その他の日韓歴史問題1

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古代の任那支配と文化伝播 − 元寇と倭寇 − 秀吉軍が寺院を破壊した? − 文禄・慶長の役と朝鮮の民衆 − 耳塚 − 朝鮮通信使

古代の任那支配と文化伝播


韓国は古代に文化を日本に教えたと優越意識を持っているが、韓国側に資料はなく日本書紀などの記述を根拠としている。しかし古代に日本が朝鮮半島の任那を支配していたと日本書紀などの記述を根拠として主張すると、そんなことは有り得ないと日本側の資料を真っ向から否定する。

「日本のイメージ」 鄭大均 1998 中公新書


今日の日本論の体たらくぶりを、日本古代史の専門家という立場から批判しているのは金絃球高麗大学教授である。

1985年、
(中略)
H大学アジア文化研究所主催で、「東洋古代文献の信憑性」というテーマのシンポジウムが開催され、私は日本文献に関する発表者として参加することになった。発表に先立って市内の某ホテルで主催者側と発表者が事前集会をもった。

当時私は血気にあふれており、また韓国史の大家であるL教授と同席したこともあって平素抱いていた韓国の学界についての不満をぶちまけた。

「わが国の中・高等学校教科書を見ると、百済・高句麗・新羅三国の文化が日本に伝えられた話が出てきますが、その内容は日本古代史書である『日本書紀』を土台にしているもので、わが国の史書にはありません。

ところが、日本の学者たちが『日本書紀』を土台にして、古代日本が200年余り韓半島南部の伽耶(日本では任那という)地域を支配したという。

「任那日本府説」を主張すると、韓国の学界では、それは
(中略)
信じることができない資料なので、その学説も信じることができないと主張しています。
(中略)

これは明白な矛盾であり、こうした姿勢ゆえに「日本の学界が韓国の学界を軽く見るのではありませんか」と、身のほどを知らぬ質問をした。そうしたらL教授は黙り込んで答えず、横におられたC教授が「自信がないんだよ」とおっしやった。

『日本書紀』には日本が『任那日本府』という機構を置いて韓半島南部を支配しつつ三国文化を運んでいったようになっている。
(中略)

しかし、韓国の中・高等学校では三国文化が日本に伝播される国際関係に関しては何の説明もされず、ただ高句麗、新羅、百済の三国が日本に文化を伝えた事実だけを教えている。

そこで、学生たちは日本を客観的に理解できず、無条件、対日優越意識だけを助長する結果をもたらした。外国に出かけたわが国の学生が、日本側の主張をそのまま取りあげた任那日本府説(中略)に接して戸惑うのも無理がない (金絃球)

元寇と倭寇


元寇は、後年の倭寇や秀吉の朝鮮出兵の遠因となった

「韓国・中国歴史教科書を徹底批判する」 勝岡寛次 2001 小学館文庫


元寇は、元と高麗の連合軍によって構成されていた。したがって、韓国(高麗)は秀吉の朝鮮出兵の三百年も前に、立派に(?)日本を侵略していたことになる。さてこの元寇について、韓国の教科書はどう書いているか。

『元は日本を征伐するために軍艦の建造、兵糧の供給、兵士の動員を高麗に強要した。元はこうして二次にわたる高麗・元連合軍の日本遠征が断行されたが、すべて失敗した。

元は日本征伐のため、高麗に征東行省という役所を置いた。征東行省は、日本遠征が失敗した後には元と高麗との公共連絡機関として運営された。』


たったこれだけである。後述するが、秀吉の朝鮮出兵には何ぺージも費やす韓国の教科書が、自ら日本を侵略した行為についてはわずか数行の記述で済ませている。

しかも、なんと高麗は元に「強要」されて、仕方なく日本に「遠征」したのだそうである。これも大嘘である。『高麗史』によれぱ、元寇の発端は高麗の忠烈王が元の世祖にしきりに働きかけ、執拗に東征を勧めたことによる。(下條正男『日韓・歴史克服への道』)

しかも高麗軍は日本で何をしたか。最初に侵略を受けた壱岐・対馬の二島では、住民は男はことごとく殺され、女は手に穴をあけられて数珠(じゅず)つなぎの捕虜にされた。二百人の童男童女は高麗軍に連れ去られ、忠烈王に献上された。

今も泣く子を黙らせるため、母親が子に「モッコ(蒙古の訛り)来るぞ」とあやす言い方が全国各地に残っているが、元寇から七百年を経過した今なお、日本人の蒙古・高麗に対する潜在的な恐怖心は消えていないのである。当時の日本人の恐怖は、想像するだに余りある。

実は後年の倭寇も秀吉の朝鮮出兵も、この元寇と無関係ではない。李朝後期に安鼎福が書いた『東史細目』では、倭寇の原因が元寇にあったとし、李[+]の書いた『星湖[+]説』では、秀吉の朝鮮出兵も究極の原因は元寇にあったとしている由である (下條正男、『日韓・歴史克服への道』)

倭寇や「壬辰倭乱」(秀吉の朝鮮出兵)は大々的に書き立てる韓国の教科書が、元寇については他人事のように頬被りをして責任逃れをし、たった数行で片づけている。

さて、次はその倭寇であるが、韓国の教科書ではどう書いているか。

『倭寇は、対馬島を根拠地とする日本の海賊で、早くから海岸地方に侵入し、掠奪行為をしていた。恭愍王(きょうびんおう)代には倭寇に江華島まで掠奪され、開京が脅かされるほどであった。

これにより租税の海上運送ができず、国家財政が苦しくなり、海岸から遠くはなれた内陸まで倭寇が侵入して、大きな被害をこうむるようになった。高麗は倭寇をおさえるために日本と外交交渉も行ったが効果をあげられず、結局武力で討伐した。

崔茂宣(チェムソン)は火砲をつくって鎮浦の戦いで倭船を焼きはらい、崔瑩(チエヨン)と李成桂はそれぞれ鴻山と荒山などで倭寇を大いにうち破った。つづいて朴○(パクウイ)は戦艦100隻を率いて倭寇の巣窟である対馬島を征伐し、その気勢をくじいた。
(中略)

高麗未に大きな騒乱をおこした倭寇は、朝鮮初期にもわが国の海岸に侵入して略奪をやめなかった。そこで世宗のとき、李従茂などが200隻の艦隊を率いて倭寇の討伐に向かい、対馬島を征伐した。』


こういう記述である。倭寇は「対馬島を根拠地とする日本の海賊」と書いているが、朝鮮に「三島倭寇」という言葉がある通り、倭寇の根拠地は対馬・壱岐・松浦それに博多等、いずれも元寇の際、高麗軍の直接の被害をうけた地域の住民であった。

倭寇の記録として、残っている最初のものは高宗10(1223)年である。元寇の余燼いまだ収まらぬ対馬や壱岐の島で、残虐な高麗軍により親を奪われ、子を奪われ、辛うじて難を逃れた住民が、高麗に深い恨みを抱くに至ったのは、むしろ人間の情として自然ではないが。それに、対馬は土地が狭く、耕作には適さない。

太古の昔から日本や朝鮮との交易で生計を立てていた。高麗に交易を阻まれ、生計の道を断たれた結果として、対馬の民は朝鮮の海岸を襲うようになったのである。

当時の高麗は、元寇に先立つモンゴルの侵略により、数十万の男女が捕虜となり、あるいは虐殺され、非常に国家自体が弱体化していた。その弱みが一層倭寇の行動を刺激し、誘発したことも事実である(田中健夫『倭寇と勘合貿易』)。

もう一つ、韓国の教科書が全く無視して書かない重要なことがある。倭寇は日本人だけではなかった。『世宗実録』28(1446)年の記事によれば、倭寇のうち日本人は一、二割に過ぎず、ほかは日本人に成りすました朝鮮半島の民であった。高麗時代の末期には、軍隊や官吏は統治能力を喪失して、治安を維持できない無政府状態にあった。

人々は、「倭寇を仮りて露命をつなぐ以外に、生きる術がなかった」のである(下條正男、前掲書)。こういうところにも、自分に都合の悪い事実は書かないという、韓国の教科書の悪い癖が表れている。これも、「過去が暗いからといって隠し」ている、韓国の教科書の一例であろう。

扶桑社の『新しい歴史教科書』は、倭寇について次のように書いている。『倭寇とは、このころ朝鮮半島や中国大陸の沿岸に出没していた海賊集団のことである。彼らには、日本人のほかに朝鮮人も多く含まれていた。』

簡潔な記述だが、間違いではない。ところが、韓国はこれに異を唱え、『倭寇の発生原因に関する説明が欠落』 『倭寇=日本人』という既存の歴史認識を払拭させるため倭寇に朝鮮人と中国人を含めて記述」と言ってきた。

おかしな要求である。発生原因など、韓国の教科書を見てもどこにも書いてありはしない。発生原因など書いたら、それこそ高麗の日本侵略と高麗自身の弱体化に原因があるということになり、韓国自身、天に唾する結果になるのではないか。

それに、「日本人のほかに朝鮮人も多く含まれていた」のは「既存の歴央認識」の「払拭」などではなく、朝鮮の史書自体が認めていることではないか(なお、後期倭寇には中国人が多く含まれていた。これについては後述)。韓国の修正要求は、メチャクチャである。

倭寇の主体は日本人に成りすました朝鮮人と中国人だった。

「国史大辞典 第十四巻」 平成5年 吉川弘文館


<14-15世紀の倭寇>
『倭寇』という固定概念が成立するのは、1350年以後で、行動の地域は、はじめは南朝鮮の沿岸に限られていたが、やがて高麗の首都開京(開城)の付近にも出没し、さらに内陸部の奥地にまで姿を現わすようになった。規模も次第に大きくなり、400〜500艘の船団、1000〜3000の歩卒、千数百の騎馬隊を擁する集団も出現した。

この時期の倭寇の構成員には(1)日本人のみの場合、(2)日本人と朝鮮人の連合、(3)朝鮮人のみの場合が考えられる。(1)の日本人のみの場合、朝鮮に『三島の倭寇』という言葉があり、対馬・壱岐・肥前松浦地方の住民と推定される。(中略)

(2)・(3)の存在については、1446年(世宗28年)判中枢院事李順蒙が、その上書の中で『臣聞く、前期(高麗朝)の季、倭人は一、二に過ぎずして、本国(高麗)の民仮に倭服を着して党をなし、乱を作すと』と書いているのが注目される。

倭寇のうち日本人は10〜20%にすぎなかったというのである。高麗人で倭寇と連合したのは水尺・才人とよばれた賎民と、土地制度紊乱の犠牲となって逃散流亡を余儀なくされた農民や下級官吏とである。

<16世紀の倭寇>
明では海禁政策をとり、人民が海上に出ることを禁じ、自由に海外と交易することを許さなかった。しかし、国内経 済の発展は海禁の維持を困難にし、浙江・福建・広東などの地方では海禁を犯して海上密貿易に従事するものが急増した。(中略)

中国ではかかる密貿易者群を一括して倭寇とよんだ。(中略)十六世紀の倭寇の特色は、構成員の大部分が中国人で占められていたことである。真倭といわれた日本人は10〜20%、偽倭・仮倭・装倭とよばれた中国人が主力であった。

「倭寇」という名辞は、もともと中国・朝鮮に起源があり、日本で発生したものではない。

明治以来、その実態が本格的に解明されないまま、日本史上の名辞に取りいれられ、一般に流布してしまった。(中村栄孝著「日本と朝鮮」より) 倭寇=日本人という歴史認識を払拭させるためにも別の名称にすべきだ。

秀吉軍が寺院を破壊した?


