君たち台湾人が守ってほしい』そう言い残して去っていった上官の言葉を、これまで経験してきたもろもろに照らし合わせて了解した。

昭和20年10月、奈良教育隊に米軍が進駐してくると、我々もようやく施設警備の任を解かれることになった。
(中略)

昭和20年12月、連合軍の命令で台湾への帰還を命ぜられる。苦しいこともあったが、離れて久しい故郷台湾の地を踏める。そんな喜びに胸を膨らませ、私は引き揚げ列車に揺られた。

新聞は、近衛文麿元首相の自決を報じ、列車の中では戦勝国民となった朝鮮の連中が威張り散らしている。ああ、日本は本当に負けたんだ……目にするそんな光景が私に日本の敗戦を教えていた。

私は終戦の日をもって"戦勝国民"になったはずだが、やはり心の底でまだ自分は日本国民だという意識があり、複雑な心境で"敗戦"を思った。少なくとも、私は戦勝国民になったことを手放しで喜ぶことなどできなかったのだ。

心の切り替えができない私は、誰から見ても敗戦で肩を落とした日本人に見えたのだろう。また日本兵の軍服で汽車に乗り込んでいた私は、8月15日をもって急に威張りはじめた連中の嫌がらせを受けた。

座席の中に置いた新品の飯盒を朝鮮人に盗まれ、それを奪い返そうとすると、『なんだお前、朝鮮人をバカにするな!降りて来い!』と、たちまち数人に取り囲まれてしまった。

多勢に無勢、勝ち目はない。こうなっては『すみません、私の記憶違いでした』と謝り、難を逃れるしか術はなかった。

それから佐世保に到着するまでの30時間、連中は執拗に私を含め多くの日本人乗客をいびり続けた。

若い女性がトイレに行こうとすると通路を塞ぎ、次の駅で窓から降りるよう指示するなど、この連中のあまりにも情けない行状を、私ははらわたが煮え繰り返る思いで眺めていた。ただ黙って見ているしかなかったのである。
(中略)

佐世保キャンプで私は面白い場面にも遭遇した。あの引き揚げ列車の中で、私を含め敗戦で意気消沈する日本人をいびり続け、肩をいからせていた朝鮮人たちが、「中華民国台湾青年隊」の腕章をつけた我々におべっかを使って擦り寄ってきたのである。

それは中華民国が連合軍の一員であったからに他ならない。弱い者には威張りちらし、強い者には媚びへつらう、そんな彼らの極端な習性を目の当たりにした思いがした。なんとなくいい気がしない。

とはいうものの、大国の狭間で生活してゆかねばならなかった地政学的な環境が、そうした一個の民族性を育んだのだから、いまさらそれを責めても仕方なかろう。

日本人の困窮を尻目に闇市でのしあがる三国人・警察権を無視した三国人


「白い手黄色い手」 1956年 毎日新聞社(「韓国のイメージ」鄭大均 より


「もう日本人じゃない」日本降伏の直後、マッカーサー元帥が厚木に乗りこんでくると、まっ先にこう叫び出したのは在日六十万の朝鮮人だった。

彼らの多くは戦前出かせぎのため日本に渡ってきたか、あるいは戦時中軍部の徴用で連れてこられたもので、内地における生活がみじめだっただけにこの強気が一度に爆発した。彼らは敗戦国にのりこんできた戦勝の異国人と同じように、混乱につけこんでわが物顔に振舞いはじめた。

米でも衣料でも砂糖でもモノが不足していた時代に彼らは経済統制など素知らぬ顔でフルに"モノ"を動かした。当時絶対に手に入らなかった純綿のハダ着や雑貨、菓子類、ウィスキー、外国の医薬品など彼らのヤミ市では簡単に買うことができた。ヒロポンや密造酒が集散されたのも主としてそこだった。ゴミゴミしたマーケットから金持が続々と生れていった。

完全な無警察状態……。そのいい例が昭和二十四年春、東京深川でおこった枝川町事件である。朝鮮人四人組が月島の織物問屋から純綿八十二反を盗み出して巨利をせしめた。

犯人の身もとがわかり、深川署の刑事ふたりが逮捕状をもって……出かけたところ、……逆に”不審尋問”され、袋だたきの目にあった。当時の朝鮮人の鼻息がどんなにすさまじかったか、容易に想像できる。”見まい、聞くまい、振りむくまい”深川署の刑事たちはそんな言葉で自分たちの無力を嘆じあったという。

三国人の暴力から日本人を守ったのは警察官ではなくヤクザだった。

「大阪・焼跡闇市」 昭和50年 大阪・焼跡闇市を記録する会編 夏の書房


(戦後の大阪で)実力制覇をほしいままにした集団に、土地を不法占拠したまま店をはる、暴力的な闇商人の一群があった。彼らは戦前の繁華街、梅田、難波、心斎橋筋をはじめ、市内各地の焼跡に一夜づくりのバラックを構え、人の私有地であってもその管理人や地主の承認なしに家を建てていった。

そして店をはり、地主が建物の取り除きや立ち退きを要求すると逆に法外な立退き料や賠償金をふっかけたり、実力沙汰で暴行脅迫したのである。また取引をめぐっても、恐喝・暴行による強盗まがいの不法が絶え間なかった。

まさに恐怖と隣り合わせの無法地帯であり、おまけにこの闇商人の中に、当時三国人といわれた台湾省民や中国人・朝鮮人が加わっていたことが、民衆の感情をよけい複雑にさせた。

元北区・曽根崎防犯部長はこう回想する。『敗戦の傷跡もいえない曽根崎で、今日もまた、同胞一人が三国人の手で後ろ手にしばられ街頭を引きずられて行った。明日はどうなることか、町の人たちは誰もがこの情景をながめて、歯をくいしばり涙をためて見送っていた。』(「そねざき」曽根崎防犯協会 昭和41年)
(中略)

このような暴力化した社会にどう対処するか、暴力と強奪から民衆の一所懸命の生活をどう守りきれるか――この二点こそ戦後警察に求められ、期待されるところであった。

だが、こと「暴力」に対して警察・取り締まる側の姿勢には、どこか徹底を欠くものがあった。

面前で集団暴行を受ける民衆がいても、事をおこさぬ場合が再三あったし、敗戦直後、日本人業者と三国人業者の利益をめぐっての騒ぎが頻発した時、警察は紛争鎮圧の用兵として、暗黙ながら暴力団の実力をアテにしている。

山口組三代目 「田岡一雄自伝・電撃編」 1982年 徳間文庫


終戦当時、国内には強制連行された人を含めて朝鮮人、中国人は200万以上いたが、とくに兵庫に多く、昭和18年に13万5000人、47都道府県の7パーセント強を占め、大阪、東京につぐ3位という勢力をもっていた。
(中略)

