その他の日韓歴史問題2

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外国への侵略と被侵略 − 敗戦による朝鮮半島引揚げの惨事 − 李承晩ライン − 朝鮮戦争と日本の経済復興 − 北朝鮮の反日教育 − 韓国・朝鮮人論 − 竹島・領土問題 − おまけ

外国への侵略と被侵略


韓国人は「韓国(朝鮮)はこれまで他国から侵略されたことはあっても、他国を侵略したことは一度もない」と主張し被害者の面を強調するが、加害国として日本に攻め込んだ過去もある。隣り合う国は侵略したり侵略されたりするものだ。

「日韓共鳴二千年史」名越二荒之助 平成14年 名成社


韓国の歴史教科書にみる「他国征伐」の記述

韓国の中・高用教科書は、まず高句麗の最盛期を築いた広開土王(374−412)の侵略行為を讃えているのです。彼は百済を圧迫し、朝鮮半島に拠点を築いていた日本を追い払い、満州一帯から沿海州まで領土を広げ、大帝国を建設した、と誇らしげに書いているのです。

韓国人に聞けば広開土王は韓国十大英傑の一人です。大王の業績は、かつて高句麗の旧都であった吉林省(満州)に建つ「広開土王碑(好太王碑)」(高さ6、3メートル、朝鮮最古最大の碑)に刻まれています。その碑文には、「百済征伐」の模様が最も大きく書かれています。

広開土王と秀吉は、時代は変わっていても同じことをやっています。広開土王は成功して大帝国を創りましたが、秀吉の場合、緒戦は華々しかったのですが、最後は撤退してしまいました。

その他教科昔の中から韓国が行なった他国への「征伐」用語を紹介しましょう。

(1)前後5回にわたる蒙古(元)の侵攻に耐えた高麗でしたが、攻略されると、高麗は元の尖兵となって日本に侵攻(2回)してきました。

韓国の教科書は、元は日本を征伐するために、高麗の軍隊を徴発した」とか、「元が日本征伐のために開京に征東行省をその後も残した」というように、元の立場で書いています。

その他「征伐」用語を拾えば、

(2)崔瑩(さいえい)による倭寇征伐(1376年)

(3)朴○(ぼくい)は倭寇の巣窟である対馬を征伐した(1389年)

(4)崔瑩笙による遼東征伐(1392年)

(5)清から要請され、満洲北部に侵攻してきたロシア勢力を撃退するため、わが国は2回にわたって鳥銃部隊を出動させた。これを「羅禅征伐」という(1650年)

以上のように「征伐」用語はたびたび出てきます。

「韓国はこれまで他国から侵略されたことはあっても、他国を侵略したことは一度もない」とよく聞かされました。ところが、韓国の国定教科書『国史』は、他国に「遠征」し、他国を「征討」し、領土拡張に奔走していることを誇らしげに書いているのです。

自分のことは棚にあげて、日本にだけ訂正を要求するのは如何なものでしょうか。一方、日本側も抗議されたからといって、それに従うのは卑屈というものです。相互の立場を理解した対等の交流こそ、親善を深めることをお互いに知りたいものであります。

「龍を気取る中国 虎の威を借る韓国」 黄文雄 1999 徳間書店


外国を侵略したことが一度もないという自慢話も大嘘である。北方諸民族は、たいてい一度は長城を越えて京師を占領、あるいは中国を征服して王朝をつくったことがあった。

唯一それをしなかったのが韓人である。韓人にとってはくやしい史実かもしれないが、力が及ばなかったというのが本当のところだろう。それでも、外国への侵略をまったく行わなかったわけではない。

新羅時代に新羅人はよく日本列島を侵寇していた。もしそれが侵略ではないとしても、韓国の教科書では、元寇を日本「征伐」として教えている。そのとき日本を侵略したのは高麗軍だった。

高麗軍が壱岐対馬を襲ったときは、島民を虐殺して200人の童男童女を強制連行し、忠烈王と公主に献上した。

高麗軍への評価には尾ヒレがつき、モンゴル軍に抵抗したことで日本が征伐されるのを救った。日本が無事だったのは、高麗軍の働きがあったからだと嘘の歴史を教えている。

高麗朝にはユンクアンの女真征伐や李朝時代の「応永の外寇」(1419年)のように対外侵略もあったが、李朝では朝鮮人の満州人いじめから起こった満州人とモンゴル人の逆襲や復仇のための戦争である「丙子胡乱」で、朝鮮は清の属国になった。

しかしその後も、満州人とともに2回の羅禅(ロシア)遠征や3回の明への侵略を行った。後述するが、明人を大量虐殺したのは、朝鮮軍だったのだ。

第二次大戦後も韓国軍は米軍の先頭に立って海外派兵を行い、ベトナム戦争ではベトコン叩きに躍起になったのだった。

事大したアメリカに従ってベトナム派兵し凄惨を極めた韓国軍の戦いぶり


「龍」を気取る中国「虎」の威を借る韓国 1999 黄文雄 徳間書店


明の前朝である元の時代、モンゴル人が高麗朝を支配していたころ、高麗人は競ってモンゴル人の氏名を名乗る「創氏改名」が流行り、モンゴル風を学ぶ動きが風靡した。

高麗朝の多くの貴族はモンゴル名を持っていた。しかし、モンゴル人が明によって万里の長城の外まで追われると、朝鮮朝の太祖である李成桂は高麗朝から政権を奪い、モンゴル人を叩いて事大の対象を元から明へと鞍替えした。

明が遼東半鳥に進出していたころ、朝鮮人は明の先頭を切って満州人を征伐したため満州人から恨まれた。そのため、満州人の朝鮮人に対する大規模な逆襲である「丁卯胡乱」(1627年)と「丙子胡乱」(1636年)が起こり、朝鮮は清の属国となった。

明から清に主人を替えた後の朝鮮人はじつにおとなしく、清の軍隊召集に馳せ参じ、2回の羅禅(ロシア)遠征と明の征伐に従軍した。

父として明を敬っていたはずなのに、新しい父を迎えた途端、明に対して残酷無情な態度を取った。3回にわたる明征伐では、朝鮮軍は満州人を驚嘆させるほど明人を虐殺した。

満州八旗軍はかなり軍紀正しい軍隊であったが、盟友のモンゴル八旗軍の朝鮮蹂躙には、かなり悩まされていた。しかし、朝鮮軍が満州人の軍門に下り清軍に召集されると、今度は朝鮮軍が旧宗主国の明征伐を通して漢人への凄まじい虐殺と略奪を行ったのだ。

清の将軍である龍骨大が率いた、明征伐についての朝鮮兵行状の記録には次のようなものがある。「韓兵ことに虐殺を極めたり。漢民号呼して曰く、天朝(シナの異称)、朝鮮において何の仇があろうか。その恩に背いて、ここに至るかと…」(恒屋盛服著「朝鮮開化史」博文館、明治34年)。

明は300年近く朝鮮を保護し、李氏朝鮮は宗主国である明から国号を下賜された。しかし、いざ明が弱勢になると、朝鮮はすぐさま清に乗り換えて逆に明を逆襲し、明人を虐殺した。

日韓合邦後、満州でもっとも暴れたのは朝鮮人である。万宝山事件は、朝鮮人と中国人の水をめぐる争いから起こり、朝鮮半島における中国人虐殺にまで発展した。満州では、朝鮮人は「二鬼子」として中国人から恐れられ嫌われていた。

壱岐対馬の住民を惨殺し鬼にも等しいと記憶されていた元寇の朝鮮人

SAPIO 2001年9月26日号


「鬼にも等しい」殺戮ぶりをつたえる言葉や地名が今も残る 「蒙古襲来」で壱岐・対馬を蹂躙した高麗軍の蛮行は忘れられたのか  東北女子大学教授 太田弘毅

日本人は反省していない」「歴史の現実を直視せよ」‐−歴史教科書問題では韓国側から日本への激しい抗議が相次いだ。反省すべき歴史とは、植民地統治ばかりか豊臣秀吉による朝鮮出兵、倭寇などまでさかのぼるという。

しかしその一方で、日韓関係史において韓国人による日本人虐殺の歴史があったことは意外と知られていない。蒙古襲来時に起きたその歴史的事件をアジア軍事史を専門とする東北女子大学の太田弘毅教授が遺された史料をもとに読み解く。

13世紀後半に起こった元帝国(蒙古・モンゴル)による日本侵攻を、日本側では蒙古襲来とか、元寇と呼ぶ。ヨーロッパとアジアにまたがる大帝国を建設した蒙古人は、中国本土にも攻め入り元帝国を創始した。

高麗(918〜1392年、現在の韓国・北朝鮮の位置に存在していた王朝)を征服後、日本を服属させようと、使者を送ってきたのである。

しかし、鎌倉幕府の拒否にあい、武力征服を決意するに至る。第1次蒙古襲来(文永の役)は、文永11年(1274年)に、第2次のそれ(弘安の役)は、弘安4年(1281年)に実行された。

なお、蒙古襲来の意味は字義の如くである。元寇とは、元帝国が日本へ「寇」――あだをなす――するという意で、日本を侵略することにほかならない。

◇女は手に穴を開け縄を通して連れて行った

しかし「蒙古」とか「元」という表面の文字に惑わされてはいけない。日本を襲撃しその残虐さをもって日本人を恐怖のドン底に陥れた「元軍」は、「蒙古」人のみから構成されていたのではなかった。

日本遠征軍は、蒙古人・高麗人・漢人(北部中国在住の漢民族、旧金国の支配下にあった)・女真人(満州人)により組織されていた連合軍だった。

そして、高麗連合日本遠征時には、朝鮮半島から出発した艦船隊の建造に従ったり、兵員や船乗りとして、日本へ来たのだ。そして他の民族よりも日本襲撃に大きな役割を果たした。

実際、2回にわたって日本遠征軍を迎え撃った日本軍、あるいは日本人の脳裏には、各民族部隊の中で蒙古人部隊と、高麗人部隊の乱暴狼藉ぶりが深く印象づけられた。

そして、蒙古人と高麗人は、鬼にも等しい、と恐怖した結果が、この時に生まれた「むくりこくりの鬼が来る」とい、う言葉に表われている。「むくり」とは蒙古人を指し、「こくり」とは高麗人を意味する(語源は高麗)。「辞苑」(博文館、1935年)を引くと、次のようにある。


むくり・こくり「蒙古高句麗」
1、(蒙古及び高句麗の名から来た話)蒙吉のことを一に蒙古高句麗の鬼が来るといって怖れたから、転じて小児の泣くのを止めるのに「むくりこくり、鬼が来る」と威す風習となった。

2、無埋・非道なさま。この言葉で「小児」を「威す風習」は北海道を除く日本全国に流布している。また、「無理・非道なさま」とあり、極悪非道の人々というイメージが、「むくりこくり」には存在する。


このようにして見てくると、蒙古襲来は、高麗襲来とも呼んでもよいし、元寇は高麗寇と言い換えても大きな誤りとは言えない側面をもつ。高麗人の襲来であり、高麗人の侵略でもあったからだ。

蒙古人の陰に隠れた形になってはいるが、高麗人の残暴行為を看過してはならない。では、高麗人が行なった残虐行為とは具体的にどのようなものだったのだろうか。

これは、「伏敵編」所取の「高祖遺文録」に、次のように残っている。この「遺文録』は、日蓮の遺文を集めた記事集である。


《去文永十一年(太歳甲戊)十月ニ、蒙古国ヨリ筑紫ニ寄セテ有シニ、対馬ノ者カタメテ有シ、総馬尉(そうまじょう)等逃ケレハ、百姓等ハ男ヲハ或八殺シ、或ハ生取(いけどり)ニシ、女ヲハ或ハ取集(とりあつめ)テ、手ヲトヲシテ船ニ結付(むすびつけ)或ハ生取ニス、一人モ助カル者ナシ、壱岐ニヨセテモ又如是(またかくのごとし)、》


「百姓」=一般人は「男ヲハ或ハ殺シ、或ハ生取ニシ」ている状況とともに「女ヲハ或ハ取集テ、手ヲトヲシテ船ニ結付、或ハ生取ニス」とある。そして、「男」と「女」に懸かるのであろうか、「一人モ助カル者ナシ」と書かれている。

壱岐でも、同様の残虐な仕打ちがなされた。この史料を取めている「伏敵編」には、「按(あんずるに)」として、編者のコメントがある。


《索(さく=ひも)ヲ以(もっ)テ手頭ト手頭トヲ連結シタルニ非ズシテ、女虜ノ手掌(たなごころ)ヲ穿傷(せんしょう)シ、索ヲ貫キ舷瑞(ふなべりはた)ニ結着シタルヲ謂(い)フナリ。日本書紀天智帝二年紀ニ、(百済王豊璋嫌福信有謀反心、以革穿掌而縛(かわうがちたなごころしばる)、)トアリ、以テ證スヘシ、》


ここでは、高麗の前身の国家である「百済」を引き合いに出し「手掌ヲ穿傷……」(手の平に穴をあけてそこへ縄を通す」の意)云々のやり方を、朝鮮半島において古来より続く伝統的行為としている。まさに、この残虐行為を証拠として高麗人の仕業、と編者は判断している。日蓮は、対馬や壱岐、あるいは九州本土における惨劇を『高祖遺文録」の各個所で言及している。


《皆人の当時の壱岐対馬の様にならせ給(たま)はん事思ひやり候へば涙も留まらず。》(「類纂高祖遺文録」、改題「類纂日蓮聖人遺文集平成版」)


「涙も留まらず」とあり、惨劇を悼むとともに、将来の不安の言辞なのだ。また他所で、


《壱岐対馬九国の兵士並びに男女、多く或は殺され或は擒(と)られ或は海に入り或は崖より堕(お)ちし者幾千万と云ふ事なし。》(同右書)


とある。なお、対馬→壱岐を侵した後、元艦船隊は鷹島へ向かった。そして、上陸軍を揚げている。「八幡愚童記」(伏敵編」所収)には、


《同十六日、十七日平戸能古、鷹島辺(あたり)の男女多く捕(とらわ)らる。松浦党敗北す。》


とある。「男女」が「捕らる」のだから、捕囚され強制連行されたことにほかならない。高麗人部隊も、これに関与していたと考えられる。

◇高麗人への恐怖から親は子どもを殺した

弘安の役時、壱岐・対馬における「高麗ノ兵船」による残虐行為は、当時の日本人にとっては衝撃的出来事であった。そもそも「高麗ノ兵船」は、「高麗」から出発したところの「兵船」の意味もある。

だが、やはり「高麗」人が多く乗り込んだ「高麗」入の「兵船」とする解釈の方が、ずっと重いと考えてよいだろう。「八幡愚童訓」(『日本思想大系}、甲本)は、弘安の役に参戦した「国々」を次のように明記している。


《弘安四年ノ夏比(なつごろ)、蒙古人、大唐・高麗以下ノ国々共ノ兵ヲ駈具(かりぐし)テ、十万七千八百四艘ノ大船ニ数千万人乗連(のりつらね)テ襲来ス。》


そして、「国々共ノ兵」と言い、「国々」そして民族の「兵」に焦点を合わせている。したがって、「蒙古人」の「兵」と、「大唐」の「兵」そして「高麗」の「兵」という意識が、ここには存する。

『八幡愚童訓は、蒙古人、大唐・高麗以下ノ国々共ノ兵」として、参加国の兵の国籍を挙げているのだが、明確に唯一つ例示して「高麗ノ兵船」の残虐行為を強調する。


《其(その)中ニ高麗ノ兵船五百艘ハ壱岐・対馬ヨリ上り、見ル者ヲバ打殺(うちころ)ス。人民堪難(たえかね)テ、妻子ヲ引具(ひきぐ)シ深山へ避入処(のがれいる)ニ、赤子ノ泣声ヲ聞付テモ押寄ケレバ、片時ノ命モ惜ケレバニヤ、褊(さしも)愛スル緑子(みどりご)ヲ我ト泣々害シツツ、世ノ中ニ最(もっとも)惜キ物ハ子也(なり)ケリ其(それ)ニ増(まされ)ルハ我身也ケリト詠ジケル、人ノ愛(すさみ)ゾ思出ラルル。是ヨリシテ、高麗ノ船ハ宗像(むなかた)ノ沖ニヨル。蒙古・大唐ノ船共ハ対馬ニハ不寄(よらず)、壱岐ノ嶋ニ着。》


ここでは、日本人狩りをしている元上陸軍の掃討作戦の光景を描いており、自分の居場所を元上陸軍に知られまいと、「泣々害する(殺す)あさましい親の姿を、子供にも「増(まさ)ルハ我身也(わがみなり)ケリ」と、冷めた文で結んでいる。

もっとも、このような行動を、親に採らせるに至ったのは、まぎれもなく高麗人部隊への恐怖なのだ。加えて、逃げ場のない島嶼部という地理的制約が、これに輪をかける。

「蒙古大唐ノ船共」は、「対馬ニハ不寄」して、「壱岐ノ嶋」のみに「着」と記しているが、これは江南軍主力は別隊の「高麗ノ兵船」とは、異なったルートを辿っていることを示している。

しかし、単なるルートの差異のみを言っだけではなく、出会った日本人に対する行為にも相違があったとのニューアンスを表現しているようである。「高麗ノ兵船」が特に〃残虐的〃だった可能性が高い。

長崎県北松浦郡鷹島町には、蒙古襲来にまつわる地名、あるいは悲劇の話が存在する、弘安の役時、この島の沖を含む伊万里湾・平戸方面で、合同した東路軍・江南軍両艦船隊が大暴風雨によって壊滅した件によって、有名な島でもある。

この島は弘安の役も勿論だが、文永の役時にも寇掠を受けていた。地名には、首除・伊野利(祈り)の浜・刀の元・供養の元・地獄谷・血崎・血浦・胴代・鬼塚・遠矢の原等々がある。

また、鶏が鳴いたため元上陸軍に発見され、一家皆殺しにされた開田という所では、今でも鶏を飼わない風習が残っている。

日本による韓国・中国への侵略だけが操り返し糾弾される昨今だが、彼らによって日本が受けた傷跡が今もなお残っていることも憶えておく必要があるだろう。

捕虜の手に穴を開けて縄や針金を通し連行するのは現在まで続く朝鮮の伝統のようだ。 あすなろおじさんのつぶやき:「脱北者の鼻を針金で刺し通して送還」 から

『制服姿の朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)保安員(警察)たちに逮捕された脱北者(北朝鮮を脱出した住民)100人余りが、鼻と手を針金で刺し通された状態で、トラックで北朝鮮に連れて行かれたと、現場を目撃したある米国人が23日、明らかにした』