韓国を旅すると旅行ガイドに『わが国に古い寺院が少ないのは秀吉軍に破壊されたためです』と説明されるらしい。日本人観光客は贖罪意識を感じて居たたまれなくなるようだ。

しかしこれほど明白な歴史歪曲があるだろうか。李氏朝鮮は仏教を大弾圧し、1万以上あったといわれる寺院は、秀吉軍が朝鮮に入った時にはわずか36ヵ寺にまで減らされていたのだ。

「醜い韓国人」 朴泰赫 1993 光文社


韓国では、骨董屋を覗くと首のない仏像が売られていることが多い。李朝の斥仏政策のもとで、仏像の首が切り落とされたからである。

それに今日でも韓国では、平地に仏教の寺がない。寺をたずねようとしたら、山を奥深く分け入ってゆかねばならない。

李朝では代を重ねるごとに、儒教による仏教に対する締めつけが、いっそう強められるようになった。儒教という怪物が時とともに大きく成長してゆき、儒教唯一絶対主義といわれる体制が固まっていった。

仏教は目の敵とされた。李朝三代目の国王となった太宗(在位1400年〜18年)の治世になると、仏教にさらに苛酷な弾圧が加えられた。

高麗朝が倒れたときには、全国に1万以上も寺があったというのに、寺の数を242にまで減らし、寺が所有していた土地や、奴婢(ノビ)と呼ばれた奴隷を没収した。

その後も、仏教へのパンチが次々と繰り出された。仏教はよろめき続け、ついにマットに沈んだ。四代目の国王の世宗(在位1418年〜50年)は、全宗派を禅教2宗に統合して、それぞれわずか18寺院だけを残して、他の寺を廃した。世宗はハングルを創製した名君であったのに、仏教には好意をいだいていなかった。

儒教は、個人が自らを磨くことによって完成することを目指したので、宗教を軽蔑した。仏教の輪廻の教えは、根拠がなく、天国や地獄は、人々の利己心や恐怖心から生まれた空想の産物であるとみなした。九代目の成宗(在位1469年〜94年)は、出家することを全面的に禁じた。

李朝時代は、そのまま仏教を苛めた歴史であるといってよい。十一代目の中宗(在位1506年〜44年)は、全国にわたって仏像を没収して、溶かしたうえで武器に鋳造した。

また僧侶を土木工事に使うようになった。僧侶は使役されるとき以外は、漢城(ソウル)に出入りを禁じられるようになった。仏教は、山のなかに逃げ込んで細々と命脈を保った。僧侶は、奴婢と同じ賤民の範疇に組み入れられた。

豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)は1592年だからそれ以前に寺院は破壊されていたのだ。

「朝鮮の歴史と文化」 姜在彦 1993 明石書店


高麗末期に朱子学が伝わって以来、彼ら朱子学者たちの廃仏論は、ついに武人李成桂を推戴して王朝交代という易姓革命を成し遂げるにいたりました。と同時にこの王朝交代は、仏教から儒教への建国理念の交代を意味します。

乱世に生きた李成桂は、本来無学(ムハク)大師を精神的な支えにしていたほどで、廃仏的ではなかったのです。ところが第三代国王太宗(在位1400〜18)にいたって、仏教に大弾圧を加えて全国の寺院のうち242寺だけを残して廃寺にしたばかりでなく、その土地と奴婢を没収しました。

さらに第四代の世宗(1418〜50)は、全国の宗団を禅宗と教宗の2宗に併合し、寺院も両宗それぞれ18ヵ寺に減らし、他は廃寺にしてしまいました。

祟儒廃仏策は、この太宗と世宗のとき、ほぼ定着したといえます。ソウル城内から放逐された仏教は婦人層に支えられて、深山幽谷でようやく余命をつなぐほかなかったのです。

「いい加減にしろ韓国」 豊田有恒 平成6年 詳伝社


高麗朝では仏教が国教化され、弊害ばかりが目立つようになった。そのため、次の李氏朝鮮王朝では、儒教が国教になった。都会にあった寺は、すべて破壊された。

今日、韓国旅行をする観光客は、いかにも仙人でも住んでいそうな山奥の寺に、風情を見いだしたりするが、それは、かろうじて、お目こぼしにあずかったから残っているだけなのだ。

今でこそ、道路が整備され、観光バスがやってくるが、昔は一山こえないと行けない場所だったのだ。逆に、韓国人が、日本へ来ると、都会の真ん中に、神社仏閣がのさばっているのを見て、びっくりするという。
(中略)

韓国で、有名な暴君の燕山君(在位1494〜1506)は、名刹円覚寺を破壊して、その跡地に妓生(キーセン)の養成所を建てた。この場所が、今のパゴダ公園なのだが、韓国人は、このエピソードについては、あまり語りたがらない。

パゴダ公園は、日本に対する3・1運動の発生地として有名だから、そっちの由来を紹介しておいたほうが、ジャパン・バッシングの役に立つわけだろう。


文禄・慶長の役と朝鮮の民衆


文禄・慶長の役(韓国では壬辰倭乱という)に対しての歴史評価は、韓国人の言う「世界の戦争史上、前代未聞の罪行と汚点を残した秀吉の朝鮮侵略」(朴春日著朝鮮通信使史話から)というのは極端としても、韓国人と同調する日本の学者・マスコミなどは日本側の蛮行のみをクローズアップして非難しているが、李朝の圧政から解放される好機ととらえて、秀吉軍に呼応して反乱を起した朝鮮の民衆も多数いたのである。

李朝の王宮である景福宮の焼失もその際に民衆に焼き討ちされたもので秀吉軍とは直接関係ないのである。

「韓国・中国歴史教科書を徹底批判する」 勝岡寛次 2001 小学館文庫


さて、韓国の教科書は朝鮮に出兵した日本軍に抵抗する朝鮮人民の姿を、「義兵の活躍」の項で次のように描く。


『全国各地で儒生、農民、僧侶などが義兵を組織し、いたるところで倭軍をうち破り、苦しめた。義兵は自発的に立ちあがり、自分の家族と財産、そして村を守る一方、国家を守るために倭軍を迎え撃った。

義兵は、自分の地元の地理に明るく、地形をうまく利用することができただけではなく、自然条件に合った武器と戦術を活用したために、少ない犠牲で大きな被害を与えた。当時の代表的な義兵将としては、郭再祐、趙憲、高敬命、休静、惟政などを数えることができる。』


朝鮮人民は一致団結して日本軍に抵抗したという記述だが、果たしてそうか。あまり知られていないことかもしれないが、実際には日本軍の中には、これに呼応した朝鮮の民衆が多数含まれていたのである。

支配階級の両班は党派抗争に明け暮れ、『宣祖実録』によれば、「人心怨叛し、倭と同心」するような社会状況の中で、明軍が朝鮮軍支援にかけつけてみると、「斬る所の首級半ば皆朝鮮の民」といったふうだったという。

また、江戸時代末期に日本で書かれた『征韓偉略』によれば、秀吉の軍隊が京城に入城した時、兵士の半ばは朝鮮の民であったという。

また、韓国の教科書には「文化財の被害も大きかった。景福宮が焼け、実録を保管した書庫が消失した」と書かれているが、火をつけたのは朝鮮の民であり、秀吉の軍隊が京城に入る前に、既にそれらの建物は焼け落ちていたのである。

宣祖の京城脱出と同時に、日頃から怨念を抱いていた民衆が略奪・放火をほしいままにしたのであり、「虐げられた朝鮮の民衆にとって、外敵の侵入はまさに解放軍の到来と映った」との指摘すらある(下條正男、『日韓・歴史克服への道』)。

韓国の教科書は、そうした点については完全に無視し、もっぱら日本の悪と、これに対する挙国的な朝鮮人の抵抗だけを延々と書き連ねている。

「韓国人、大反省」 1993 金容雲 徳間書店


壬辰倭乱当時、首都漢陽(ソウル)を固守すべしという民衆の願いを押しのけ、蒙塵(王が乱を避けて都を退くこと)の口実のもとに、王と大臣らが都を逃げ出すと、彼らに石を投げつけた民衆は、腹いせに宮殿に火をつけた。

普段えらそうなことを言って何事もいい加減に行なっていた連中が、民衆の叫びを背に逃亡したのだから、民衆の間に「なんだ、この野郎」といった気分が高じたのも無理はなかった。

実際にそのころ朝鮮の二人の王子は逃亡中に民衆に捕らわれ、日本軍に引き渡された。民を守らぬ王は、もはや王ではないのである。
(中略)

[+]は、壬辰倭乱を、豊臣秀吉の侵略欲のせいでなく、朝鮮内部の党争が自ら招いたものであると言った。もしそのころ、全国民が君主を中心に団結さえしておれば、あのような侵略はありえなかったろうと断言している。


壬辰倭乱の時、京畿以南には義兵が至る所で決起したが、西北三道(朝鮮半島北部地域)には義挙した者が見られなかったばかりか、当時北関では王子と大臣を捕らえて倭賊に投降した者さえいた。『星湖[+]説』


なぜ京畿以北地域(朝鮮半島北部地域)にはたった一度の義挙もなかったのか。その地方出身者は、官職はいうまでもなく科挙に応じる資格すら与えられておらず、最初から徹底して中央から遠ざけられていた。それゆえ李朝が自分たちを守ってくれるとはつゆにも考えられなかったし、当然国のため命を捧げる者も出てこなかった。

「龍を気取る中国 虎の威を借る韓国」 黄文雄 1999 徳間書店


モンゴル軍が侵入してくると、西北や東北地方の官吏は、競って土地を献上して順民を誓う。韓人は逆に、侵入軍の先頭に立って自国の軍隊を叩く、もしくは城を明け渡して逃げ惑う。

ときには抵抗する儒者や僧侶も出てくるが、その頻度は極めて低く、秀吉軍の京城(漢城)入城のように、奴婢はむしろ侵入者を解放者として敵を迎え入れた。

それだけでなく、多くの「韓奸」や「売国奴」といわれる人々が必ず現れて敵についていく。民衆は敵軍に従軍する。壬辰倭乱のときに、ついさっきまで自分の国王(仁祖)だった人ヘ、都落ちの国王として石を投げたり、王子を捕えてまで敵軍に献上することもある。あるいは、宮城攻めに民衆が協力して城攻めや攻囲をする場合もある。

その結果、敵の軍門に下り、属国となることを誓う。この点が韓国の他のアジア諸国と異なる部分だ。これは中国人によく似た習性である。つまり、儒教国家としての特色なのだ。

統一新羅以後の韓国は、高麗朝初期の数年間を除いて唐以後、中華帝国歴代王朝の属国として正朔(宗主国の年号)を奉じてきたというのが本当の史実だ。

景福宮などの焼失は、大部分の韓国の観光案内板によれば、「壬辰倭乱(文禄・慶長の役)の兵によるもの」と書かれているが、それは嘘だ。李恒福の『白沙集』によれば、秀吉軍の入城前にはすでに灰燼となっていた。

それは、民衆が兵乱と聞けばすぐに蜂起して、宮廷を襲い略奪したからだ。ことに奴婢は、秀吉軍を解放軍として迎え、奴婢の身分台帳を保管していた掌隷院に火を放った。それが歴史の史実だ。

「月刊朝鮮」 1982年8月号 李炳注(「日本のイメージ」 鄭大均 1998 中公新書より)


わが国の歴史は極端にいうと、同族殺し合いの歴史でした。三韓時代がそうであり、三国特代もそうであり、朝鮮王朝における党争も法冶の枠を越えたものです。いつも不安な政情だったんです。

だれかが自分を陥れる投書を一通投げ込めば、破滅です。どこでだれが自分を陥れるために剣を磨いているか分からない。枕を高くして眠ることもできないのです。

高枕短命という言葉を私は健康法のことだとばかり考えていましたが、「王朝実録」を読んで、それが政治的な戒めであることを知りました。(中略)

日本社会でも上下の階級があったが、彼らは下人を使う前に下人の生活は最低限保障してやりました。しかしわが国では、とくに朝鮮王朝時代には、両班が常民の生活を保障するどころか収奪していました。

壬辰倭乱のとき、倭の側についた叛徒が大変な数にのぼったといいますね。王が避難するや叛徒が王城に火をつけ、はなはだしくは王子をつかまえて倭将に差し出し、地方官をむち打って敵陣に引っぱっていった例もありました。

「秀吉が勝てなかった朝鮮武将」 1992年 貫井正之 同時代社


日本軍は朝鮮上陸後わずか二十日間で首都漢城を占領した。快進撃の背景には日本軍を解放軍として迎えた朝鮮民衆の支援もあったのだ。
(中略)