彼らは闇市を掌握して巨大な利益をあげ、徒党を組んでは瓦礫と焦土の神戸の街を闊歩していた。通りすがりの通行人の目つきが気に入らぬといっては難くせをつけ、無銭飲食をし、白昼の路上で婦女子にいたずらをする。

善良な市民は恐怖のドン底に叩き込まれた。こうした不良分子は旧日本軍の陸海軍の飛行服を好んで身につけていた。袖に腕章をつけ、半長靴をはき、純白の絹のマフラーを首にまきつけ、肩で風を切って街をのし歩いた。

腰には拳銃をさげ、白い包帯を巻きつけた鉄パイプの凶器をひっさげた彼らの略奪、暴行には目にあまるものがあった。警官が駆けつけても手も足もでない。「おれたちは戦勝国民だ。敗戦国の日本人がなにをいうか」。

警官は小突きまわされ、サーベルはへシ曲げられ、街は暴漢の跳梁に無警察状態だ。さらにこれにくわえて一部の悪質な米兵の暴行も目にあまった。
(中略)

彼らの行為を見聞きするごとにわたしは怒りにふるえていた。彼らを制止し、阻止する者は一人としていないのだ。警察は無力化し、やくざは手をこまねいて目をそらす。いったい、だれが街を自衛すればいいのだ。
(中略)

一瞬、ぎくりと立ちどまり、悲鳴のあがる方角に走った。途中で四、五歳の女の子が泣きながら夢中で駆け寄ってきた。「どないしたんや」「おかあちゃんが、おかあちゃんが」少女は私に泣きじゃくりながらしがみつく。

この世のものとは思えぬ女の狂気じみた悲鳴がきこえつづけていた。「ここにいるんやで。ええな」私は少女をその場において一目散に走った。少女の母親は木立の中で数人の男に犯されていた。飛行服(朝鮮人)の男たちだった。

「一億人の昭和史 ―日本占領3 ゼロからの出発―」 1980年 毎日新聞社


昭和25年当時、国際港神戸はまた日本一の密貿易の根拠地でもあった。巨大な国際密輸シンジケートがいたるところ張り巡らされ、瀬戸内海へ何十隻もの密輸船が出航…
(中略)

ところで、当時の神戸の密貿易は、大半が台湾、朝鮮などの旧外地との間で行なわれていた。神戸が第三国人の根拠地となっており、東京、横浜に比べ旧外地に近かったこともあり、密輸量は日本一。
(中略)

国際密輸組織の中核は一貫して第三国人だった。

敗戦後、神戸に三宮駅から神戸駅まで約2キロに及ぶ全国に例をみない大ヤミ市場ができたが、密輸品の多くはここでさばかれた。

そこに大きな勢力を張っていたのが数万人の第三国人で、戦勝国意識を誇示するため腕章をつけ、日本の警察権を一切認めようとしなかった。

こうした特権をフルに利用、密輸団を操る黒幕になった三国人もでた… 黒幕だった三国人のなかには、密輸の巨利で今は正業につき、実業家として幅をきかしている者もいるといわれる。

敗戦後の社会の混乱に乗じて徒党を組み、戦勝国人なりと称して日本の法律を無視し統制物資のヤミ売買、強・窃盗、密造酒や覚せい剤の製造密売、土地建物の違法占拠など不法行為をほしいままにし、戦後の混乱を拡大したのである。

「朝日新聞記者の証言5 -戦後混乱期の目撃者-」 菅野長吉 昭和56年 朝日ソノラマ


(引用1) 「あらゆるものはヤミに走った」といってもいい過ぎではなかった。戦時中は「国家総動員法」という基本法があって、あらゆるものが総合的に統制運用され、子どもにまで「欲しがりません、勝つまでは――」といわせた。それが20年12月20日に廃止されると、あらゆる物資がせきを切って暴騰した。

都市の人口は日毎にふくれあがり、食糧不足から餓死者も出る有り様だったから、抑えようがない。東京では、むしろこれに拍車をかけたのが、警視庁が21年1月21日からはじめた主食とその加工品の取り締まり強化である。当然、非合法商法が横行しはじめた。

しかも、当時の取り締まり当局には、これら非合法行為を防止するための物もカもない。これに眼をつけたのが、戦勝国人なりとする一部の第三国人の〃特権〃乱用と、裏街道を生きるテキ屋集団である。

彼らは正常ルートを通すべき物資を巧みに横流しし、第三国人はその立場を利用してあらゆる物資を動かす。場所には困らない。大都市の要所はほとんど焼け野原となっていたから、集団のカによれば簡単に占有できた。

こうして東京では、上野、新橋、新宿、池袋、渋谷などに急造のマーケットが建った。ヤミ物資の市〃ヤミ市〃である。ここには、配給では手に入らないあらゆる物資が公然と氾濫したから庶民は目の色をかえて集まった。

ヤミ商人たちは、禁制品や統制品を公定価格の10倍から20倍という法外な値段で暴利をむさぼったから、やせ細る庶民とは反対に、日に日に肥え太り、集団もその環を拡げてゆく。繩張りを主張する集団間の争いもはげしくなり、治安問題となってきた。

手を焼いた警視庁は、ヤミ市の〃自治強化〃のため地区単位に組合を結成させたが、これがかえってボスを台頭させる結果になり、勢力を助長させた。新宿の尾津組、新橋の安田組などは、組合員と称する配下が3000とも4000ともいわれた。

また当時は第三国人に対する警察の捜査権も確立していなかったから、第三国人は勝手なことができた。一時期、この大集団に対して、確かに警察は無力で、ヤミ市の治安はそれら集団の自治に委せざるをえない事情にあった。彼らが自らを〃夜の警察〃と自負していたのもこういうことからである。



(引用2) 戦後日本の特殊な存在として第三国人というのがあった。今やこの呼称は全くの死語となったが、戦後混乱期には国民生活に大きな影響を持った。

第三国人というのは、日本のポツダム宣言受諾によって、日本の帰属から離れることになる朝鮮、台湾などの出身者で、戦前から日本に居住していた人たちに対して、講和条約の発効まで一般的につかっていた非公式な呼称で、この人たちは日本人てはないが、かといって外国人でもないという特殊な立場にあった。

講和条約発効までの限られた期間ではあったが、これら第三国人に対しては、日本の裁判権行使もあいまいだったところから、彼らの一部には、治外法権があるかのような優越感を抱かせ、社会の混乱に乗じて徒党を組み、統制物資のヤミ売買、強・窃盗、土地建物の不法占拠などの不法行為をほしいままにし、戦後の混乱を拡大した。

