関東大震災〜朝鮮人暴動の真実!!


強制連行や従軍慰安婦という言葉も歴史的事実も、今や確認されていない、捏造だったということに固まりつつあります。

そして、この関東大震災時の朝鮮人虐殺ということに関しても、様々な事実がわかってきています。東京は言うに及ばず、横浜一帯も酷い被害を受けていることが様々写真や文献からも伺い知ることが出来ます。

まず、不思議だったのは工藤美代子氏の「関東大震災 朝鮮人虐殺の真相」という本の冒頭で描かれている灼熱地獄の模様ですが、如何に大きな地震だったからといって、家屋の倒壊などに比べて猛火で焼かれて亡くなる人がこんなにも多かったか、どこもここもが火の海で覆われ、結局何百何千何万の人がこれほど多く焼かれて亡くなっいます。(死亡者105000人のうち92000人の命が火災によって奪われ、家屋の43,6パーセントが消失しました。)

それが、あとで自然発生的に起きた火事でないことがわかってきました!朝鮮人の放火により、いったい何万人の命が亡くなったのでしょう?


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:京橋の第一相互ビルヂング屋上より見た日本橋及神田方面の惨状 / 大正12年9月15日(1923年9月15日) 大阪毎日新聞社

関東大震災(大正12年)時、デマに惑わされた日本人暴徒が多数の朝鮮人を虐殺した。 学校教育等で、近現代史の汚点として、このように教えられますが、 実際は、不逞鮮人によるテロに等しい集団暴力事件の多発。

軍も出動。日本人は自身や家族を守る為に、自警団でそれに対抗。

不逞鮮人と自警団・軍隊の激突で双方に被害者がでた、一般鮮人にも死者がでた。

不逞鮮人と左翼系組織との連携があり、偶発的な事件ではなく計画性があった。

事後に、左翼学者による不逞鮮人の暴動の隠蔽工作、一般鮮人被害者数の水増し工作。

無実の一般鮮人を巻き添えにしたという日本人の良心の呵責を利用し、疑問や反論も許さぬ「タブー」として、日本人が悪いと印象操作を行うことで、お人よしで人を疑わない日本人を騙し、世論は朝鮮人と左翼の狙い通りになっていった。

当時の新聞などを調べると真実が見えてくる。


◆不逞鮮人益々広大
不逞鮮人300余名が手に手に爆弾を携え、之を投じ、或いは放火し…
◆全暴徒の一隊が爆弾を投じ放火せりを目撃
(庄内新報(号外) 九月三日)

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◆鮮人一味 上水道に毒を散布
◆囚人三百名脱獄し鮮人と共に大暴状
(下越新報 大正12年9月3日)

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◆不逞鮮人各所に放火 石油缶や爆弾を携えて
(小樽新聞 号外 大正12年9月3日)

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◆朝鮮人が暴徒となって放火していると伝える
大阪朝日新聞(1923年9月3日号外)

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◆鮮人の陰謀 震害に乗じて放火
◆発電所を襲う鮮人団
◆不逞鮮人1千名と横浜で戦闘 歩兵一個小隊全滅か
(新愛知新聞 大正12年9月4日)

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朝鮮人が発電所を襲う
(新愛知新聞 大正12年9月4日)

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◆屋根から屋根へ鮮人が放火して廻る
鮮人が盛んに悪いことをしているのは憎むべき事で
屋根から屋根へ渡って火を放っている居る様な有り様で…
(新愛知新聞)

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◆鮮人浦和高崎に放火
◆列車爆破を企つ 不逞鮮人の自白

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在日韓国人などはこの報道は捏造と発言していますが、報道規制が解かれ世の中が落ち着いて来ても鮮人の行った事件を報道していますので新聞の記載内容は真実です。

報道規制が解かれた翌日


◆震災の混乱に乗じ鮮人の行った凶暴 
◆略奪、放火、凶器、爆弾毒薬携帯、婦人略奪… 
(読売新聞 大正12年10月21日)