◇朝鮮半島南東部
慶尚道は日本軍の侵入をもっとも早く受けた地域である。役人・両班たちはその報を聞くやいなや、大半は民衆を放置し、安全な地域へ逃亡した… これまであらゆる圧迫を受けていた人々は、支配機構の崩壊で一気にさまざまな束縛から解き放たれ、力を失った役人や両班に公然と反抗した。

例えば、『陝川、草渓、固城、普州などでは、賊(蜂起)が発生し、彼らは昼間から政府の倉庫を襲撃し、穀物を奪った。これは逃亡した兵卒が、盗賊となった』という記録もある。

政府はこのような慶尚道の動きを、『固城県令の金絢は赴任して7年になり、刑罰が大変過酷で人々の支持を失った。そこへ日本軍が侵入したので、反乱(蜂起)が四方に起こった』と、日ごろの悪政のためとしている… また、宜寧では奴婢が自分の主人を殺害し、財物を掠奪したという事件も起こっていた。
(中略)

◇朝鮮半島南西部
全羅道の蜂起の中心は軍兵だった。全羅道巡察使(臨時軍司令官)李洸は、首都防衛のため道都全州から兵を率いて出陣したが、途中、忠清道公州付近で首都陥落・国王の離京を知らされた。

この報は軍団を一夜で自壊させてしまう。逃亡した軍兵たちは、『赴戦を嫌い、乱を起こす。彼らは官舎、刑獄を襲い、放火と掠奪に奔走した』とある。この風潮はすぐさま全羅道の各軍団に伝播し、潭陽、南原、求礼、順天などでも同様の行動が起こった。
(中略)

◇朝鮮半島北部
咸鏡道の民衆蜂起は、他地方と異なりもっと積極的な目標をもっていた。日本軍の侵入が1592年6月に始まると、『(道内)各地の土兵・土豪は役人を捕らえて降る。日本兵は刀剣を使わず』に快進撃したとある。

さらに、人々は日本軍の侵入前に、咸鏡道観察使(知事)柳永立・兵使(軍司令官)李渾さえも捕らえて一気に惨殺してしまう。この結果、咸鏡北道明川以北の八城市は従来の政府役人に代わって、日本軍の庇護のもとに蜂起した民衆が首長となった。

なぜこのようなことが起こったのだろうか。北方のこの地方は道内出身者には科挙の受験資格がなく、租税・労役は他道にまして重く、流刑指定地であるなど、さまざまの差別を受けており、日本軍の侵略前から、咸鏡道内は一触即発の緊張状況だった。

民衆は『日本軍は新主を立て、国の政治を変えるといい、争って役人を縛り、日本軍を迎える』と、新政治を日本軍に求め、日本軍の侵入を歓迎したのである。この蜂起には在地の土豪層も参加し、大蜂起へと発展した。
(中略)

日本軍への投降者も多く出た。日本軍の侵略が最も広範囲にわたった慶尚道では、投降者は両班から役人僧侶・軍兵・商人・農民そして奴婢など各層に及んだ。

当時、もっとも劣悪な条件に置かれていたのが奴婢たちで、『草渓の私奴婢、宇音同の父子4人は、戦初、洛東江から進軍してきた日本軍を境内に誘い、近隣の掃討の手助けをした。

また、草渓府へ先導し、軍器・倉穀の隠し場所をことごとく教え、分け前にあずかった』というように、日本軍の手先となって、積極的な協力者となった者もいた。日本軍の快進撃の背後には、現地の協力者がいたのであった。

「日韓・歴史克服への道」下條正男 平成11年 展転社


豊臣軍を嚮導した朝鮮の民衆

豊臣軍があれだけ早く漢城(現ソウル)に到達できたのは、朝鮮の民衆が率先して豊臣軍を嚮導(先に立って導くこと)したからであった。

『芝峯類説』で李[目+卒]光が、「倭賊、我が国人を以て嚮導とす。故に遠きとして到らざる無し」と言い、そのため、かえって深山に難を避けた人々のほうが犠牲になったという。

この時、朝鮮の民衆が嚮導に走ったのは、『宣祖実録』二十五年五月壬戌条で「人心怨叛し、倭と同心」するような社会的要因があったからである。

16世紀末の朝鮮では、支配階級の両斑たちが党派争いに明け暮れ、私利私欲に趨(はし)る一部王族や高官等が百姓を酷使して、民衆は塗炭の苦しみを舐めていた。

そのため朝鮮の民は、豊臣軍の「私たちは君たちを殺さない、君たちの王が民を虐げたので、今この結果があるのだ」という宣伝文句をそのまま受け入れ、「倭も亦人なり。我ら何ぞ必ずしも家を棄て避けんや」と、恐れる様子もなかった。

したがって、秀吉軍がソウルに進駐しても「京中の市民、安居して移ら」なかったのである。そればかりか、朝鮮の王である宣祖が「賊兵の数はどうか。半ば是我国の人と言うが、然るか」と尹斗壽に尋ねたように、日本軍には朝鮮の民衆が含まれていた。

事実、平壌の役の際、明軍は「斬る所の首級半ば皆朝鮮の民、焚溺萬餘、尽く皆朝鮮の民」と、朝鮮側に真偽を確かめるほどその数が多かったのである。

そして、この時も倭寇と同様、「仮倭」が登場し、その害は日本人よりも甚だしかったと趙靖の『黔澗集』は伝え、金誠一も「処処賊をなす者、倭奴幾ばくも無し。半ば是叛民。極めて寒心すべし」と「鶴峯集」で述べている。

現在、ソウルにある景福宮や昌慶宮等を訪れると、その大部分の観光案内板には「それらの建物は壬辰の乱の兵火で焼失した」と書かれている。しかし、それらは秀吉の軍隊がソウルに入城する二日前には、すでに焼け落ちていた。

兵火で王宮や官衙(官庁)が灰燼に帰したのは事実だが、火を掛けたのは朝鮮の人々であった。李廷馥の『四留斎集』や李恒福の『白沙集』等には、その時の状況が記録されている。

それらによると、宣祖のソウル脱出と同時に、日頃から怨念を抱いていた民衆が官衙や王族の私邸を襲い、宮闕に乱入しては略奪をほしいままにし、火を放ったのだ。

特に奴隷的階層であった奴婢の身元を示す台帳を保管していた掌隷院は、身分的解放を求める人々によって襲撃されている。

李[シ+翼]はこれと同じことが高麗時代にも起こっていたと『星湖[イ+塞]説』で述べているが、虐げられた朝鮮の民衆にとって、外敵の侵入はまさに解放軍の到来と映ったのであった。

この郡県の民の行動は、1950年(昭和25年)6月25日、北朝鮮が韓国に侵攻した時にも見られた。北朝鮮軍は自ら解放軍を名乗り、韓国の人々がそれに協力するという事態が各地で起きた。

過去の歴史と同じ構図が再現されたわけだが、それらはいずれも韓国側の政治的混乱と貧富の差が招いたものである。しかし、戦況が変わり、国連軍の支援を受けた韓国側が北進を始めると、その立場が逆転した。

自由を求めて北朝鮮から人々が逃げてくるのと入れ替わりに、北朝鮮軍に近かった人々は北に逃れていったからだ。その時々の状況で、民衆もその立場を変えていかざるを得なかったのだ。

だが、これは個人にばかり責任を帰すべき問題ではない。そのような選択肢以外に生きる道がなかった、当時の状況こそが問題とされるべきだからである。

民心を失った豊臣軍

ところで、文禄の役の時も、朝鮮の民衆は同じ選択を迫られていた。秀吉の軍隊が京城(ソウル)に入城した時、その兵士の半ばは朝鮮の人々であったと『征韓偉略』は記しているが、明が参戦し、豊臣軍が後退し始めると様相は一変した。

秋が過ぎて冬に入ると、豊臣軍にとって難民の存在は邪魔なばかりか、負担になっていった。自らの食糧問題も解決しなければならなかったからだ。

その時、撤退する豊臣軍には、これら民衆が朝鮮側と内通するのではないかという疑心がつきまとっていた。それがやがて民衆を抛棄することになり、豊臣軍は民心を失うことになったのである。

豊臣軍がソウルを去り、入れ代わりに宣祖が戻ってくると、城内の民衆は自分たちを置き去りにしたはずの宜祖に食糧を求めて群がり、食べ物を与えられると感涙するのであった。豊臣軍が義兵に苦しめられるのは、形勢が逆転してからのことである。

朝鮮の役で活躍した加藤清正(トラ退治の逸話は有名)は、韓国人から豊臣秀吉、伊藤博文と並んで日本の三悪人とされているが、清正公を尊敬した朝鮮人もいたのである。

「日韓2000年の真実」 名越二荒之助 平成9年 国際企画


加藤清正に感謝状を贈った朝鮮の王子たち

加藤清正は「南無妙法蓮華経」の幟を掲げて戦った。日蓮宗への信仰は母親譲りのもので、勇将であるとともに、仏心篤い武将であった。

彼が北朝鮮の会寧にまで攻めのぼった時、二人の朝鮮の王子を捕らえたが、礼を尽くして処遇した。 翌文禄二年、講和談判が開かれるに及んで、秀吉の命令で、両王子を釜山から首都・京城(漢城)まで護衛(家臣・九鬼四郎兵衛)をつけて送り還した。

両王子は帰還するにあたって感謝状を清正に贈った。 この書状は今も紀州徳川家に残っている。清正の娘が徳川頼宣の夫人となった縁故から同家に伝えられたものである。それを要約すれば次の通りである。


壬辰(日本では文禄)元年七月二十四日に捕らえられてから礼遇され、厚い保護を受け、 衣服糧食を与えられ、至れり尽くせりの待遇を受けた。

このたび関白(豊臣秀吉) 殿下に上申して釜山から京城に送り還された。その慈悲は仏のごとくである。 もし一行の者がこのことを忘れ、後日、日本及び清正公に対し、僅かでも背くようなことがあったら、人情を弁えぬ者であって、天地の神々もこれを知っているであろう。


両王子は京城まで送り届けてくれた九鬼四郎兵衛にも感謝状を送り、その厚遇の恩は永久に忘れない、と述べている。このほか清正は両王子を一時、鍋島直茂に預けておいたことがある。

そのため鍋島氏の歓待を謝した書状が二通、鍋島家にも伝えられている。その中にも、「神伝慈悲の道を貴官の中に見る」という文言さえある。

清正廟が朝鮮にあった

両王子は京城に帰ってから、清正の恩を忘れないように、京城の南大門外に清正の廟を作った。そこには肖像画を掲げて生きながらの社とし、両王子は親しく祭文を読み上げたという。

清正に感激したのは、両王子ばかりではなかった。禮曹司という職にあった五人の高官は、秀吉宛に長文の手紙を書いている。

この文書は現在熊本の本妙寺に所蔵されているが全文は「日本人の博愛」(辻善之助編)に載っている。(中略)要約すれば次ぎの通りである。


清正は利欲を求めず、ただ正事に奔走した。朝鮮北部を席巻すること、勇猛果敢であって、その姿は神か人か、男子中の男子であった。

会寧で両王子を捕らえた時は、辞を低くし、謙虚そのものであった。この姿に日本の風格を見る思いがした。両王子を釜山まで送るまでその態度は一貫していた。これこそ真の仁人であり、君子中の君子である。貴国の忠臣名将録に記録して明らかにすべきではないか。


これら一連の資料に接しておれば、加藤清正という勇将の一面を窺うことができる。清正が熊本人に今も「セイショコサン(清正公様)」として慕われている理由も判るのである。

加藤清正を慕った朝鮮人たち

韓国で加藤清正といえば、残虐な許しがたい敵将として悪の権化のように語られている。ところが日本では、人気の高い武将なのである。「朝鮮征伐」では数々の武勲をたて、虎退治をした勇将として語り伝えられた。

晩年は熊本城を造り、善政を布いた殿様として尊敬された。現在熊本県では、清正と呼び捨てにせず、「清正公(せいしょこ)」と呼び、「加藤神社」に祀られている。

熊本市の本妙寺が清正公の菩提寺で、そこに清正の墓・浄池廟がある。その北側に大木土佐守兼能(三千石の家老)の墓がある。清正が死んだ時、土佐守兼能は殉死したからである。