韓国人は、「元が日本を征服できなかった理由は日本軍の奮戦もあったが、高麗の三別抄の乱にみられるように40年にわたる高麗の抵抗が元軍の日本出撃を遅らせたたため日本側はその間戦闘準備する時間的余裕が出来たこと、元に命じられた造った軍船は高麗人が手抜き製造したため脆く台風という「神風」ですぐに難破したことも日本が助かった大きな理由であり、結果的に日本の被害が最小限で済んだのは高麗の抵抗のおかげである」と手前勝手な主張をしているが、元寇に参加した諸民族のうち日本に最も害をもたらしたのは高麗(朝鮮)人なのである。

ベトナム戦争における残忍無比な韓国人兵士たちの暴行・略奪・殺戮

「朝鮮 ―新しい危機の内幕―」 D.W.W.コンデ 岡倉古志郎訳 1969年 新時代社


1965年の9月と10月に"ファイアス・タイガー"日本語では猛虎師団(朝鮮語ではメンホサタン)と"ブルー・ドラゴン"日本語では青竜師団(朝鮮語ではチョンヨンサタン)の両師団がベトナムへ上陸した。

"索敵殺害"――"殺し尽くし、焼き尽くし、破壊し尽くせ"という作戦―のなかでも最も残忍無比なことをやってのけたのは、他ならぬこれら両師団だったのである。

次に掲げる詳細なリストは、ハノイの日刊紙ニャンザン(人民)を含む、ハノイを通じて中継された解放民族戦線の報道に基づいたものである。

1965年から1966年の間、プウエン省のタオ村で、韓国軍は、ほとんど大部分が婦人の村人42人を狩り立て、やがて小火器を浴びせ、全員を殺害した。

1966年1月11日から19日の間、ジェファーソン作戦の展開されたビンディン省では、韓国軍は300人以上の住民を捕まえ、拷問を加え、更にまた400人以上のベトナム人を殺した。

1965年12月から1966年1月の間に、韓国軍は、ビンディン省のプレアン村では数百戸の家々を炎上させ、一方キンタイ村を完全に掃討した。同じ省の九つの村々で韓国軍は、民間人に対して化学兵器を使用したのである。

1966年1月1日から同月4日までの間に、ブン・トアフラおよびヨビン・ホアフラ地方で、韓国軍は、住民たちの所有物を残らず略奪したうえ、住民の家やカオダイ教の聖堂を焼き、さらに数千頭の家畜を殺した。

彼らは、また仏教寺院から数トンもの貨幣をくすね、それから人民を殺したのである。「ある村が、わが軍の支配下に陥ると、その次の仕事はベトコンから村人たちを分け離すことなのだ」――こう言ってのけたという一韓国軍将校の話しが引用された。

ナムフュン郡で、韓国軍は4人の老人と3人の妊婦を、防空壕の中へ押し込め、ナパームとガスで殺した。アンヤン省の三つの村では110人を、またポカン村では32人以上を、こうしたやり方で、殺したのである。

1966年2月26日、韓国軍部隊は、137人の婦人、それに40人の老人と76人の子供も一緒に、防空壕の中へ押し込めて、化学薬で殺したり、全員を盲にさせたりした。

1966年3月26日から28日にかけて、ビンディン省で、韓国軍は、数千におよぶ農家と古寺院を炎上させ、若い女性や年老いた女性を集団強姦した。8月までに、"勇猛な"朝鮮人たちは、ビンディン省における焦土作戦を完了した。

ブガツ省では、3万5千人の人たちが、"死の谷"に狩り立てられ、拷問を完膚なきまで加えられてから全員が殺された。

10月には、メコン河流域では、裸で両手ないしは両足の19人の遺体が川から引揚げられた。これらは、いずれも陵辱された少女たちの遺骸であった。

この事件に先立って、同じ地域で共同作戦中の米軍と韓国軍が、昼日中に結婚の行列を襲い、花嫁を含め7人の女性を強姦した、との報道もあった。かれらは、結婚式に呼ばれた客の宝石を残らず奪ったうえ、3人の女性を川の中へ投げ込んだ。

放火、銃剣による突き殺し、拷問、強姦、強奪――こんな記事は、ほとんど毎日のように続いている。母親の胸に抱かれたいたいけな乳幼児でさえも、非人間的な殺人行為を免れることができないのだ。

これは、たった一都市に起きた"南京大虐殺"どころの話ではないのだ。これこそ、アメリカの新聞の力をもってしても、中国の南京で起こった話を語ることのできない、今日の"ベトナム民族大虐殺"なのである。

つまり今日では米軍および韓国軍の検閲官が全強権を発動し、事実が明るみに出るのを妨げているのである。
(中略)

なぜ在ベトナム韓国軍がかくも攻撃的で残酷であるかという理由は、彼らが、アメリカが与えてくれた"援助"に対してお返しをするためであり、さらにまたそれは韓国民に対して彼らが、アジアにおいて"平定"の役割を演ずることができるのだという"誇りと確信"の感情を与えるためである、と1967年5月、ソウル政府当局は日本人記者に説明した。

在ベトナム韓国軍の行動は、ソウル政府がワシントンと"取引きする"うえでの立場を向上させた、とも伝えられた。最後にまた、"韓国兵たちがベトナムから送ってくる金"が兵士の家族ばかりかソウル政府の国庫を潤しているとも伝えられた。

(在ベトナムの韓国軍兵士は月額60ドル――米兵士の約半額の支給を受けている。月に平均10ドルを使い、残額を南朝鮮へ送金しているのである)。

しかし、在ベトナムの"猛虎"がこのように特に尽くしたことに対して、南朝鮮に与えられた非常に大きな"ごほうび"、すなわち南朝鮮の"輸出"を増やし"工業ブーム"の錯覚づくりに寄与した、数百万ドルに達するセメント、鉄、その他戦争に必要な機材などの購入については、語らずじまいであった。

SAPIO 2001年9月26日号


「被害者史観」韓国を揺るがす ベトナム民間人虐殺の「加害責任」  佐藤和

戦争といえばまず「被害者」だった韓国が、いま揺れている。ベトナム戦争時に従軍した韓国人兵士の「民間人大量虐殺」が報道され、長年のタブーだった「歴史の恥部」の解釈を巡って激しい議論が起きているのだ。

それは虐殺か戦争か。謝罪はするべきか不要か。どこかで聞いたような議論は、しかしベトナムが謝罪も補償も求めていないことで、むしろ国内の政治問題となる可能性もでてきた。ことの経緯と一般韓国人の認識をレポートする。

「償いの必要はない」といった元司令官

ベトナム戦争が終わり、南北ベトナムが統一して既に四半世紀が通ぎた。そして韓国ではここ数年、あの戦争をめぐり長らくタブーとされてきた過去について、かつてない議論が進められている。

その過去とは、ベトナム戦争に参戦した韓国軍によるベトナム民間人の虐殺問題だ。最初にタブーを破ったのは、韓国のハンギョレ新聞社が発行する週刊誌『ハンギョレ21』だった。

同誌は99年、韓国軍がべトナム戦当時に起こした虐殺事件について記事を掲載したのだ(5月6日号/韓国の民主化の中で生まれたハンギョレ新聞社は88年創業、現在新聞発行部数は韓国第4位)。

この記事を書いたのは、韓国人歴史研究者のク・スジョン。彼女はベトナム戦争の韓国軍の残虐行為が記されたベトナム側の資科を入手し、韓国の市民団体の一行とともにベトナム現地で検証を始めたのだ。

ある地域で、猛虎部隊(韓国軍部隊)等による1か月間の作戦で1200名もの住民が虐殺されたという66年当時のベトナム側の報告を紹介しながら、同時に生存者たちの証言に基づき虐殺の様子を具体的に描いている。

例えば、生存者の証言からは韓国軍による民間人虐殺の方法にいくつか共通した類型があったようだと、同記事には記されている。

以下、その部分を略して引用すると‐‐大部分が女性や老人、子供たちである住民を一か所に集め、機関銃を乱射。子供の頭を割ったり首をはね、脚を切ったりして火に放り込む。

女性を強姦してから殺害。妊産婦の腹を、胎児が破れ出るまで軍靴で踏み潰す。トンネルに追い詰めた村人を毒ガスで殺す−−等々だ。

日本の戦争責任を追及してきた韓国の人々にとって、自国軍も虐殺をしていたのだという告発は、苦いものであったに違いない。

続いて同誌の2000年4月27日号には、住民虐殺を行なったという元軍人による加害証言が掲載された。戦争当時、一般住民とゲリラを区別するのは難しく、我が身を守るためには仕方なかったのだとその元軍人は述壊した。

しかし同時に、今やその行為に罪悪感を感じ、韓国政府がベトナムに謝罪し被害者に補償することを望むという彼の声も、同誌では伝えられた。

これと前後して米誌「ニューズウィーク」が「暴かれた英雄の犯罪」と題してベトナム戦争での韓国軍の虐殺問題を取り上げた(2000年4月21日号)。

ク・スジョンらの調査を紹介しつつ、「8000人以上の民間人を殺した韓国軍の虐殺行為の数々」が明らかにされつつあると、7ぺージにわたり大々的に報じたのだ。タブーであった虐殺事件についてのこれらの報道に対し、韓国国内では激しい反撃が起きた。

同年6月27日には、ベトナム戦に従軍した退役軍人ら2000人余りがハンギョレ新聞社に乱入しコンピュータなどを破壊した。彼らは「大韓民国枯葉剤後遺症戦友会」のメンバーで、国のために闘った戦友を冒涜(ぼうとく)されたと激しく抗議したのだ。

ベトナムへの韓国人派兵は64年に始まり、延べで30万人以上の兵士を送り込んだ。米国に次ぐ大派兵であった。この戦争で約5000人の韓国人が死んだ。

ハンギョレ新聞社に乱入した元兵士たちがそうであったように、アメリカ軍が散布した枯れ葉剤の被害に苦しむ元兵士らが、今も韓国には多い。

ベトナム戦争当時、韓国軍総司令官だった蔡命新は、先の「ニューズウィーク」でのインタビューで「誰に対しても償う必要はない。あれは戦争だった」と明言している。

アメリカ軍によるソンミ事件などの虐殺行為がベトナム戦争当時から国際的に批判を受け議論の的となったのとは対照的に、韓国軍による虐殺行為については、こと韓国国内では長く沈黙が保たれてきた。

冷戦時代、反共産主義が優先された韓国では、自国の恥部となり得る問題は隠されてきた。それどころか自国民が被害者となったケースでも、問題は隠されてきた。

例えば朝鮮戦争下での米軍による韓国避難民大量虐殺の事実でさえ、韓国メディアで報道されたのは金泳三政権になってからの94年である。

また全斗煥・盧泰愚両大統領がベトナム戦争で武勲を挙げた軍人であったという政治事情もあり、ベトナム戦での過去は、韓国では幾重にもタブーであり続けた。

しかし、冷戦終結と韓国の民主化により、このタブーは破られた。では韓国のごく一般の市民はこの問題をどう受けとめているのだろう。

「世代によって、受けとめ方はかなり違うでしょうね。若い世代であれぱ、さほど反発もなくふつうに考えられるでしょうが」そういうのは、米国の大学に留学中の韓国人男性(28)だ。

「自分たちの世代にとって、ベトナム戦争といえば、まず韓国が高度成長を遂げた時代という、明るいイメージとセットになっている。そもそもベトナム戦争について学校で習ったり、語り合ったりした記憶もない。

よく『忘れられた戦争などといういわれ方もされましたが、本当にそのとおりでしたから」 実際に、韓国の歴史教科書には、ベトナム戦争についてほとんど記述はされていない。

中学生向けの国定教科書に記されているのは「そして、共産侵略を受けているベトナムを支援するために国軍を派兵した」の約1行のみだ(『入門韓国の歴史‐国定韓国中学校国史教科書明石書店より)。

そして、教科書以外での「認識」としては、やはり「経済成長」の方が先にくるというのも一般的な認識のようだ。ベトナム戦争時、韓国からベトナムへは兵士のみではなく、多くの労働者や技術者、ビジネスマンなどが渡っていった。

兵士らにアメリカから支給された手当や労働者らの賃金、韓国企業の得た利益などは約10億ドルにものぼり、それらは本国に送金されて韓国経済を潤した。

かつて日本が朝鮮戦争の特需を契機に高度経済成長したように、韓国がこの「ベトナム特需」を契機に「漢江の奇跡」と呼ばれる驚異的な経済発展を遂げたことは、広く知られるところだ。

ソウル在住の会社員(35・男性)は、こう語る。

「虐殺のことはメディアに取り上げられて知りました。でも詳しく読んだわけでもないし、どこまでが事実なのかわからない。ベトナムと韓国はいい関係にあり、日韓関係とは違うと思う。問題化しないかぎり、このままそっとしておきたい気特ちです。ベトナム戦争では被害にあった韓国人兵士も多く、自分の家族に戦争での負傷者がいれば、複雑な気持ちだと思いますよ」

「日本人の友人の微妙な表情がわかった」

そして「虐殺」と「責任」となると、どうしても「日本」が出てきてしまうところも、この議論を複雑にしている。ソウル在住の大学生(24・男性)は「徴妙な気持ち」と語った。

「自分としては(虐殺の報道は)ショックでした。ベトナムは観光ブームになったときに行きたいな、と思っていたけど、現地の若者と話すときにどういう態度を取ったらいいか迷いますね。同じ世代の日本人と会ったとき、彼らが徴妙な顔付きをしていたのが、わかったような気もする。教科書や靖国で激しい日本批判があるけれど、自分たちだって同じようなことをやったじゃないか、日本だけを責められるのか、という気持ちにもなる。もっとも、それを日本からいわれれば、やっぱりムカつくけれど」

ソウル在住の会社員(24・女性)も「日本を非難するなら、韓国ももっとベトナムに謝罪するべき。きっぱりした態度をとらないと、逆に日本につけこまれる恐れがあるのではないでしょうか」と、日本を意識した発言をした。

ちなみに、ベトナム政府はこれまで謝罪や補償は一切求めていない。98年、韓国大統領として初めてベトナム訪問をした金大中は「遺憾の意」を表明。

韓国外交省も「謝罪ではない」とコメントしていた。しかし、この8月24日、ソウルで行なわれた首脳会談で、ベトナム大統領として初めて訪韓したルオン大統領に対し、金大中大統領は「我々が不幸な戦争に参加し、不本意ながらベトナム国民に苦痛を与えたことを申し訳なく思うと、「謝罪」に一歩踏み込んだ発言をした。

「うまいやり方ですね。意図はともかく、これで日本から「韓国は謝ってさえいないじゃないか」と突っ込まれるスキをなくしたわけだから」と、韓国攻治に詳しい韓国人ジャーナリストはいう。

「だが、これで韓国人全体が「自分たちも加害者だった』と認識したと考えない方がいい。むしろ、この謝罪は日本に向けた外交力−ドとみた方がいいでしょ」歴史認識が世界中で「外交ツール」となってしまった時代に、しかもベトナムだけでなく、そこに「日本」も絡んでくるだけに、この問題、韓国内では難しい議論詮となりそうだ。


韓国人はベトナム戦争で突如残虐性を発揮し始めたのではない。遡れば万宝山事件後の中国人虐殺・壬午軍乱の日本人虐殺などいずれも残忍な殺され方をしたのである。李朝末期の朝鮮を訪れた外国人を嘆かせたのも朝鮮人の野蛮な残虐性であった。監獄での残酷な拷問・刑罰については当サイトのこちらを参照

「朝鮮の悲劇」 F.A.マッケンジー 1908年(渡辺学訳 1973年 平凡社東洋文庫)


(時は閔妃暗殺事件の後、金弘集を中心とする親日内閣が組閣され数々の改革政策が実行された。しかし閔妃事件で反日感情が高まっている状況下で発令された断髪令は大きな反発を呼んでいた。そのような時に、高宗国王が王宮を捨ててロシア公使館へ突然移り住んだ。高宗は親日政権の首脳たちを逆賊として捕殺するよう命じソウルで暴動が起こった。)

その日の夕刻、第二の詔勅が天下に公布され、兵士たちに、自分たちの国王を守り、謀反の首謀者たちの首をはねて国王のところにそれを持参するよう呼びかけた。

この詔勅は、集まった群衆の怒りを最高潮にかきたてた。大群衆が前閣僚たちを殺害しようと捜し求めた。二人の大臣(前内閣総理大臣金弘集と前農商工部大臣鄭秉夏との二人)が、街路にひきずり出され、残忍きわまる方法で殺害された。

そのうちの一人は、首の後ろから耳の前にまでわたる酷い深傷を負っていたが、群衆はその彼が倒れるとき猛獣のような大きな歓声をはりあげた。

群集は、その死体に向かって石を投げつけ、あるいは踏みつけ、またある者はその四肢をずたずたに切り裂いた。一人の男は、自分の小刀を抜き放って、死体の内股の肉を切り取り、その肉片を自分の口に入れながら、群衆に向かって「さあ!奴らを食おうではないか」と叫んだ。

しかし、これは逆上していた群衆にとっても、さすがにあまりにも酷すぎたので、群衆は恐怖のあまり後ずさりしたのであった。

「朝鮮紀行」 イザベラ・バード 1897年(時岡敬子訳 1998年 講談社学術文庫)


日中の一番暑い盛りにわたしたちは発展中で活気のある町元山(朝鮮半島中東部にある)の、汚れて狭い路地とでこぼこした商店の屋根がひしめき合う街道に着いた。

推定人口1万5000人のこの町は… 路地の悪臭は凄まじく、土ぼこりは全く酷いもので、哀れな犬は大量にいる。また大量の血のしたたる肉片がひなたで黒ずんでいくのには完全に胸が悪くなった。

屠殺方法の違いが肉をこうさせてしまうので、ソウルでも他の町でも外国人は肉は日本人の肉屋で買わざるをえない。朝鮮人は牛の喉を切り、開いた切り口に栓をしてしまう。

そうしておいてから手斧(ちょうな)を取り、牛の尻を死ぬまで殴る。これには1時間ほどかかり、牛は意識を失うまで恐怖と苦痛にさいなまれる。

このやり方だと放血はほんの少量で、牛肉には血液がそのまま残り、その結果重量が減らないので売り手には得というわけである。
(中略)

