南京大虐殺を捏造した朝日新聞と協力した日本社会党


日本は中国を安定した国にしたかった


▲南京占領2日目の写真
1937年12月15日、南京城内難民区、
佐藤振壽・東京日々新聞(現在の毎日新聞)カメラマン撮影
参考:昭和12(1937)年12月13日が南京陥落


▲(朝日新聞)南京占領5日目の写真(第1回の写真特集)
タイトルは「平和甦る南京《皇軍を迎えて歓喜沸く》」
「17日河村特派員撮影」松井軍司令官を先頭に入城式があった日

占領5日目に早くも露天商が出て、兵隊が銃も持たないで買い物をしている。

(1)兵隊さんの買い物(右)
(2)皇軍入城に安堵して城外の畑を耕す農民達。(中上)
(3)皇軍に保護される避難民の群。(中下)
(4)和やかな床屋さん風景。(左)


▲(朝日新聞)昭和12(1937)12月25日(第3回の写真特集)
撮影は23日頃(南京占領10日目頃の写真)
タイトルは「南京は微笑む《城内点描》」

(1)玩具の戦車で子供達と遊ぶ兵隊さん(南京中山路にて)(右上)
(2)戦火収まれば壊れた馬車も子供達の楽しい遊び場だ(南京住宅街にて)(左上)
(3)皇軍衛生班の活躍に結ばれて行く日支親善(難民避難区にて)(右下)
(4)は、平和の光をたたえて支那人教会の庭からもれる賛美歌(南京寧海路にて)(左下)
(林特派員撮影)


▲(朝日新聞)昭和13(1938)年2月13日(第5回の写真特集)
タイトルは「五色旗の下に《南京復興の足取り》」写真は、全員汗と油にまみれて、日中の技術者が一体となって水道と電気の復活に取り組んでいる姿である。

(1)復興の南京では水道も復活した。日支水道班が送水ポンプを動かしています。(右上)
(2)送水鉄管の出口(右下)
(3)揚子江の水を引き、先づこの沈殿漕に入れて浄化する(左上)
(4)露店街にも春景色(左下)
(南京 林特派員撮影)

南京大虐殺 を「事実」だと誤解してはいませんか?


みなさまの中には、いわゆる、中国共産党が盛んに喧伝して来た「南京大虐殺」について「実際に有った」。または、三十万人の大虐殺は信じられないが、「それに類する事件はあった」と。

あるいは、南京大虐殺は元々存在しなかった、と明確に認識しておられる方もおられることかと思います。

それぞれに、認識が違う。そうした事例は、何も"南京事件"に限ったことではなく、いわゆる、他の対日毀損に対しても、同様に分かれているケースもあるやに伺っております。

しかし、個々の認識はあくまで「認識」であり、それが「事実」とは異なる「認識」であれば、直ちに、それまでの「認識」の修正をした方が良い。これが物事の認識に不可欠な筋道です。

「認識」はいくつもあり得るとしても、「事実」は一つしか存在していないからです。また、事柄が「事実」か、否か。判別が困難な場合は、事の次第や時系列的に洗い直し、客観的に、その経緯から「正」「誤」をもとに判別する方法が有効です。

以降の事例について、その視点から指摘してまいります。

「南京大虐殺」については、そもそも、南京での局地戦は存在しましたが、「南京大虐殺」は存在しなかった。これが唯一の「事実」です。単に、「個」の認識レベルに終わるものではなく、紛れもない「事実」です。

事の経緯はこうです。

昭和四十七年(一九七二年)の「日中国交回復」に先立つ昭和四十五年(一九七〇 年)に、当時の朝日新聞社長の広岡知男氏の指示で、中国共産党の「文化大革命」礼賛記事を紙面に掲載した。

中国共産党の機関紙「人民網(人民日報)」との提携開始もこの時期と思われます。また、同時期に、公明党訪中団と中国共産党による「共同声明」発行とも符合している点が興味深い点の一つと謂えます。

朝日新聞は、この文革礼賛記事を皮切りとして、翌年 昭和四十六年(一九七一 年)から「南京大虐殺」という虚構宣伝のキャンペーンを開始したのです。

同紙記者の本多勝一氏による「中国への旅」を連載し、その虚構は広がりました。

この件の朝日新聞は、メディアとして在るべき検証を悉(ことごと)く省いて報道し、当時は、新聞は正確たり得る情報源と信頼していた日本国民に対し、あらぬ「罪悪感」の一大流布に成功したと謂えます。

無論、ネットがある時代ではなく、当時の日本国民にとって新聞やテレビは、今にもまして影響力を持つ情報源であったことは謂うまでもありません。

いわば、「まさか新聞が嘘を書かないだろう」、その善意の認識が今よりなおも支配的だった時期でのことです。その時代に、新聞を疑えるほどの視線を成熟させることは不可能であり、その社会的な「盲点」を衝くかのようにして、これらの虚構がまたたく間に広まったのです。