そして南側にあるのが、「朝鮮人金宦墓」である。ほかに清正に殉死したものは沢山いたが、金宦だけは特別にこのような大きな目立つ所に墓を建てた。「金宦」とは会計職のことで、本名は良甫鑑という。

熊本では「金宦さん」と親しまれ、香華の絶えることがない。清正に連行された朝鮮人が、なぜこのように熊本人から慕われているのか。「朝鮮史話 第一巻」(松田甲編、昭和二年刊)の中に紹介された「肥後國志」「続撰清正記」に基づいて述べてみたい。

良甫鑑(金宦)は文禄の役の時、清正の軍門に降った。その後は案内役になって、日本軍に貢献した。もともと彼は気概を持った人物だったから、李氏朝鮮の国政紊乱や人心の腐敗に耐えられなかった。

それに比べて日本軍は志操堅固で義烈の風があった。特に清正の温情の厚さに感謝して熊本まで付き従った。

「李朝実録」によると、朝鮮側に投降した日本軍兵士は『数百をくだらず』とあり、中でも有名なのは沙也可(さやか、後に改名して金忠善)である。

ところがその反対に日本側に投降して日本に協力した朝鮮人も多かったのである。熊本に住みついた金宦は、近習役として二百石を貰った。慶長十六年(1611)清正が亡くなると、彼は恩義に感じて殉死したのである。
(中略)

かつての敵国人でありながら、清正に対して「名誉の殉死」を遂げた金宦の葬儀は、清正と家老大木土佐守との合同葬の形で盛大にとり行なわれた。

そして昭和四年から始められた加藤神社の神幸式には三つの神輿(みこし)が出る。第一の神輿が清正公、第二の神輿が土佐守兼能、第三の神輿が金宦で、三つの神輿は今も出ている。

清正を慕ったのは、金宦ばかりではなかった。清正の遺骸を葬った本妙寺の第三代住職も、朝鮮から清正に従った帰化人であった。文禄二年、清正が慶尚道の普州城の攻略した時、両親を失った十三才の少年を見つけた。

名前は「余大男」という。少年に敵の行方を聞いても答えず、筆紙を与えたところ、「独上寒山石径斜 白雲生処有人家(独リ寒山ニ上レバ石径斜ナリ、白雲生ズル処ニ人家有リ)」と書いた。

清正はその筆勢と非凡さに感服して愛護し、熊本に同道すると、本人の亡き父母の菩提を弔わせる意味もあって、僧侶の道を歩ませた。

九州きっての名刹本妙寺住職・日真上人に弟子入りさせ、身延山・久遠寺に学ばせた。彼が二十九才になると、本妙寺の第三代住職・日遙上人となり、地元では「高麗上人」と仰がれるようになった。
(中略)

彼は清正公の三回忌に、法華経八巻、六万九千余の文字を石に刻み、経塔を建てた。それ以来命日の前夜には、徹夜で六万九千余字を写経する行事が行なわれるようになった。これが「頓写会(とんしゃえ)」の始まりであり、今も盛んである。

朝鮮人にとっては憎みても余りある敵将を、このように慕うようになったのは何故か。清正の魅力とは何か。勇猛をもって鳴る武将が、案外涙もろくて血も涙もあり、部下からは慕われるものである。ここに人間研究の面白さがあるのではないか。

加藤清正が朝鮮出兵の際に祈願をした神社の例大祭で使われる囃し言葉「ボシタ」が、在日朝鮮・韓国人の申し入れで使用禁止になる。

文禄・慶長の役で日本に連れてこられた朝鮮人の数は、数万名とされているが、それらの帰国のために再開された朝鮮通信使(これを特に回答兼刷還使という)に従い帰国した者は、3500名を記録するに過ぎないのである。

徳川幕府の態度は終始一貫して帰国の意思のある者の帰国は妨げないという態度であり、朝鮮人が多く存在していた各藩もおおむね協力的で、帰国は本人の意思次第であったが、刷還使の報告書には「面会者は多いが帰国を願い出るものは少ない」と記している。(参考 中尾宏「朝鮮通信使と壬辰倭乱」)

「儒者姜○と日本」 村上恒夫 辛基秀 1991年 明石書店(○の漢字は[シ+亢])


姜[シ+亢](きょうこう)の足跡をたどる   村上恒夫

姜[シ+亢]の記録がある。「以前に来たものはなかば倭人となってしまっており、帰国しようという考えもなく、私が身を挺して故国に帰ろうと諭しても、応じようともしない」
(中略) 

中には日本で殺され、また病死した者もあったろうが、姜[シ+亢]が「半ば倭人となり」といっているように、日本になじんでしまった者が多くあったと考えられるのである。隣国の、土佐長曽我部元親に捕らえられた朝鮮人の、その後の記録がある。
(中略)

長曽我部元親は、先の役のとき、秋月城主朴好仁ら380名の朝鮮人を捕虜として連れ帰った。

城主といえば、戦国の習いとして厳しい刑があるはずのところ、この朴好仁は手厚く遇されている。その後山内一豊が入国した際には、その子元赫とともにお目見え仰せつけられ、後に唐人町と称する土地を与えられ、医者として働き、また豆腐製造なども始めている。

その後、好仁は希望して朝鮮へ帰ったが、息子の元赫は土佐に留まり、秋月長左衛門と日本名を名乗り、しかも、山内一豊が遠州(静岡県)から連れてきた遠江という女を妻とし、その後も代々支配層から妻を迎え、子孫の中には士族になったもの、また大庄屋になった者も出ている。

またこの朝鮮の役は、別名「陶器戦争」ともいわれており、日本は朝鮮の焼き物の技術にあこがれていた。したがって、その技術を持っている者はすこぶる手厚い保護を受けている。そのほか鋳物、織物、印刷、料理などの技術を持っている者も、きわめて優遇されている。
(中略)

封建社会のもとでは、一部の特権階級は別として、一般庶民の生活は貧しかった。しかも、寒さの厳しい国である。気候の温暖な日本にあって(捕虜の大半は関西に住んだ)、肥沃な土地を与えられて生活が保証され、日本語も少しずつ覚えると、帰国する気持ちが薄らいだのも無理からぬことではなかろうか。

秀吉の侵略と儒学者姜[シ+亢]   辛基秀

多くの強制連行者のうち、姜[シ+亢]のように帰国できた人は4000人を越えていない。陶工、医者、印刷工、石工、学者、農民、女性たちの居住地は唐人町と名づけられた。
(中略)

戦後37年、唐津にに到着した朝鮮通信使一行は、「文禄・慶長の役」で捕虜になった同胞が多いのを目撃している。『名護屋から一息(朝鮮の30里、12キロ)のある村に人家が数百戸あり、この村は高麗村といい、彼らは沙器を焼いて生業としている』(「癸未東槎日記」)
(中略)

1636年の朝鮮通信使が帰国の途中、通訳官康遇聖は捕虜となった同胞の刷還(調査して連れ帰る)に関する諭告(お触れ)をもって唐津に行ったが、帰国希望を申し出る者はなく、全員が腰を据えて製陶に励んでいたという。

帰国の費用が全て日本側(対馬藩)の負担でありながら朝鮮への帰国を望まなかった理由を刷還使は「母国語を忘れてしまった年少で連れて来られた者、日本人と結婚している者、家族家産をなしている者など日本社会へ同化してきていることの他に、帰国後の生活不安を覚える人々がいた」と記しているが、これは彼らの朝鮮での身分がおおいに関係しているものと思われるのである。

日本に連れて来られた捕虜たちは、なぜ故郷の朝鮮へ帰りたがらなかったのかというと、その身分と大いに関係があるのである。捕虜の多くは朝鮮へ帰っても奴隷(奴婢)の過酷な暮らしがまっているからである。日本で技能者として優遇されれば自然と日本に永住することになるのは当然なのである。

「両班」 宮嶋博史 1995年 中公新書


研究者によって見解が分かれるが、十六世紀には全人口の三割ないし五割近くを奴婢身分のものが占めていたとされる。したがって奴婢がきわめて大量に存在していたことになる。(同書では、日本統治時代に京城帝大教授をつとめた四方博氏が慶尚道大邱の土地台帳を研究した結果を引用して、1690年大邱の奴婢人口は全体の43.1%であったと記している。)

「朝鮮幽囚記」 ヘンドリック・ハメル(生田滋訳 1969年 平凡社東洋文庫)


(ハメルはオランダの船員で、長崎へ向かう途中船が難破して朝鮮に流れ着き、1653〜66年の間出国が許されず朝鮮に留めおかれていた。)

奴隷の数は全国民の半数以上に達します。というのは自由民と奴隷、あるいは自由民の婦人と奴隷との間に一人または数人の子供が生まれた場合、その子供たちは全部奴隷とみなされるからです。奴隷と奴隷との間に生まれた子どもは、女奴隷の主人に所属します。

(ハメルは朝鮮の奴隷の身分判定と所有権の帰属に関して正確な知識をもっていた。父母のどちらかが奴隷であればその子供も奴隷となるというのは「一賤則賤」の制度であり、奴隷同士の子供は女奴隷の主人のものになるというのは「奴婢従母制」である。)

「日韓・歴史克服への道」下條正男 平成11年 展転社


賤民としての匠人

では、この技術に対する極端な認識の違いは、なにに由来するのであろうか。ここでは、技術者たちが置かれていた社会的な環境の違いを無視することはできない。

近世日本の場合、職人は城下町や村々に住み、その地域の人々の需要に応えていた。それは一つの経済共同体の中で、一構成員としての役割を果たす職分を待たされていたためである。

このことは、朝鮮時代の身分制度が「両班、中人、常民、賤民」と別れていた中で、匠人たちは賤民に近い位置にあったことを考慮すると、大きな違いであったことになる。

日本の士農工商は、身分的な側面のほかに、職業的な役割を意味する職分の性格が強かった。ところが、朝鮮時代の匠人は、身分としては最下層の賤民に属し、上下関係の厳しい朝鮮社会にあって、歓迎される位置にはなかった。この事実が伝統的に製造現場に出ることを嫌う遠因となっている。

朝鮮時代を通じてその基本法典となった『経国大典』を見ると、匠人の社会的地位がよく分かる。それによると、匠人には、官に隷属するものと、民間でもの作りに従事した私工とがあった。

その官に属す匠人のうち、中央官庁に付属するものを「京工匠」といい、地方の官衙に属したものを「外工匠」といった。そこでの彼らの職場環境は、16世紀の梁応鼎が「発奮して指を断ち、強いてその役を避けんとす」と『松川先生遺集』に記すように、自ら指を断ち、労働を忌避するほど悲惨な場合があった。

これでは、もちろん労働意欲の湧き上がるはずもなかった。柳馨遠が「能者は毎に苦役され、不能者は安逸にして害なし」とするように、正直者は常に馬鹿を見ていたのである。

この仕事をしてもしなくても待遇は同じという不公平な状況は、かつての社会主義社会でも指摘された労働現場とも類似し、彼ら匠人たちは労働の喜びに乏しかったのである。

それは『経国大典』に「京、外工匠、籍を成す」とあるように、彼らは各官庁に登録されて隷属し、「年六十を満ちて役を除」かれる境遇にあったこととも関連していた。だから、60歳以前の匠人たちにとっての自由とは、労働の場からの逃亡の他にはなかったのである。

後年、文禄の役の際、日本軍がソウルに入城する二日ほど前に、まず最初に景福宮や奴婢等の文書を保管していた掌隷院等が焼き討ちされたのは、自由を求めた人々によって襲撃の対象にされたからである。

彼らには外侵よりも、身分の解放のほうが先決であったのである。むしろ彼らは、内紛や外部からの侵攻を利用しようとしていたといえる。

倭寇の時も文禄の役の時も、社会で最も虐げられた人々が常に嚮導役を果たしていた事実からも、それは言える。さらに、朝鮮時代の製造の現場では、平素から奴隷的な労働が行われ、失策には罰則が規定されていたこととも無関ではない。