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記事差し止め解除を受けて朝鮮人の事件を伝える
関東一帯を騒がした鮮人暴動の正体はこれ
◆放火殺人暴行掠奪につぎ橋梁破壊も企てた不逞団
東京時事新報(1923年10月22日付)

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政府による記事差止めが解除されたことを受けて事件の正体を報じる
10月22日(大正12年10月22日)付東京時事新報[21]

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関東大震災の時に流言蜚語(ひご)に惑わされた日本人自警団が何の罪もない多数の朝鮮人を虐殺した。多くの日本人はこの事件にある種の後ろめたさを感じ、きちんと検証してみようとしなかった。

大震災から86年、工藤さんが初めてこの困難な作業に挑んだ。まず、当時の日韓関係の中で朝鮮人のテロ、日本人襲撃が決して根拠のない流言蜚語 ではなかったことを多くの資料・新聞記事から立証。

工藤さんは〈朝鮮人による襲撃があったから、殺傷事件が起きた〉〈テロリストの襲撃から家族や町内を守るのは正義といっていい〉と断定している。


(略

圧巻は虐殺された朝鮮人の数を検証する部分。当時、吉野作造は2613人と書き、上海に亡命した大韓民国臨時政府の機関紙「独立新聞」は6419人と書いた。

今回の取材中、工藤さんはロンドンのナショナル・アーカイブスで朝鮮独立運動派が諸外国の外交官にばら撒(ま)いた謀略宣伝用小冊子を発見した。そこに書かれた数字はなんと2万3059人。

それでは当時東京に何人の朝鮮人がいたのか。政府統計によると東京に約9千人。近県に 約3千人なのである(全国で約8万人)。

そして、警察署などに保護された朝鮮人は6797人。この数字だけからでも虐殺されたとされる朝鮮人の数がいかに根拠のないものかわかろう。

先に挙げた謀略宣伝用小冊子は虐殺の模様をこんなふうに書いている。〈彼ら(日本人自警団や民衆)は朝鮮人を電柱に縛りつけ、眼球をくり貫(ママ)いて鼻をそぎ、腹を切り裂いて腸が飛 び出るままにした(以下略)〉どこかで聞いたり読んだような記述ではないか。
『関東大震災「朝鮮人虐殺」の真実』 の評:花田紀凱(『WiLL』編集長)


横浜方面より四百名の朝鮮人が爆弾を投げたり放火をしたりと暴動があった事は事実のようです。
(庄内新報(号外) 九月三日)

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横浜から品川方面へ朝鮮人の集団が刀や爆弾を持ち、暴れまわって婦女を強姦していたという事実を追求して行くとこの騒動の実態が見えると思われます。
(新愛知新聞 大正12年9月4日)

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一連の調べで習志野と江東地区で間違いなく不穏な動きがあった事は間違い無いと思われます。この記事もその証拠の一つです。「震災で泣き叫ぶのを聞いて革命歌を歌っていた」と言うのが、いかにもです。

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朝鮮人による放火は未遂も含めて実際にあったと書いてあります。
(九月五日 報知新聞社)

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司法当局が朝鮮人の犯罪を報道する事を規制し圧力を掛けた決定的証拠。10月20日、ようやく自由報道が解禁され、真実を記載し始めた。

幾多の報道されてきた犯罪は事実であると、さらに下には四ツ木で朝鮮人が少女を輪姦した上に殺害し、荒川に放り投げ逃走したという恐ろしい記事が書いてある。
(読売新聞 大正12年10月21日)

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日本橋の倉庫に朝鮮人が火を放って逮捕。深川の食糧倉庫が時間を置いて火が立ったのも朝鮮人の同時多発テロだったと言う事を裏付けるひとつの事実である。
(読売新聞 大正12年10月21日)

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関東大震災時の政治世相


大正六年にロシア革命が発生すると、ボルシェビキ指導による共産主義の出現が我が国にも大きな衝撃波となって襲ってきた。

(中略)