富坂署襲撃事件

昭和20年も押しつまった12月26日と29日の両日、場所も同じ小石川区(現文京区内)駕籠町の路上で、けん銃強盗事件が連続して発生した。

警視庁捜査一課と富坂署が合同捜査をし、都下三鷹町の朝鮮人3名を容疑者として逮捕、富坂署に留置した。

翌年1月3日、トラック3台に分乗した朝鮮人約80名が同署に乗りつけ「朝鮮人を留置するとはけしからん、即時釈放しろ」と要求、拒否すると、一団は署内に乱入、電話室を占拠して外部との通信連絡を断ったうえ、いす、こん棒などをふるって署員に襲いかかり、ついに留置中の朝鮮人を奪取して逃走した。

警視庁は直ちに犯人捜査に当たったが、第三国人に対する捜査権の不明確さから不徹底なものになり、捜査員を歯ぎしりさせただけで終わった。しかしこの事件は、第三国人にさらに不当な自信を持たせる結果となり、「警察何するものぞ」とする不正行為を続発させることになった。
(中略)

ヒロポンとカストリ

覚せい剤、密造酒となると、これは第三国人の独壇場といった感があった。ヒロポンやゼドリンといった覚せい剤は、戦時中、軍需工場で作業能率を高めるために使われていただけで、一般には手に入らないものだったが、終戦によってこれが大量に放出されたことから、街娼や博徒、芸能人が使いはじめ、中毒者が増えていった。

悪化した中毒患者は幻覚、半狂乱といった症状を呈するようになり、これが原因で各種の犯罪を引き起こす事例が多発し、治安上の問題に発展した。

特に第三国人らが製造するヒロポンは家内作業で密造するため不潔で、また患者らの要求に応じた即効性のある粗悪品だったから、品質の点でもさまざまな問題があった。

覚せい剤密売の巣窟とみられていたのは、台東区浅草松濤町の部落で、約130世帯、230人の住民のうち約半数が朝鮮人で、覚せい剤の売りさばきを主な業としていた。厚生省は23年7月、これらの覚せい剤を「劇薬」に指定し、自由販売を禁じた。

しかし需要は増加する一方だったところから第三国人がこれに目をつけた。なかでも製造容易なヒロポンの密造販売を組織的にはじめたから、覚せい剤の害は急速に一般青少年層にまで拡がっていった。

この覚せい剤とともに大流行したのがカストリの密造である。米不足からの酒不足に悩む大衆は、この安い酒に群らがった。

工業用アルコールを主原料とした〃原子爆弾〃とよばれた酒の弊害が叫ばれはじめた当時で、このカストリはたちまち大衆酒場の寵児(ちょうじ)となった。

家内作業で容易に密造できることが、製造量を激増させた。これに対し警視庁の取り締まりは、執拗に波状的におこなわれた。われわれもこれらの密造密売の実態を報道するため、何度もこれに同行したが、部落総掛かりの防衛体制にはおどろくべきものがあった。

女、子どもも部落の監視員で、警官の出動を知ると、幼い伝令が金切り声で飛び回る。ドブの臭いのする物置小屋から密造桶が発見されると、泣き叫びながら警官に武者ぶりつく。

摘発されたカストリは直ちに現場の路上や溝に棄てられるが、その濃密なにおいで部落中はむせかえるばかり。まさにカストリ戦争、ヒロポン戦争だった。ヒロポンの密造所があるという伊豆の山奥に行ったことがある。

ほとんど小道もない山奥に、二つ三つと小さな小屋があり、炭焼き小屋のように煙をあげている。小屋の中には蒸留器らしいものがあるだけ。追いつめられた第三国人らの、これが最後の砦だった。

「渡日韓国人一代」 金鍾在 述 玉城素 編 1978年 図書出版社

(著者の金鍾在は1916年渡日、戦後東京韓国学園初代校長をつとめた。)

戦後、一時に職を失った在日朝鮮人同胞は、生計を支えるために、いろいろな仕事にたずさわったが、そのうち数多かったものに酒の密造がある。

朝鮮の伝統的な手法による濁酒(マッカリ)の製造もあれば、旧日本軍隊の隠匿物資の工業用・航空用メチルアルコールを加工してアイデアル・ウィスキーと名づけて販売する者もあった。

そのメチル酒を飲んで生命を失ったり失明したりする騒ぎが頻発したため、日本治安当局も米進駐軍の力を借りて一斉検挙に乗り出した。手入れを受けた各地の朝鮮人集落は、たちまち蜂の巣をつついたような騒ぎとなった。警察に挙げられたり起訴されたりする者も続出した。

三国人の覚せい剤密造は警察の力により日本では壊滅したが、彼らが莫大な利益を手にする手段を手放すわけがなく、韓国を製造拠点として日本へ密輸を始め、我が国は再び覚せい剤に汚染されることになるが、驚くべきは日本人を食い物にして平気という韓国人の道徳観念である。

「シャブ!-知られざる犯罪地下帝国の生態-」 趙甲済著 黄民基訳 1991年 JICC出版局


(著者の趙甲済氏は韓国の新聞記者であった)1970年代、釜山で警察詰めの記者生活を送りながら、私は、シャブ(覚せい剤)がもたらす途方もない利ザヤに目がくらみ、灯火に飛び込んでくる虫のように密造・密輸に群がる数多くの犯罪者たちと出会い、興味を抱くようになった。

そして、日本の組織暴力団が背後勢力としてからみ、国際的な規模と機動性をもったシャブ犯罪の取材に興味をもちながら取り組んでみて、初めて問題の深刻さに気づかされた。

私は1984年1月、シャブ問題を取材するため日本へ出向いた。当時、日本で流れているシャブの大部分は韓国から密輸入されたものだった。日本の警察はシャブ犯罪を最大の社会問題として考え、その対策に総力を傾けていた。

わずか数十名の専従員をもって、数千人のシャブ犯罪者たちを追いながら、泥沼にはまりこみ、犯罪者たちの誘惑に乗ってもがき苦しんだりしている韓国の捜査の実情はあまりにも安易だった。

当時、韓国の政府やマスコミは、シャブ問題を「対岸の火事」を見物するように見ていた。

数百万人にものぼる日本の常習者たちが常用しているのは、ほとんど韓国で作られたシャブだったが、韓国では、常用者が少なく、日本への密輸出で多額の外貨を稼いでいるのではないかという安堵感が広がっていた。

当時の韓国のシャブ対策はあまりにも心もとなかったのである。シャブ事件の被告人の弁護を担当して「シャブ密造者は外貨を稼いでくる愛国者だ」と語る弁護士さえもいた時代である。
(中略)

70年代の韓国社会でシャブ密造・密売が巨大な"犯罪産業"に成長した背景は何だったのか?
(中略)