わたしたちは松都(朝鮮半島中西部にある)に着いた。松都は開城ともいい、朝鮮第二の都市で、いまをさかのぼる5世紀前までの前王朝時代には国の首都であった。

人口6万人のこの都市は… ここには定期市に似たざわめきと活気と小商いの光景があった… 低い台や地面に敷いたむしろの上に、ありとあらゆる朝鮮の必需品と贅沢品が並んでいる。

その中にはイギリス製の雑貨もかなりあれば、血を大量に含んだ牛の干し肉もある。朝鮮で屠殺した肉を見れば、誰だって菜食主義者にならざるをえない。

ヤギの屠殺方法は小さな川で引っ張りまわすというもので、この方法だと癖のあるにおいが消えるといわれている。犬は首に縄をかけて振りまわし、その後で血を抜く。朝鮮人の手にかかった仔牛については前に述べた。暑い日差しの下ではせわしなくて汚く、哀れで不愉快な光景だった。

「朝鮮亡滅」 ホーマー・ハルバート(「醜い韓国人」 朴泰赫 1993年 光文社 より)


(ハルバートは李朝末期の朝鮮に滞在したアメリカのメソディスト派宣教師で、ジャーナリストでもあり歴史学者でもあった。)

動物がひどく苦しがっていることが判るときでさえ、一般の朝鮮人はまったく関心を示さない。道路に病気になった猫や犬や、けがをした鳥などがいると、子供も大人も老人も手に手に棒や石を持って、この哀れな動物をいじめ殺してしまう。

路上で不運な犬が首に縄をつけて犬肉店に引っ張られていくとき、子供の群れがガヤガヤ騒ぎながらその後について行く。子どもたちは、かわいそうな犬が首を絞められ、最後のあがきをするのを見たいという期待に胸をふくらませている。

韓国の独立記念館・西大門刑務所歴史館(旧京城監獄)などでは、日本を悪者扱いしようと日本人の残虐性をことさら強調する館内展示がされているが、日本人や外国人も目をそむける残虐性を発揮した自民族の蛮行も歴史の教訓として展示してもらいたいものである。

朝鮮が日本統治時代であった頃、上海にあった大韓民国臨時政府の主席であった金九は、李奉昌や尹奉吉を使ったテロ事件を指揮した人物として知られているが、彼もまた日本人を殺しているのだ。(李奉昌は東京・桜田門で天皇の馬車に爆弾を投げた。尹奉吉は中国・上海の虹口公園での日本の天長節(天皇誕生日)祝賀式で爆弾を投げ多数を殺傷した。)

「白凡逸史 -金九自叙伝-」(梶村秀樹訳 1973年 平凡社東洋文庫)


波瀾万丈の青年時代

(時は閔妃暗殺事件の後、開化派の金弘集を中心とする親日内閣が組閣され数々の改革政策が実行された。しかし閔妃事件で反日感情が高まっている状況下で発令された断髪令は大きな反発を呼び反日・反開化の動きを武装闘争へと導く契機となった。そのような時に、高宗国王が王宮を捨ててロシア公使館へ突然移り住んだ(1896年2月)。高宗は親日政権の首脳たちを逆賊として捕殺するよう命じソウルで暴動が起こっていた。著者の金九は外国行きの予定を変更し時勢の様子を見るため黄海道の安岳に行く途中であった。)

冷たい風の吹く夜道を歩いて鴟河浦の舟宿に入ると、風浪のため航路を閉ざされて滞留していた客が三間の大部屋にいっぱいおり、いびきをかいて寝ていた。

われわれ一行もその隙間に割り込んで、やっと寝付いたかと思うと、もう先に寝ていた人たちが起き出して、「きょうは天気が良いから、明け方に船を出してくれ」などと騒々しくなった。

続いて、アレッバン(台所に近いほうの部屋)からもう食膳が出され始めた。わたしも、しかたなく起き上がって座り、自分の膳が来るのを待ちながら部屋の中を見回した。

まん中の部屋に、一人断髪した人がいるのが目についた。その人が、誰か他の旅行者と挨拶を交わしているのを聞いていると、彼は姓は鄭氏で長淵に住んでいるというたしかに、長淵では、早くから断髪令が実施され、民間人でも髪を切った人が多かった。

しかし、その言葉遣いは長淵の方言ではなく、ソウルの言葉だった。朝鮮語が随分上手だったが、わたしの見るところでは、彼は明かに倭奴だった。

よく観察してみると、彼の白い周衣(トゥルマギ)の下には、軍刀の鞘が見えた。「どこへ行くのか」と声をかけられると、彼は「鎮南浦へ行くところだ」と答えた。

「普通の商売人や工業家の日本人ならば、このように変装、変名するわけがないのだから、これはきっと国母(閔妃)を殺した三浦梧楼のやつかそうでなければその一味の者に違いない。

もしいずれでもないとしても、わが国家と民族に害毒を流す者であることは明かなのだから、あいつを殺して少しでも国の恥をそそごう」とわたしは決心した。

そして私は、私の力と周囲の条件を頭の中で計ってみた。三間の大部屋の40余名の客のうちに、そいつの仲間がまだ何人いるのかどうかは分らなかったが、その男のそばには17、8歳に見える青年が一人従っていた。

私は考えた… あの倭に髪の毛ほどの疑いも起させずに安心させておいて、私一人だけが自由自在に振舞えるような方法を取ることにした。

なにぶん寝覚めの口に早朝の食事のこと、他の客たちがまだ三分の一も食べ終わらないうちに、彼らより後から膳を受け取った私は、たった4、5匙で一杯の飯を平らげてしまい、立ち上がって主人を呼んだ。

そして、「私は、きょうは日のあるうちに700里(朝鮮の1里は0.4キロメートルなので280キロ)の道を歩かなければならないので、食事をあと7膳用意してこい」と言いつけた。

37、8歳になるらしい骨格たくましい主人は、私の言葉に答えず、部屋にいる他の客たちを見回しながら、「若いのに、かわいそうに、頭がおかしいんだな」と言って、行ってしまった…

しかし、あの倭は、別に私に注目する気配もなく、食事を終えると外に出て行き、戸口の敷居のところにもたれて室内を覗き見ながら、お供の青年が「煙価」(宿賃)の支払いを済ますのを見ていた。

わたしは、「時は来た」と思って、ゆっくり起き上がり、「この野郎!」と叫びながら、足でその倭奴の胸を蹴ると、そいつは、たっぷり一丈もある入り口の石段の下に落ちていった。

わたしは、飛ぶように後を追って下りていって、そいつの首根っこを踏みつけた。三間の大部屋の四つの窓が一斉に開き、そこから人々の首はにょきにょきと突き出された。

わたしは、追っかけて出てくる群衆に向かって、「この倭奴を助けようとわたしに近づく奴は、誰でもみな殺すぞ。わかったか?」と宣言した。

この言葉が終わらないうちに、わたしの足で蹴られ押さえつけられていた倭奴が、身をよじって刀を抜き、それをピカピカ光らせながらわたしに斬りかかってきた。

わたしは、わたしの顔面に振り下ろされる刀をよけながら、足を上げてそいつの脇腹を蹴って倒し、刀を持つ手首を力いっぱい踏みつけると、自然と、刀が凍った地面に音を立てて落ちた。

私はその刀を拾って、倭奴の頭から足の先まであちこちを切りつけた。2月の寒い明け方のことで、氷が張っていた地面に、血が泉の湧くように流れた。

わたしは手でその血をすくって飲み、またその倭の血をわたしの顔に塗り付け、血がぽたぽたしたたり落ちる長剣をさげて部屋に入って行き、「さっき、倭奴を救うおうとわたしに近づこうとした奴は誰だ?」とどなった。

逃げそこなった旅行者たちは、みな床に這いつくばり、ある人は、「将軍さま、お許し下さい。わたしは、あいつが倭奴とは知らず、普通の人かと思って止めに出たのです」といい、またある人は、「わたしは、きのう将軍さまと一緒に海で苦労した者です。倭奴と一緒に来たのでありません」と言い、みな怖がってぶるぶる震えていた…
(中略)

わたしは主人に、「あの倭は誰か」と尋ねた。その答えによれば、あの倭は黄州(黄海道北部の都市)で朝鮮舟を1隻借り、それに乗って鎮南浦へ行くところだったということだった。

わたしは主人に命じて、その舟の船員を呼ばせ、舟にあったその倭の所持品を取り揃えて持って来るようにさせた。

やがて船員たちがその倭の持ち物を持ってきて、「手前どもは、ただ船賃を貰ってあの倭を乗せた罪だけしかありませんから、許してください」と懇願した。

所持品によって調査したところ、その倭は陸軍中尉土田譲亮という者で、葉銭800両がその荷の中に入っていた。私はその銭の中から船員たちの船賃を払ってやり、残りはこの村の貧しい人々を救うようにと言いつけた。

主人の李先達が、ちょうど洞長(村落の長)でもあった。死体の処置については、わたしは次のように言いつけた。「倭奴は、単に我が国と国民の仇であるばかりでなく、水の中の魚たちにとっても仇なのだから、この倭の死体を河に沈めて、魚たちに国の仇の肉を食わせるようにせよ」と。

主人の李先達はすこぶる機敏に立ち働いて、一方では洗面道具を持ってきたりした。一方では7杯の飯を一つの膳に乗せもう一つの膳に麺類やらおかずやらを載せて持ってきたりした。わたしは洗面をし、顔や手に付いた血を洗い取ってから、食膳を引き寄せて食べはじめた。

1杯の飯をすっかり平らげてから十分しか経っていなかったのだが、激しい運動をしたために1、2杯は食べることができるにしても、7杯はすっかり平らげることはできなかった。

だが、さっき言ったことが嘘になるのも恥ずかしく、ヤンブン(真鍮の上の広い鉢)を一つ持ってこさせ、そのヤンブンに飯とおかずを一緒に入れてかき混ぜ、匙ももう一つ頼んで二つの匙を横に並べて持ち、一匙の飯が沙鉢(陶器の鉢)ほどにもなるように、形よく大きくすくい取り、2、3杯分ほど食べてから、匙を投げ出し、「きょうは飲みたかった倭奴の血を存分に飲んだので、飯が入らんわい」と独り言をいって、涼しい顔をしてみせたものだ。

この人を殺しても平然としている「吸血鬼」のような男が、驚くことに伊藤博文を暗殺した安重根と並ぶ韓国近現代史の英雄なのである。

敗戦による朝鮮半島引揚げの惨事


共産主義国家の蛮行は左翼マスコミに無視されてきた。

「韓国・朝鮮と日本人」 若槻泰雄 89年 原書房


惨憺たる北鮮引揚げ
日本の連合国への降伏により、日本軍は38度線を境に、南鮮はアメリカ軍、北鮮はソ連軍へ降伏するように指令された。

南鮮の日本人は終戦の年の暮れまでにほとんどすべて引揚げたが、北鮮では約31〜2万の日本人がそのまま残っていた。もともと北鮮に住んでいた27〜8万と、満州から戦火をさけて逃げてきた4万人である。

北鮮にはいってきたソ連軍は、満州におけると同様、略奪、放火、殺人、暴行、強姦をほしいままにし、在留日本人は一瞬にして奈落の底に投じられることになった。

白昼、妻は夫の前で犯され、泣き叫ぶセーラー服の女学生はソ連軍のトラックで集団的にら致された。反抗したもの、暴行を阻止しようとしたものは容赦なく射殺された。

「各地の凄惨な記録は読むにたえない」と、『朝鮮終戦の記録』の著者森田芳夫氏は書いている。

それらは主としてソ連軍兵士によって行なわれたことであり、また占領地の住民の保護にあたるべきソ連軍当局の責任であることは明らかだが、ソ連兵に触発された朝鮮人の暴行も多かったし、ソ連軍を背景に行政権を掌握した北鮮の人民委員会も、その責任はまぬかれない。

たとえば3000名中、その半数が死亡した富坪の避難民の情況を調査するため派遣された咸鏡南道人民委員会検察部、李相北情報課長自身、次のように報告している。


…かれら(在留日本人)の大部分は、途中において衣類、寝具等を剥奪され、零細なる金銭と着衣のみにて咸興市内に殺到したるも…

われわれは36年間の日帝の非人道的支配に反発し、立場が逆になった日本人全般に対する民族的虐待という、ごく無意識のうちにファッショ的誤謬をおかしたことを告白せざるを得ない。…

駅前に雲集せる三千余名の避難民を空砲と銃剣を擬して、即時咸興市外脱出を強要し、市外に追放した。その結果、断え間なく降りつづいた雨中の川辺と路傍に野宿し、極度の困憊(こんぱい)と栄養不良を激成し、…

富坪避難民の宿舎は実にのろわれたる存在である。それは実に煤煙と、あまりの悲惨さに涙を禁じ得ない飢餓の村、死滅の村なり。

襲いくる寒波を防ぐため戸窓はたらず、かますで封鎖され、白昼でも凄惨の気に満ちた暗黒の病窟なり、それは避難民を救護する宿舎ではなく、のろいを受くる民族のまとめられた死滅の地獄絵図にして、老幼と男女を問わず、蒼白な顔、幽霊のようにうごめくかれらは皮と骨となり、足はきかず、立つときは全身を支えることもできず、ぶるぶるふるい、子供たちは伏して泣す。

無数の病める半死体はうめきながらかますのなかに仰臥しており、暗黒の中にむせびつつ、……そこに坐しているのは実に地獄の縮図以外の何ものにもあらず…
(森田芳夫『朝鮮終戦の記録』)


一日も早く引揚げさせてくれという要望はソ連軍当局によって無視され、日本人はただただ餓死を待つよりほかない状況に追い込まれた。

こうして在留日本人社会では「38度線さえ越えれば」というのが唯一の悲願となった。

やせこけた身体に乞食のようなボロをまとい、山を越え谷を歩き強盗にささやかな所持品を奪われ、歩哨の銃弾にたおれ、そして時には泣き叫ぶ子供の口をふさいで死にいたらしめるまでして、人々は南にたどりついたのである。

38度線は朝鮮民族にとっては何十万の血の流れた同胞争闘の境界線となったが、20万を超える日本人にとってもまた、血と恨みにいろどられた『天国と地獄の境』となったのである。

「大東亜戦史8 朝鮮編」 池田佑編 昭和46年 富士書苑


三十八度線        木下宗一

満州から鴨緑江を越えてぞくぞくと南下する避難民を朝鮮軍は平壌でストップさせた。やがて、38度線は朝鮮を南北にまっ二つに分断した。北鮮にあった日本人は、この分断線によって悲運のどん底に突き落とされた。
(中略)

北鮮を追われた避難民の群れは、平壌へ、平壌へと流れてきた。列をなした乞食の群れである。ぞうりを履いている者はほとんどいない。

女も子供も皆ハダシである。山を越え、熱砂をふんだ足の裏は、ザクロのように裂け、その傷にはウジがわいている人もいた… 

平壌には元からの在住者が2万8千名もいる所へ、汽車で送られて来た疎開者が1万2千名もはいっていた。そこへ、北鮮からのこのハダシ部隊が毎日毎日流れてきた。

若松小学校の避難舎は、これらの人々を迎え入れて日とともに膨れ上がっていく。中には一椀のカユをふるまわれ優しい言葉で迎えられると、悪夢のような数日の怒りがこみ上げてくるのであろう、「畜生、ロスケのやつ」「山賊朝鮮人め!」髪を振るわして、勝利者の暴力を訴える婦人もいる。

負けた者の宿命に、悲しいあきらめを残して、これらハダシ部隊の大部分はぞうりを恵まれてたって行く。1日でも早く、1時間でも近く、祖国日本の姿に接したいのである。南へ、南へ、38度線突破の一念に燃えながら――

乏しい食糧の所へ、これらの南下部隊を迎え入れて、若松小学校の疎開本部は苦しい生活が続いた。1日ひとり1合の米が心細くなって、1日2食のカユになった。子供たちは腹をすかして母親を困らせた。

ある日――それは何かの祝いの日にあたっていたので、肉入りの味噌汁が大なべで作られていた。そこへ朝鮮の子供がいつものとおり4、5人からかいにやってきた。

遊びに来るというのではなく、子供ながらも自分たちの優越感を誇りに来るのである。そんな時に、このやろう! とでも言おうものなら、後の仕返しがそれこそ大変である。

朝鮮人の顔役がズラリ顔をそろえてやって来て、打つ、蹴る、殴るの「見せしめ」が始まる。この日も悪い奴がやって来た! と思ったが、炊事当番の人々が知らぬ顔をしていると、「負けたくせに生意気だ」と食って掛かって来た。

あまりの雑言にきっと目をすえると、「これでも食え!」と言いざま、足もとの土砂をすくって パッと味噌汁の鍋にたたきこんで逃げていった。久しぶりのご馳走というので、窓、窓には笑顔が並んでいたが、この光景に、窓の表情はたちまち青ざめた憤りに変わった。

今日もまた「命令」と称して朝鮮人のトラックが乗りつけて来た。カーキー色のものは服といわず靴といわず、一物も余さずかっさらって行く。これらは軍需品だから没収するというのである。

これから寒さに向かうというのにシャツ1枚でも無駄にはできない、その貴重品をトラックに山積みにして今日も引揚げていく。避難の人々は、最後の1枚を没収されないためにチエを絞り出した。明日もまた現れるであろう没収団のため、有り合わせの染料で他の色に染め変えてしまった。

その翌日――。朝鮮側の命令は例のとおりやってきた。一同は一夜で変わった黒や青色の服で列をつくったが、予想に反して今度は服装には目もくれず、意外な命令が言い渡された。

「今度は一切の所持金を提出しなければならない。もし、この命に違反し、一銭といえども所持していることが後で分った場合は銃殺される。では、本日ただちに提出するように」有無を言わせない強制処置である。

今後何か月かかるか分らない長い苦難を前に、金こそは命の綱である。その命の綱を一銭残らず供出したら――今までに子供がおなかをすかせれば芋の一つも買ってやれたのに、無一文は死の宣告も同然である。

しかし、銃殺で脅かされた一同は、泣く泣く最後の一銭までも提出してしまった。その夜――カユをすすった避難民一同は絶望の中に寝られぬ夜明けを迎えた。

その朝も、恐怖のマトである命令が来た。1日1日この命令で心臓を締め付けられてきた一同は、伝令の姿が現れると、もうそれだけで体が震え出した。「命令――」冷厳な、その命令は疎開本部代表に針のような鋭さで伝達された。