『続大典』で「咨文の表紙麁造の匠人、初次杖八十、毎次一十を加え、杖一百に至りて止む」と規定しているのはその一例で、技術の未熟な匠人たちには体罰が加えられたのである。

これでは逃亡する匠人が続出し、各官衙の匠人が不足がちになるのも当たり前である。そして、その匠人の補充に際し、技術の伝習が十分に行われない時は、教える者も教えられる者も罰せられていた。

これらの罰則規定は、朝鮮時代の終わり頃まで続くので、匠人に対する待遇はあまり変わっていなかったことが知れる。これでは「百工の技芸、頑鈍せざる無し」という朝鮮時代の技術風土に、大きな変化がなかったのも当然といえる。
(中略)

これでは技術は伝習されず、匠人たちもまた仕事に喜びを見出すことも少なく、できれば忌避したいと考えるのも当然であった。

朝鮮の奴婢(奴隷)には官庁に所属する公奴婢と両班など私人の所有になる私奴婢があった。公奴婢は役所で使役される者の他に手工業職人の匠人、遊興のための妓生(キーセン)がいた。

私奴婢は農業などの生産労働の他に召使として雑役を行っていた。いずれも公私の所有者の財産であり、売買、贈与、相続の対象となった。

奴婢の身分決定のための原則は、父母のどちらかが奴婢身分であればその子供も自動的に奴婢身分とされるということだ。朝鮮は男系血族社会であると同時に奴婢血族社会でもあったのである。

奴婢の人生は悲惨であり、支配階級である両班の享楽な生活を奴婢が苛酷な労働で支えていたのである。ちなみに現在の韓国人も尊敬してやまない聖人と称される儒者の李栗谷(5000ウォン札の人物)・李退渓(1000ウォン札の人物)の生活も「君子は労せず」の言葉通りに奴隷(奴婢)の使役なくしては成り立たなかったのである。

日本への連行者が、こんな社会制度の国には帰りたくなかったのは当然である。また、朝鮮の役で日本の人買い商人が現地入りし、朝鮮人を奴隷としてポルトガル人に売り渡したとされているが、その多くはもともと奴隷だったのである。

日本へ連れてこられた代表的朝鮮人として有田焼の陶祖李参平がいるが、ともすれば侵略戦争の犠牲者として悲劇の人物として扱われているが、日本軍に積極的に協力したことが表に出てくることはほとんどない。彼の行動もまたこの戦を民衆解放の好機ととらえてのものだったのだろうか。

「新風土記3」 1975年 朝日新聞編・発行


李参平が日本へ来たのは慶長の役(豊臣秀吉の朝鮮出兵)だった。鍋島藩(現佐賀県)の多久家に残る多久旧記によると、『金ヶ江三兵衛と申す者、元来朝鮮人にて、往昔、日峯様朝鮮御帰陣の刻、三兵衛儀、彼の国にて御道御案内申し上げ… 』金ヶ江三兵衛とは李参平の日本名で、日峯様とは鍋島直茂の号である。

李参平は南朝鮮の戦場で直茂の軍の道案内をして、身命をかけて忠節をつくした。直茂の軍が帰国の時、このまま朝鮮に残しておいては危害を加えられる恐れがあるので、配下の多久長門守安順に命じて連れ帰ったという。
(中略)

戦いに加わった諸将たちは、たくさんの陶工を国へ連れ帰っている。鍋島直茂、黒田長政、加藤清正、島津義弘、細川忠興、毛利輝元らである。

諸将たちが陶工に目をつけたのは、当時の日本に焼き物ブームが起こっていたからである。千利休が茶の湯を大成したのも、この少し前であり、茶の湯に使う焼き物は武士や商人たちの間で争って求められた。

名器は一国に匹敵するほどの高い価値を与えられていた。織田信長も秀吉も、部下の論功行賞に盛んに利用している。これが日本の焼き物の伝統的な価値基準となり、今日まで続いているのである。茶陶の法外な値段は、このような歴史がつくり上げていったものであろう。

佐賀県の有田焼、福岡県の高取焼、上野(あがの)焼、鹿児島県の薩摩焼、山口県の萩焼などが起こった。文禄・慶長の役を「焼き物戦争」という。

当を得た呼び方だ。こう名付けたのは、陶芸研究家の故小野賢一郎氏である。「九州は大陸文化の先進地ですが、こと陶器に関しては後進地です。

…釉薬のかかった本格的な陶器は、鎌倉中期に中国から朝鮮を経由しないで、ストレートに瀬戸(愛知県)へ入って来ている。朝鮮に近い九州が、どうして陶器の技術の導入が遅かったか、大きなナゾです。

しかし文禄・慶長の役で、九州に窯が一挙に増え、名誉を挽回した。連れてきた陶工の数は、いろいろ説がありますが、鍋島藩だけで150人くらいとして、西日本一帯で、どうでしょう、千人いや七、八百というところでしょうなあ」と佐賀市在住の美術評論家永竹威氏はいう。

朝鮮陶磁器の歴史には李参平のように名工と呼ばれる人物がいない。名品はあっても製作者の名前が後世に伝わらないからである。いかに陶工の地位が低かったか分る話である。

韓国人の主張に、秀吉軍の朝鮮侵略によって、それまで後進国であった日本が、先進国朝鮮の高度な文化と技術を略奪したことによって、その後の発展を遂げた、というのがある。

しかし、その自称先進国の実態はと見れば、彼らが日本人に対して誇る代表的な商品である当時の陶磁器製品は、茶人好みの侘び寂びの素朴な物であって、華麗な絵付けなどは、その後の日本で高度に発展していったものなのである。

また、彼らが世界に対して自慢する李舜臣提督が造った世界最初の鉄船などというものは、もともと存在しておらず後世の作り話(デッチアゲ)なのである。

「日韓・歴史克服への道」下條正男 平成11年 展転社


有田焼はなぜ全国に広まったのか

そのことは、文禄と慶長の役の際、日本に拉致され、または渡来した朝鮮の陶工たちが、何代にもわたって各藩の窯で陶磁器の生産に従事していた事実の中にも指摘することができる。

本来なら陶工たちは朝鮮にいれば官に隷属した身分で、後世に名を残すこともなかった。しかし、市場経済的なシステムが稼働していた日本では、その流通機構の中で独自の位置を確保し続けることができた。

だがそれは、日本に渡ってきた最初の朝鮮の陶工たちの技術的水準が、特別に高かったということを意味するものではない。

むしろ当時の陶工たちの技術は、朴斉家が「我国の瓷器、極めて麁(あら)」し、「これを地に置けば、恒に○○(ゲツゴツ)してしばしば傾き、口哨(まが)て色悪し。名状すべからず」と、口を極めてその粗悪ぶりを指弾しているように、決して高いものではなかった。

それどころか、朝鮮時代の人々は、そういった陶磁器よりも金属器である鍮器(ちゅうき)を好んで用いていた。柳得恭が『京都雑志』の中で、「器什」は「俗、鍮器を重んじ」たとするように、実生活では鍮器が尊重され、陶磁器は軽く見られていたのである。

その陶工たちの技術が日本で飛躍的に伸長するのは、陶磁器が流通経済に乗り、市場の原理の中で生産されていたからである。

鍋島藩の有田焼(伊万里焼)は朝鮮の陶工李参平によって始まり、17世紀の中頃、酒井田柿右衛門が上絵付(赤絵)の技法を確立させると、その商品価値は一躍高まった。

その赤絵はまもなく長崎のオランダ商館を通じてヨーロッパに輸出されるようになり、欧州でも大きな関心を集めた。その後、ヨーロッパでは磁器の研究が始まり、18世紀に入ると、ドイッのマイセン窯では磁器の製造に成功して有田焼の写しが作られ、フランスのシャンティー窯、イギリスのチェルシー窯でも有田焼の写しが作られるようになる。

もともと、赤絵のような色絵磁器の本家は中国であったが、そこでも有田焼の写しが作られるほど、柿右衛門式の赤絵は新機軸を開くものだった。そこで、鍋島藩では磁器を特産品とし、保護奨励政策を行ったが、これに類した動きは陶磁器を製造していた各藩でも見られた。

鎌倉時代から続く唐津焼も、文禄、慶長の役の際に、朝鮮の陶工によって青磁、白磁、鉄絵等の技術が伝えられて隆盛に向かい、歴代唐津城主も保護奨励したため繁栄した。

この唐津焼は主に茶人たちに賞玩され、その生活雑器も大量に生産され消費されたことから、関西地域では陶磁器を「唐津物」と総称するまでになっている。これは東日本で、茶碗の類を「瀬戸物」と呼ぶのと同じである。

いわば唐津焼や瀬戸焼は「唐津物」「瀬戸物」と言うように、商標が普通名詞となったのである。日本ではこのように、陶磁器も各藩の重要な特産品となって他藩に輸出され、各地で食器や茶器として消費されていたのである。

現在、長野県の須坂には、同地の豪商であった田中家が二百年間にわたって便用していた生活用品を展示する「豪商の館」があり、近くの松代には松代藩主代々の遺品を展示した「真田館」がある。

いずれも江戸時代に使った生活道具がそのまま保管されているが、ここには大きな違いが見られる。商人の家では贅沢な有田焼が数多く使用され、大名の真田家では質素な食器を使っていたことだ。

これは、商人の経済力がそれだけ大きかったことを示すと同時に、その購買力が陶磁器産業を支えた原動力の一つであったことを物語っている。山また山の信濃の国にある田中家に、どうやって肥前の国の有田焼が運ばれたのだろうか。

考えてみると不思議だが、この一事からも、当時の日本の流通は全国津々浦々を網羅していたことが知られるのである。伊万里の港から積み出された有田焼は、船で一路、越後の国の直江津港に運ばれ、そこから信濃川を遡江して飯山に至り、さらに陸路須坂に運ばれ、田中家の食膳を飾っていたのである。

有田から須坂までは、直線にしても千キロ近くはある。これは、近世日本の流通がそれだけ活発で、それを維持する需要が絶えなかったということを如実に示している。

朴斉家が「我国の瓷器、極めて麁(あら)し」とした朝鮮の陶工たちの技術は、こうして日本の流通市場を背景として、新たに生まれ変わっていたのである。

李舜臣の鉄甲船の考証と鉄船の歴史

韓国人は、1592年の文禄・慶長の役において日本水軍に大打撃を与えた李舜臣の亀甲船(本来の呼称は亀船)は、世界最初の鉄の船・鉄甲船であると主張しています。しかし呆れたことに船体に鉄板を張った鉄甲船であると裏付ける史料は韓国にはないのです。

近年に亀甲船を復元した韓国人金在瑾は著書「亀船」(桜井健郎訳)の中で「李忠武公全書にそのことを示す字句が一つもないことから鉄甲船でない」と明言しています。

「李忠武公全書」(忠武は李舜臣の諡号)とは、1795年に編纂された李舜臣と亀甲船に関する第一級の史料です。

亀甲船の構造を簡単に説明すると、外見の最大の特徴は船体の上部が亀の甲羅のような形をしていて、その部分にびっしりと槍の先や刀を上向きに植え込んでいたことです。

当時の軍船の武装では相手の船を沈没させることは困難であり、最終的には敵船に斬り込んで決着をつけるというのが海戦の実態でしたが、ハリネズミのような格好をしていた亀甲船には乗り移ることが困難であったため防御力に優れた軍船であったのです。

1592年李舜臣は国王への報告書に次のように書いています。

「私は特別に亀船を造り、船首には龍頭を配備しそこから大砲を放射するようにし、背には鉄尖をさして、中からは外を見ることができるが、外からは中を見ることができず、そのように造れば数百隻の敵船中に突入しても砲撃するることができます」「敵が乗り移ろうとすれば剣と鉄に掛かり、近づこうとすると集中銃撃され、立ちはだかることはできない。大小の戦闘でこれで戦果を上げることが多かった」と記しています。

「鉄」という漢字を漢和字典で調べると、「金属の種類」をあらわす意味の他に「刃物または武器」をあらわすと書かれています。つまり「鉄甲船」には、鉄板で装甲した船という意味と刃物で装甲した船という意味があるのです。

