何故「三国人」が差別用語になったのか


本来、朝鮮とは同じ友として戦ったのだから敗戦国民ではあるが、敗戦国民でも戦勝国民でもない第三のカテゴリーの国民という意味であった「三国人」にマイナスイメージが付着したのは、彼らが下記のような事件を続発させたことに原因があります。

これらの事件は、どう考えても内海教授や梶村教授が言うような「精力的な活動」「解放人民として生きていくために不可避なこと」というレベルをはるかに超えており、外国人としての立場を弁えない横暴な行為であると言わざるを得ません。

在日韓国・朝鮮人騒乱史


大阿仁村事件(1945年10月22日)

秋田県北秋田郡阿仁合町(現在の秋田県北秋田郡阿仁町)の阿仁鉱山で働いていた朝鮮人12名は、1945年10月22日午前9時頃、約16キロ山奥の同郡大阿仁町(現在の秋田県北秋田郡阿仁町)の集落へ行き、共同管理の栗林に侵入し栗を拾っていた所を村人に発見され注意したところ乱闘となり、村人3名が重傷を負った。

午後1時になると約40名の朝鮮人が来襲したので、警察と警防団は直ちに現場に急行し鎮圧した。

生田警察署襲撃事件(1945年12月24日、1946年1月9日)

兵庫県生田警察署では、岡山市内で発生した七人組の拳銃強盗犯人を追って神戸に出張した岡山県警察部の捜査員に協力した。その後1945年12月24日午後9時、「岡山の刑事を出せ!」と叫ぶ50人以上の朝鮮人の集団が署内に乱入して、拳銃・日本刀・匕首を突きつけて署員を軟禁状態に置き、署内を探し始めた。

岡山県の捜査員たちは署からの脱出に成功したが、暴徒は電話線を切断し、外部の連絡を絶たせた。急を聞いた進駐軍憲兵がジープで駆けつけたため、ようやく事態を収拾させることができた。

また翌年1月9日、生田署が三宮ガード下で賭博団を検挙すると、30〜40名の朝鮮人たちが再度署内に乱入し、検挙者を奪還しようとしたが、生田署はこの暴徒を制圧し、進駐軍憲兵と協力して首謀者とみられる3名を検挙した。

直江津駅リンチ殺人事件(1945年12月29日)

信越線黒井駅でヤミ米ブローカーの朝鮮人3名が列車の窓ガラスを割って乗り込もうとしたところ、ある日本人乗客に拒まれて乗り込むことができず、デッキにぶらさがって直江津駅まで行った。

彼らは直江津駅でその日本人乗客に対し、「乗降口から乗れないので、仕方なくガラスを壊して乗ろうとしたのになぜ妨害した」と詰め寄ったが、日本人乗客が「窓から乗り込むという方法はない」と反駁したので、

「朝鮮人に向かって生意気だ!ホームに降りろ!殺してやる!!」と叫んで、その乗客をホームへ引きずり出して、パイプやスコップで滅多打ちにして殺害した。

朝鮮人3名はその後逮捕されたが、全員逃走してしまい、結局うやむやのうちに終わってしまった。

なお余談ではあるが、この種の鉄道内の不法行為を防止するために、急遽設けられたのが「鉄道公安官」制度である。

富坂警察署襲撃事件(1946年1月3日)

1945年末に起きた強盗事件の容疑者として朝鮮人3名が逮捕され、そのうちの一人が警視庁富坂警察署に留置されていた。

1月3日になって朝鮮人の集団が署内に乱入して、容疑者の釈放を要求したが、署長が拒否し続けたため、朝鮮人たちが椅子や棍棒で襲いかかるなど暴徒化して、事実上警察署が占拠された。

そして留置所に留置されていた容疑者を捜しあてて、署外に連れ出して逃走させた。

長崎警察署襲撃事件(1946年5月13日)

1946年5月13日、長崎県警察部はヤミ市場の取締で、朝鮮人26名・中国人6名・日本人150名を長崎県長崎警察署に連行した。

朝鮮人・中国人団体が即時釈放を要求したが、聞き入れられなかったため、在日朝鮮人連盟の青年自治隊員100名とその他中国人など総勢約200名が同署を襲撃して破壊活動を行い、10名に重軽傷を負わせた(うち1名は死亡)。捜査の結果、60名の朝鮮人と7名の中国人を検挙した。