「17歳以上、50歳までの男子は、ひとり残らず軽装で集合せよ」十分の猶予が与えられて男子は校庭に集合した。この部隊はそのまま朝鮮保安署に連行された。

残された婦人たちは「いつもの使役だとよいが… 」と冷たい雨の中を去っていく男子部隊をいつまでもいつまでも見送っていた。この雨中の別れが、長い長い別れとなった。この男子部隊はその夜、移駐を命じられ、遠くシベリア送りとなったのである。

「生きて祖国へ5 死の三十八度線」 引揚体験集編集委員会編 昭和56年 図書刊行会発行


(日本敗戦後一年が過ぎても北朝鮮内の日本人の移動は禁じられていた。筆者のグループは賄賂を使ってトラックを雇い南朝鮮への脱出を決行することになった。)私も居所を中心とした50人ほどのグループに参加した。

昭和21年9月中旬、朝鮮警察のトラックを使用する。料金は一人千円ということで、赤ん坊も含めて、私は六千円を支払った。
(中略)

夕闇の迫る時刻に平壌郊外に集会することになった… 全員乗車し終わると、大きなシートで人間を覆って、トラックは始動をしはじめた。

あのエンジンの音の嬉しさと恐ろしさとは忘れることができない。途中、第1のソ連兵の関門を通った時、停車を命ぜられたのにトラックはそのまま猛スピードで逃れて発砲された。

銃の発射音を聞いたが、別状無く進んだ。第2、第3の関門では、用意の賄賂の酒瓶を与えることで無事通過した… 市辺里で全員トラックから下ろされ、後は徒歩になったのだが、牛車が2台待っていて使用を強制され、荷物を載せて身軽で歩いた。

牛車代はもちろん多額が要求され、次の部落では次の牛車に載せ替えられてまた金を巻き上げられる… いよいよ38度線が稜線だという山にかかると、牛車から下ろした荷のうち、病人や老人の荷は、強制的に数人の朝鮮人たちの背中のチゲ(背負子)に載せることになる。

山の中腹に煙が見えた。そこはチゲ部隊の交替地であった。もうこのころには、醵出(きょしゅつ)する金は無くなっていたが、物でもいいと言われ、せっかく、わざわざここまで運んできた物を大部分取上げられてしまう。

稜線まできたチゲ部隊に、「こんな少しばかりで、お前ら、日本へ帰れると思うのか。もっと出せ出せ!!」と威かくされ、残りの物まで投げ出し、疲労困憊の老幼男女は、狂気のようにこの38度線の山稜を駆け下る。

ああ、ここは衛生施設の整ったアメリカ軍管轄の開城府のテント村であった。この脱出コースは、関所があり、検査所があり、牛車やチゲによって金銭や持ち物を日本人から取上げてしまおうという、最初から最後まで彼らの計画の略奪コースであったのである。このようにして、病死を除いた引揚者は、命だけをようやく日本へ運んだということになったのだった。 (常松泰秀)

「平和の礎 海外引揚者が語り継ぐ労苦12」 平成14年 平和祈念事業特別基金発行


私の三十八度線突破記録  梶山緑
(筆者の家族は朝鮮北部の咸境南道元山市郊外にある文坪という町に住んでいた。)

8月15日(終戦日)を境にして、それこそ天地がひっくり返ったようになり、いく先の運命は段々と暗くなっていった…

文坪の町も日に日に治安が悪くなっていた。しばらく鳴りを潜めていた朝鮮過激分子の跳梁が始まってきた。元山でも朝鮮人が暴徒と化して、日本人経営の店や住宅にまで押しかけて暴行、略奪を始めたという噂が入ってきた。

私たち文坪在住の日本人も、このままでは危ない、何か対策をたてないとということで相談を始めたところに、朝鮮保安隊(朝鮮人による警備隊)から指示があった。その内容は、「日本人は町中の一ヵ所に集め、集団生活をさせることとなった。

2世帯か3世帯が一緒になって同居のような形になる」というような内容だった。態度を豹変させた保安隊員は、指示により他に移り住む人々を、まるで囚人を追い立てるかのように家から追い立てていた。

まだ移転する準備もできずに家財道具も整理していないのに、小銃などで追い出していた。私の家も追い立てられて、よその人の家に同居することになった。

そのうちに、ソ連軍が進駐してきた。ソ連兵は保安隊員の先導で日本人の住宅地区にやってきて、家中を物色しありとあらゆる家財道具を略奪し始めた。

その内のめぼしい物がなくなってくると今度は、「女!女!」と言って若い女性を連れ出すようになってきた。私たち若い女性は、頭髪をぷっつり切り落とし丸坊主になり、貧しい男の子のように薄汚れた服を着るようにした。

ソ連兵や保安隊員が来ると、いち早く床下に隠れたり、前もって準備して掘った穴に身を潜めた。時には敗戦後も親しく付き合っていた近所の現地民の家にかくまってもらったりもして難を逃れていた。

こんなに恐ろしいことになったのも、それまでは日本の警察官補助者として忠実に治安維持の仕事に就いていたのに、日本の敗戦と共に治安維持体制が根本から崩壊し、指導者であった多くの警察署長や上級の警察官が、自らの手で自らの命を絶つような行動をとり、最後まで残った日本人を保護するという体制がなくなり、警察官補助者であった者が保安隊員となって報復心しか持っていなかったことが原因ではなかったかと思う。

命を削り取られるような不安におののく毎日であった。男の子のような姿になっていても、顔見知りの保安隊員に見つかるとすぐにソ連兵に密告され、ソ連兵の先導として襲ってきた。

保安隊員は、あたかも手柄をたてたような顔をしていた。ソ連軍の将校クラブができて、そこにも日本女性が数人ずつ毎日のように連行されていった。私の住んでいた集団住宅にも度々、ソ連兵が銃を片手に構えて略奪にやってきたが、私は幸いに発見されなかった。
(中略)

そのうち満州におけるソ連軍の不法侵入によって終戦前から避難行を開始していた開拓団員などの人々が、乞食同然の身なりで鴨緑江をなんとか渡って、ここ文坪にもやってきた。

十数日間、食べるものも食べられず、わずかな荷物を持って逃げてきたので衰弱がひどく、寒さよけにタオルを首に巻いていたが、そのタオルが重いと言っていた。

しかし文坪でもそれらの人々を暖かく迎えることはできなかった。かわいそうだという気持ちだけで、食べ物も満足には渡されなかった。このときの惨めな思いはそれから当分頭から離れることがなかった。

秋がやってくると、この北朝鮮は寒さが身にこたえてくる。こうなると無謀な脱出はできなくなるので、時期が来るまでここで避難生活を続けて越冬をすることとなった。しかし治安は相変わらずで、保安隊員とソ連兵の行動に一喜一憂していた。

あるときは、保安隊員がやってきて、「日本人は全員帰国することが許されたので、本日の午後3時までに、駅前広場に身の回りの最小限の荷物だけを持って集合せよ」と言って回った。

突然の話でびっくりしたが、やっと日本に帰れるという喜びが先走りして、疑うこともなく一同小躍りして喜び、早速に荷造りを開始した…

両手には当座の食糧をこれまた持てるだけ持った。準備ができて全員いそいそと駅前に向かった。あとのことは知人の朝鮮人に頼んでいた。もう帰国することだけが頭にあった。元山駅に向かって歩き出した…

数時間歩いただろうか、夜も更けていた。突然に保安隊員が走ってきて、行列を停止させて、「今夜の引揚げは都合により中止になった」と、いとも平然とした態度で言い放った。みんな放心したようになってその場にへたへたと座り込んだ。

しかしここで座り込んでいてはどうにもならないので、お互いに励まし合って、またもとの道をトボトボと引き返して家に戻った。戻ってみてびっくりした。

家の中がひっくり返ったように荒らされていた。タンスの中に残してあった母の着物や、私の赤いチャンチャンコなどがどこにも見当たらなかった。

実は、これは引揚げのために元山に向かうといって日本人を家から出して、その間に空き家になった家に入り込み、残っている物を略奪するための手段だった。

その上に今度は、住居まで替えられて棟割長屋に数所帯が押し込められてしまった。リュックサックに詰め込んだほんの身の回りの品だけが財産となった… 布団などは、前の家に取りに行くことは許されたが、残っているのは古い汚れた物ばかりだった。

厳寒の冬になると、集団生活をしている者の中にも発疹チフスなどの伝染病が蔓延し、老人や赤ん坊などが次から次ぎと死んでいった… 薬もないし医者もいないので、そのうちに若い人たちも高熱を出して死んでいった。

不安は日に日につのるばかりだが、冬の間はここから脱出することもならず、なすすべもなくただ過ごすほか策はなかった。

ソ連兵や保安隊員の傍若無人ぶりは、相変わらずであった。女性に対する暴行事件も後を絶えず、暴行を受けた人の中には自ら死を選んだ人も多かった…

死者が出ても葬式をだせるはずもない… なんとかしなければと有志の人たちが、保安隊の幹部に申し入れてやっと許可を得た…

深さ1.5メートル、幅2.5メートルぐらいの穴を掘り、そこに山から風倒木を運んできて薪をつくり、それを土の上に敷き並べて、さらにその上に遺体を数体ずつ置き、石油をかけて四方から火をつけて荼毘(だび)に付した。

家族の者や作業をしていた人だけが手を合わせて野辺の送りをしたが、運命とはいえ、悲しく、かつわびしい有り様でした… 保安隊では、お骨を持って帰ることを許さなかった。噂話で聞くところによると、遺体が灰になった後、金歯などの貴金属を探して持っていったということだった。
(中略)

昭和21年の正月を収容所で迎えた。その頃になると満州の奥地から、また、鮮満国境地帯から元山を目指して避難してくる人が増えてきた。…相変わらず発疹チフスは猛威を振るっていて、やっとここまでたどり着いたが、ここで発病して死んでいく人も多かった。…

収容施設も超満員となった。これ以上の人が入ってきて、いつまでもこの状態でいたら全員共倒れとなってしまうだろうという話になり、ここから歩いて元山に向かって脱出しようという相談が始まった。…

やっと綿密周到な、「集団脱走計画」が完成した。決行日は、昭和21年4月3日の夜と決定された… 北朝鮮からは今日に至るまで、日本人の正式な引揚げというものは全く、行なわれていない。

命からがら38度線を越えて日本にたどり着いた人々は全員、それぞれその個人の労苦と努力によって38度線という関所を、ソ連兵や保安隊のすきをみて突破・脱出してきたのである。

それに失敗した多くの同胞は、途中の鉄原辺りでソ連兵などに見つかり、銃殺されたり、または、国境近くの河を渡る寸前で捕まっておくり返されたりしてしまった。

いずれも暗夜に乗じて決行したが半分以上の人々が失敗してしまったらしい。元山から多額の金を払って船を雇い、集団で脱出しようとしたが、途中の38度線近くの江原道付近で、だまされて上陸させられたということもあったらしい。

それこそ死を覚悟しての38度線突破以外に、南朝鮮にたどり着く方法はないということになった。

私たちの脱出グループは70人ぐらいで、老若男女入り交じった集団だった。もうあまり残っていない身の回り品をリュックサックに詰めて当座の食糧も入れて背負った。

ソ連兵や保安隊員の目につかないように、あらかじめ集合場所として定めていた文坪西側の山中に、三々五々と集合した… 闇夜の中を異様な姿の列が、南に向かって進み出した。

38度線突破行の第一歩がこうして始まった… 東海岸沿いの山中の間道を歩いた。夜は主に野宿をしたり、好意的な朝鮮人の家の庭先や、納屋に分散して泊めてもらったりした… 大きな集落を通ると、村人が出てきて通行料を要求された。通行料は10円ぐらいだったと記憶している。

そのほかに荷物検査料とか、何とか名目をつけては、2、30円は取られていた… 38度線近くになると、ソ連軍側の警戒も厳しくなってきたので、昼間は人目につかないようにして休息をとり、暗くなってから歩き出すようになった。

4月とはいえ、北朝鮮はまだまだ真冬並みの気候だった。特に晴れ上がった夜半などは寒気が身にしみて、歩くことも容易ではなかった…

行列の前後左右を絶えず注意しながら行軍していたが、それでも保安隊員に発見されて荷物検査されたが、寄付金名目でお金を渡すと、黙って解放してくれた。…

連日連夜の行軍に、老人や女、子供の中には疲労が蓄積されて歩くのも困難になった人が出てきた… ある女性は、2歳ぐらいの女の子の手を引き乳飲み子を抱きかかえ、荷物を背負って歩いていたが、とうとう体力の限界がきて、もうこれ以上歩けないからここに残ると言い出した。

しばらくは周りの人が交代で助けていたが、ある部落にたどり着いた時に、とうとう2歳の女の子を朝鮮人の家に預けてしまった。それからはその女性は、魂の抜けたようになって、話もせずにただ列について歩いていた。

みんなも、自分のこと、子供のことだけで精一杯の極限状態だったので、だれ一人としてこれを助けるということもしなかった。致し方ないことであった。

私は、最近テレビなどで、中国残留孤児の問題を見たり聞いたりするたびに、そのことを思い出して、あの女の子はあれからどうなったのだろうかと、胸を締め付けられるような思いをする。…

3歳になったばかりの妹は私が背負い、10歳の弟と一緒に歩いていた。父母と私は地下足袋を履き、弟と妹は足首のところから上を切り取ったゴム長靴を履いていた。

歩いている人の中には、藁沓(わらぐつ)を履いていて底が擦り切れ、はだし同然になって、擦り傷をつくり血を流しながら歩く人もいたが、助ける手段もなかった。

…国境近くになると警戒が一段と厳重になって。保安隊員が組を作ってあちらこちらに立っていた。 …疲労が重なってくると、列がだんだんと伸びてくるので監視の目を逃れることが次第に難しくなってきた。

保安隊員に感づかれて懐中電灯で照射された時は、背筋に氷が走るような気持ちになり、もうここで終りかと観念したが、相手は気付くこともなくそのまま立ち去り、ほっと安堵の胸をなで下ろした。

38度線上の山々は、標高が400メートル前後で山肌はむき出しているような峻険な姿であった。この峻険な山を登ることは、普通ではとてもできない無理なことであった。

特に老人、女、子供の一団では考えられないことであったが、しかしこれを突破しなければ脱出できないと思うと、苦にはならなかった。1日でも半日でも早く南に行きたいという気持ちが体中に満ちていた。

いよいよ明日は、38度線を突破するという日の夜に、全員が集められて細かい注意事項が示された。「夜明けの突破になるので声を絶対に立てないように。特に幼児は泣かさないように」と、厳しく申し渡された。

そしてさらに、「 …最後は走るようになるから履物が脱げないように上から結びつけること。荷物はなるべく捨てること」などが達せられた。

荷物に未練がある者は、無事に脱出することはできないということだった。 …ただ、ただ日本に家族全員が無事に帰るという最終目標の達成だけが全てであった。

これから先のことを考える余裕もなく、言われるままにした。どの人の顔をみても必死の形相で、それは凄まじいものがあった。

夜半の12時に行動が開始された。やはり若くて元気な人が先頭に立ち、老人、女、子供が続き、最後を男の人が歩き落伍する人を監視、激励していた。

深々として寒気が身にしみ込んできたが、極度の緊張のためかあまり寒さを感じなかった。ただ、サクサクと踏みつぶしていく霜柱の音だけが、耳に響いていたことを覚えている。

息を殺して歩いていたが、38度線の山の頂上にはなかなか出ない。歩きながらだんだんと焦燥感が襲ってきた… そんな時に、牛を連れた家畜商人らしい者に出会った。世話人が案内料を払って国境までの案内を頼んだ。

みんなは、ほっとしてちょっと気持ちが落ち着き足に力が出てきた。無言の行進が続いた。しばらく歩いている時に、家畜商人が「あの丘の向こうが38度線だ」と、指差した。勇気百倍し渾身の力をふるってまた歩いた。

しかし、歩けども歩けども国境線らしきところには着かない。はじめてだまされたことに気付いた。みんなはそれを知って、一遍に疲れが出てその場にへたへたと腰をおろしてしまった。

今までの張り詰めていた気持ちが一度に消えて、動く気力もなくなっていた。その夜は特に寒さが厳しかった。腰をおろしている間にも霜が降りてきて、髪の毛までざくざくになったと母が話していた。

世話人の話し合いがあり、「このまま、ここにいても凍死するばかりだから、一か八か前進しよう」ということになり、みんなは気持ちを持ち直して出発することとなった。

…夜はもうとっくに明けて、太陽が上がってきた。 …しばらく歩いていると、急に目の前が開かれたように明るくなった。山頂に出たのだ。見下ろすと川が見えた。みんなは急に元気が出て山を下った。紛れもなく三十八度線を流れている川であった。

一同は、なんの抵抗もなく急いで渡った。弟が一番先に渡り、向こう岸から母に向かって、「お母さん!早く、早く、こっちにおいでよ」と叫んでいた。

疲れきって歩くことも難儀になって列の後ろの方で、父に助けられながらなんとかここまでたどり着いた母は、力なくてを振って、熱のまだある体で川を渡り、弟と抱き合った。

岸には鉄条網が張り巡らされていたが、みんなはその隙間から入り込んで、草むらにひっくり返ってしまった。本当に命懸けの渡河だった。

無我夢中とはこんなことをいうのだろうと、後になって思った。蓄積していた疲労が一度に吹き出し、体が全然動かなくなった。どのくらいそんな状態でいたのか思い出せないが、それこそ虚脱状態だったのだろう。

自動車の音で、みんな我に帰って立ちあがった。よく見ると赤十字のマークのついた車だった。最初は半信半疑だったが、だんだんと近づいてくるのを見て間違いないことを知りほっとした。すると自然に涙が流れてきた。

あとからあとから、ぬぐってもぬぐっても流れ出てきた。とうとう38度線を越え、北朝鮮から脱出できたのだった。アメリカ軍の看護婦さんが車から降りてきて、病人らしき人々を見て回っていた。

そのうちにアメリカ軍のトラックがきて、病人や子供を乗せていった。母も弟も乗せてくれた。私はなんとなくほっとした気持ちになった。(その後、筆者は2、3日収容所で過ごした後、京城から列車で釜山へ行き帰還船に乗って無事に故郷へ帰った。)戦争は、本当に怖く悲しいものである。