李舜臣の軍船は刃物で装甲した船という意味の鉄甲船だったのであり、鉄板を張った鉄船ではなかったのである。しかし、仮に木造の亀甲船の一部に鉄板が張られていたとしても、そのようなものを鉄船と称してよいものなのだろうか。

木造船体に鉄板を張った軍船ならば李舜臣より前に日本で織田信長の鉄甲船が存在していたのであるが、日本人はこの船を世界最初の鉄船と呼ぶことはない。

1576年大坂石山本願寺との合戦で織田信長の水軍は、木津川口海戦で毛利水軍に焙烙(ほうろく)火矢で攻撃され、ほとんどの船を焼き払われて惨敗を喫した。

この戦訓から信長が1578年伊勢の九鬼嘉隆に建造させたのが、大筒(大砲)を装備し船体に防火・防弾を兼ねた鉄板を張ったの鉄甲船・大安宅(おおあたけ)船である。

同年の第二次木津川口海戦では、毛利水軍の焙烙火矢は鉄張りの鉄甲船にまったく効果がなかった。鉄甲船に積まれた大砲の威力は凄まじく、毛利船団はなすすべもなく蹴散らされたのであった。鉄板張り軍船の優位性を見せつけた海戦であった。

金属張りの船ならばさらに画期的なものが、すぐ後の時代に日本で建造された。1631年三代将軍徳川家光の時代に、幕府の戦力を誇示するために建造された安宅(あたけ)丸である。

これは未曾有の巨船で、推定排水量1700トン、全長62メートルで二人がかりの大櫓100挺立てという空前の規模であった。

特筆すべきは矢倉を含む船全体を厚さ3ミリの銅板で覆っていたことで、30センチ厚の外板との組み合わせで鉄壁の防弾・防火能力を誇っていた。

また、船底にまで張られた銅板は、、フナクイムシなどから防ぐ役割ももっており、これは西欧よりも一世紀早い船底銅板張り船の出現であった。

また、日光東照宮なみだったという華麗な装飾ともあいまって、日本はじまって以来の最大最強にして華麗な戦艦であったが、維持費も莫大なものになり、その負担に困った幕府は1682年に解体してしまった。

世界の船舶史上で鉄で作られた最初の船とされているのは、1777年イギリスのヨークシャーで造られた河川用の小さな旅客船であったが、船材としての鉄は木造の船体を補強するためにそれ以前から用いられていた。

1820(あるいは1821)年には最初の全鉄製汽船アーロン・マンビーがイギリスで建造され旅客船として英仏間に就航し、1861年には軍艦としては世界最初の全鉄製船体のウォーリアがイギリスで進水している。

ちなみに1853年幕末の日本にやって来たペリーの黒船は、鉄船であったように言われることもあるが、蒸気外輪を装備し黒い塗料を塗った木造の軍艦であった。

(参考 石井謙治「日本の船を復元する」学習研究社、任正[火+赫]「朝鮮の科学と技術」明石書店、桜井健郎「李舜臣提督と亀船」(リンク先)、原書房「船の歴史事典 コンパクト版」)

李舜臣の亀甲船(本来の呼称は亀船)を工学的に解説した論文です。
日本流体力学会:李舜臣提督と亀船*注意クリックするとPDFをダウンロードします。要Adobe Acrobat Reader 不安な方はトップページより検索してください)

耳塚


耳塚は文禄・慶長の役(朝鮮出兵)の朝鮮人戦死者の供養施設で、豊臣秀吉の宗教心の発露であり、残忍さの象徴であると非難するのは見当違いもはなはだしい。

「日韓2000年の真実」 名越二荒之助 平成9年 国際企画


◇『耳塚』は敵国戦死者の慰霊塔

京都・東山の方広寺前に、朝鮮出兵した日本軍が朝鮮軍兵士から切り取った鼻を埋めた『耳塚』という小さい丘があり、その上に五輪塔が建っている。

日本の教科書にも載っており、『朝鮮侵略』のむごたらしさを表す教材になっている。韓国からの観光旅行者も、この場所には大半の人が訪れ、中には土下座して祈る人もあるという。

この塔をいつ頃から『耳塚』と呼ぶようになったのか、明らかではないが、実はこれは『耳塚』ではなくて『鼻塚』なのである。戦国時代は功績を競うために、敵の首級を挙げるのが習いであった。

何人の首をとったかが、論功行賞を左右した。朝鮮の役ではそれができず、首に代えて敵の鼻の数で戦果を量ることになった。死体とは言え、人体の一部を斬りとって集めたと聞けば、その酸鼻に眉をひそめるであろう。

しかし戦場にあって戦果を確認し、功を競うのは、近代戦でも同じことなのである。近代戦では、軍艦を何隻撃沈・大破したか、航空機を何機撃墜したか、が評価の対象となる。だから戦果を確認するために色々の配慮がされている。

もっとも日本では、秀吉以前に、敵の耳をそいで遺髪の代わりに供養した例があった。平安時代の中期、すなわち前九年の役(1056-64年)のことである。

源頼義・義家父子は、国司の命令に従わない阿倍頼時を討伐するために、陸奥の国に出かけた。それは足かけ九年に及ぶ戦いであった。頼義は死力を尽くして戦う敵に敬意さえ覚えた。

戦いが終わって帰京する時、頼義は敵の死者を慰霊するために、死者たちから斬り取った耳を乾かし固めて皮製の籠の中に入れて持ち帰った。そして六條坊門の北西洞院の西に耳を埋めて堂を建て、等身大の阿弥陀仏を安置した。

京都人はこの堂を耳納堂と呼称するようになった。しかし応仁の乱か戦国時代に焼失して今はない。秀吉の『耳塚』も『耳納堂』から連想したのではないか、と言われている。

わが国では古来から、戦いが終われば、敵を弔う伝統があった。秀吉も同じであった。彼は卑賤の中から身を起こし、人間の悲しみや苦しみを知悉(ちしつ)していた。

死者に対する仏心も篤く。戦争でも残虐な手段を嫌った。彼は慶長2年の9月28日、敵(朝鮮)の戦死者を慰霊するために持ち帰った鼻を京都大仏の前に埋めて、盛大な法要を催行した。

当時秀吉の信任が厚く、側近であった相国寺の住職に西笑承兌(さいしょうしょうだい)がいた。承兌は日記の中に当日の様子を詳しく書き、秀吉の心中をおよそ次のように述べている。(原漢文、相国寺資料第一部)

『大相国命(豊臣秀吉のこと)はこの鼻を見て憐れみの心を深くし、敵味方を超えて平等に供養しなければならない、として禅宗の五山の僧に命じて山海の珍味を供えさせ法要を営んだ。そして怨みを越えた平等の心を持って墓を造る。この墓を名づけて鼻塚とし、尚塔婆一基を建てる』

承兌は秀吉の意を受けて、塔婆に『清風明月本同天、干時龍集丁酉秋九月二十又八日敬白』と書いた。清風も明月も、もともと同じ天にあって敵味方を超えて恩恵を施している、というほどの意味であろうか。

法要の当日は供物が山のように盛られ、幟が立ち、おびただしい数の僧俗が集まって焼香した。承兌の書いた言葉は、秀吉のみならず、集まったすべての人の心でもあった。

◇敵国の死者を弔う日本の伝統

我が国には古来から、たとえ敵国人であっても戦いが終われば戦死者の慰霊を行うという風習がありました。(中略)

外国の敵を弔う例は、元寇の時にもありました。…文永・弘安に及ぶ2度の元寇が終わると、弘安5年(1282)、時宗は鎌倉に円覚寺を建て、水没した10万の元軍の死者のために一千体の地蔵尊を作って奉納しました。

その時、開山の僧・祖元は、その語録の中に、「前歳及往古此軍及他軍戦死与溺水、万象無帰魂」と記録しています。「前歳」とは文永の役のことであり、「往古」とは弘安の役のことです。「此軍」は日本、「他軍」は蒙古を意味することは勿論で、敵味方の慰霊であることは説明するまでもないでしょう。
(中略)

豊臣秀吉の朝鮮出兵の時にも、各地で敵兵の屍を埋めて弔いました。そのことを当時朝鮮政府の要職にあった柳成龍が、「懲ひ録」という著書の中で明らかにしています。

日本軍が全羅道に進撃した時、朝鮮軍は熊嶺で防戦し、激戦の末、鄭堪、辺応井らの武将は戦死しました。それに対して成龍は『日本軍は、熊嶺の戦死者の屍をことごとく集め、路辺に埋葬し、その上に標柱を立て、「弔朝鮮忠肝義胆」と書き署した』と紹介し、『これは恐らく、わが軍の力戦を賞賛してのことであろう』と結んでいます。

もうひとつ、島津義弘の例を挙げましょう。義弘は朝鮮の役に出陣し、泗川の戦いで勇名を馳せました。彼は戦場では赤い鉢巻をしていたので、朝鮮の記録では『紅頭倭最悪』(赤い頭をした日本人が最悪であった)と書かれています。

しかし実際は『勇将涙あり』というべきでしょうか。戦いが終わると従軍僧に命じて、敵味方の陣歿者を弔う卒塔婆を立て、法要会を行いました。

(日韓併合後の大正7年になると鹿児島県の有志が現地を探査して、味方の陣亡者碑と、唐兵供養塔を建てました)。凱旋すると慶長4年(1599)、高野山の奥の院に、『高麗陣敵味方戦死者供養碑』(高さ2.3メートル)を建立しました。

この碑に刻まれた文章によれば、『慶長2年8月、全羅道・南原の戦いで明兵数千のうち、島津で討ちとったのは428人、同年10月、泗川の戦いで明兵8万余を斃した。ここに味方の戦死者三千余を含めて供養する』という趣旨のことが書かれています。

◇ロシア将兵の慰霊塔を先に建てた乃木将軍  昨日の敵は今日の友

日露戦争において、乃木希典将軍はロシアの要塞旅順を陥落させて、敵の将軍ステッセルと水師営で会見した(明治38年1月5日)。この会見の様子は後に、佐々本信綱作詞、岡野貞一作曲で「水師営の会見」というあまりにも有名な歌となった。

この水師営の会見の時、乃木将軍はステッセル将軍に対して、ロシア将兵の墓を整備することを約束した。そして明治40年(1907)6月、日本軍はロシア将兵の墓地をつくり、墓地の中央に「慰霊塔」(高さ13メートル)を建立した。

日本側の「表忠塔」が建てられたのは、それより2年半後の明治42年11月28日であった。敵の戦歿者を慰霊する我が国の伝統はここにも見ることができる。

乃木将軍は、ロシア将兵の慰霊塔除幕式を挙行するにあたって、北京からロシア正教の僧侶十数名を招き、ロシア側にも案内した。ニコライ2世皇帝は感激して、自身で参加することを望んだが、結局、待従武官長チチャコフ中将以下20名が出席した。

◇敵の戦没者を慰霊した昭和の日本人

北支戦線で建てた「中国無名戦士之墓」
支那事変勃発に伴う日中戦争において、いわゆる「南京大虐殺」に代表されるように、旧日本軍は悪逆非道の限りを尽くしたことになっています。

戦争ですから、残虐行為もあったでしょうが、同時に武士道精神に基づいた素晴らしい行動もあったのです。例えば、昭和12年(1937)7月7日、支那事変が勃発して間もない頃の朝日新聞(第18545号)によれば、日本軍は戦闘が終れば、各地に「支那(中国)軍無名戦死者之墓」を建てたといいます。

従軍記者の小川特派員は、日本軍兵士が中国人兵士の墓標を建てている光景を撮影し、「無名戦士よ眠れ」と題して、次のようにコメントしています。


〈無名戦士よ眠れ抗日の世迷ひ言にのせられたとは言ヘ、敵兵もまた華と散ったのである。戦野に骸(むくろ)を横たへて風雨に曝された彼等。が勇士達の目には大和魂の涙が浮ぶ。無名の敵戦士たちよ眠れ!白木にすべる筆の運びも彼等を思へば暫(しば)し渋る優しき心の墓標だ。――北支戦線にて(小川特派員撮影)〉