富山駅前派出所襲撃事件(1946年8月5日)

1946年8月5日、富山県警察部は富山駅でヤミ米の摘発を行い、ヤミ米ブローカの朝鮮人3名を検挙したが、それを見ていた自治隊員2名が妨害し、ヤミ米ブローカを逃走させてしまった。そこで、その自治隊員を公務執行妨害で逮捕した。

この騒ぎで派出所周辺に30名の朝鮮人が集まり、連絡を取ろうとした警察官が群集に取り囲まれ、それを救出しようとした他の警察官との間で大乱闘になった。

ついに富山警察署長は富山軍政部を訪れ、軍政部の協力を得ることに成功し、富山駅前にあった「自治隊出張所(引用者注:朝連の自治隊の「交番」のこと)」を閉鎖させ、逆に駅前派出所には武装警察官10名を常駐させ、ヤミ米輸送を阻止した。

坂町事件(1946年9月22日)

羽越線坂町駅において、新潟県村上警察署が主食取締りを行ったところ、中国人15名・朝鮮人約50名が警察官に襲いかかり、暴行を加えた。警察官は傷を負いながらも朝鮮人2名を逮捕した。

同日午後、坂町・金屋両駐在所から「ヤミ米を運搬している」という報告があったので、署から私服警察官10名が急行し臨検を行った。

そのとき、約15名の朝鮮人と中国人が襲いかかり、殴る蹴るの暴行を加えた。さらに駐在所に侵入して器物損壊等を行ったため、警防団、隣接警察署、進駐軍からの応援により、これを鎮圧し12名を検挙した。

新潟日報社襲撃事件(1946年9月26日〜29日)

1946年9月26日に、朝鮮人団体の幹部たちが新潟日報社を訪れ、坂町事件を報道した読売新聞と新潟日報の代表に対し、記事の内容が事実に相違するということで、記事の取り消しと謝罪を要求した。

読売新聞側は不確実な記事であったことを認め謝罪したが、新潟日報側は社長の不在を理由として29日まで返答を猶予した。

29日に朝鮮人団体幹部たちは再度新潟日報社を訪れ、話し合いがもたれたが、納得のいく回答が得られなかったことに腹を立てて、新聞社社員3名に軽症を与え、窓ガラス、椅子等を破壊したので全員検挙した。

首相官邸デモ事件(1946年12月20日)

宮城前広場(現在の皇居前広場)において、朝鮮人約2000名が生活権擁護人民大会を開催し、終了後首相官邸にデモ行進を行った。

このときの一隊が官邸に押し入ろうとしたので、これを阻止しようとした警官隊と衝突して大乱闘となり、警察官の拳銃2挺、実弾が奪われた。

このため、武装警官358名、進駐軍憲兵20名が応援出動して、拳銃を発射するなどして制圧し、首謀者15名を検挙して身柄は進駐軍憲兵隊に引き渡された。彼らは軍事裁判に付され、翌年3月8日に国外追放処分になった。

尾花沢派出所襲撃事件(1947年10月20日)

1947年10月20日午後3時ごろ、米の買出し取締りに不満を持っていた朝鮮人7名が、山形県楯岡警察署管内の尾花沢派出所に侵入し、警察官が不在であったのを奇貨として派出所内の器物を破壊し、『尾花沢派出所』の表札を外して一旦逃走した。

その後、警察官が戻って異変に気づき、本署に連絡した。そのとき、さっきの朝鮮人7名と他の朝鮮人30名が派出所に押しかけ、警察官3名に重傷を負わせた。警察は進駐軍憲兵の協力も得て、29名を検挙した。

阪神教育事件(1948年4月23日〜25日)

1948年1月、文部省は各都道府県知事に対し、朝鮮人学校に学校教育法を適用するように通達を出した。

大阪府ではこれを受けて、朝連の幹部や朝鮮人学校の校長を集めて話し合おうとしたが、朝鮮人側それに応じる気配を見せなかったので、3月15日に閉鎖勧告を行った。

しかし、朝鮮人学校8校が引き続き授業を継続していたので、府教育部は4月15日限りで閉鎖すると厳命した。

1948年4月23日、これに反対するデモ隊約7000名が府庁前の大手前公園に集まって気勢を上げた。朝鮮人代表15名は大阪府庁内で副知事・学務課長と交渉していたが、主張が容れられなかったので、朝連系の青年行動隊等数百名が府庁に乱入して、知事室や各階を占拠した。