昭和二年、関東大震災の余韻も冷めぬ夏、大正時代の苦悩を一気に背負ったかのように芥川龍之介が自殺した。大震災にも劣る事なくじわじわと迫っていた「不安」。それがロシア革命によって齎されたものだということを、芥川は如実に語って死を選択したのだった。
(「関東大震災 朝鮮人虐殺の真実」P32より)

この文献によると、芥川龍之介は個人的な厭世観によって死を選んだのではなく、ロシア革命の台頭、その日本への侵蝕に恐れを抱き、菊池寛などのそういった危機感を敢えて取り上げもしない野蛮なる文学家などに対する憤怒の行方として、自殺を選んだといっている。

芥川とは外れるが、甘粕事件で殺されたアナーキストの大杉栄などが日本国内の裏舞台で暗躍し、特高に目を付けられていたのも、この時代である。

国内の急進的共産主義者などの過激な政治活動もある不安定な大正時代、同時に、朝鮮半島でも民族解放運動が起きて、その余波が日本にも及ぼされつつあった。社会主義者が裏で暗躍し、朝鮮人の暴動と連携して、日本に暴動を起していたというのは、周知の事実である。

朝鮮民族の大量移入

在日朝鮮人の人口推移
明治42年 790人
大正4年  3989人
大正5年  5638人
大正6年  1万1501人
大正7年  2万2262人
大正8年  2万8272人
大正9年  3万175人
大正10年 3万5876人
大正11年 5万9865人
大正12年 8万617人
大正13年 12万238人
大正14年 13万710人
大正15年 15万8503人
昭和2年  17万5911人
昭和16年 146万9230人
昭和19年 193万8413人
但し、密航者や住所不定者もいることを考えると、これよりは多い可能性が大

摂政宮ご婚礼前


摂政宮と言えば、後の昭和天皇のことである。当時は、病弱であらせられた大正天皇の時代。

天皇陛下は現実にいらっしゃいましたが、その病状から公務をお出来になりにくい状況下、社会に招く影響を考えて、後の若かりし昭和天皇が摂政宮として公務を果たされていらした。しかも、ご婚礼前の大切な時期であった。

朝鮮半島は火薬庫


当時は、ロシア革命以後、共産主義者などの台頭もありながら、韓国では李朝末期の混沌とした時代。絶え間なく民族開花の嵐が巻き起こる不穏さも、大陸から流れてきた。

日韓併合を越えて13年余り、国としては成長する礎が出来てきたが、それにより、朝鮮人の中からは、日本に対する反発を持つものもいた。

その一つの大きな動きが、「三・一独立運動」で、京城中心部の公園で、キリスト教、仏教、天道教などの各派の代表三十三名が「朝鮮独立宣言」を読み上げることから騒ぎは起きた。

この宣言に刺激された学生や労働者が過激なデモをしながら、警備する日本側官憲と衝突。すさまじい事態に広がった。そして、その過激さは、海を越えて、日本に上陸してくるのである。

社会主義者と朝鮮人


政治的な不穏な様相は、この朝鮮人の襲撃だけではなかった。ロシア革命以後、日本の知識層にも共産主義思想が広がってくるにつれ、日本の国家転覆を狙う点で両者は結びつき、社会主義者・共産主義者の一派と朝鮮人によるといったものも増えていくようになる。

関東大震災直後の暴動の頻発


それは横浜から始まった。東京の新聞社はすべて倒壊し、とても一朝一夕に新聞をまた発行出来る状況ではなかった。

一刻一刻と燃やされ倒壊していく街の中、逃げ惑いながらも最後は火に巻かれ焼かれ死んでいく住民たち。そのような中、頼れる情報は口から口に伝わる情報のみ。不穏なニュースは、瞬く間に広まっていった。