次にシャブ犯罪に対する「罪の意識の欠如」をあげざるを得ない。70年代、釜山で社会部記者としての生活を送った筆者は、こんな話を大真面目に語る警察官や公務員と多く出会った。

「率直に話そう。ヒロポンの密輸がなぜ悪いのか?日本の奴らに目いっぱいヒロポンを送りつけ、奴らみんなヒロポン漬けにすれば胸の内がスッキリするではないか」

「密輸といえば、密輸入を思い浮かべるのがわれわれの実情だ。だから、われわれも密輸出できるものをもっていれば自慢すべきことになるではないか。

ハハハ。ヒロポンだって密輸出して貿易の不均衡を改めなければ」「ヒロポン製造者愛国者論」を展開する弁護士の例をあげるまでもなく、こうした考えをもった人々が当時相当いたことは否めない事実である。

日本人が50〜60年代、対馬を対韓密輸基地として幇助・育成したことを思い起こせば、また、その対韓密輸のもとで育まれた韓国の密輸組織が、今度は逆に日本に向かってシャブをまき散らすようになった「ブーメラン現象」を確認するなら、そのことを内心、小気味よく感じる人々が現れもしよう。

シャブ犯罪に対するこうした「民族感情」が犯罪者と捜査官の行動に相当な影響を及ぼした可能性がある。この「民族感情」は、シャブ犯罪者を庇護する人々の罪悪感を薄れやすくし、取り締まり自体をを緩慢にさせる要因にもなっているからだ。
(中略)

コリアン・コネクションの根本を掘り起こすのも今回の取材の重要な目標だった。田村研究員の背景説明はかなり説得力があった。すなわち、第一次シャブ乱用時代に、在日韓国人が数多く関係したという事実である。

1954年のケースをみれば、検挙されたシャブ事犯のうち、韓国人は14%(在日韓国人は日本の人口の0.5%)だった。密造犯のなかでは55%、密売犯のなかでは21%が韓国人だった。

鄭銀宗ら多くの韓国人密造技術者たちが韓国に逃げ出し、密造技術を広めた史実は第一章で述べたとおりである。暴力団の世界にも韓国人は多い。

民族差別の問題を刺激するおそれがあるため、詳しいことは書き控えるが(中略)彼らは親戚のある韓国によく行き来することができ、シャブの密輸ルートを構築するのに有利な立場にいたというのが田村研究員の説明だった。

「コリアン世界の旅」 野村進 1996年 講談社


いま全国に約一万八千軒あるパチンコ店のうち、在日および帰化者二世・三世を含む)が経営する店の割合は、六割とも七割とも言われる。三軒に二軒は、オーナーが韓国・朝鮮系ということなのである。

パチンコ台の製造メーカーにも、最大手の「平和」を筆頭に、韓国・朝鮮系の経営者が名を連ねている。
(中略)

パチンコが全国に広まり大衆的な人気を博するのは、明らかに日本の敗戦直後からである。身近に安価な娯楽がなかったためという理由ばかりではない。

焼け跡闇市の時代の庶民を何よりも魅了したのは、景品に出されるタバコだった。配給制で常に不足がちなタバコが、強力な呼び水となって、戦後最初のパチンコ・ブームを巻き起こしたのである。

かくしてパチンコ店は雨後の筍のように増えていくのだが、当時、開店資金をどのようにして工面したのか、その経緯が在日自身の口からおおやけにされることも、私の知るかぎり絶無と言ってよかった。

『こんなことを話す人間は、ほかにおらんだろうね』 と前置きして、キムが語る。『闇市で儲けて、それからパチンコ(店経営)に走った人が多いんですよ。

じゃあ闇市で何をして儲けたかというと、結局、ヒロポンと贓物故買(ぞうぶつこばい)(贓物故買=窃盗、詐欺などの犯罪行為によって不正に得た物品を売買すること)だよね』密造した覚醒剤を売りさばいたり、盗品の横流しをしたりして、短期間のうちに大金を作り、それをパチンコ店開業に振り向けたというのである。

『そういううしろ暗い過去がなかったら、カネなんていうものはそんなに貯まらんですよ。うしろ暗い過去があるから、人にも言われんわけでね』
(中略)

戦争直後、韓国・朝鮮人がいくらかの元手ができるとすぐパチンコ店経営に乗り出したのは、日銭が確実に入り、その額がほかの廃品回収や焼肉といった職業よりも格段によかったからである。一日の売り上げだけを見ても、数字のゼロが一つかニつ多かったのだ。

戦後の混乱で他人の土地を不法占拠する三国人。これは現在まで引き続く問題です。


「在日韓国・朝鮮人に問う」 佐藤勝己 1991年 亜紀書房


当研究所の創立者故古屋貞雄理事長が生前手掛けていた仕事のひとつに東京都池袋西口都有地払い下げの問題がある。

私がその仕事を引き継ぎ、現在もやっているが、これは旧豊島師範学校跡地を無断占拠し、商売をはじめたいわゆる敗戦直後のブラックマーケットの区画整理にともなう有名な(都内の不動産業者で知らない人のいないほどの)都有地払い下げ事件である。

私がこの事件に関与して20年になるが、調べていくうちに、マーケット内の朝連系朝鮮人の「活躍」を知ることができた。ここで活躍したかなりの人達が、北朝鮮に帰国していったようである。

このマーケットの中は、治外法権だった。警察権力の手は到底及ばなかった。そこを取りしきっていたのが"ヤクザ"だが、ヤクザの中にも朝鮮人はいたし、そのヤクザ集団が、”チョウレン”と聞いただけで緊張し、身を震わすというほどの"実力"を持っていた。

この池袋西口と似た場所が、都内の上野、新宿、新橋などにあった。池袋西口でどのようなことが展開されたかは省略するが、結論だけを記せば、かつてそこに住んでいた日本人住民で、当時の朝鮮人を良く言う人は誰もいないというか、ほとんどの人が今でも敵意すら抱いている。

このような一連の諸事実の積み重ねの中で、日本人が在日韓国・朝鮮人に対し、右に記したような事を抱いていったことは、日本人の偏見と差別のみで説明できるような単純なことではなかろう。

当時、日本人に偏見や差別が、現在よりも比べようもなく多くあったのことは間違いないが、それをさらに裏付け補強する行動を繰り広げたのは、一部の在日韓国・朝鮮人たち自身ではないか。

1947年5月の外国人登録令の施行や、その後の指紋押捺制度の導入などは、このような政治的社会的背景の中から出てきたもので、日本政府や日本人の偏見や排外的な考えのみから生まれてきたものではないのである。