大阪市警察局と国家地方警察大阪府本部は3000名の警官隊を動員して、朝鮮人を庁舎から強制排除した。

神戸では、翌24日に朝鮮人学校問題に関する協議会が兵庫県庁で開かれた。会議には兵庫県知事および副知事、神戸市長、神戸市警察局長、神戸地検検事正など14名が参加していた。

そこに、青年行動隊数百名がなだれ込み、知事や市長に対して自分たちの要求を認めさせた。また、市警察局長や検事正に対しては、検挙者の釈放と今回の行為を処罰しないことなどを文書で認めさせて解散した。

しかしその夜、進駐軍神戸地区司令官は、協議会の参加者を神戸基地司令部に集めて、神戸地区に「非常事態宣言」を布告し、24日の文書を無効とし、デモ参加者を一斉検挙した。検挙者は1800名におよび、首謀者は軍事裁判に付され、一部は国外追放となった。

評定河原事件(1948年10月11日〜12日)

1948年10月11日と12日の両日、宮城県仙台市の評定河原グラウンドにおいて、朝連と在日本朝鮮民主青年同盟(民青)の主催で、北朝鮮政府樹立祝賀会と運動会が開催されたが、このときGHQにより禁止されていた北朝鮮国旗を掲揚したため、仙台市警察と進駐軍憲兵がこれを阻止し、進駐軍憲兵に抵抗した朝鮮人1名が腹を撃たれて負傷、合計6名が検挙された。

宇部事件(1948年12月9日)

宇部市民会館において朝連系約200名が参集し、生活擁護人民大会を開催中、手配中の朝連県本部委員長を進駐軍憲兵および警察隊が逮捕したが、大会参加者は集団的に同被疑者を奪還しようとして衝突し、双方に多数の負傷者が出る騒ぎとなり、警察側の発砲によって鎮圧された。

益田事件(1949年1月25日)

島根県美濃郡益田町(現在の島根県益田市)の朝鮮人集落において密輸入物資が隠匿されているとの密告に基づき、進駐軍島根軍政部将校2名と経済調査官2名が同行して摘発に乗り出したが、拒否されたため、警察官10名が応援して違反物資を押収したが、約100名の朝鮮人に奪還された。

翌日、被疑者9名を検挙したが、夜に入って約200名が警察署に押しかけて被疑者の釈放を要求し、署内に侵入しようとしたために、警察官と乱闘になり48名が検挙された。

枝川事件(1949年4月6〜13日)

東京都江東区枝川町の朝鮮人集落において、刑事3名が窃盗犯人を逮捕し、連行しようとした時、犯人が逃走したので威嚇発砲をしたところ、集まってきた朝鮮人約50人が刑事を取り囲み、暴行殴打し瀕死の重傷を負わせ拳銃2丁を奪った。

その後の交渉で、警察は暴行者の引渡しを要求したが、朝鮮人側は刑事の処分と暴行犯人引渡し拒否の要求をしたため、9日以降枝川町を封鎖し、13日に一斉検挙を行い被疑者9名を検挙した。

高田ドブロク事件(1949年4月7日〜11日)

新潟県中頚城郡新井町(現在の新潟県新井市)と同郡中郷町の朝鮮人集落では大掛かりな酒の密造をを行っており、警察などの関係当局は1949年4月7日早朝に一斉取締りを断行し、証拠物件を押収した。

その後、この摘発に抗議する朝鮮人約200名は新潟県高田市(現在の新潟県上越市)の高田市警察署に押しかけ、警察署庁舎に投石して窓ガラスを割ったので、4名を検挙した。

翌8日には高田税務署に押しかけ、署内に侵入しようとしたり投石をしたため、1名を不退去罪で検挙した。

11日になると、朝鮮人約500名は高田市内をデモ行進した。警察はこれまでの穏健路線を転換し、首謀者12名を検挙した。

本郷村事件(1949年6月2日〜11日)

福井県大飯郡本郷村(現在の福井県大飯郡大飯町)の派出所勤務の巡査が戸口調査をするために、朝鮮人集落に赴いたところ、多数の朝鮮人が「我々を差別扱いする」と言って戸口調査を妨害し、同巡査に暴行を加えた。