アルバム一つ残せなかった私たちですが、しかし、家族が一人も命を落とさなかったことが唯一最大の救いでした。帰国が果たせなかった多くの人が、異郷の地で死んでいったその怨念を忘れてはならない。謹んで哀悼の意を表したいと思う。


北朝鮮に対し植民地支配の謝罪と賠償をしなければならない、という論調のマスコミがあるが、一方的な謝罪と賠償などもってのほかである。

敗戦後の日本人資産の略奪を現地人の目から見た貴重な証言である。

「朝鮮戦争の真実 -元人民軍工兵将校の手記-」 朱栄福 1992年 悠思社


(1945年8月8日、ソ連が日ソ中立条約を破って対日宣戦を布告し満州と朝鮮に侵攻してきた。)

15日の夜、(朝鮮半島北部にある)羅南の(日本)軍当局は最後の破壊作戦に出て、全市の軍事施設に火をかけて焼いた。その夜、ぼくは鏡城の北にあたる山の上から、炎上する羅南の赤い空を眺めていた。…

36年、わが国を軍靴で踏みにじってきた侵略者の断末魔の光景であった。朝鮮の農民たちは、15日(終戦日)が過ぎても何が起こっているのか正確には知らないでいた。

ただ、津波の引き去るように逃げてゆく日本軍、警察、一般日本人が、もう二度と戻ってこないようにと願いながら、そのさまを眺めていた。
(中略)

羅南の軍事施設が燃えた晩、市内は無人地帯であった。数千人の日本人は、臨時疎開して、すぐ帰るつもりであったかもしれぬが、市が燃え尽きても、ついに一人も戻らなかった。

日本人は永遠に去ったのである。帰ってきたのは全部朝鮮人であった。彼らは、防空壕からはい出し、あるいは郊外の避難先から、続々戻ってきた。

火災の翌日、いたるところに余燼のくすぶる市内で、物資あさりの騒乱が始まった。窓も門も開け放しのまま去った日本人の空き住宅、商店、倉庫などにアリのように人間が群がった。

家財、衣類、食器、装飾物、楽器、娯楽品、靴、傘、書籍、自転車、あらゆるものをかっさらい運び出すのに忙しかった。町全体が怒鳴り合い、奪い合い、誰もが目を皿のようにして走っていた。

ある人はトランクを担いで逃げる。ある人は自分の体よりも大きい布団袋を引っ張って走る。ある人はリヤカーに山ほど積んで汗を流しながら家に急ぐ。ある婦人は衣類をいっぱい頭に載せオーバーを抱えて土手にのぼる。

ある老人はチゲ(背中に荷物を担ぐ時に用いる木製の背負子)の上に衣類ダンスを担いで走る。みな走る、ぶつかる、ののしる、宝物を求めて、より大きい高級住宅に入る。

先着の略奪者は血相を変えながら部屋から部屋に出入りする。集めた品物から目を離したとたん、別の者が担いで逃げる。家に持って帰っても、また出ていくと、その間に誰かが来て持ち去る。

こういう時には誰も安心できない。隣り近所、みな疑心暗鬼である。避難先から帰りの遅れている肉親をののしる。だからといって呼びに行く暇もない。

――あのとんま野郎!こういう重大な時に家にいさえすれば、いっぺんに大金持ちになれるのに・・・! 二、三千軒の日本人民間住宅と商店、数百件の焼け残りの軍用官舎は、わずか五、六時間でスッカラカンになった。

ぼくが羅南に着いた時は、そういう"敵産の分配"が終わってから一週間もたっていた。残るのは日本人の不動産である。日本人の家屋、商店、車庫、倉庫の壁や門に、色とりどりのペンキで、大小さまざまに、ハングルや漢字で所有者の名前が書かれていた。

"李XXの家"と書いた反対側には、もっと大きな文字で"金XXのジップ(家)"と書いたり、前に書いた文字を消して一尺もある大きさの漢字で"この土地は40年前のわが祖先の土地なり"と書いてあったり、

"この建物では近き将来平和食堂開業予定" "まもなくアリラン床屋になります" "この建物の主、日本人某は一週間前、小人(自分)に移譲せり"等々、何とかして自分のものにする口実を書きつけていた(まもなく敵産家屋、土地、軍事施設は全部登録され、政府または全人民の所有になった)。

ぼくの伯父が住んでいた初瀬町のはずれの谷間の入り口に、小玉(こだま)氏経営のよく手入れした農園があった。解放前には周辺の朝鮮人は皆、小玉さんを尊敬していたが、世の中が逆さまになって、皆、彼を"日帝の悪質地主"とののしった。今度の騒動で、小玉邸も無疵なはずはなくサジ一本、畳一枚残さず、すっかり群衆に没収された。

引揚げの惨事は北朝鮮だけに起こったのではない。南朝鮮(韓国)においても、日本人に対し朝鮮人はあらゆる悪事を働いた。北と南に民族性の違いはないのである。

「大東亜戦史8 朝鮮編」 池田佑編 昭和46年 富士書苑


夜明けの舞台裏    中保与作(元京城日報主筆)

(終戦とともに)朝鮮人は、全鮮各地で、公然と日本の諸機関や日本人の財産の接収を始めだした。京城では、総督府に近い中心の鍾路をはじめ幾つもの警察署が朝鮮人の手に帰した。

ピストルを狙って襲撃する者もある。警察官にも襲撃者側にもぞくぞく死傷者が出た。ほとんど、どの駐在所からも巡査が姿を消してしまった。

駐在巡査の大部分は朝鮮人であったが、職場を守ろうにも、大勢で襲撃されるので2人や3人では守っていられなくなったのである。

このように警察が力を失い出した矢先、安在鴻の放送があった(朝鮮の建国準備委員会が政治の実権を握ったかのように放送した)ので日本人に日頃恨みを抱く者や泥棒は、この時とばかり、目ぼしい日本人の家へ押しかけた。

泥棒はたいていピストルか刃物を持っているので、街々にはあちらでも、こちらでも、たまげるような悲鳴が起こった。「助けて!」と呼んでも呼んでも、誰も表へ出るものがなかった。日本人はもう互いに助け合わないと知ると、今度は3人、5人と組む集団強盗が横行した。
(中略)

(米軍進駐後、筆者の勤める京城日報社は米軍の管理下に置かれることになった)米軍政府は間もなく朝鮮人李相哲を管理人に指名した。

江原道で鉱山の仕事をしていた李にこうした任務を与えたのは、米軍政長官の側近にいる知り合いの旧宣教師が斡旋したからであると言われた。

「あなた方は、運悪く、とんでもない悪党に、管理されることになりましたね」と李の甥にあたる、毎日申報幹部が私たちに同情した。
(中略)

当時の米軍政庁は、英語さえできれば、どんな朝鮮人でも重用し、一々その言うことに従った。一般の朝鮮人はそれを「通訳政治」だといってあざ笑った。英語を話したり、米軍に好意を寄せるものは、たいてい極端な反日家である。

これらの人々は、何事につけ、日本人を極悪非道の人間に印象づけようとし、朝鮮にある日本人の財産は全て搾取し略奪したものであると言い続けたのである。
(中略)

李管理人は、1年前からの伝票を取り出して一々収支を調べさせ備え付けの写真機などの比較的値段の高いものはもちろん、1冊の書物、紙片1枚に至るまで猜疑の目を光らして点検した。

足りないと思うものについては一々弁償を要求した。私ども社長、副社長に対する解散手当ても前年度の賞与も不当であるといって返還を迫った。

日本人社員が引揚げ後、生活の道を得るまで、補助機関として設けた京日互助会の基金50万円も取上げてしまった。私はそれをよこせという要求を受けたとき、「それは、互助会のものである。

君は互助会までも管理しに来ているのではない」と拒んだが、私の留守に米兵を連れてきて金庫を開けさせ、それをどこかへ持って行ってしまった。

当時の50万円といえば、300倍に計算しても今の1億5千万円である。李は、彼が雇い入れた朝鮮人たちを使って、「日本人の幹部連は隠していた50万円を、それぞれ山分けしてふところに入れた」と宣伝させた。

どの団体も、どの会社も多かれ少なかれこれに似た災難にあったのである。中には帳尻が不明だというだけの理由で投獄されるものさえあった。

自宅の畳の下や、便所の上に2、3万円の金を隠していたということで拘引される者もあった。本社の地方部長なども北緯38度線以北から南下する支局員たちの給料や解散手当てを預かっていたのをみんな取上げられてしまった。

猜疑心の深い李は刑事を使ってまで私たちを脅迫した。20代のその刑事は「きょうは、留置場入りの用意をして来るように」と家へ電話したこともあった。
(中略)

ここでは京城日報だけを挙げたがこれは、ひとり、京城日報だけのことではない。30年、40年、親子2代、3代にわたって営々と築いた血と汗の結晶も、およそ目ぼしい日本人の財産はことごとく強奪されたのだ。

後で記すように、託送荷物までもことごとく取上げてしまったのである。日本人の土地、日本人の家屋、全ての日本人の不動産は朝鮮人に直接売ることを禁じられた。それは、事実上その代金を朝鮮人から受け取ることを禁じたのである。
(中略)

日本人の預金は全部凍結された。1家族1ヶ月千円払い戻されるだけになった。どんな財産を持っていた者もこの千円が、最後の命の綱となったのである。

引揚げにはリュックサック1つしか許されない。なまじ家財らしい物を持っていると強盗に付け狙われるのである。むしろ、それを売って金に換えたほうが始末がいい…というので、思い出のこもった家具も什器もいっせいに街頭へ並べ出した。

8月16日以来、日本人はみんな古道具屋さんになったのである。朝鮮人たちはそれを二束三文に値切っている。

中には、「いずれ遠からず、戻ってくるから… 」と、家も家具も什器も、全てを懇意な朝鮮人に預けて日本へ帰った人もあったが、大抵の日本人はもはや、リュックサック一つが唯一の財産になってしまった。それでも、2人、3人と組んだ強盗が宵の口を狙って、最後の金、最後のリュックサックまで持って行った。

米軍の保護は、少しも日本人には及ばなかった。日本人がどんな被害を受けても、それを取り調べようともしない。言葉という不自由な障壁があるせいもあるが、どこまでも日鮮双方の争いに割り込みたくないという態度である。

目の前で行なわれる暴力沙汰は一応抑えるが、「いま、強盗が入ったから… 」と、MP(米軍憲兵)の駐在所に訴えても、駈けつけてくれはしない。

知ってか知らずか、家を強奪しようとする朝鮮人に同行している米軍大尉もあった。U総務局長の建てたばかりの住宅を、タダで引き渡せといってきた朝鮮人があったが、米軍大尉は、その男の横に腰をかけて時々、英語で話しかけるその男の言葉に耳を傾けた。

Uは、「どういうわけで、私があなたに私の家を提供しなければならないのか」となじると、「まあ、僕に見つかったのが災難と思って、あっさり渡すことですナ」と言って、また米軍大尉に耳打ちするのであった。

「日本人は、無警察の国というより、強盗国のまん中に、座っているようだね」と私たちは語り合った。1日1日、昼でも、街のひとり歩きが危ぶまれだした。

〃倭奴、早く帰れ〃 という宣伝ビラがまかれてゆく。それには、「船便がなければ、泳いで玄海灘を渡れ」とも書いてある。「俺は、ここで骨を埋めるつもりで来たんだから、帰化してもここに残る」と固い決心をしていた人々も、「もはや、これまでだ」と言い出した。

「親兄弟の墓を守りたい」と思っていた人々も、墓石をバラックの土台とし、その上で焼酎屋やヤキトリ屋を開いているのを見て、やはり、引揚げのリュックサックを買うことにした。

親たちや、夫や妻や、わが子わが兄弟の遺骨が土足に踏みにじられ、不浄なものさえかけられているのは、とても見るに忍びないのである。
(中略)

私は、毎日のようにバルコニーへ出て、引揚げ列車が無事に漢江の鉄橋を渡りきるのを見送った。やがて、私自身も暮れ近い鉄橋を、引揚げ列車で渡った… 引揚げ列車といっても貨車にむしろをひいたものである。

隙間から研ぎ澄ました刃のような寒風が入るのである… 危険なのは、途中で汽車をすめることである。停車すると、たちまち群衆が押し寄せて金をせびり、女を引きずり出そうとした。

機関手や車掌が3万円、5万円というチップ要求し、誰もそれを出さぬと、「機関車が故障を起こした」といって山中や野原で、ガタンと車を停めたこともあった。
(中略)

引揚げ列車が出る竜山駅へ、くる日もくる日も、延々と長蛇の列が続いている。ひとり者のBのお婆さんが、竜山へ出かけたばかりなのにあわただしく帰って来て、ガラン洞の我が家で泣いていたこともあった。

訪ねてゆくと、「私はもう、国へ帰れない」と言って、身もだえしているのである。「婆さんしばらく、あんたも帰るんですか」となれなれしく近寄る若い男があるので、「ながながお世話さまで」と挨拶すると、「その荷物、私が担いで上げましょう」と親切気に取り上げて、その男は間もなく人ごみの中へ姿を消してしまったのであった。

もしや元の家へ戻ってはいはせぬかと来てはみたが、「もう誰もいやしません」と、身寄りのないこのお婆さんはサメザメと泣き伏した。

駅前で用を足している間に、最後の財産であるトランクを盗まれてしまった人もあった。血まなこになって走り回ると、2、3町先の路傍でそれを開いて、セリ売りを始めている男がある。

「それは僕のものだ」と言い寄ると、その男は「ナニッ!なんの証拠があって、そんな言い掛かりをつけるのか」とつかみ掛かるのであった。群集が、「なんだ、なんだ」と取り囲むと、打つ、殴る、蹴るの狼藉。――たちまち、顔も手も血と泥にまみれて動かなくなってしまった。

路傍では、ツギのあたったあわせや、赤子のオシメを指でつまみながら売っているのを見たこともある。「こんなものまで盗らなくてもよさそうなものだ」と思った。

それと同時に、こんなものをせめてもの財産として大事に持って帰ろうとした人には、どんなに深刻な痛手であろうと思うと、とめ度もなく涙が溢れ出るのであった。

戦時中の朝鮮人強制連行の発掘作業は、人権問題として反日左翼・市民団体によって熱心に進められており、新聞・テレビなどで目にすることも多いが、日本人の悲劇は彼らの関心の対象外のようだ。

李承晩ライン


「韓国・朝鮮と日本人」 若槻泰雄 1989年 原書房


日本の植民地時代、外国に亡命していた政治家たちがその中心となって成立した韓国政府が、反日にこり固まっていたのは当然であったろう。

日本軍としばしば戦闘を交えていたゲリラ部隊の指導者が政権の座についた北朝鮮政府もいうまでもない。李承晩政府は、"皇国思想に毒された子弟"の教育のために、徹底的な反日教育を実施した。

教育にとどまらず、「反日」「侮日」は韓国という新国家の基本的政策、体質となった。韓国は今日においてさえ、日本の映画、演劇、レコード、音楽テープなどの輸入は、"文化侵略"として禁止されている。このような韓国の情勢が日本人に快いはずはない。

もう一つ、終戦間もない頃、日本人が韓国を憎むようになった、より直接的、具体的なものとしては、日本側では"悪名高い李承晩ライン"がある。

日本が連合国占領下にあった期間は、いわゆるマッカーサー・ラインによって日本漁船の漁場は制限されていたのだが、講和条約を前にして、韓国政府はその撤廃にそなえ「李承晩ライン」(後に「平和線」と改称)を、その領海の外側に広範囲に設定した。

その線以内は、水産物だけでなく天然資源も鉱物も、韓国が独占的に保護利用する権利を持つと宣言したのである。翌53年には漁業資源保護法を制定し、李ライン内にはいった日本漁船は片端から拿捕されるに至った。

1955年11月には、韓国連合参謀本部は李ライン侵犯船に対する砲撃、撃沈を声明して、日本漁民をふるえあがらせた。1952年以降5年間で拿捕された日本漁船は152隻、抑留船員は2025人にも及んだのである。

韓国沿岸漁業において、装備の秀れた日本漁船のために韓国漁民が圧迫されていたのは、日韓併合前からおこっていた問題である。

日本の植民地時代にも、1929年、総督府が李ラインよりは少し内側の公海上にトロール船などの禁止線をもうけ、内地の漁船を排除したこともあった。

韓国政府が日本漁民に対して自国の漁民を守りたいと考えるのは理解できないこともないが、しかし一般日本人にとっては、李承晩ラインは"傍若無人と横車"の典型のように映ったのもまた無理からぬことであった。

微力な日本政府は、韓国政府の、国際法を無視したこれらの行為に対してなんら為す術はなく、漁民は悲嘆にくれ、国民は遺恨の思いを心中につのらせた。

日本政府は抑留された漁船員を還してもらうために、本来は強制退去の対象者である在日朝鮮人の犯罪者472人を仮釈放して、在留特別許可を与えたのである。

折から(1954年)おこった竹島(韓国名・独島)の所属をめぐる日韓交渉も、韓国側の無電台の設置、官憲の常駐という実力行使の前に、日本側は事実上沈黙させられた。これもまた韓国横暴の印象を日本人の中に植えつけたように思われる。

韓国がここまで傍若無人にやれたのは、日本の武装が貧弱で反撃できないことを見越していたからだ。(海上自衛隊の発足は1954年7月)

「朝日新聞 天声人語」 1963年9月28日


李ライン海域で日本漁船がまた捕獲された。韓国警備艇の武装した隊員が乗り移り三十四人の日本人船員を連行している。

同じ二十七日の朝、別の漁船も追われ十人の船員は海に飛びこんで逃げ、船長は一時重体だったという。冷たい海中をいのちがけの避難だ。李ラインでの無法がまたはげしくなった。

この海域はいま、アジ、サバの盛漁期で、五、六百隻の日本漁船が出漁している。そこをねらって韓国警備艇は不意打ちをかける。ライトを消し、島陰づたいに近寄り、銃撃をあびせたりする。

日本側も巡視船を増やし、厳戒警報を出しているが、捕獲は防ぎきれず、今年になってすでに十六隻。昨年一年中に捕獲された数よりも多い。

李ラインを越したという理由だけで、これまでに多数の船員が釜山の刑務所に入れられ、船はとりあげられている。優秀船だとそれが韓国警備艇に早変わりして、日本漁船を追ってくる。海の狼のような韓国警備艇の仕業だ。