朝日新聞の大報道の「真」「偽」や如何に。

そこで、経緯から「正」「誤」を判別すれば、昭和五十三年(一九七八年)に、日本の中学校教科書に初めて「南京大虐殺」が記述されるに至っていますが、しかし、同年までの中華人民共和国の教科書には「南京大虐殺」の記載は無かった。

もっと指摘すれば、事件があったとされる一九三七年から実に四十二年間という長期間にわたって「中共の教科書」にさえ「南京大虐殺」は記載されていなかったのであり、はるかに歳月を経たこの年になって、朝日新聞の捏造報道をもとに「日本の教科書」が先に載せたことになります。

「南京大虐殺」が仮初(かりそ)めにも事実であるとしたら、中華人民共和国本来の特性からすれば、もっと早い時期から、中国共産党政府が騒ぎ立てていても不自然ではなかったはずです。

この経緯をもとに淡々と検証すれば、その背景には、これなら「使える」と言わんばかりの、上述の朝日新聞などを通じた対日プロパガンダの「先行」があり、それ自体が、むしろ、件の虚構が、「戦後」における隷中メディアが支那の尖兵となった捏造報道の証左と指摘できます。

現在でも、「南京大虐殺」を肯定する方々にその理由を尋ねれば、その中には、「テレビで言ってたから」、「先生が言っていたから」、「教科書に書いてあるから」との理由が多いと思いますが。

それらの人々個々の「認識」レベルを拝察すれば、あるいは、「南京大虐殺」は"事実"なのかも知れませんが、事の「真」「偽」の根拠は「それだけなのか?」とお尋ねしたい。

どうして、「テレビで言うようになった」のか。なぜ、「先生が言うようになった」のか。また、なぜ、「教科書に載るようになったのか」と。その淵源に遡及(そきゅう)して、事の次第を調べ上げ、むしろ、客観的な検証を重々加える必要があるからです。

以上から、時系列的にも、南京事件は「一九七一 年」の「朝日新聞」の紙面を端緒として造り出された虚構であることは明白です。

戦後の約三年間に、数千万人にもおよぶ自国民の命を奪った中国共産党と国民党軍の内戦で命を落とした犠牲者の遺骨まで掘り出しては、「日本軍に虐殺された犠牲者」であるかのように宣伝する、いわゆる「記念館」方式のプロパガンダがこれに該当します。
動画: 朝日が作った歴史

南京大虐殺紀念館を作ったのは日本社会党(現在の民主党)


日本社会党委員長を務めた田辺誠は1980年代に南京市を訪れた際、当館を建設するよう求めた。

中国共産党が資金不足を理由として建設に消極的だったため、田辺は総評から3000万円の建設資金を南京市に寄付し、その資金で同紀念館が建設された。

3000万円の資金のうち建設費は870万円で、余った資金は共産党関係者で分けたという。また記念館の設計は日本人が手がけた。

南京大虐殺記念館に献花をした議員



▲ 南京虐殺記念館に献花する「菅直人」氏

・海部俊樹 ・村山富市 ・野中広務 ・古賀誠 ・田邉誠 ・菅直人

鳩山由紀夫(2013年1月17日)。「南京大虐殺のような惨事が世界のどの国でも2度とないよう望んでいる。日本人として、この事件の責任を負うべきだ。心よりお詫びをする」と述べた。平和公園に「平和の木」を植樹した。

福田康夫(2018年6月24日)。「過去の事実を正確に理解しなければならない。もっと多くの日本人が記念館を参観すべきだ」と述べた。
ウィキペディア: 南京大虐殺紀念館

朝日新聞時代の「本多勝一」氏の捏造写真


朝日新聞時代の「本多勝一」氏の捏造写真

著書『中国の日本軍』において、「中国の婦女子を狩り集めて連れて行く日本兵。強姦や輪姦は幼女から老女まで及んだ」とキャプションをつけて写真を掲載。

しかしこの写真は『アサヒグラフ』昭和12年(1937年)11月10日号に掲載された「我が兵士(日本軍)に援けられて野良仕事より部落へかえる日の丸部落の女子供の群れ」という写真であることが秦郁彦により指摘された。

この写真は南京大虐殺記念館でも長い間、日本の残虐行為の写真として展示されていたが、信憑性に乏しいことから展示を取りやめている



また、『本多勝一全集14』の『中国の旅(南京編)』では「ヤギや鶏などの家畜は、すべて戦利品として日本軍に略奪された(写真;南京市提供)」とキャプションをつけて写真を掲載。