その後連日、派出所や警察署に約200名が押しかけ抗議した。

下関事件(1949年8月20日)

1949年8月20日早朝、山口県下関市内の民団側朝鮮人家屋を朝連側朝鮮人約200人が竹槍・棍棒を所持して襲撃し、民団員十数人に傷害を与え、さらに家屋19戸を次々に破壊して金品を略奪した。このため市内は一時大混乱になった。

下関市警と国警山口県本部は山口県下の警察官約1000名を動員して、朝鮮人約200名を騒擾罪で検挙した。

台東会館事件(1950年3月20日)

1949年9月8日、法務府は朝連に対し団体等規正令を適用して解散命令を出した。

東京都は当法令に基づき朝連の台東会館を一時接収したが、「台東会館防衛闘争委員会」を名乗る旧朝連員によって奪還され、さらに約400名がバリケードを構築して、小石や鉄片や唐辛子を投げつけるなどの実力抗争に出たために警察隊と乱闘になり、旧朝連員120名が検挙された。

連島町事件(1950年8月15日)

岡山県浅口郡連島町(現在の岡山県倉敷市)で、朝鮮解放5周年を祝って約700名の朝鮮人が集まり、集会を強行したので、制止しようとした警察と乱闘になり8名を検挙した。この事件で警察官15名が負傷した。

第二神戸事件(1950年11月20〜27日)

11月20日、約300名の朝鮮人が生活権擁護陳情のため、神戸市の長田区役所に押しかけ、区長と団体交渉に入ったが、排除にあたった警官隊と揉み合いになり、兵庫県朝鮮青年団体協議会議長を逮捕した。

24日には、長田警察署と長田区役所にデモ行進し、その際の衝突で26名の検挙者がでた。27日になると、旧朝連系約900名は、棍棒・白鉢巻の姿で西神戸朝鮮学校に集合して不穏な形勢を示し、デモ行進に移ろうとしたので、これを阻止しようとした警官隊と衝突し、デモ隊の一部は長田区役所、長田税務署に殺到して窓ガラス等を破壊した。

神戸市警察局は、占領目的阻害行為処罰令違反と騒擾罪容疑で188名を検挙した。

長田区役所を襲撃する在日朝鮮人
▲ 生活保護と住民税免除を要求して長田区役所を襲撃する在日朝鮮人(1950年11月27日)

以後も、在日朝鮮人は、1951年の下里村役場集団恐喝事件、1952年の万来町事件など、生活保護費受給を求める騒乱事件を相次いで起こした。

外国人への生活保護は、1954年(昭和29年)5月に予算措置で、厚生省社会局長通知によって始まってしまい、それが現在まで続いている。

在日朝鮮人は暴力によって生活保護費受給を勝ち取った。日本の政治や厚生労働省は、在日朝鮮人の暴力に屈し、憲法違反や生活保護法違反の外国人への生活保護が今現在も継続しているのだ。
【「第一神戸事件」は「阪神教育事件」を指す】

四日市事件(1951年1月23日)

旧朝連四日市支部を接収しようとしたところ、居合わせた朝鮮人約20名が、器物やガラスの破片を投げつけたり、灰・唐辛子による目潰し攻撃をしたり、濃硫酸を浴びせて接収の妨害を行った。

そのため、執行係官7名が全治2〜3週間の重軽傷を負った。警察が出動して公務執行妨害容疑で15名を検挙した。

王子事件(1951年3月7日)

1951年2月28日、警視庁は占領目的阻害行為処罰令違反容疑として東京都北区上十条にある東京都立朝鮮人中高等学校(現在の東京朝鮮中高級学校)を捜索し、多数の印刷物を押収した。

3月7日、これに抗議する約1700名の朝鮮人(うち朝鮮学校生徒1100名)が同校で「真相発表大会」を開催し気勢をあげ、付近の民家で現場写真を撮影していた捜査員に対して殴る蹴るの暴行を加えたため、他の警察官が助けようとしたが、投石その他で拳銃2丁を奪うなど実力で抵抗した。このとき8名が検挙された。

神奈川事件(1951年6月13日)