『けん銃片手に「戦争に負けたんやから、おまえの土地やない」と押しかけるやつまでおった』

「別冊宝島39 朝鮮・韓国を知る本」 1984年 JICC出版局


朝鮮部落訪問記        石井靖彦

下関港からほどない東神田町の一画にある大坪は、戦後ヤミの船でもいいからいっときでも早く故郷に帰ろうとした朝鮮人が、テント代りに仮住いするつもりで雨露をしのいだバラックが大きくなってできた部落だ。

刑務所のある所といわれていたこの地域に、日本人は寄り付かなかったが、朝鮮人は山すそを削り、空き地を利用して家を建て、日ゼニでも稼ぐつもりで豚を飼い、ニワトリを飼い、酒をつくった。

そして、当座の間だけでも子供たちに朝鮮の言葉と歴史を学ばせれば、故郷に帰っても慣れやすいと考えて、学校もつくった。このようにして、46、7年頃には世帯300以上の部落が形成されたのだった。
(中略)

「水島の朝鮮部落」、それは倉敷駅と水島コンビナートの中ほどに位置している。緑町・春日町の一帯に住む200世帯前後の部落をさす。

日本の敗戦もおしせまった1944年、三菱重工水島航空機製作所のあった倉敷市水島には、2000人にのぼる朝鮮人が連行されて、地下工場を造るために防空壕作りを強制されていた。

今は朝鮮部落になっている緑町・春日町には、同時に、工場労働者のための社宅が建設されていた。敗戦とともに地下工場建設も中断され、出来上がっていた社宅は行き場のない朝鮮人が占領する。

やがてただちに帰国することを取りやめた人たちが、舞鶴や下関から空いた"住宅"があるのを知って、親戚、知人を頼って集まってきたのだ。最盛期には2500人以上の朝鮮人が共同の生活の場を作った。

共同の密造酒工場があり、自留地というべき菜園を市から獲得した。さらに、全ての朝鮮人を生活保護世帯として認定させ、一括してお金、物品を市から受けて、朝鮮人は更に自主的に再配分した。

とはいっても日常的な働き口が見つからない大人たちは、酒づくりやブタ飼いなどで綱渡りの生活をしながらも、視点は本国に向いていた。1959年12月に北朝鮮への帰国が始まると、1000人近くの人が帰っていった。

毎日新聞 夕刊(大阪版)平成12(2000)年10月21日


取り残された街 今世紀中に解決を  伊丹市が払い下げ協議へ

防音、下水道工事対象外 大阪空港隣接 在日コリアンら在住国有地不法占拠状態

大阪空港拡張工事のため、戦前に朝鮮半島から強制連行されて来た労働者が住み始めた兵庫県伊丹市中村地区。空港に隣接し、現在も在日コリアンを中心に約300世帯が暮らすが、国の防音工事や下水道整備は一切行われないまま取り残されている。

大半が国有地で、国が「不法占拠状態で対象外」と判断しているためだ。旅客機のごう音や浸水被害に悩まされる暮らしに、伊丹市は「劣悪な生活環境を次世紀まで残すことはできない」として、集団移転や国有地払い下げを視野に、国と本格的な協議に乗り出す方針を固めた。

中村地区は同市東部にあり、大半の約3.3ヘクタールが運輸省の空港用地など国の所有地。伊丹市史などによると、空港拡張工事が始まった1940年前後に、当時日本の植民地支配下にあった朝鮮半島から多くの労働者が集められて寄宿舎などに居住。

戦後、その子孫や親類ら、全国各地から集まった在日コリアンたちが住み始めた。現在、約300世帯約500人のうち、韓国・朝鮮籍の住民が約8割を占める。

住民は早くから市や国に環境改善を要望。約20年前から、電話や上水道が整備され始めた。

しかし、国が74年以降、空港周辺7市の約8万5000世帯の民家に無料で実施した防音工事は対象外で、現在も計画すらない。滑走路から約200メートルしか離れていない家もあり、離着陸のごう音に悩まされ続けている。

また、他の市内全域で整備された下水道も、同地区だけは国の同意が得られず、整備を進められない。大雨の際は浸水被害も度々発生する。一方、地区住民は住民税や家屋の固定資産税などを市に納めている。

同地区自治会理事で、在日2世のチュ・オンソプさん(62)は「国有地に住んでいるのは事実で、複雑な気持ちがあるのも確かだが、歴史的な経過によるものだし、ここで生きていくしかない。騒音や浸水被害をいつまでも放置されては困る」と訴える。

市は、年内には国と本格的な協議を始めたいとして、事務レベルで調整中。浜田正義助役は「伊丹が戦後ずっと抱えていた問題で、今世紀中に解決に向けて動きたい。国や住民とも知恵を出し合いたい」と話す。

一方、運輸省大阪航空局は「短期間で答えが出る問題ではないが、どういう解決策が考えられるのか、市と話し合いたい」としている。

ウトロは在日コリアンの土地トラブルで象徴的なものです。下は在日の立場に立ったものです。

「Q&A 在日韓国・朝鮮人問題の基礎知識」 仲尾宏 1997年 明石書店


京都府宇治市に「ウトロ」と呼ばれている地区があります。戦争中、ここに京都軍用飛行場が建設されようとしていました。1940年に着工し日本国際航空工業(日産車体工機の前身)が事業を請け負っていました。

この飛行場建設は資材不足などで工事が遅れ、敗戦の日まで完成をみることがありませんでしたが、その建設工事におよそ1300人の朝鮮人労務者が働いていました。

「ウトロで飛行場の建設をすれば徴用を免れる、と聞いて移りました。昭和16年です」 解放後は「もちろん帰りたかった。でもお金がありません。向こうにも生活できる家や土地はありませんでした」
(中略)

解放後、仕事から放り出されたウトロの人々はウトロ周辺で仕事を探す一方、飯場を自力で修理、改修または増築して家族がなんとか住めるようにしてきました。
(中略)

ところが87年3月に、土地は日産車体工機から西日本殖産の所有に帰していたのです。西日本殖産はこのウトロの土地を第三者に転売しようとして、建物解体業者を使ってウトロの建物・住居の実力解体に取り掛かろうとしました。

そして住民に対して土地所有権に基づき総面積4400坪の建物収去土地明渡請求を京都地裁に提出しました。1989年2月のことです。 住民たちはこのときから強制立ち退きの恐怖とともに裁判所で被告の立場に立たされることになりました。

「悔しいのは、なぜ今ごろになって出て行けといわれるのか、ということ。裁判所に呼ばれて、被告にされて、日本人が半分でもいたら、こんな仕打ちは出来ないはずです」

「ここは朝鮮人たちの命の土地や。みんないっしょに苦しんできたんや。守るためやったら、立ち退きさせようとする業者のブルドーザーの前でも座りこむわ」ウトロの人々の怒りは爆発しました。そして事態を知った日本人市民の支援活動が始まりました。