そもそも李ラインというのは昭和二十七年(1952)一月に韓国大統領の李承晩氏が、国防上の要請によるとして、設定を宣言したものだがそれは公海上に一方的に設定したもので、国際法上不当なものだ。

日本政府はこのラインを認めていないが、過去十年間に韓国は勝手に実力を行使して、約三百隻の日本漁船を抑留、数多くの乗組員や家族を泣かせている。

九月にはいって、韓国側がさかんに捕獲を開始したのは、大統領選挙と関係があるらしい。韓国の漁業界、漁民の票を得るために、朴政権は海洋警察隊に日本漁船捕獲を命じたとも見られる。選挙の術策として隣国の漁船捕獲をはげしくするというやり方が、国際常識からも許されるかどうか。

韓国漁民の間に、日本漁業の技術に対する恐れと警戒の気持ちがあるのかもしれぬが、資源の保護や漁業協力について日韓交渉で、双方とも誠意をつくして話し合えばよい。漁民票をねらった強引な捕獲はこれまでの交渉での双方の努力を無にしはせぬか。

韓国は李ラインを"平和ライン"と呼ぶが、現状は不法ラインてある。公海上で日本漁船員を捕まえるこの理不尽は黙って見過ごせるものではない。

ウィキペディア:李承晩ライン

朝鮮戦争と日本の経済復興


韓国では、日本のやることはすべて誤解・偏見で捻じ曲げられてしか理解されないようだ。その典型的な例がコレ

「韓国とディベートする」 北岡敏明 1996年 総合法令


韓国人は、日本が朝鮮戦争で儲け、この戦争のお蔭で経済発展をしたと非難する。たしかに、日本経済が離陸するきっかけになったことは事実である。

しかし、朝鮮戦争がなくても、遅かれ早かれ、日本はその潜在的な実力からいって経済発展をしていたのは間違いない。戦争に負けたとはいえ、あの大戦争を戦うだけのさまざまな設備(インフラ)と優秀な労働力と技術力をもっていたからである。

当時すでに日本は高い技術力をもった工業国家であった。そこに朝鮮戦争の特需があったのである。もし、特需があっても、それに対応できる人と技術とインフラがなければ何の意味もない。

朝鮮戦争における連合軍は、日木という後方の巨大な兵站基地と生産基地のお蔭で戦争に勝つことができたのである。朝鮮戦争で儲けたなどという、韓国の嫉妬じみた非難には断固として反論を加えておく必要がある。

韓国人 「日本は、朝鮮戦争でわれわれの犠牲の上に儲け、今日の発展を得た」
日本人 「儲けたというのはどういう意味だ」
韓国人 「朝鮮戦争の特需で経済がうるおったということだ」
日本人 「それがどうした。何か不都合な点でもあるのか」
韓国人 「われわれの犠牲の上に、経済を発展させた、だからよくない」
日本人 「またか、もううんざりだ。箸が転んでも日本のせいにし、日本を非難したがるどうしようもないワンパターンの手だな」
韓国人 「そんなことはない。日本は朝鮮戦争で儲けたではないか。韓国に感謝しろ」
日本人 「それは逆だ。韓国は日本に感謝しろ」
韓国人 「どうして日本に感謝しなけれぱならないのだ」
日本人 「日本がアメリカや連合国の巨大な基地であったから勝てたのだ。日本は不沈空母だったのだ。アメリカの空軍や海軍や陸軍の基地として日本は機能した。アメリカ軍は日本から出撃していったのである。また、兵士の補給や体養の基地、物資の兵站基地、生産基地だった。日本の役割は大変大きかった。日本がいなかったら朝鮮半島は北に占領されていたぞ。韓国は日本に感謝しろ」(開戦初期は北朝鮮軍が優勢で韓国軍は釜山まで後退していた)
韓国人 「いやそんなことはない。アメリカ軍とわが韓国軍の奮闘で勝利したのである」
日本人 「アメリカ軍や韓国軍の奮戦を否定してない。ただ、日本が儲けてけしからんなどと言いががりをつけるから反論しているのだ。日本を非難するのはとんでもない筋違いな話だと言っているのだ」
韓国人 「そうかもしれないが日本も朝鮮戦争のお蔭で経済が発展したのは事実だろう」
日本人 「それは否定してない。ただ、あなた方は朝鮮戦争で日本だけが得をしたようなことを言うから、それはおかしいと言っているのだ。日本は朝鮮戦争で経済発展のきっかけをつかんだのは事実だが、それ以上に感謝してもらいたいのが、国連軍の崩壊を助け、勝利に多大な貢献をしたという事実である。日本なしに朝鮮戦争の勝利はありえなかった」

韓国は、戦争に負けた日本が、戦後もあっという間に復興し経済大国になったのがくやしいという。日本は朝鮮戦争で儲けたと非難する。自国の発展が遅れたのを日本のせいにしている。

韓国得意の「箸が転んでも日本のせい論」である。しかし、こういういわれなき非難にはきちんとディベートで反論しておかなけれぱならない。黙っていると認めることになるからである。

北朝鮮の反日教育


北朝鮮におもねるマスコミには決して紹介されることのない反日感情激昂の凄まじさ

「北朝鮮「恨」の核戦略」 佐藤克巳 1993 光文社


北朝鮮において、日本帝国主義への「恨」がどれほど深いか、また国民が「恨」を忘れないよう、どんな教育がなされているかがわかる例を挙げよう。

別項で紹介するが、北から亡命した元外交官の高英煥氏は、同氏が平壌の外国語革命学院在学中に、映画「血の海」を観たときの印象を著書に記している。

「血の海」は金正日が製作を指揮したと言われる大作で、抗日パルチザンの戦いと、日本軍の虐殺がテーマである。


「ある日、日帝に反対して戦っていた金日成パルチザンの一隊員が、日帝討伐隊の襲撃を避けて、村の一軒家にやってきて、かくまってほしいと懇願する。もちろん、純朴で人情深い女主人は彼をかくまってやる。彼をつけてきた日帝巡査はパルチザンを出せと言って、その家の一人息子を射殺する。これを見たパルチザンが日帝巡査を撃ち殺す。翌日、夜明け前に、日帝は報復のためにすべての村を包囲して攻撃する。焼き殺し、撃ち殺し、刀で刺し殺し、家を焼き…数百戸の村が灰となり、四方八方に血が流れて〈血の海〉をつくる。山に身を隠していて村に帰ってきた女主人の娘甲順は、刀でめった切りにされ血まみれになっている母の死体を抱きしめ、血の復讐を誓うという内容である。」

「映画がつづく間、場内はすっかり、すすり泣きと泣きわめく声、興奮と敵愾心(てきがいしん)で熱くなり、映画が終わると、予め準備された数人の学生が立ち上がり『好悪な日帝を打倒しよう!』 『われわれの父母の、血に染まった復讐の泣き叫びを忘れられない!』 『血を持って復讐しよう!』 『首領様よ、命令を出してください!東京の地を灰にせよ!』というスローガンを叫んだ。そうすると全観覧者は煽動されて、映画館が吹っ飛んでしまうかのように、そのスローガンをつづけて叫んだ」 (高英煥著『平壌25時』1992年 徳間書店刊より)


観客の激しい反応は、幼少時から徹底して行なわれる「日帝打倒」教育のたまものであろう。高氏は「この映画を見ながら、泣かなかった北朝鮮の人はいなかったほどだ」とも書いている。

北朝鮮2000万人の国民は、かたときも日本帝国主義への「恨」を忘れないどころか、「恨」を拡大再生産する教育を受けているのである。

朝鮮学校に通う在日や本国の朝鮮人民が使っている教科書の内容。これは金日成神格化と反日反米の洗脳教科書だ。

「韓国・朝鮮と日本人」 若槻泰雄 1989年 原書房


李瑜煥氏によると、総連系の学校では授業はすべて母国語で行なわれる。教科書は社会科学系の全部と自然科学系の一部は、本国で編纂もしくは検閲したものを用いる。

「社会科」では、朝鮮の「歴史」「地理」「経済」と、世界のそれらの課目についての授業はあるが、日本に関するものは「日本語」のほかにはみられない。

日本語の授業は初級学校の入学当初の前半にはなく、1年生の後半以降高校3年まで週3時間だけである。この授業時間では高校を卒業しても、多くのものは日本語の新聞を読む力に欠けることになり、また日本関係の授業がほとんどないため、日本の社会で生きていくのに必要な知識学力が不足する傾向があるとのことだ。

朝総連系の教育方法の一大特色は、前述のように集団主義教育だといわれる。簡単にいえば、個性や個人差を無視した、いわば軍隊教育といったもので、統制、規律といった面ではかなり効果をあげ、母国語習熟にも大きな成果を収めているという。

〃敬愛する父なる首領金日成元帥様〃

朝総連系の学校は非公開が原則で父兄といえども学校への出人りは禁止されている、と一般にいわれている。したがって教科書の人手はきわめて困難なのだが、1977年、雑誌『正論』10月号に全富億という人物が、朝総連系諸学校で使用されている教科書の内容について寄稿した。

全氏は朝鮮中・高校の教員をしていた経歴をもつ人とのことなので、その記述の信頼性は非常に高いといってよいだろう。以下同氏の文章の要点を紹介することとしたい。

全氏によれば、修身は戦前の日本の学校教育同様、小中高を通じて重要な学課であるという。その教材としては小中校においては『金日成元帥の幼い頃』、高校では『金日成元帥革命歴史』という教科書を使う。

そしてその教科書には、初めから最後までわずかな例外を除き金日成一人だけしか登場しない。そのわずかな数の例外とは、金日成の一族である。

全課は必ず「革命の偉大なる首領様」「敬愛する首領様」という文章から始まり、子供のときからの彼の偉大な行為がえんえんと語られる。

小学校6年生用の一例をあげると、小学生の金日成が、日帝打倒の演説をすると、校長も生徒もひとしく感嘆し、「演説が終わるや万雷の拍手が鳴りひびきました。

多くの人達は無限の感動に酔いしれ、あまりの感動のため為すすべを知らない有様でした。人民たちは、国を取りもどすという大志をひめ、ありとあらゆる出来ごとを先の先までお見通しなさる金日成元帥さまを崇め奉りました」といった調子である。この小学校6年の教科書には金日成の写真が、19枚のカラーを含み21枚ものっているという。

次に国語の教科書をみてみよう。
「…革命の英才であり、民族の太陽であり、伝説的な英雄である、敬愛する首領金日成元帥さま…」(小6)

「…人類の太陽であり、革命の英才であり、民族的英雄であり、60万在日同砲たちの慈悲深い父である偉大なる首領金日成元帥さま……」(小6)

「…在日青少年たちは、個人の自由なる思惟思考を完全にすて、ただ一人、元帥さまの教えだけを思考し、行動し……敬愛する父なる首領金日成元帥さまを生命をかけて守り、太陽と月とがこの世で尽きるまで、偉大な首領金日成さまをお慕いし……敬愛する首領金日成さまの御教示なら、たとえ火の中、水の中といえどもいとわず最後まで貫徹する……」(中1)

この中1の国語の教科書は27課からなっているが、「敬愛する首領金日成元帥さま」「父なる元帥さま」「元帥さま」「将軍さま」という表現が270回も出てくるといわれる。

地理の教科書にも金日成はあらわれる。たとえば次のような調子である。西海(黄海)には魚資源が豊富であり、特においしい高級魚類が多い=金日成元帥さまの教示

日本語の教科書は日本人の目にふれる可能性が大きいためか比較的おだやかで、日本人作家の文章も多い。だが、それでも、「戦いは続いている」という題目や、秘密組織で韓国政府をたおす話も出てくる。

山口久太(「キム・イルソン首席を讃える」−−詩)、木下順二(「マンスデ芸術団の公演を見て」)、高木健夫(「領導の芸術家」〈金日成のこと〉)の三人の書いたものは特に重視されるという。日本人もひとしく金日成元帥サマを崇め奉っている証拠になるからである。

数学にまで金日成は登場する。こう言われても普通の人にはちょっと想像できまいが、たとえば次のとおりである。

例1
Aは日曜日に「金日成元帥革命運動」を5/6時間、国語を3/4時間勉強しました。全部で何時間勉強しましたか。

例2
慈悲深い首領金日成元帥様の教えのとおり農作業をしたある農場では、前には町歩当たり8/5トンしか収穫できなかったが、現在では5/8トンもよけい収穫をあげています。何トン収穫をあげるようになりましたか。

音楽にはクラシックや民謡は皆無で、たとえば「万景台を訪ねて」(金日成の生家)とか、「首領様の長生きをお祝い申し上げます」といったものばかりである。後者の歌詞を次に転載しよう。

「天の涯、地の涯までも従います 太陽と月とがこの世で尽きるまで崇めます 首領様の御恩、末長く伝えとことんまでも忠誠をつくします みな、偉大な父、首領様を慕い、人民たちは長生きをお祝いいたします」

朝鮮労働党から朝総連に送られてきた"学習組"十大原則の七には次のように書かれているという。

偉大な金日成首領さまを"神格化"へ首領さまの思想と教示を〃信条化〃して、首領さまの教示執行にあたっては、〃無条件〃にその原則を守り、首領さまの悩みを軽くするために、あらゆるものをすべて捧げる、限りなき忠誠心を持つような人間を養成することである。

天皇を神格化して、天皇について述べるときは、やたらに「恐れおおくも、かしこくも」を連発していた戦前の日本の教科書も遠く及ばないし、スターリンや毛沢東の個人崇拝などという段階もはるかにこえているに違いない。

狂信国家、独裁国家が世界の平和にとって最も危険な存在であることは、つい半世紀前、日本自身が立証したように、国際政治の原則であることをわれわれは思いおこしておく必要もあろう。

歴史の教科書−〃日帝殺人鬼〃

全富億氏の論稿には歴史について記載がないが、著者が入手した『在日北鮮系朝鮮人学校の教科書の実態について−−徹底した反日反米教育−−』(昭和42年7月)を見てみよう。

朝鮮の栄光、共産主義国の偉大さが称揚され、ことに金日成の業績がいちじるしく強調されていることは、他の教科書と同じであるが、〃日帝〃〃米帝〃の悪業の非難には最高の形容詞が用いられており、たとえば次のとおりである。

「厚顔無恥な日帝殺人鬼」
「野獣的な虐殺蛮行」
「米国食人種」
「人類の極悪の敵」
「伊藤博文というやつ」「全権代表黒田というやつ」「毒悪な倭奴」といった調子の言葉もよく出てくる。

日本やアメリカの圧政を述べるところは、「弾圧」「暴行」などといった抽象的な表現ではなく、きわめて具体的、扇情的で、教科書というよりは政治活動のパンフレットといった方があたっていよう。たとえば中級学校2・3学年用の『朝鮮歴史』は次のとおりである。

「(日本人警察官は)棍棒でやたらに踏みにじり、それでも腹立たしいのか、沸いている湯をぶっかけ、さらには、死なないのが腹立たしいのか、その胸および腹と頭を銃床でなぐり、ついに目までえぐる鬼畜のような蛮行をためらいもなく断行した」

この教科書に掲載されている挿絵、写真51枚のうち17枚(33%)は殺傷場面だという(22%は金日成の肖像)。

〃恨み〃の伝統を子供たちに語り継ごうとする意欲も随所にみられる。

「日本帝国主義は我々の仇だということを決して忘れてはいけない」
「全朝鮮人民は強盗日帝が朝鮮人民に強要した血の出る不幸と苦痛を永遠に忘れることはできない」

朴尚得氏は『在日朝鮮人の民族教育』において、在日朝鮮人の民族教育は、「民族的親善を望むもの」であり、「日本人学校の教育との間にはいかなるあつれきもあり得ず、朝・日親善、国際友好の促進に寄与するもの」と書いているが、この教科書ではとても友好親善どころではあるまい。

第一、彼らが忠節を誓う朝鮮民主主義人民共和国の憲法には、1972年の改正まで、「親日分子」は精神病者や犯罪者などとともに、選挙権、被選挙権も奪われ、その所有権さえ否定されていたのである(第12条)。朝日親善などという言葉を額面通り受け取れという方が無理というものだろう。

「SAPIO」2001年9月26日号 小学館


「日本野郎はその子も許すな!」北朝鮮の「金正日礼賛」「日本憎悪」は凄い 丹啓(さとし)

子供から大人まで自らの指導者をひたすら称える人々の映像に、空恐ろしささえ覚えることがある。そんな北朝鮮の〃国民性〃はどのような教育によってもたらされたものなのか。

北朝鮮の人民学校(日本の小学校)と高等中学校(同・中学と高校)で使われている教科書を検証する。
(中略)

金正日の名前は必ず大きな太字

まず、全ての教科書に共通するのは、故人となった今も国家主席であり続ける金日成と、金正日総書記に関する表記である。たとえぱ1990年の人民教科書「国語1‐1」の中では「凱旋門」という題材でこう書かれている。

「おばあさん、あの凱旋門は親愛なる指導者金正日先生がお建てになったのですよ」

原文では、つねに金日成・金正日の名前が、太文字かつ大きな文字で表記されている。また「親愛なる指導者」という修飾語を必ず併記するのが決まりごとだ。

ここでは、名前の後に「先生」と付いているが、この他「将軍様」となっていることも多い。同じように、同年の「国語1-2」の中では「金日成」の修飾語として以下のように記述されている。

「敬愛なる首領金日成元首様は国を作ろうと毎日忙しく働いていました」

また、仮想敵国であるアメリカと日本を指して、アメリカ人を「米帝の野郎」、日本人を「日帝の野郎」と記述している部分にも注目したい。

「米帝」「日帝」とは、米国帝国主義,日本帝国主義を指し、「野郎」という言葉は蔑称として用いている。また、歴史教科書に多いのは、日本人をさす「ウェノム」という言葉。これは「倭の野郎」という侮蔑の意味を持つ、かなり汚い言葉である。

では実際に驚愕すべき記述の数々を検証していこう。目を疑うのが、歴史教科書の「敬愛する首領金日成元首様の幼い頃2」だ。国家の歴史が、特定人物の生い立ちとともに綴られており、何とも珍妙な感じが漂っている。

「日帝野郎どもを叩きのめす心で」という題のもと、蛇に襲われそうになっている少年たちを前に、以下のような教訓を記載している。

「敬愛する首領金日成元首様は(略)『お前たちは朝鮮人を殺しているウェノムたちが憎くないのか』といって棒を持ち出し、『ウェノムと同じく悪いやつだ!』と蛇を叩き殺した。敬愛する首領金日成様は、遊んでいる時にでも、日帝野郎どもを憎む心をお育てになった」

同様の記述で、「ウェノムどもをひとりも逃がすな」という過激なタイトルもある。弓矢で射る的当て遊びの場面で、仲間の子供たちにこう諭している。

「あの木にぶら下がっているのがウェノムだ」とおっしやりながら、弓矢を全て射当てられた。(略)みな、私について前に!ウェノムたちを一人も逃がすな!」

と、単なる子供の遊びの中でも、日本兵(人)の殺害を刷り込むような教科書が使用されている。特に残酷だったのは、同年発行の「敬愛する首領金日成元首様の幼い頃3」の一節。占領下の植民地時代という時代設定ではあるものの、兵隊だけではなくその一族までもが憎い敵であると謳っている。

「日本野郎どもは朝鮮の人を捕まえていく悪いやつだ。だから、やつらの子供も同じやつらだ。やつらが何か言ったら、我々はみな集まって懲らしめてやろう!(略)僕はウェノムを見るだけで胸に火がつく。これからもあんなやつらを絶対に許しはしない」

小学一年生の遊びが手榴弾投げ!