 オーストラリア軍の勇戦を讃えた日本軍
昭和16年(1941)12月8日、大東亜戦争開戦とともに、日本軍はイギリスの植民地であり、アジア支配の一大拠点であったシンガポールをめざしてマレー半島を南下しました。

それは破竹の進撃であって、翌年の1月末にはシンガポールの対岸ジョホールバルにまで達しました。英国軍に所属するオーストラリア軍は、ジョホールバルの東にあるシェマールアンで、必死の抵抗を試みました。シンガポールの中学2年用教科書は、その時の模様を次のように書いています。


〈オーストラリア軍は、武装を完全に整えて日本軍に対して戦闘体制に入った。ところがその時、半裸の村民たちは(日本軍に味方して)、オーストラリア軍に敵対してくる事が判った。そこでオーストラリア軍は決死の覚悟を固め、激しい戦闘の果てに二百人がすべて戦死した。

この戦によって日本人の戦死傷者は、一千人に達した。日本兵やその指揮官たちは、オーストラリア兵の勇気に感激した。彼らは敬意を表すために二百人を葬った墓地の上に巨大な木製の十字架を建てた。十字架には『私たちの勇敢な敵、オーストラリア兵士のために』と書かれた。〉


私はこの事実があったかどうかマレー作戦の中佐参謀であった杉田一次氏に質ねました。杉田氏は、「当時の近衛師団が十字架を建てたことは、聞いている」とのことでした。続いて当時上等兵として戦った中島慎三郎氏(ASEANセンター代表)に聞きました。氏はこう返答してきました。


「そんなことはいくらでもあった。だいいち山下奉文司令官が偉かった。山下将軍は仏の心を持っていたから、英兵の死体を見ると、必ず挙手の礼をしていた。

司令官がそうだから、我々も勇敢に戦った敵将兵の跡には、十字架や墓標を建てていったのだ。特に我々は中国戦線で戦ってから、マレーに進撃した。当時の支那兵は戦意が乏しく、逃げてばかりいた。

ところがマレーの英兵は踏み止まってよく戦った。だから尊敬の心が起ったのだ。勇敢な敵兵に敬意を表するのは、当時の習いだった。それは海軍も同じだった。

日本の海軍航空隊は12月10日に英国戦艦プリンスーオブ・ウェールズとレパルスを轟沈させた。すると指揮官の壱岐春記大尉は、撃沈させた後、愛機を現地まで飛ばして、勇敢に戦った英国将兵のために花束を投下したではないか。

日本が英国植民地勢力の牙城シンガポールを陥落させると、アジア諸民族は熱狂した。寺内寿一南方軍総司令官はこの意義をアピールするために、山下将軍に対し、盛大な入場式をやるように勧告した。しかし山下将軍は、敗戦した敵軍のことを思ってとりやめ、敵味方の戦死者を弔う合同慰霊祭を斎行した。」


東京裁判において、南京大虐殺を行った司令官として、A級戦犯の汚名を着せられ処刑された松井石根(いわね)大将が、日中両戦死者の霊を弔う為に作った観音像です。興亜観音

韓国人に日本人の野蛮さの象徴だとして非難されている耳切りだが、文禄慶長の役以前に朝鮮でも敵兵の耳を切り取る風習があったのだ。日本の豊臣秀吉が始めたのではないのである。

「歴史民俗朝鮮漫談」 今村鞆 昭和三年 南山吟社


耳塚の事

あの戦の時(文禄慶長の役)、在鮮の諸将から、首を送る代わりに耳を送り、太閤は耳塚というものを大仏の前に造って供養した、あれは実は鼻塚だという者もあるが、自分は耳もあることを信ずる。

この耳塚を、後年徳川時代に日本へ往った信使(朝鮮通信使)が実見して、供養もし、又これを見て大いに憤慨して居る。

しかし、耳を取る事は朝鮮の方が元祖だ、宣祖王の九年(1576年)に、日本の海賊が、慶尚の南岸に寇し、辺将(国境守備の将兵)がこれと戦い、勝って殺した時に、首の代りに京城へ耳を送って居る。

また文禄の役のときに黄海道辺で日本軍に勝った時に、矢張り耳を切って送って居る。日本の諸将が耳を切って送ったのは、実は朝鮮に学んだのではあるまいか、もっとも昔し後三年の後に(後三年の役 1083〜87年)、源義家が耳を切って送った事もある。

敵兵の耳を切り取る風習は、漢字の生み出された古代シナの時代にまでさかのぼるのだ。

・ 「取」という漢字は、敵兵の耳を切り取る風習を文字にされ意味を持たされたものなのです。

・ 耳+又(手)の会意文字で、捕虜や敵の耳を戦功のしるしとして、しっかり手に持つことを示す。 学習研究社「学研漢和大字典」

・ 昔は人の首をとる代わりに、耳を切り取ってそのしるしとした。ゆえに耳と又(手)を合わせる。 講談社「新大字典」

・ 討ち取った敵の左耳を切り、その数によって戦功を数える。 平凡社「字統」

耳切りは東アジア地域に古代シナから現代まで続く伝統か、ベトナム戦争で韓国兵が記念品としてベトコンの耳を切り取る。
韓国・ハンギョレ21日本語版 キム・ギテ 予備役大佐 インタビューから

『片方の耳だけを切って集めて針金に通して、幕舎前に掛けたりもしていました。「何故そんなことをするのか」と聞いたところ、帰国する時に記念に持っていくと言いました』

朝鮮通信使


日韓友好の名のもとに、現在進行形で歴史を美化しつつ歪曲されているのが「朝鮮通信使」である。

「日韓・歴史克服への道」 下條正男 平成11年 展転社


日本を「島夷」と蔑視していた通信使

なにかとトラブルの絶えない日韓関係を見ていると、互いに感情的になるために、本来見えるはずの問題点が視野に入らず、それが結果として次なる誤解の種となることが少なくない。

そのため、過去の歴史の中に少しでも善隣友好の痕跡を発見すると、いつの間にかそれを拡大解釈し、気づかぬうちに歴史の事実が歪められてしまうことも、日韓関係史の中にはある。

いずれも心情的に過去に接近したために、問題の本質を見る眼が曇っているからだ。そのような状況の中で、これまで日韓友好の格好の事例として取り上げられ、誤解されてきたものの一つに朝鮮通信使に対する評価がある。

特に、日本で出版された朝鮮通信使に関する著書の一部には、通信使の往来を善隣友好のシンボルとして必要以上に強調し、過去の歴史に対する著者自身の贖罪意識が前面に出ているものがある。「不幸な歴史」続きの日韓にも、このような時があったとでもいいたいようで、それは読むたびに辟易とさせられる。

それというのも、歴史的事実を借り、研究者自身の良心を代弁する手段として通信使の歴史を利用しているからなのだが、そのような演繹的な歴史認識は、結局、無理な歴史理解につながり、歴史の歪曲を助長することになる。

一方、現在の韓国の高等学校で使われている歴史教科書等では、「日本は通信使一行を通じて、先進の学問や技術を学ぶために苦労した」とし、自国文化の優越性を強調していて、その姿勢は日本側の歴史認識とも対照的な違いを見せている。

それでは、朝鮮通信使を通じた日韓交流は、実際にどのようなものであったのだろうか。そこでまず注意しなければならないことは、当時の朝鮮通信使一行が、自ら小中華思想に拠って日本を「島夷」と蔑視し、中国的な文化尺度で日本を評価していた事実である。

はじめから文化の相互理解など考慮の内にはなかったのである。この現実を知らずに、詩賦の唱和があったから、さぞ相互理解が進んでいただろうと考えるなら、それは通信使一行に群がった日本人たちとあまり違わない。

英祖三十九年(1763年)に通信使一行の漢通事として日本を訪れた呉大齢が、その『溟槎録』で、「最近、倭人は専ら文教に事(つか)えている。先ず漢字の音を学んだ後に経書や史書を学び、賦詩を作文して、隷書や草書を習っ」ている。

この「文章の盛りはどこまで発展するか分からないほどだ」と日本文化を評した時も、その評価基準は中国文化にあった。この日本観は、慶長の役で捕虜となった姜[シ+亢](きょうこう)が「倭人で能文と言われる者は、ただ諺訳(日本語)で書いており、文宇(漢文)は知らない。

ただ倭僧だけが多く支字を解す」と評した態度にも通じている。彼らにとって日本語で書かれたものは、最初から文化の範疇に属しておらず、尹順之が兵庫の宿所で「郵館嘲啾として蛮語沸く」と聞いたように、日本語は一時の小鳥の囀りでしかなかった。

朝鮮通信使たちにとっての関心事は、日本側がどれだけ漢詩や漢文の素養を持っているかにあった。これを今日的な感覚でいえば、日韓のどちらが英語の駆使能力に優れているかを競い合うのと同じ発想だと思ったらよい。

日本の技術を学んで帰った通信使

では、日本を訪れた通信使たちは、日本でなにを見、いかに感じて帰国していたのであろうか。室町時代前期の1429年、日本にきた朴端生は、次のように復命していた。

それによると「日本の農人水車の設けあり」として、学生の金慎に「造車の法」を精査させて模型を作り、鍍銀(銀めっき)、造紙(紙漉)、朱紅、軽粉等の製造法を報告している。

この時の復命では、日本の貨幣経済の実態や店舗商業の発展等にも及んだが、その中で技術に言及していたのは、渡航前に世宗から「倭紙堅靱、造作の法また宜しく伝習すべし」と、日本の技術を導入するよう命じられていたからである。

だが残念なことに、それらの技術はいずれも朝鮮の風土に定着しなかった。灌漑施設としての水車の優秀性は、その後も何度か提議されていたし、造紙のほうも17世紀になり、柳馨遠が「倭楮の軽沢精緻に如かず」と、日本の楮(こうぞ)である倭楮を使った紙の製造を提唱しているからだ。

これらの事実は、朝鮮側には日本の技術を受容し維持するだけの土壌が整っていなかったことを示している。これに対して日本では、朴端生が日本を訪れる百年以上も前に、水車を利用して離宮に川の水を汲み上げた話が『徒然草』(第五十一段)に記されている。

その水車が農民たちの手で取り付けられていたことを考えると、当時、日本と朝鮮の間には相当の技術格差があったことがわかる。

したがって、韓国の歴史教科書にあるように「技術を学ぶのに苦労していた」のは、日本側ではなくむしろ朝鮮の方であったのである。

そして、この現実は後世、実学者と呼ばれた人々が日本や清との技術的格差を深刻に捉え、その導入方法に苦慮していたことでも明らかなように、近世に入っても変わりがなかったのである。

このことは技術に限らず、文化一般についても言えた。通信使一行の中で公式的に日本側と文書の交換をした書状官の人選が重視されたのは、日本側にも朝鮮側に劣らない文章力があったことを示している。

朴端生の十数年後、申叔舟が書状官として日本に渡った際、その人選が遅れた理由を、「その国俗、詞章を喜び、書状官を擬してその人を難ず。

かつ風濤嫌悪、人皆行くを憚」ったからだ、と姜希孟が「文忠公行状」の中で述べているのは、その事実を伝えるものである。これは15世紀のことであったが、その現実はその後も変わりがなかった。

宣祖二十年(1586年)、日本からの使臣を迎えることになった朝鮮側では、「況んや日本人、詩を能くし、酬唱(詩を作って互いにやりとりすること)の際もし或いは未だ尽くさざれば必ずその国に伝笑す。

関する所軽きにあらず。宣慰使は職秩の高下を論ずることなく、一代の文章の士を極めよ」とし、日本に対する対抗意識を露にしていた。

韓国の歴史教科書では、これらの事実とは関わりなく、通信使らが「先進の学問」を日本側に伝えたと記述しているが、それは歴史的な現実や学問的な立場の違いを無視した、皮相な見方である。

明和元年(1764年)12月、朝鮮通信使を迎えた長州藩の儒者瀧鶴台が正使書記の成龍淵や副使書記の元玄川等と筆談した内容からも、そういった事実を伺い知ることができる。