「地上げ反対!ウトロを守る会」が結成され、ウトロの問題は単に住民が土地売買紛争に巻き込まれたということではなく、日本の朝鮮侵略、植民地支配がなければ起きなかったこと、戦後、この支配と歴史の清算がいまだに行われず、政府や行政もこのことを放置してきたことに原因があることを宣言しました。

「別冊一億人の昭和史 日本植民地史1朝鮮」 1978年 毎日新聞社


白服を着た国 梅田正 (元平壌毎日新聞編集長)

李朝以後の郷土的細民として「土幕民」というのがあります。旧来の身分的、階級的なものでなく人種的差異があるわけではないのです。

土幕民は、何らかの事情から生活に窮した細民(貧民)が、生活の便宜や職を求める便宜上とかで、京城、平壌、釜山その他都市周辺に集団的生活を営んでいるのです。

求める職業もほとんど技術を持っていないため、日雇人夫、擔軍(チゲといって、背負子を背負って小荷物の運搬を若干の賃金で行うもので、いわば街中の赤帽で街辻に屯して客を待っている)に従事し、細民中の最下層の悲惨な社会層を代表するもので、これらは公的機関の救済を待たねばならないのです。

もともと幕とは、家、小屋という語彙からきている特殊細民なのです。彼らは公有私有の区別なく空き地に勝手に集団で掘っ立て小屋掛けする、つまり不法占拠集団なのであります。

多くの暴動事件に積極的に関与していた在日朝鮮人


戦後日本に居残った朝鮮人の中に共産党系の者が多数いた。

「韓国・北朝鮮総覧1984」 1983年 原書房


(戦後間もない時期、朝鮮人半島引き揚げ者が次第に減少していったことについて)この原因について篠崎氏は「朝鮮内における政治上、経済上の不安定から帰国後の生活が不安であること、コレラ病流行、これらの情勢が誇大に朝鮮人間に伝えられたこと、携行金品に制限があったこと」などをあげている。

さらに日本赤十字社では「その大部分は日本共産党が扇動したものである。日本共産党は戦時中完全に弾圧されていたが、連合軍の進駐とともに解放され、当時の社会事情を利用して急激にその勢力を増していった。

1946年2月、金天海日本共産党中央委員(在日朝鮮人)は、その機関誌「前衛」第1号に、"在日朝鮮人は日本に定住し革命に参加せよ" という指令を載せ、日本政府が引き揚げの努力をしている最中にこれに反対する態度をとった。」(一部在日朝鮮人の帰国問題)と、その引揚げ者減少の理由を指摘している。

金天海は在日朝鮮人のカリスマ的指導者で彼の影響はすこぶる大きかった。宮崎学著「不逞者」に登場。日本共産党の尖兵として騒擾(そうじょう)事件を起こす。当時、共産党は一国一党の時代で在日朝鮮人が多数参加していた。

「体験で語る解放後の在日朝鮮人運動」 姜在彦 1989年 神戸学生青年センター出版部


(1951年1月に非合法的に結成された民戦に対する日本共産党の指導方針が出され)在日朝鮮人は日本の中の少数民族であり、日本革命の同盟軍であるとされたわけです。

したがって、日本革命を成し遂げることなしには、在日朝鮮人の問題は何一つ解決できないとされたわけです。だから我々は、日本共産党員として、まさに日本の革命をやることが、朝鮮の革命と在日同胞の地位向上に寄与することになるんだと考えたわけです。
(中略)

この時の在日朝鮮人の運動について書いたものに、鄭東文氏の「転換期に立つ朝鮮人運動」(日本共産党関西地方委員会、1949年10月)があります。この鄭東文という人は、共産党の民族対策部の人で、中央委員会のメンバーの一人でした。

「転換期に立つ朝鮮人運動」は、少数民族は独自の中央組織を持つ必要はない、各地域の組織に属して日本の組織と連帯し、日本の革命を遂行すべきだ、と言うようなことを述べています。

だから実際、朝連(在日本朝鮮人連盟)が解散させられたのち、皆地域の朝鮮人協会であるとか、学校のPTAにはいれ、ということが言われていました。

そしてPTAを革命化せよ、地域を革命化せよ、という、読み方によっては、朝連解散を喜んでいるようにも取れる方針でした。

だから、少数民族の組織というものはすべて末端の組織において日本人と連帯しながら、まず第一に日本革命を遂行するのに大一義的目標をおくべきだ、というものでした。

他方、民戦(在日本朝鮮統一民主戦線)は次第に公然化してきます。そして、非公然組織として祖国防衛委員会(祖防委)、その傘下に祖国防衛隊(祖防隊)が作られました。

当時の在日朝鮮人の組織の中ではこの祖防隊が中核的な役割を果たし、民戦はこの中核を包むオブラートのような組織でした。

祖防委は、

(1)日本が朝鮮戦争の基地になっており、戦争で使われる米軍兵器を修理していたことから、それを中止させ、しかも輸送を阻止する実力行動を行う。

(2)親子爆弾(北朝鮮に向けて殺戮兵器として使われた爆弾)が大阪、特に在日朝鮮人の零細企業でたくさん造られていたことから、これを阻止する、というような中核的なことをしておりました。

このような在日朝鮮人の動きがあった一方で、1951年10月、日本共産党は第五次全国協議会を開き、軍事方針を決定することになります。これにより、朝鮮人の祖防委と日本共産党中核自衛隊で、パルチザン闘争を準備することとなります。

それ以降、大阪では吹田事件、東京では宮城前の血のメーデー事件が起こることになります。デモ隊が流れ込んで宮城前を血に染めたこの事件ではかなりの人が負傷したり、逮捕されたりしました。

今でもあの時の写真を見てごらんなさい。先頭に共和国(朝鮮民主主義人民共和国)の旗が翻っています。警官隊の壁を実力突破する先頭に立ったのは朝鮮人なんです。それから名古屋の大須事件ですね。これらはみな、先ほどの方針から出ているわけです。みんな本気でパルチザン闘争をやるつもりだったわけです。

最近、宮本顕治氏が言ったところによれば、「中国共産党がこれを強制した」というわけですね。

中国共産党によれば、革命後まだ間もない時期であったので、アメリカの力が中国に集中するのを防ぐために、アジア各国の共産党にあえてこのような闘争を要求して、その力を分散させようとしたのでしょう。

当時アジアの共産党は、中国革命を守るのが国際主義的義務と言われていましたから。そこで日本も本気でやろうとしたわけです。

「韓国・朝鮮人と日本人」 若槻泰雄 89年 原書房


「朝連」と日本共産党

一般犯罪のほかに、在日朝鮮人に対する日本人の嫌悪感、警戒感を強めさせたものに、北鮮系の活発な政治運動がある。在日朝鮮人は終戦の秋10月、「在日朝鮮人連盟」という自治団体を結成した。