敵・味方の概念に関する表現が特に多かったのは数学だ。各学年の教科書に記された禍々(まがまが)しい記述を辿っていく。まずは『数学1』の恐るべき遊びを題材とした出題。

「ヨンスとミョンホが手榴弾投げ遊びをしています。命中した数を表に書きました。誰が勝ちましたか?」

もうひとつ、「軍隊ごっこの中で使う暗号」が引き算の例題となっている。歩哨の言う数字と合わせて2600になるように答えれば味方として認められ、239と言われた時にどう答えるかを求める文章題だ。

「数学2」では、実際に米兵を殺す表現も明記されている。
「人民軍のおじさんたちがある戦闘で、米帝のやつらを374野郎殺し、それより133野郎少なく捕らえました。捕まったやつらは何野郎ですか?」

また戦闘機が表紙の「数学3」では、韓国について、洗脳教育の最たる例がある。

「米帝の山犬どもがふみつけている南朝鮮のある都市だけでも学校へいけない子供が2350人にもなります。その中で○名は靴磨きをしながら幕らし、残りの子供は物乞いをしています」

韓国は未だにアメリカの占領下にあり、生活は苦しく虐げられているので、人民解放軍は同胞としては助けなければならないと暗示しているのだ。

また「音楽」の教科書ではやはりというべきか、金日成、金正日を称える歌がオンパレードで登場する。「我が国は宝の山」という歌詞の中には、創造主としての金日成が存在している。

「地下には金銀がいっぱい、みんな首領様のたまものよ…」

1994年に出版された『朝鮮の歴史』では、原始時代から高句麗の発展までを記載。ただしその内容たるや、歴史の捏造としか言えない記述で溢れかえっている。たとえば、原人が最初に登場するシーンでは、金正日の言葉が時代を超えて存在したことになっている。

「人間が食ベ、着、使い、幕らすのに必要な物質のすべては、自然を改造するための人間の労働によって創造される」

労働者階級は国家に労働奉仕すべきものだという共産主義を正当づけているのだ。また、日本の文化は朝鮮人によってもたらされたものだという記述もある。

「日本に進出した朝鮮の人々は、日本人たちに金属道具を作って使う方法と農業をする方法も教えてあげた」

一方、道徳教育を中心に捉えている国語の教科書だが、その実態は、金日成および金正日を極端に美化した内容となっていて、空々しささえ感じる記述が多い。たとえば「国語1-1」では「子供にお与えになった新しい服」と題した訓話がある。

「金正淑(注・金日成の妻で正日の母)お母様が道瑞で泣いている子供をおぶっていらっしやいました。

親愛なる指導者金正日先生は、「その子供が寒くないように服を着せてあげよう」とおっしやいました。(略)親愛なる指導者金正日先生は、服を着て喜んでいる子供を見てにっこりと微笑まれました」

他にも、「作男(=小作人)の子供」と題した資本主義社会の批判(=社会主義社会の肯定)を掲載し、資本主義やブルジョワ階級を徹底的に〃悪〃として描いている。

「『乞食のようなヤツ!これしか取れなかったのか?』地主の子供野郎はコマの杖で小作人の子供ソクチョルを叩きました。『何?乞食?』ソクチョルは死ぬほど働いても、『乞食』と言われるのに腹が立ちました。ソクチョルは地主の子供野郎を叩きのめし、カいっぱい踏みつけてやりました」

人民学校2年の「国語3」(1991年発行)では、手紙の書き方をこう指導している。

「親近感のある肉容で、しかも教育的意義のあるように書くべし。何よりも、お二人(親愛なるお父様金日成元首様と親愛なる指導者金正日先生)に対する忠誠心がよく表われているように…」

極めつけが、この侵略戦争を想起させる記述である。

「子供たちは自転車に乗っていると、通りがかりの敬愛する首領金日成お父様から(略)『わが国は国土が狭いので、お前たちは海を征服しなければならない』と、温かいお言葉を頂いた」

金日成の教育テーゼ「共産思想で武装させよ」

現代コリア研究所の西岡力氏はこう語る。「北の考え方というのは、韓国はまだアメリカに占領されている『植民地』なのだ――だから助けなければいけない、ということなんです。

45年までは日本を最大の敵とし、今は〃アメリ力=悪〃という図式になっている。それが教育分野に盛り込まれています。このように徹底した感化教育によって北朝鮮の人々の人格が決定づけられてしまう。

たとえば、72年のミュンヘンオリンピックで北朝鮮の射撃の金メダリストは、インタビューに答えて『アメリカ帝国主義者の心臓を狙えという(金日成)首領様の教え通りにやった』という主旨の発言をして物議を醸したことがあります。教育とは恐ろしいものです」

なぜ、これほどまでに洗脳的な教育教科書が使われているのか――それを解く鍵が、故・金日成の演説「社会主義教育に関するテーゼ」にある。

《人間改造は本質において思想改造であり、共産主義的人間を育成するうえで基本となるのは、共産主義思想で武装させることである》

実際、75年からは、11年制の義務教育(就学前教育1年、人民学校4年、高等中学校6年)が行なわれ、その2年後の77年に先のテーゼが発表されている。

この記述からもわかるように、北朝鮮の教育とは、主に政治・思想教育と科学技術教育、体育教育という3本柱からなり、朝鮮労働党及び金日成への忠誠心に満ち溢れた人間を育成することを主眼としている。



上 「国語1-1」 <遊撃隊と児童団員>  山道を伝って谷間にやってきた日本兵を遊撃隊が迎え撃つ絵。「児童団員のヨンチョルが、日本兵の到来を遊撃隊に知らせることで勝利を収めた」という内容の文章が添えられている。

下 「国語1-2」 <二人の児童団員お兄様>  二人の児童団員が日帝の野郎から銃を奪おうと、川の傍で待ち伏せているという場面。「おぶって川を渡れ!という巡査をおぶり、後ろから兄が素早く銃を奪い、頭を殴り倒す」という内容の文章が添えられている。



左 [国語1-1] 「アメリカ野郎を叩き潰す子供と戦車が出て行く」という文章が添えられている。

中 [数学1] 二人の子供による射的ゲーム。その的はどう見ても西洋人である。細部に至るまで反資本主義的表現で貫かれている。

右 [国語2] <体育大会> ヨムナムという少年が「米帝野郎の叩き割り」競技をする絵。「あいつらが、南の子供たちを苦しめている仇なのだと思うと、疲れるのも全く気にならなかった」という内容の文章が添えられている。



上 [数学1]  児童団員が人民軍のおじさんに秘密メモを運んで差し上げました。何時に出て何時に届けましたか?

下 [数学1]  児童団員が日帝野郎に反対するビラ16枚を持っていました。9枚はウェノムの巡査の家に貼り、残りは地主野郎の家に貼りました。地主野郎の家には何枚貼りましたか?

これほど酷い内容だと怒りを通り越して笑ってしまうが、こういった教科書で洗脳教育されて、日本への「恨」をつのらせる朝鮮人が量産されていると思うと笑えない。

過激な北朝鮮の教科書には呆れるが金日成父子神格化と金一族神聖家族化のプロパガンダもすごい。

「韓国の「民族」と「反日」」 田中明 1988年 朝日文庫


北朝鮮系の在日朝鮮人団体である在日本朝鮮人総連合会(総連)の機関紙『朝鮮新報』(朝鮮語)は、昨年〔81年〕12月7日付1面の全ページを使って、「主体時代を輝かす偉大な陽光」という見出しの下に金正日を讃えている。

革命博物館を背にした金日成の銅像の前に、金正日が仁王立ちになっている大きな写真を中央に配した紙面で、記事も、金正日の作らしい詩はゴチック活字で、また彼の言葉は大活字にアンダーラインを引くという工合である。

記事の中身は「革命の聖山白頭の蒼空高く眩い嚮導(先に立って導く)の星(金正日を指す)がにわかに浮かび上がった無限の栄光を高らかに謳歌する朝鮮の二月」(金正日の誕生日は2月16日で、北朝鮮ではこの日を「2月の名節〈祭日〉」といっている)というような陶酔的な賛辞で埋められているが、その中に次のような句節が挟まれていて注目される。

『革命と建設の全分野にわたる党中央(金正日を指す)の独創的な思想理論の炬火が相次いで灯されるとき、わが民族と世界の人民は、革命の暴風で沸き上がる20世紀に、人類が生んだ偉大な首領をお二人も共に戴く至大な栄光に包まれた』
(中略)

朝鮮総連の内部学習資料を見ても「親愛なる指導者同志(金正日のこと)は、偉大なる首領の革命思想、不滅の主体思想と卓越せる領導芸術、高邁なる共産主義的徳性を最も崇高な高みにおいて完璧に実現(「実現」の部分はプリント不鮮明のため判読)しておいでになる思想の天才、領導の天才であり、人民の慈愛あふるる師であらせられる」といった宣言的な文言の羅列に…
(中略)

73年ごろ党内での地位をぐんと高めたと見られる金正日は三大革命グループを足場に積極的な金日成神格化キャンペーンを進め、首領に最も忠実な革命課業の継承者たる〃実績〃を作った。

74年、労働党中央委員会が提示した「党の唯一思想体系確立の10大原則」は金正日の作成したものといわれているが、その骨子は、

金日成同志を忠誠をもってあがめること、金日成同志の権威を絶対化すること、金日成同志の教示を信条化すること、金日成同志の教示執行では無条件性の原則を貫徹すること、金日成同志の開拓した革命事業を代を継いで完成すること――となっている。

こうした「絶対化」「信条化」「無条件性」を鼓吹することによって金正日は父主席の神格化を完成させるとともに「代を継いて」革命事業を完成する自己の地位を確固たるものにしようとしたのである。

それを反映してそのころの「労働新聞」には「首領さまの命令指示を執行するに際しては死ぬ権利もない」とか「すべての活動家と勤労者は、主体思想の他にはいかなる思想も知らぬ、主体の世界観を確立した首領さまの忠実な革命戦士として、自身の備えを一層堅固にし」といった言葉が出てくる。(74年3月12日付社説)
(中略)

北朝鮮の最高権力者賛美の様態には、スターリンや毛沢東に見られた独裁→個人崇拝の枠組みでは捉えきれない不可解な神格化現象が見られる。

たとえば、独裁者につけられる賛美の形容詞――天才的なマルクス・レーニン主義者、不世出の愛国者、民族の英雄、革命の卓越した首領等々――は、現世的な資質評価に属するもので、他国でも見られたことだが、北朝鮮では現に生きている指導者金日成にたいして「伝説的な英雄」といった神話的人物のような取扱いがなされるのである。

『労働新聞』74年7月24日付の論説「偉大なる首領金日成同志はわが民族の伝説的な英雄である」はその一例である。

そこには、日本軍隊が抗日遊撃隊を追って密林に入って来たとき、偉大な首領が手を挙げて合図するや、谷あいの無数の枯木や岩が一斉に軍隊と化し弾丸になって敵を退治したという「痛快な神話」があること、

あるいは神出鬼没な首領の戦術戦法のため、首領は縮地法の使い手だという噂が人民の間に広まったが、「これらの話は決して根も葉もない噂なのではなく、実在の歴史的事実をもとにしている」といった条(くだり)がある。

ちなみに「縮地法」というのは講談などに出てくる道術の一つで、地脈を縮めて遠い場所も近づけてしまう術をいう。こういう非合理的・非理性的な「伝説」を持ち出して指導者鑚仰に援用するに至ると、これはもはや個人崇拝というよりは宗教的神格化といわなければなるまい。

金正日鑚仰もその線で行なわれている。英才、巨匠、千里慧眼、天才的――といった言葉だけでなく、彼の誕生は「赤い陽光が燦然と輝き、抗日武装闘争の力強い炎が全山河を覆った歴史のその日、森羅万象の祝福する中で、朝鮮の未来を照らす嚮導の星が高く昇った」

という〃神話的〃叙述で飾られている(『朝鮮新報』81年12月7日付)。われわれはこうした神話約・伝説的叙述を読むとき、近世以前の英雄説話を連想する。

それらはいずれも母親の懐妊には吉夢があり、主人公は山川の霊気に包まれて生まれ落ちる。そして幼児より出色の才を示し、徳行にも欠くるところがなかったとされるのが常である。

このように見ていくと、北朝鮮の金日成父子神格化は、現代の政治現象とのみ見ては理解しにくいが、伝統的旧社会の性格という側面から眺めるとき、意外にナゾが解けるのではないかと思われる。

この視角は、北朝鮮の個人崇拝→神格化現象に見られるもう一つの特異性、すなわち金一家の神聖家族化を解く手がかりにもなると思われる。

北朝鮮が金日成の個人崇拝を進めるに当って、金日成の両親や先祖を偉大な抵抗運動家に仕立て上げていったことは、ソ連にも中国にもなかった特異な現象であった。

北朝鮮で出された白峯著『金日成伝』によれば、父親の金亨稷は反日地下組織「朝鮮国民会」の組織者であり、反日独立運動の中心人物とされている…

母親の康盤石は、革命家の夫と子どものために献身した烈女であり、地区婦人会の会長として反日啓蒙活動をした朝鮮女性の鑑とされ…

叔父の金亨権は反日運動で逮捕されて獄死し、祖父の金輔鉉も日本官憲の圧迫のもとで息子や孫の運動を助けることに一生を捧げたとされている。

曾祖父の金膺萬は1866年、米船シャーマン号が大同江に侵入してきたとき、「群衆の先頭にたって勇敢に戦った」。母方の祖父康敦○は熱烈な愛国者であり、伯父康晋錫も先覚的な武装反日闘士とされ、金日成の同世代では、弟の金哲柱が抗日戦で戦死したと記されている。

金日成の前夫人金貞淑(金正日の実母)は「不撓不屈の共産主義革命闘士であり卓越した婦人活動家」とされ…

我々はここに個人を鑚仰するのに一族の顕彰が連動する姿、あるいは個人を高めるために家系(それはすばらしいものでなければならないが)を援用する作風を見ることができる。

これはマルクス・レーニン主義とは何のかかわりもない、朝鮮社会に今も色濃く残っている血筋や家系に対する強力な関心――血統重視思想の反映と見るしかないものである。

白峯著『金日成伝』も、家系を近代史だけにとどめてはいない。金日成は「全羅北道全州地方から北へ移った金継祥先生の12代目の孫」であり、その家は壬辰の乱(文禄の役(秀吉の朝鮮出兵))のとき平壌の近くに移り住んだものだが、「古くから『清貧にして義理と節操を重んずる家柄』として知られていた」として由緒ある家系であると記すことを忘れていない。

以上、北朝鮮における権力世襲と、権力者の神格化、神聖家族化現象は、朝鮮に強く存している血統重視思想と結びついているのではないかと述べた。

こんな狂信的反日国家と国交を結んだところで日本の害になるだけで益になることは何もない。

韓国・朝鮮人論


韓国人朝鮮人の証言や主張には、話を面白おかしくしたり相手を貶め自己の優越性を誇示するために、嘘臭い話や大げさな物言いをし、まぎらわしい表現を意図的に行うことが間々有ります。そこで、韓国・朝鮮人論の中から、それに言及しているものを紹介します。

「雨森芳洲」 上垣外憲一 1989年 中公新書


◇新井白石の朝鮮観 (江戸中期の儒学者・政治家 1657〜1725)

日本に送られてくる通信使は、日本向けには将軍の襲位祝賀をうたいながら、朝鮮の文献を読んでみると、敵情探索を目的としている。これは恩義を忘れたものである。

大体、朝鮮は信義のない国であって、明が清に攻められた時も一人の援兵も送ろうとしなかったではないか。「夫朝鮮狡黠多詐、利之所在、不顧信義、蓋○狢之俗、天性固然」

(朝鮮人は狡猾でいつわりが多く、利のあるときには信義をかえりみない。狢(むじな=タヌキの異称)の類の風俗は、天性からしてそうなのである 「国書復号経事」)。

白石の通信使待遇格下げの根底には、このように朝鮮を軽侮する心理が働いている。日本の文人たちは、朝鮮のことを礼儀の国などといって持ち上げているが、歴史に照らしてみれば、かくのごとく信義のなき国である。

そうした国の使節をそれほどまでに優遇することはない。こうした論理である。(日本の"文人たち"を"マスコミ・文化人"と言い換えれば現代でも通用する)

「朝鮮幽囚記」 ヘンドリック・ハメル (生田滋訳 1969年 平凡社東洋文庫)


(ハメルはオランダの船員で、長崎へ向かう途中船が難破して朝鮮に流れ着き、1653〜66年の間出国が許されず朝鮮に留めおかれていた。)この国民の誠実、不誠実および勇気について