しかしこの写真は、『朝日版支那事変画報』にて掲載された「民家で買い込んだ鶏を首にぶら下げて前進する兵士」という日本側が撮った写真であったことが示されている。

『月刊中国』鳴霞・主幹編集長の南京問題の告白


「中共では1979年まで南京大虐殺30万人など無かった」
1979年版の全日制中学校歴史教科書に突然、南京大虐殺が登場しました。

1985年に、日本の国会議員などが数千万円の資金援助をして、南京大虐殺記念館を建てて「日本軍が30万人虐殺」したという虚構を宣伝する拠点としました。

中共政権は、1980年代になって初めて、「国民党軍と日本軍が戦争していた」という抗日戦争の歴史を認めました。国民党は台北の「国軍記念館」の中に、南京大虐殺30万人という宣伝展示をしました。

この記念館は昨年、展示入れ替えと改良工事をしていたが、今でも「日本軍による南京大虐殺30万人」という虚構が宣伝展示されているかどうか。

前出の劉燕軍の「抗日戦争研究第4期」の中の「南京大虐殺の歴史記録」には、「国民党は我々労働者階級の闘争意欲を弱体化させ、迫害され死去した労働者兄弟たちは、未だに冤罪の汚名を着せられている。中国人の階級闘争の真の敵は国民党政府だった」と指摘しているのです。

50歳前後の中国人なら知っているだろうが、抗日戦争の教育映画は「地雷戦」「鉄道遊撃隊」などでした。しかし当時の抗日映画の中には、「南京大虐殺」などと言うものは無かったのです。

1960年代に毛沢東が2千万〜3千万人の国民を餓死させた事実は教科書には掲載せず、日中国交正常化までは日本人のことを「日本鬼子」と罵倒していました。

1972年9月に日中国交が結ばれ、中共政府は南京大虐殺記念館を建てて「日本軍が30万人を虐殺した」と宣伝したが、これは毛沢東の文化大革命で7千万〜8千万人が中共に虐殺されたことをすり替えるためのものだった。

中共としては、毛沢東の文化大革命の10年間に、経済発展が停止して国民生活は破綻していた。

最も生活が困っている時に援助の手を差し伸べたのが日本の政治家だったが、日本社会党(現在の民主党)は数千万円を寄付し、そして南京大虐殺記念館は建てられた。
 
今も続く反日宣伝の虚構は、日本社会党の議員が援助したものであり、日本人の敵は日本の議員だったという訳である。

1980年代には、中国では「日本人と中国人は2千年前から友好交流しており、歴史や文化は酷似している」と教えられた。日本からの経済援助、人材教育、技術支援なども活発化しており、1982年には筆者・鳴霞も日本に永住する為に来日しました。

来日する前に勤務していた軍事会社の党支部書記は、「鳴霞よ、日本には共産党青年団の組織は無い。だからお前は共産党青年団宣伝幹部の職を辞さねばならない」と言われました。 

また、「党はお前を一生懸命に勉強させ、軍事会社から資金を出して市内の日本科学技術大学校に入学させ日本語を勉強させた。日本に行ったら、日中友好事業を推進せよ」と言われました。

私が中国にいる時に受けた全ての教育の中で、「南京大虐殺」 「慰安婦」 「毒ガス」などは無かった。1979年までの教科書、新聞、雑誌やマスコミ報道にも、それらは無かった。

日本からの資金援助で「反日運動」が推進されるようになった1984年には、南京にいる老人を集めて「南京大虐殺被害者」を作り始めた。でっち上げた被害者は1756人に上った。

それを根拠にして「侵略日軍南京大屠殺史料」 「侵華日軍南京大屠殺当案」「日軍侵華暴行南京大屠殺」などの本が一気に出版された。毛沢東が政権にあった時、多くの本が出版されたが、南京大虐殺を書いたものは無い。と言われた。

『月刊中国』(毎月1日発行)発行人編集;満州人の鳴霞(めいか)氏。
動画: 月刊「中国」の鳴霞氏が語る中国の正体!

アメリカ人の「南京虐殺の目撃証人」は一人もいなかった

松村俊夫

序言「南京大虐殺」とは、1937年12月13日の南京陥落直後から、日本軍が起こした住民の大量虐殺を含む悲惨な事件であると認識しているアメリカ人は多い。

その根拠として、著名なアイリス・チャンの『レイプ・オブ・南京』がある。しかしその内容は事実とするには極端に過ぎるとの批判もある。

そこで公平に判断をしたいという人は、目撃証人であったアメリカ人の記録はないものかと考えるに違いない。ここに、その期待にこたえるべく刊行された絶好の資料があるのである。