この団体は、当時在日朝鮮人社会の最大の問題であった本国への引揚げを主とし、日本人、朝鮮人間の摩擦防止、同胞の福利厚生などを目的としたもので、当初は社会事業団体的性格をおびたものであったという。

しかし、徳田球一、金天海らの日本共産党幹部らの政治犯がいっせいに出獄してこれを指導するにおよび、「朝連」は急速に民族主義運動、さらには革命的、暴力的傾向に傾斜していった。

もともと、朝鮮独立運動と日本共産党との関係は戦前から深いものがあった。労働者の解放、植民地の解放、そしてその連帯をモットーとする国際共産主義運動は、第二次大戦後各国植民地の独立運動に多くの実例を見るように、植民地解放運動に甚大な影響力をもっていた。

日本共産党の綱領にも「(日本のすべての)植民地の完全独立」がうたわれていた。日本の革命と朝鮮の独立は一体のものと理論づけられていたのである。

「朝連」の左傾に反対するものは、これを離脱して、この年11月、「朝鮮建設促進青年同盟」を結成した。翌46年11月には「在日朝鮮居留民団」と改称し、今日の、在日本大韓民国居留民団へと発展した。

しかし当初は「民団」の勢力は徴々たるもので、「朝連」は在日朝鮮人の7〜80%を占め、強力な活動を展開した。

だが暴力的不法事件を続発させたため、「暴力主義団体」として、1949年9月には「団体等規制令」によって解散させられ、金天海はじめ主要幹部は公職追放処分となって表面から姿を消した。

組織の基盤を失なった左翼系在日朝鮮人は1950年6月、折から勃発した朝鮮戦争を契機に、「祖国防衛中央委員会」と、その戦闘的実動部隊として「祖国防衛隊」を各地に設け、翌1951年1月には「在日朝鮮統一民主戦線」(略称「民戦」)を結成した。

「民戦」は日本共産党の完全な指導下に、「反米」「反吉田内閣」「反再軍備」の三反戦術を唱導し、その綱領自体にも「日本の主権打倒」をかかげたのである。

1951〜52年の日本共産党の極左武力闘争では、「民戦」=在日朝鮮人は常にその突撃隊の役割を果たしたといわれる。

『法務研究』にのった森田芳夫氏の論稿によると、1952年だけで北鮮系の日本警察に対する不法行為は134件にのぼり、当時「日本の国民の在日朝鮮人に対する警戒心は異常に高まった」のである。

騒動の自認

だが朝総連系の朝鮮人はこれらの騒擾(そうじょう)事件、反日運動を、日本の警察のデッチアゲと反論する。そこで彼らの機関紙(誌)の中から、暴動騒乱を彼ら自ら立証する、いくつかの記事の「見出し」などを掲げておこう。

「新朝鮮」(祖国防衛中央委員会の機関誌から)

○ 弾薬輸送列車を妨害

○ 軍需工場基地に果敢な工作 西日本全域で祖防闘争激発 竹槍で6里のデモ (1952.3.30)

○ 神奈川で税務署、軍倉庫を焼打ち!! (1952.4.15)

○ 某町では、警察署長に先制攻撃をかけ、警察署の机を、持っていた斧でたたきながら……婦人たちも米原駅公安室に押しかけて公安官のネクタイを締め上げながら、「お前達が強制追放列車を送り、武器輸送を護衛するけだもの野郎だ……」と吊るし上げた。(1952.5.20)

○ (警官は)吊るし上げられ、コソコソと逃げ出した。これをみた一同胞青年は、「逃がしてたまるか」と4町も追いかけ、奴らをどぶの中に突き落とし、上から馬乗りになってコテンコテンに叩きのばした。一方、同胞は夜、約50名が本署に押しかけ…… (1952.7.5)

○ 火炎ビン飛ぶ中で大村収容所を再攻撃

○ 所長の顔は傷だらけ 目黒婦人実力で愛国者奪還 (1952.7.15)

○ 雨をついて枚方兵器廠に進出 2000トンプレスを爆破 (1952.7.20)

武闘の果て

このような武装闘争の連続は1954年にはいると様変りした。前年3月のスターリンの死以後、朝鮮戦争の休戦、ジュネーブ会議の開催とつづき、国際共産主義運動は、その過激な革命主義の矛を一時収めたからである。

日本共産党も運動路線を変更し、「日本と朝鮮の国交正常化を実現し得る新組織をつくれ」という非公然通達を流した。

この結果、民戦は解散し、翌1955年には「在日朝鮮人総連合」が結成され、この組織は、いわゆる「朝総連」として今日も続いている。

そして朝鮮民主主義人民共和国の方針により、「朝総連」は「日本に存在する朝鮮公民として節度を堅持し、日本の内政には一切干渉しない」との方針を確立して、その運動もひとまず沈静化するにいたった。これまで、日本の内政に干渉してきたことを自認したわけである。

「日本の中の三十八度線」の著者李瑜煥氏は、この武装闘争について次のように述べている。

当時頻発した日共系暴力事件の前衛、尖兵として犠牲に供せられ、前科ものとして在日朝鮮人の犯罪率を高め、経済的に貧困化し青年学徒で勉学を中途で放棄しなければならなくなったものは無数で、その犠牲はあまりにも大きかった。そればかりではなく、今日の日本人の対韓国・朝鮮人観に、暴力的で粗暴だというイメージを植えつける大きな要因にもなっている。
(中略)

「朝総連」は、戦後の日本のほとんどの騒擾事件において共産党とともに主役を演じ、団体等規制令で解散させられた「朝連」の後継者であることは誰の目にも明らかである。

現に「総連」の議長韓徳銖氏は「朝連」の有力幹部であったという。朝鮮人は、自分たちだけが半世紀ばかり昔の日本人の悪虐な行為を忘れないつもりでいるかもしれないが、多くの日本人も、少なくとも日本政府は、わずか30年前、朝鮮人が日本国家を転覆する意図をもって暴動をおこし、革命を呼号したことを忘れてはいないのである。

朝総連系の主張していることには、それだけをとりあげれば一応もっともといえることも皆無ではない。しかし国際関係において彼らが置かれている立場、そして彼らがしてきたことを考えれば、彼らの議論は大部分その基礎を失うであろう。