彼らは盗みをしたり、嘘をついたり、だましたりする強い傾向があります。彼等をあまり信用してはなりません。

「新・韓国風土記 第1巻」 ソウル市根の深い木社編 安宇植訳 1989年 読売新聞社


両班階級は常民との約束は到底信用できないもの、彼らに誠意や真実、信義や正直、良識などの徳目を期待するのは無駄なことと決め付けた。

さらには、そうした徳目を悪魔に売り渡した階層として扱うより他ないとまで認識するようになった。常民階級が徳目に背を向け…

したがって彼らは、ほんのわずかでもおのれの利益につながると判断すると、喜怒哀楽の感情を度が過ぎるほど、行為や言葉によって示した。

大声を張り上げたり、暴言を吐いたり、下卑た言葉で口汚く罵倒したり、時には腕をまくったり拳を振り上げたり、目を剥いて睨んだり胸ぐらを掴んだりするのもそのためであることが少なくなかった。そうしてこうした粗野な言動こそが、しばしば彼らに利益をもたらしたのである。

「朝鮮紀行」 イザベラ・バード 1897年(時岡敬子訳 1998年 講談社学術文庫)


暮らし向きの楽な人々は一軒また一軒と場所を変えて時間をつぶす。政治については危険すぎるので話題にしないが、宮廷や市内のゴシップや著名人をさかなにした冷やかしを受け売りしたり、ニュースを仕入れたり、披露したり、でっち上げたりする。
(中略)

庶民は通りや家の前で宿屋で人と会う。そしてお互いの商売、仕事、ふところぐあいなど、かなりぶしつけと思われることについてえんえんと尋ね合ったり最新のニュースを仕入れ合ったりするのである。

どんな男もできるかぎりニュースを集め、あるいはつくる。耳に入れたことを嘘と誇張で潤色する。朝鮮は流言蜚語の国なのである。朝鮮人は知っていること、というより耳にしたことを人に話す。

ノース・チャイナ・ヘラルド紙 1905年5月5日号(「外国新聞に見る日本3」 1992年 毎日コミニュケーションズ)


朝鮮ほど贈賄や腐敗がよく見られる国もないだろう。また、この半島ほどなんの理由もなくだましたり、だまされたりすることが広く行なわれている国もない。

そして、これまで朝鮮政府ほど詐欺、うそ、横領が満ちあふれ、骨の髄まで堕落した政府はなかった。しかし、朝鮮はそのような自分たちのやり方に慣れ、これには気づかなくなっており、他人の欠点ばかりが見えるのだ。 (エッソン・サード記者)

「悲劇の朝鮮」 アーソン・グレブスト 1912年(高演義・河在龍訳 1989年 白帝社)


(学者である両班は)礼節上、天地の間に起こることならすべからく知っていなければならないし、質問されたことにはことごとく答えられなければならないわけですが、ただ、わざと騙そうとするのではありませんが、その嘘っぽい理論で結論を下す論法ときたらまったく驚くべきほどです。

自分が正しい場合がほとんどないにもかかわらず悪びれる様子がほとんどない。もし誰かが彼の言うことを受け入れないで別の論理で反駁を加えたりすると、彼は礼を守り抜くために必死の努力をするんです。

なかなか信じようとしない人を説得したり、または自分の正しさを納得させたと自分自身思えるまでは、決して投げ出したりはしません。

「朝鮮の悲劇」 F.A.マッケンジー 1908年(渡辺学訳 1973年 平凡社東洋文庫)


韓国人は、遺伝と教育とによって、その大部分が、おおげさな物言いをする人間か厚顔無恥の嘘つきかである。それで、日本人の非行についての彼らの陳述は、検証なしに、これを受け入れることはできない。(ジョージ・ケナン、ニューヨーク・アウトルック紙の論説から引用している)

「在日韓国・朝鮮人に問う」 佐藤勝己 1991年 亜紀書房


〔佐藤氏は金嬉老事件の裁判で特別弁護人をつとめた(1968年春、在日コリアン金嬉老が借金の取り立てのトラブルから暴力団員を射殺、静岡県寸又峡の旅館に立てこもり、宿泊客を人質にして民族差別の不当性を訴えた事件)〕

誤解を恐れずにあえて書くと、今になって振り返ってみると、はじめて、庶民つまり「原コリアン」に会ったのである。なぜ「原コリアン」かというと、彼は正直に自分の感情を表明する。

そして、自分の不利になるようなことは、事実であっても断固として認めようとしない。しかし、相手側の非は、どんな小さなことでも針小棒大に言い立てる…

次に目立つことが大好きだ。天才的とも思える組織能力、つまりある特定の人に狙いをつけたらあらゆる方法で接近を図る。看守に贈り物をし、相手がそのワイロを受け取る。

それを逆手にとって次ぎ次ぎと要求をエスカレートさせていく。彼の独房の中は、写真で見る限り書斎のようであり、料理する出刃包丁まであった。その結果、一人の看守を自殺に追いやってしまうのだが、これらのことは筆者にとってはまさに驚きの連続であった。

韓国人朝鮮人の証言や主張は、鵜呑みにせず、十分検証する必要がある。

竹島・領土問題


韓国人が「対馬は韓国の領土である」と主張し始めたのは戦後の李承晩大統領からで、その時は自国民からも否定されていたのだ。

「朝鮮新話」 鎌田沢一郎 昭和25年 創元社


対馬と朝鮮

玄界灘のこの一孤島が、韓国の独立とその動乱のため、最近改めて世界の注目を浴びるに至り、日本の国境としての役割も、また仲々重大になつて来た。それには左の四つの要因がある。

1、大韓民国建国早々、李承晩大統領は、対馬はもと韓国の領土だから、日本から返還して貰ふつもりだと言ふ突如たる声明。

2、北鮮軍の軍隊訓練スローガンに「朝鮮を制するものはアジアを制す」「次に対馬から日本へ」などとあることが伝へられ、南北いづれの政権も独立後の海外発展策として、対馬を窺ふやに感ぜられたこと。
(中略)

李承晩大統領が、賠償金とともに対馬を要求したことは、いたく日本人を刺戟して今日に及んで居る。
(中略)

しかしこれらの戦争犠牲を差引きしても、朝鮮と日本との場合はその方針はあくまで搾取ではなくて培養であつただけに朝鮮側のプラスは大きい。

併合前と最近の写真を比較してみれば、あらゆる面に於いて一見明瞭である。それが戦勝国と同じに賠償とは何だ――と云ふのが日本側の主張である。

さらに対馬が韓国の領土であつたなどとの証跡が歴史的にも全然ない。このことは李承晩大統領の突然の声明に、まづ韓国側が驚き、韓国新聞界の論調も、軽率なる大統領の声明を責めること頗る急であつて議会では問題となり、委員会を作つてこれを調査することとなつた。

そこで議員数名と、野の学者崔南善などを加へて、対馬が韓国の領土たりしことありしや、否やを慎重捜査したが、全然かかる証跡はないのみか、日本の倭寇に先んじて彼の地より刀伊の賊がしばしば対馬に侵入し…(中略・元寇に言及)

…かかる大事件とともに、対馬は古来より、日鮮間の連鎖となつて外交上に重要な位置をずつと占めてゐたのである。

今は二つに分かれてゐる島ももとは一つであつた。それを人工で開鑿(かいさく)して島を二つに割つたことこそ、対馬が昔から日本のものであり、且は又日鮮間に於ける外交交渉、ひいては一朝朝鮮と事ある場合に備へる措置であつたことを歴史は明確に証明して居る。

即ち対馬における大事件は、東岸ではなくていつも西岸に起こるのであつた。前記倭寇の場合も、又その前の刀伊の賊や、慶尚道元師朴○の政略、李従茂の侵入等その他の諸事件も、大抵は朝鮮側の積極的攻撃が基本となつてゐるのである。

そこで寛文十二年、時の対馬守宗義真が徳川幕府に申請許可をうけて志賀○広に工事監督を命じ、三万五千人の人夫を使つて、約二百日間に仕上げたのが浅海(浅茅)湾東端の「大船越の掘割」である。(○の漢字は表示できず)

即ち首都のある東岸から西岸へ最も速やかに且能率的に出る近道を作つたのであつて、島を二つに割る目的ではなかつたのである。

首都は古来から東岸のみであつた。それは日本本土との連絡上必然的な結論であり、島としての地勢、環境を考へての選択ではなかつた。

時の主権者によつて若干の奠都(てんと・都をさだめる)は行なはれてゐるが、いつもそれは日本に近い東岸のみである。初め今日の厳原(いづはら)附近が早くも首府となり、応永の頃宗貞茂は北方佐賀に都を移し、文明年間宗貞国は厳原附近の中村に還り、亨禄元年宗将盛は全石城(金石城?)に居た。

寛文六年宗義真の時に棧原に居し、これを府中と云ひ、明治維新ののち厳原と改名したのであつて、いづれも日本への最短距離東海岸に存在すること申すまでもない。

日清役ののち、日本海防衛の必要上、軍艦を通すべき水路開鑿の必要に迫られ、新しく「万関越の掘割」をつくつて、東西海岸間の軍事的交通の便ををひらき、これによつて日本本土との連絡は一層緊密を加へて行つたのである。
(中略)

さて対馬が日本を代表し乍(なが)ら日鮮間に於ける通交の媒(なかだち)をし、一方朝鮮海峡の利権を握つてゐたのは四百年の永きに及んだ。その間日鮮の間に取り交わした重大な条約が三つある。

一つは嘉吉条約(癸亥)、二は永正条約(壬申)三は慶長(巳酉)条約である。(括弧内は朝鮮側の記録)これはみな日本人の朝鮮貿易と倭寇に関係が深いのである。

由来日本人が彼の地に行つて貿易に従事したことは、ずつと昔からあつた。しかし高麗の晩年までは大したことはなかつたが、恭愍(きょうびん)王のとき(1352年)対馬の宗経茂に米一千石を贈つて来た。

李承晩大統領が対馬へは、朝鮮より食糧の不足を送つてゐた――と云ふのはこのことである。これは対馬を根拠地とする倭寇が、朝鮮の本土至るところに上陸して、掠奪をやることにはほとほと手を焼き、宗経茂を通して何とかこれら辺民の宣撫工作をやりたいものとの高等政策の一つであつて決して領民への食糧補給ではなかつた。

李朝になつてからは、倭寇の鎮定に特別の懐柔策を用ひる様になつたので、我も我もと土産を持つては朝鮮に行き、どつさりと返礼を貰ふ。

一種の情誼貿易である。爾来これらの方策が効果を挙げて来たのと、日本では豊臣秀吉の倭寇厳禁で、あれほど高麗朝を悩ました倭寇も、李朝に至つては中絶したのであつた。

それは後日譚であるが、個々の民間情誼貿易がかくの如くして発展して行つたのでは、朝鮮側でも立ち行かぬことになるので、そこで国営貿易として、この情勢に制限を加へようとしたのが嘉吉條約(1443年)である。

その条約で対馬の宗氏から、年々五十艘の船を朝鮮に送ることとし、朝鮮からは馬の飼料として米、大豆二百石を年々宗氏に贈ることとなつた。それを歳賜米と云つたので、李大統領が対馬を属国のやうに考へたのであらう。
(中略)

元来対馬は山岳地帯が多く、平野が少なく耕作地に恵まれない為、昔から人口と食糧のバランスがとれないのである。…米が極めて少ない為、全体のカロリーから云つて漸(ようや)く一万八千人を支へるに過ぎない。

然るにそのときの人口はその倍で三万二千人であつた。四百年の永きに亘り朝鮮貿易に全力を注いで来たのはもつともなのである。

貿易の方法はその時々の条約や、習慣等によつていろいろであつたが、進上品にしても、求請品にしても回賜別福と云ふ先方の返礼品や歳賜米にしても、交換率まで決めた官営貿易であつた。

又物々交換を前提とする民間貿易も、日本人の朝鮮滞在中の糧米供給にしても、皆それらの貿易代金決済済みの枠と比率のうちで行はれて居る。

そこで如何なるものがその輸出入品であつたかと言へば、対馬から銅鉄、鑞鉄(錫と鉛の合金・はんだ)、丹木、明礬(みょうばん)、日本朱、紋紙、黒角(黒い水牛の角)工芸品等で、朝鮮側から主として木綿、米、大豆、小豆、人参等であつた。

然るに時代の降るに随つて、木綿の質が下がり、寸法をごまかし、又米の中に砂や石を交へたり、水を加へて桝目をふやしたり、甚だしいのは渡すべき米を渡さないので、享保十三年に書かれた対馬側の文献をみると「二十ケ年程の間、未収二万俵に及び、埒(らち)明き申さず」などと書いてある。

是等の取引はすべて朝鮮に於ける和館で行はれた。それは単に商売の形式でなく、外交的儀礼と秩序の上に行はれてゐたのは面白く、官営貿易の面目躍如たるものがある。
(中略)

しかし如何なる角度から研究しても対馬が朝鮮の所属であつたと言ふ結論は出ないのである。

対馬の件で李承晩大統領には、自国民が呆れるほどの粗雑な歴史知識しかないということが露呈したわけだが、竹島の領有を強硬に主張したのもこの大統領だ。これまた怪しげな歴史知識から言い出したのではないだろうか。

おまけ


この話、歴史認識問題における韓国人や反日左翼の言動に近いものを感じませんか?

「朝日新聞 天声人語」 昭和31年8月1日


“洗脳”という言葉がある。英語では、ブレーン・ウォッシングという。中国で造られた言葉だ。むろん古い中国語ではない。

革命後の中共に生まれた新語で、変脳ともいう。英語には“ターン・コート”というのがある。服の裏返しから転じて裏切り者、変節者の意味に使う。

洗脳はこれとは違う。頭脳をすっかり洗い張りして別の思想に仕立て直す。思想改造であり人間改造である。中共は革命後、この“洗脳運動”によって国民の“人間改造”をやったといわれる。いわゆる“学習”や“自己批判会”で国民の思想の入れ替えをやったといわれる。

こんどの興安丸帰国者のうち328人の“釈放戦犯”は、判で押したように同じことを言うと報ぜられる。十余年の苦しい抑留にも少しも不平をいわず、ひたすら過去の罪を総ざんげしているそうだ。

それが撫順組も太原組も、元軍人も元憲兵も満鉄社員も医者も技術者も作家も、十人が十人とも申し合わせたように同じで、面会に行った妻と二人きりになっても、中国の土を離れた船上でも言うことは変わらず、それでいて驚くほど明るい顔をしているという。

侵略の罪を個人としてもざんげするのに不思議はないが、一般帰国者が各自めいめいの考えをもっているのとくらべて、“戦犯”たちはやはり“洗脳”の洗礼を受けたのかと思わせられる。

十年も社会から隔離されて朝から晩まで繰り返し“学習”させられたら、たいがいの人間は同じ鋳型にはめこまれるだろう。

戦時中の日本人も、海外のニュースからは耳をふさがれて、大本営の勝手な発表ばかりを信じさせられ、“聖戦”とか“承詔必謹”とかの強制的催眠術にかけられて、一つ鋳型に流しこまれたものだ。

ソ連も最近はよほど自由になったらしいが、それでもフルシチョフ氏の“スターリン批判”の演説そのものは、ソ連の新聞にはいまだに掲載されていない。

それと信ぜられる内容が世界中の新聞雑誌に出ているのに、本家本元のソ連では国民は“口づたえ”以外には今なお知らされていない。

“知らしむべからず”の“片耳政治”というほかない。世界中のニュースが隠されず洗いざらいに“両耳”から入る国柄なら、各人は政府なんかのお節介なしに、自由に自分の脳を常に洗い清められる。

撫順組というのは、中国の撫順戦犯管理所に抑留され、中国の対日政治目的を忠実に実行するよう洗脳された人達のことで、日本へ帰国したのち中帰連(中国帰還者連絡会)を結成する。

中国の手先となって、戦時中の日本軍の残虐行為を嘘証言も交えて宣伝して回り、反戦反日活動を積極的に行なっている。(小林よしのり「戦争論1」13章参照) 現在も左翼系マスコミに好意的に取り上げられることがあるが、彼らの言動の異常さは帰国時にすでに指摘されていたのだ。洗脳の恐ろしさは帰国後45年たっても解けないことである。

日本人を洗脳して贖罪意識を植え付けようとしている連中には用心用心。

「歴史と国家」雑考:糾弾する朝鮮人と反論できない日本人
国民が知らない反日の実態:歴史問題の基礎知識

日の丸反対の急先鋒の朝日新聞だが、かつては今と正反対の論陣を張っていた。これには右翼・左翼ともにビックリ!

「朝日新聞 天声人語」 昭和24年1月3日


(敗戦後GHQ指令により日の丸の掲揚は禁止・制限されていた。昭和24年1月1日のマッカーサー年頭メッセージは、日の丸の自由使用を許可するというものであった。)

マックアーサー元帥の年頭の言葉には、春風と秋霜とを同時に感じせしめるものがある。いささか過賞の感じがせぬでもないが、ほめられながら激励されるのは決して惡い氣持のするものではない。

日本人に関する日本人の評論は、とかく(?)しすぎる傾きがないでもない。それは、内側からの自己反省でもあるのだから、当然のことではある。

しかし少々薬がききすぎて、日本人がとかく悲観的になりすぎるきらいもないではない。どうせダメなんだという劣等感をいだくようになっては、日本の再建は覚束ない。日本人のいい所を見つけて温かい愛情の感ぜられる評論が、今の日本にはもっともっと必要なのではなかろうか。

お正月のお年玉として、國旗の掲揚が無制限に自由になったことは、やはり楽しいことである。 正月の町や村に門松が立ち晴着姿の羽根つき風景があっても、門毎に日の丸の旗のひるがえっていないのは、画龍点睛を欠くの観があった。

この数年間は、國旗のない日本であった。 國旗を掲げるのにその都度一々許可を得るのでは氣のすすまないのは偽りのない國民感情である。講和條約の締結までは、自由に國旗を立てられる日は來ないものと実はあきらめていた。

しかし今、日本経済自立への旗印として、マ元帥は日の丸の旗を完全にわれわれの手に返還してくれたのだ。 忘れられていたこの旗の下に、われらは耐乏の首途をし、再建と自立への出発をするのである。

さて國旗は自由を得たが、國民の手に國旗はない。戰災で國旗を失った家々は、立てようにも國旗がなく、この喜びを分つこともできないのだ。

マ元帥は國旗の自由をはなむけした。政府は國旗の現物を配給すべきである。

朝日新聞がここまで書くくらいだから、日の丸に嫌悪感を覚える人は、当時誰もいなかったということだろう。「日の丸の赤は、戦争で殺されたアジア人民の血の色である」、と言って反対している人たちは、何者かに洗脳されているのだろうか。


日韓歴史問題2 朝鮮併合の検証1

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