大震災は一日の正午頃に起きた。驚いたことに、朝鮮人の襲撃は、その夜には既に始まったのだった。

如何に、首都が壊滅した頃を好機と見計らって襲撃に乗り込んできたか、その意気込み(と言っては語弊があるが)が如実にわかるデータである。不逞鮮人は日本を壊滅させるべく乗り込んだきたのだ。

横浜における目撃者の談話からその一端を見ておきたい。


「一日の大地震に続く大火災に辛ふじて身を以て免れた私は何等かの方法でこの悲惨極まる状況を知らしめたいと焦慮したが大崩壊に続くもうかには遺憾ともすることが出来ず、二日迄絶食のままで諸所を彷徨した(略)交通機関の全滅は元より徒歩さへも危険極まりない。

況んや不逞の鮮人約二千は腕を生んで市中を横行し、略奪を擅にするは元より、婦女子二三十人宛を拉し来たり随所に強姦するが如き非人道の所行を白昼に行ふている。

これに対する官憲の警備は東京市と異なり、軍隊の出動もないので行き届かざること甚だしく、ついには監獄囚人全部を解放し看守の指揮によりてこれが掃蕩に当たらしめたので大戦闘となり、鮮人百余人を斃したが警備隊にも十余人の負傷を生じた模様である。

以上の如き有様なので食料飲料水の欠乏は極に達し、然も救援の何ものもないので生き残った市民の全部は天を仰いで餓死を待つばかりである」

(大日本石鹸社専務:細田勝一郎談「河北新報」大正十二年九月五日)

◇◇

(略) 「事務長は「陸上は危険ですから御上陸なさることは出来ない」といふ。何故危険かと問へば「鮮人の暴動です。昨夜来鮮人が暴動を起し市内各所に出没して強盗、強姦、殺人等をやって居る。

古都に裁判所付近は最も危険で鮮人は小路に隠れてピストルを以て通行人を狙撃して居るとのことである。若し御疑あるならば現場を実見した巡査を御紹介しましやう。」といふ。」

(「横浜地方裁判所震災略記」バリー丸船内、部長判事長岡熊雄)
関東大震災 朝鮮人虐殺の真相より

戒厳令発令


こういった状況の中、日本国民を守るために、政府は漸く戒厳令を敷いた。戒厳令下で、不穏な動きをするものを厳しく捕らえるのは、よもや当たり前のことである。

後藤新平は、不逞鮮人襲撃のニュースを敢えて掲載することを止めて彼等の暴動が後の昭和天皇に向けられることからお護りした。

台湾総督府で民生長官を務めた後藤新平が内務大臣になり、当時まだご結婚されていなかった摂政宮(後の昭和天皇)の御身を案じ、終わることなく起きる朝鮮人暴動を沈静化させる意味で、一斉に朝鮮人の襲撃に関する情報が新聞などが書かれることをストップさせた。

朝鮮人による暴動があったと新聞が書くことで、日本人の自警団が朝鮮人に対する報復が苛烈を極める。それにより、更に朝鮮人(または其の背後にいる、社会主義者たち)の暴動が摂政宮に向かうことを恐れたのだ。

実際、それ以後、新聞からは「朝鮮人襲来」の類いの記事は抑えられ、逆に日本人に向けても、「朝鮮人いい人」キャンペーンが始まったという。

現実にあった朝鮮人襲撃のニュースを報道せず、事態を沈静化させたという手法そのものは、その当時としては仕方が無かったかもしれないが、それにより、朝鮮人が暴動を起こしたという確固たる事実が消えてしまったのだ。

それにより混乱したのは、日本人の自警団だ。これまで自分の家族・地域・日本を護ろうと蹶起して立ち上がったのに、政府から梯子を下ろされてしまったのだ。

こういった手法は、今後日本の歴史の随所に登場する。それが我が国の国民性なのかもしれないが、時間が経ってしまうと、その時代を記憶している人間もいずれ死ぬのだから、新聞記事などの記事が、歴史的な事実として後世に記憶されてしまうことに、もっと注意を払うべきときがあると思う。