暴動の実態・・・・・吹田騒乱事件の場合

「戦後事件史」 昭和57年 警察文化協会刊


吹田騒乱事件(昭和27年6月24日)朝鮮動乱二周年の「前夜祭」といわれた大阪府学連主催の「伊丹基地粉砕、反戦、独立の夕」は午後8時から豊中市の阪大北校グラウンドに北鮮共、学生、自由労組など約1000名が集って開かれ、集会は気勢をあげて終わったが夜がふけるとともにデモ隊は吹田市を中心に各所に分散出没し、出動した800名の警官を悩ませた。

デモ隊は阪急石橋駅に押しかけて"人民列車"を運転させて乗りこみ、吹田操車場になだれ込んで、警官から奪ったピストルを発射したり、派出所を襲って破壊したり、火炎ビンや硫酸を投げつけるなど暴行を働き、警官もピストルで応ずるなど双方に負傷者を出した。

大阪警視庁はデモ隊60名を逮捕した。負傷者は警官側が42名(内重傷6名)デモ隊は11名(内重傷6名)をだした。

この事件の詳細を追ってみる−

集会は24日午後11時20分に終わったが、学生500、朝鮮人600の参加者は解散せず、新聞社の写真班からフィルムを奪って火中に投げ報道陣を容易に寄せ付けなかった。

25日午前0時半竹やり、こん棒を持った約400名の学生、朝鮮人の一団が押し出し、午前一時ごろ阪急石橋駅になだれ込み……

三国人集団の過激な暴動に対して警察の力では治安の維持ができなかった。そのことが強力な武装を持つ警察予備隊(自衛隊の前身)創設の要因となるのである。

「戦後政治の証言」 宮澤喜一 1991年第1刷 読売新聞社


(昭和25年)6月25日、(翌年のサンフランシスコ講和条約につながる)講和交渉の前途を大きく左右した朝鮮戦争が起こる。

そして、戦争が始まってまもなくの7月8日、マッカーサーは吉田首相宛ての書翰で警察予備隊(自衛隊の前身)の創設を指令した。

その目的は国内の治安維持であったが、日本の防衛問題に一歩を進めるものであったことは確かである。

それまで国内の治安は米軍と、丸腰に近い日本の警察があたってきたのだが、第三国人の横暴などには警察も手が出せず、そのつど米軍をわずらわせていた。このため、あるていどの装備を持った治安力がほしいと考えていた日本人は少なくなかったのである。

「三国人」は本当に差別語なのか


『第三国人の商法 -日本人禁制の秘密を明かす-』 おぉ、すごいタイトルの本があったものだと、このページをここまで読んでこられた方は思うだろう。

「戦後焼け野原となった土地を不法占拠して、日本人の弱みにつけこみ闇市でボロ儲けした経緯が、白日の下に晒されているのか」とお思いだろう。しかし内容は、在日の成功商売であるパチンコ店、焼肉屋などの経営ノウハウを紹介したもので、闇市の話などは一切出てこない。

この在日韓国人の著者にとって「三国人」という言葉は、成功者というイメージのある言葉で、蔑称であるとの認識はいささかも感じていないようだ。この本が書かれた時代は差別語ではなかったのである。

「第三国人の商法 -日本人禁制の秘密を明かす-」 林浩奎(イムホーギュ)昭和48年(1973) KKベストセラーズ(ワニの本)




(著者の定義する第三国人、まえがきから)第三国人とは、すなわち "祖国を離れ、常に祖国の発展と近い将来の帰国を夢みながら、異国の厳しい環境の中で、激しいビジネス競争に身を置き、力強く生活を営んでいる"民族の集団である。

だから日本人のいう第三国人とは、日本で戦前戦後を通じて生活している在日韓国人、在日台湾、中国人などを総称していう言葉である。
彼らの大多数は第二次世界大戦前後の世界の混乱した状況の中において、日本での成功を夢みて海を渡ってきた人たちである。〔裏表紙の著者自身の広告から (著者は1943年大阪生まれの在日韓国人経営評論家)〕

本書は、過去数十年間、私の仲間達で公開することが禁じられていた現金商売の実践体験学である。それだけに私は、本書の刊行を何度もためらった。

しかし、あまりにもニッポンのサラリーマン諸氏が、われわれの一世や二世の商法を知りたがっているので、仲間から恨まれることは覚悟して、あえて公開に踏み切った。

本書には、第三国人と称せられている人物が、異国という悪条件の下で、ハダカ一貫から日本の夜の街を支配するまでに至った、数々の教訓がつまっている。

この彼らも十年前までは、あなたと同じスタートラインに並んでいたのだ。躊躇することなく一気に読破してみよ。必ず、随所に彼らの商法の真髄を読み取ることができるはずだ。

この本を手にとったあなたはすでに大富豪へのパスポートを99パーセントとったも同然、あとの1パーセントはあなた自身の"決断"にかかっているのだ。

以下は民族差別をあおる表現だとして、「民族差別と闘う団体」等から糾弾されたものである。この時期は「三国人」という言葉そのものより描写内容を問題としていた。

「朝鮮人差別とことば」 内海愛子、梶村秀樹、鈴木啓介編 1986年 明石書店


○「少年サンデー」 1970年8月30日号 梶原一騎原作「おとこ道」
『最大の敵は、日本の敗戦によりわが世の春とばかり、ハイエナのごとき猛威をふるいはじめた、いわゆる第三国人であった!!』  『殴られる前に殴るんだ 三国人どもを』

○「ヤングジャンプ」 1980年10月 手塚治虫原作「どついたれ」
『ここはこれからタップリ血だまりができるんだ。三国人との決戦でェ!』『三国人とのでいり』といった言葉がひんぱんにでてくる。

○「朝日新聞記者の証言5」 1981年8月 朝日ソノラマ発行
『第三国人』が『いかに法を無視し、警察を軽視していたか』『彼らの一部には、治外法権があるような優越感をいだかせ、社会の混乱に乗じて徒党を組み、統制物資のヤミ売買、強・窃盗、土地建物の不法占拠などの不法行為をほしいままにし、戦後の混乱を拡大した』『覚せい剤、密造酒となると、これは第三国人の独壇場といった感があった』第三国人という呼称は『今やまったくの死語になった』と書いている。

○「ビッグマン」 1983年1月号 ダイエー中内社長のインタビュー
『その当時は(神戸が)第三国人に支配されていまして… 』

○「中内功の限りなき挑戦」 1984年5月 大下栄治著 講談社発行
『当時、神戸のブラックマーケットではいわゆる"第三国人"と呼ばれていた中国人や朝鮮人が幅をきかせていた。「戦勝国民」という腕章をして、暴れ放題… 』

ほとんど死語となっていた「三国人」という言葉を差別語に指定したのは、三国人と呼ばれた戦後の在日コリアンの不法行為を隠蔽したい勢力が、差別語とセットにして言論の場から消し去ろうとしたためだろう。まさに言葉狩りである。



inserted by FC2 system