アメリカ人の「南京虐殺の目撃証人」は一人もいなかった

左の写真に見る通り、その名はズバリ、『南京虐殺の目撃証人』(Eyewitness to Massacre)である。副題を『南京に於ける日本軍の残虐行為の目撃証人のアメリカ人宣教師』という。

この書の原資料は、エール大学神学部図書館に所蔵されている文書で、M.Eシャープ社、ニューヨークが1984年に出版した。

そこには、事件当時南京に在住していた宣教師などのキリスト教関係者が、南京から避難していた家族や友人へ送った手紙などが収められている。

外部に向けた、言わば宣伝目的の文書とは異なり、家族にあてた私的な文書なので、かなり本音が表現された資料であると見ることが出来る。

では、どういう人々が本書に登場するのか、先ず、これらの人々の経歴を、本書から抜粋して記すことにする。

ヴォートリン=1912年イリノイ大学卒業、キリスト教伝道の宣教師となって中国へ派遣され、南京の金陵女子文理学院の教師となる。その後、同学院の実務上の責任者学長になった。

ベイツ=1920年にオックスフォード大学の文学博士の称号を得て、宣教師として南京大学の政治・歴史学教授となり、後に副学長となった。

ウイルソン=1906年南京生まれ。プリンストン大学、ハーバード医科大学出身、1935年に指名されて翌年南京のキリスト教系鼓楼病院に着任した。

スマイス=シカゴ大学で社会学の博士号を取得し、1934年にキリスト教協会から指名されて南京大学社会学教授になった。

マッカラム=1917年オレゴン大学出身。エール大学の神学士号とシカゴ神学学校の修士号を持つ。1937年冬から、南京大学病院の経営に携わった。

マギー=1901年エール大学卒業、1911年にアメリカ聖公会神学士となり、1912年に伝道団宣教師として南京に赴任。

フィッチ=1883年蘇州生まれ、キリスト教長老派伝道団牧師の子息、1906年ウースター・カレッジ卒業後ニューヨークの神学院に属し、1909年上海のYMCAで働くことになって中国に戻った。

ミルズ=1912年にコロンビア神学院から神学士を授与され、同年から1931年まで中国のYMCAで働く。1933年から49年まで南京の長老教会外国伝道団の一員。

フォースター=1917年プリンストン大学卒、1919年渡支し、聖公会伝道師として教鞭をとった。南京陥落の約1ヶ月前に南京のセントポール聖公教会に転勤となった。

このように、記載者の全員がキリスト教の高等教育を受け、伝道師として南京に滞在していた人々であった。

もし、これら教養のあるキリスト者9人の人々が実際に日本軍による虐殺や暴虐を見たとの記録を残していれば、南京事件は事実だったとの有力な証拠となる。

ところがおどろくべきことに、400頁以上あるこの資料が収めている膨大な彼等の記録には、事件が起きたとされる12月13日から翌年にかけて、日本軍による住民虐殺を目撃したという記述は全く無いのである。

強姦、略奪などの残虐行為も、難民からの訴えを聞いて現場へ駆けつけても犯人は逃げたあとで、実際に日本兵の犯行を見た人はいなかったのである。

つまり「書名」とは全く逆にアメリカ人の虐殺(残虐行為)の目撃証人は1人もいなかったということなのでなる。実は極めてミスリーディングな書名の本なのである。

では、何故これらの人々が目撃証人とみなされるようになったのかを調べるうちに衝撃的な事実がわかってきた。

それは前記9人のアメリカ人のうち、南京陥落の直後から日本軍による暴虐を内外に伝え続けていたベイツとフィッチの存在である。

ベイツは蒋介石に任命されていた顧問として日本軍暴虐の宣伝活動を続け、その功績によって戦争中と戦後の二度も蒋介石から勲章を受けていた。(注1)

フィッチはベイツの協力者として働いたあと、1938年3月以降は香港を経由してアメリカに帰り、全米を反日宣伝をして廻っていただけでなく、7月には2つの大きな親中反日団体の立ち上げに加わり、その幹部として活躍するようになる。(注2)

彼等の宣伝の目的は、蒋政権からの依頼のもとに、日本軍がいかに残虐な軍隊であるかをアメリカの人々に宣伝することによってその同情をかちとり、蒋政政権への多くの援助を得ることにあった。

従って彼等にとっては、そのような宣伝内容が事実か否かは問題ではなかったのである。このような謀略活動は、今でも世界各地で見られるが、彼等の立場を知らなかった同僚のアメリカ人達は、日本人に対する理解不足もあって、ベイツとフィッチの主張をすっかり信用してしまったのである。
全文:pdfファイル:アメリカ人の「南京虐殺の目撃証人」は一人もいなかった

Link: 南京大虐殺はウソだ / 「南京大虐殺」は捏造だった / 中国の「正しい歴史認識」の正体 / 日中戦争の真実



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