そこで書かれなくなったり事実と違うことが書かれてしまったら、その時代の実際の姿は浮かび上がってきはしない筈なのだ。

朝鮮人が大挙して襲来し、強盗や強姦、放火などの暴動を起こした、その事実が根本から消え失せようとしていた。こういった事実が「流言蜚語」と長い間思われ、「朝鮮人を虐殺した」ということが事実と成り代わり、逆に[朝鮮人が襲来して暴動など起さなかった]ということの方が歴史的事実であるように浮上してくる。

「戒厳令」を敷かねばならない事態であることをもっと注視しなければならないと思う。「戒厳令」が敷かれた状況で、暴動を起こしたら、外国人であろうと日本人であろうと、取り締まりを受けるのは当たり前のことだ。

それでも収まらない暴動は鎮圧されても仕方がない。その最中、例え人が死んだとしても、それは致し方がないことではないか?「朝鮮人虐殺」という、それこそ「流言蜚語」は、こうして成り立ってしまった。

関東大震災において朝鮮人が暴動・放火を行ったのはデマと捏造したのは社会・共産主義の学者


SAPIOの連載によると、つまり朝鮮人と社会主義者=アカが結託してクーデターを 起そうと準備していた。そこに関東大震災が起き、混乱に乗じて朝鮮人が暴動・ 放火・強姦行為をやった。

特に横浜方面から品川にかけてのエリアで物凄い人数で襲い掛かってきた。横浜方面だけでなく、深川、墨田他のエリアでどうみても火災が起きるはずの無いエリアで爆発や火災が発生した。

その情報が警察とかに上がって丸の内とか外国の要人が居るので朝鮮人の暴動に 備えて厳戒態勢で備えていた。この朝鮮人の暴動に怒り狂った日本人の自警団がそいつらをとっ捕まえて自衛の 為に殺害した。

なかには無実の朝鮮人と朝鮮人に間違われた日本人も居た。戦後アカが主導になってでっち上げの人数を6000人とか捏造してデマで殺されたと言い回った。本当はアカと朝鮮人が結託してテロ行為を起した事実を知られるとまずいから。

苦し紛れにデマ説を必死で流した学者(吉野作造)は日本の社会・共産主義の土台を作った一員でも有った(しかしそのアカの学者でさえ、実際に朝鮮人の暴動破壊行為が合った事を大筋認めている)

つまり、隠蔽工作である。朝鮮人が暴動を起していたという証言は多数でありリアリティが有り、当時の新聞はそれを伝えているが、当時の内務大臣、後藤新平が「朝鮮人の暴動が有った事は事実だが、自警団による自衛行為はやめさせてこの混乱を収拾させるべきだ」と考え、報道規制をして風評の打ち消しに徹した。

「それではアカ朝鮮人から市民の安全を保証出来ない」と読売の正力氏は後藤大臣の決定に怒り、反発して、9月末に地方へ転勤願いを提出した。

後藤新平は社会主義者と交友が有り、社会主義への知己も持っていた(後藤は右翼とも関係が有り、いわば両刀使いだった)が、一連の暴動をきっかけに、これではまずいと、治安維持法が制定され、社会共産主義者への弾圧へと、政府は政策を見直し、遂行して行った。

これが大筋の事実です。朝鮮人の暴動から自衛の為に戦ったという事が歴史の真実です。

現在においても慰安婦問題・高校無償化・教科書への干渉など韓国朝鮮人の抗議・政治的活動・プロパガンダなどはまったく変わっていない。特に慰安婦問題は成功しており日本は押され気味である。

普通に考えると隣人だったら、どんな時でもに助け合います。当時は横浜中華街があり中国人も居ましたが、なぜ朝鮮人だけなのでしょう?


現在の在日韓国・朝鮮人の行動を見れば当時の朝鮮人の様子もはっきりと見えてきます。



関東大震災の朝鮮人 在日朝鮮人騒乱史

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