話が日本の儒学者に及び誰が著名かということになると、瀧鶴台は伊藤仁斎、荻生祖徠等の名を挙げただけで、朝鮮側が期待する朱子学者の名を列挙しなかった。

そこで成龍淵は、福岡藩の竹田春菴を朱子の正統とし、なぜこの名を挙げぬのかと瀧鶴台に質している。朱子学を正統とする朝鮮側では「程朱(朱子学)を篤信しようとしない者は、皆異端である」という立場で、日本の学問を評価したからだ。

さらに、瀧鶴台が貝原益軒の名を記し、「はじめ朱子学を学んだ貝原益軒が晩年に『大疑録』を著したのは、程朱の言が経典の趣旨に背馳しているからだ」と言うと、すかさず元玄川は、「それは経典を正しく読んでいないからだ」と瀧鶴台に反駁している。

これに対して瀧鶴台は、福岡藩の竹田春菴は朱子学批判をした貝原益軒の弟子であると応酬して、その日の筆談を終えている。

日本では科挙がなかったため儒教は学問の対象になり、朱子学もすでに17世紀前半から批判が加えられ、後には儒教そのものが批判されていた。

したがって日本では、朱子学は「先進の学問」という位置にはなかったのである。むしろ瀧鶴台の場合のように、江戸、京都、長崎等の地で学び、その学問の範囲は中国(儒学)に限らず洋学(蘭学)にも及ぶものであった。

学問に対する姿勢が日本と朝鮮とでは根本的に違っていたのである。それでも成龍淵はその瀧鶴台に対して、「日本には木下順庵、室鳩巣の正派があるが、なぜそれを学ばぬのか」と質問を続けていた。

あくまで朱子学を正統と見做していたからだ。これに対する瀧鶴台の返事は「人、おのおの心あり」、学問は己の為にするもので、唯一絶対として信奉するものとは違う。

学問を求める自己こそが大切である、という主張であった。この成龍淵と瀧鶴台の筆談には思想としての儒教と、学問としての儒学の差が歴然と現れている。

そのため、日本側の筆談には朱子学に関する内容よりも、事前に下調べをし、朝鮮側がどのように答えるかを試すものが多かった。いわば、意地の悪い質問をして相手側を困らせ、通信使一行の力量を図ることを目的としていたといえる。

『桑韓筆語』によると、1764年(明和元年)、弱冠十九歳の儒医山田正珍は、科挙合格を鼻に掛けて仰々しく構えていた慕斎李佐国に「この草葉の名いかん」と、植物の名を尋ねたが、彼は「我博物の君子にあらず。何を以て弁ぜん」と、答えに窮してしまった。山田正珍は初めから答え難い質問をして、ついに相手を感情的にさせてしまったのだ。

筆談や詩賦の交換という側面だけで見ていると、通信使一行と日本側の交流は一見学術的であったようにも思われるが、実際にはそれほどのことでもなかったのである。

その上、朱子学だけを学問と考える朝鮮側と、朱子学を儒学の一派とする日本側の学問的態度との違いがあっては、学術的な対話など望むべくもなかったのである。

それは、朝鮮の事情に詳しかった雨森芳洲が「韓人、わが国の学者を待つこと、徒に詩賦を以てするのみ」と言い、朴斉家が「我が国の人、学は科挙を出ず。

目は彊城を踰(こ)えず」と述べていることでも明らかである。ただ、朝鮮通信使一行が詩賦に優れていたのは、たまたま詩賦が科挙の試験科目であったからである。

それに対して、日本では詩賦を儒者の本義とはせず、むしろ厳格な経学者たちの間では詩を遊興の具として蔑視する傾向があった。

学問風土の違いがある日本と朝鮮との間でなされた詩賦の酬唱を見て、善隣友好が実現できたとするのは、早計にすぎるのである。

それよりも、日韓では互いに相手側を理解する手段を持たなかったために、かえって詩賦の交流が活発になり、逆にそれが重視されたという方が事実に近い。

それにも拘わらず、通信使の許には日本人が押しかけて詩文を求めていた。だがそれは、摩長松南が『娯語』の中で、「清の商人が長崎に来ると」「詩を求めた」日本人を指弾しているように、朝鮮通信使に群がる日本人の幼稚さにも問題があった。

それも、純祖九年(1809年)十二月、朝鮮の訳官玄義洵の言によれば、大名も朝鮮の「書画を欽歎せざるはなし、視ること金玉のごとく、これを得れば便(すなわ)ち珍蔵」したというから、正にサインを求めてスターに群がるファン心理のそれであった。

はじめから相互理解が不十分な中で、詩賦が尊重された、懸額が求められたといったところで、それを過大に評価し、日韓友好の証として喋々するのは当たらない。

それよりも、通信使たちは小中華思想に基づき、自ら「礼義の邦」を誇って日本を蔑む反面、元玄川や成龍淵と同行した漢通事の呉大齢が、品川から江戸城までの三十里ほど(約12キロメートル)が人家で埋まっている姿を目撃し、かつて見た北京にも劣らないと驚嘆していた事実こそ忘れてはならない。

朴斉家の『北学議』によると、当時のソウルは繁華街である鍾閣から「市楼連接するもの一里(朝鮮の1里は約400メートル)に満たず」という状況であった。

これは、江戸の人口が百万をはるかに越えていたのに対して、ソウルの人口は20万人に満たない現実からすれば当然といえた。

また、呉大齢は『溟槎録』の中で、「街巷廛肆(てんし)、井々(せいせい)として度有り、左右一つの如く、少しも参差なし」と、日本の家並みの正確さを強調しているが、それは朴斉家の『北学議』でも述べられていることは先に述べたとおりである。

朴斉家は呉大齢と同行した元玄川の言葉も引用しているので、日本の実態はこれら朝鮮通信使たちによって、実学者たちに伝えられていたことがわかる。

このように、朝鮮通信使の一行として日本を訪れた人物の中には、日本の風俗を見て「真に禽獣なり」とした金世濂や、「真に百蛮の冠た」りとする尹順之のような捉え方がある反面、日本の社会の発展を驚きの眼で見る者たちもいた。

それが朝鮮側に伝えられなかったのは、詩賦の出来不出来を文化の基準とし、朱子学以外を認めない朝鮮の人士たちが見た日本の文化や社会であったからである。いわばそれは、一面の歴史を伝えた日本像だったのである。

善隣友好どころか独善的なモノサシで日本を蔑視していた朝鮮通信使たち

「韓国の「民族」と「反日」」 田中明 1988年 朝日文庫


第二回通信使(1764年)に随行した金仁謙は「日東壮遊歌」という日本紀行文を著わしているが、そこには日本を表わすのに、「倭ノム」(ノムは「奴」といった意味)という言葉がしばしば出てくる。さらには、倭と音が通ずるので「穢ノム」という言葉までが使われている。


館舎は本国寺、五層の楼門には
十余の銅柱、天に達するばかりなり
水石も奇絶、竹林も趣あり
倭皇の住む所とて、奢移をば極め
帝王よ、皇帝よと称して、子孫に伝う
犬の糞が如き臭類はことごとく追い払いて
四千里六十州を、朝鮮の地となし
王化に浴せしめて、礼儀の国に作りたし。


筆者の自尊意識は甚だ強い。日本関白(将軍のこと)に国書を奉ずる儀式に出ると、前後四回、四拝せねばならぬと聞き、「堂々たる千乗国の、礼冠礼服着けたる身、頭を剃りたる醜類に、四拝なんどは以ての外」と、参席を拒み通している。

したがって、その日本観察は蔑視と自尊のサイクルのなかに閉じこめられて終る。『海游録』の著者、申維翰(しんいかん)もそうだが、日本の都市や建築物の壮大さとか商業の盛んな様子は詳しく述べつつも、なぜそうなったかには関心が向わず、日本の風俗の淫靡なことや学の未熟さなどに目が転じてしまうのが特徴である。

「日本は儒学は輸入したが儒教は入れなかった」という言葉がある一方、朝鮮はそれと反対に、習俗すべてを儒礼にそうよう言動を磨き上げることに努めた。

したがって、家庭の秩序、男女の関係、衣冠制度など、儒家的な基準に合わぬことをする日本人は、朝鮮の知識人の目には全くの野蛮人に見えたのであった。

「「日帝」だけでは歴史は語れない」 呉善花 1997年 三交社


日本人を倭人と呼んで蔑視した朝鮮通信使

1719年(享保4)、日本を訪れた第8回朝鮮通信使一行の製述官(文人官僚)申維翰は、同行した日本側の接待役、対馬藩士雨森芳洲が、自分に向かって次のように言ったと記している。

『日本と貴国は、海を隔てて隣国であり、信義相変らず。…しかし、ひそかに貴国人の撰する文集を見るに、その中で言葉が敝邦(日本)に及ぶところは必ず、倭賊、蛮酋と称し、醜蔑狼籍、言うに忍びないものがある。

…こんにち諸公たちは、この意を知るや否や』『今でさえ諸従者(通信使一行の者たち)は、敵邦(日本)の人を呼んで必ず倭人という。

また望むところにあらず』(申維翰『海游録』姜在彦訳/東洋文庫・平凡社)これに対して申維翰は、『それは壬辰の乱(豊臣秀吉の朝鮮侵略)以降に書かれた文章だろう』と言い、『秀吉は我が国の通天の仇であり、我が国の臣民ならば、その肉を切り刻んで食おうと思わない者はいない』と応じている。

申維翰の主張は、『豊臣秀吉が韓国を侵略したから日本人を蔑称してよい』というものだ。実に情けない屁理屈を述べたものだが、しかも「壬辰の乱以降」というのはまったくのウソなのである。

韓半島に成立した諸国では、日本に対する正式な国書を別として、古代以来一貫して日本のことを蔑んで、「倭」あるいは「倭国」と書き習わし、「倭賊」とか「蛮夷」とか、さらに侮蔑的な表現を用いることが一般的に行なわれていた。

その点では李朝も同じことだったのである。この雨森芳洲と申維翰のやりとりは、ほとんど現代にも通じるものだ。いまでも、韓国人どうしで日本人の悪口を言うときには、「日本奴(イルボンノム)」「倭奴(ウェノム)」「猪足(チョッパリ)」(日本人の足袋(たび)が豚の足のようであることから)などの蔑称を用いることは珍しくない。

また、日本人との間に労使紛争や政治的軋轢などが生じると、日の丸を焼いたり侮蔑的な言葉を投げつけては抗議をする。日本人が「このような侮辱を受けるいわれはない」と言えば、韓国人は「日本人はかつて韓国を侵略し我々を苦しめたではないか」と応じる。申維翰の昔から同じパターンなのである。

通信使の時代より後の話だが朝鮮人の価値観の独善性を物語るエピソード

「韓国人の経済学」 室谷克実 昭和62年 ダイヤモンド社


メガネに関しては、こんな史実が伝えられる。日本の朝鮮統治時代、ある独立運動家が日本の官憲から出頭を求められた。彼は日本の官憲を最大限に侮辱しようと思い、ダテのメガネをかけて出頭した。

しかし、日本の官憲がメガネに頓着するはずもなかった。それで彼は拍子抜けしたというのなら、この話は日本人にもわかりやすい。しかし、この話のオチは違う。

『日本の官憲はカだけは強いが、礼節を知らね島国の野蛮人だ。侮辱されていることにも気づかない』と、彼は溜飲を下げたというのである。

人前ではメガネも無礼という独特の礼節をもつ民族が、メガネをかけて異民族の前に進み出ることで、「やはり礼節を知らぬ野蛮人だ」と優越感にひたれる。これは、当時の朝鮮民族が自分たちの儒教価値だけを絶対至高と信じて疑うことのない小世界にいたことを物語る。

(戦前日本在住朝鮮人関係新聞記事から 『眼鏡を掛けたまゝ挨拶したのが因で/鮮人が同郷人を袋叩き/今度は亦自分が殴らる(伏見町尼ヶ崎、朝鮮人同士の喧嘩に別の男が介入)』 京都日出新聞 1921/8/20 夕 京都伏見区 )


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