横浜市神奈川区にある青木小学校分校において、神奈川県朝鮮人学校PTA連合運動会が開かれていたが、参加者の一人が警備をしていた警察官に対して暴力をふるったため、公務執行妨害で検挙しようとしたところ、これを妨害しようとして大乱闘となった。これにより、双方ともに数名の負傷者を出した。

運動会終了後、約500名の朝鮮人が横浜市警察本部に殺到し、玄関前でスクラムを組んで気勢をあげた。そのため、横浜市警は約1000名の警察官を動員し、公安条例違反容疑で28名を検挙した。

下里村役場事件(1951年10月22日)

兵庫県加西郡下里村(現在の兵庫県加西市)において、朝鮮人約200名が、「生活保護」「強制送還反対」の陳情をするために下里村役場に押しかけ、村役場職員を吊るし上げ、椅子を振り上げる等の暴挙に出たので、暴行脅迫・恐喝容疑で15名を検挙した。

福岡事件(1951年11月21日)

「強制追放反対」を叫ぶ朝鮮人約1500名が、福岡市大浜新校地と西公園に分散して集合し、そのうち新校地の一隊が同市千代町へ向かってデモ行進したため、それを阻止しようとした警官隊と乱闘となり、16名が検挙された。

その後、解散に見せかけて、新校地に再結集し集会を開いた。警官隊が解散を命じたが応じなかったので、再度乱闘となり5名を検挙した。

東成警察署催涙ガス投擲事件(1951年12月1日)

1951年11月10日、泥酔中の朝鮮人を警察が保護したが、容態が急変して同日夜に死亡した。乗っていた自転車が転倒して肝臓が破裂したことが原因であった。

ところが、朝鮮人側は警察官の暴行により死亡したとデマを流し、約30名の朝鮮人が東成警察署へ抗議に訪れ、署員の制止を聞かずに署内に乱入しようとしたので、これを阻止すると、催涙ガス瓶を投げ入れたり、投石してガラス窓を破壊したので、被疑者3名を検挙した。

半田・一宮事件(1951年12月3日〜11日)

1951年12月3日、愛知県の半田税務署に密造酒取締の件で朝鮮人が押しかけ、署長以下数名を監禁した。一方、一宮税務署管内でも密造酒取締に対して、約100名の朝鮮人が捜査の妨害をした。

そのため、半田・一宮両市警及び国警愛知県本部は12月8日に一斉強制捜査を行い、容疑者27名を検挙した。

12月11日、これに抗議する朝鮮人約150名が半田市役所に押しかけて、庁舎内に乱入して警備の警察官ともみ合いになった。

また名古屋市港区役所にも約70名が押しかけ、区長が乗っている乗用車を取り囲み、バックミラーや方向指示器を破壊した。他にも一宮税務署、一宮市警、名古屋市役所及び千種、北、瑞穂、南の各区役所にも押しかけた。

軍需品製造工場襲撃事件(1951年12月16日)

上記の東成警察署で死亡した朝鮮人の追悼式に参加した朝鮮人約110名は、3班に分かれて、大阪市内四ヶ所の親子爆弾製造工場(民団系)を襲撃し、製品や窓ガラスを破壊したり、従業員に暴行を加えたりした。

日野事件(1951年12月18日)

朝鮮人約50名が、自転車隊を編成し、白襷をかけ、「強制送還反対」のプラカードを掲げ、メガホンやスピーカーを所持し、強制送還反対を叫びつつ滋賀県内を無届デモ行進をした。

警察は公安条例違反として再三中止を警告したが応じなかったので、滋賀県蒲生郡日野町において実力行使に出たが、石や薪などを持って抵抗したり、拳銃を奪い取るなどして反抗した。

これにより、警察側に25名の重軽傷者を出したので、拳銃を発砲してこれを鎮圧した。35名が検挙された。

木造地区警察署襲撃事件(1952年2月21日〜23日)

1952年2月21日に国家地方警察青森県本部所属の木造地区警察署で傷害容疑の朝鮮人2名を逮捕したが、朝鮮人数十人が検挙者の即時釈放を要求して連日署に押しかけた。

23日になると、約70名が署内に侵入しようし、警備の警察官と揉み合いになり、警察署の玄関のガラス戸が破壊された。

姫路事件(1952年2月28日)

兵庫県姫路市において、民団広畑分団長ほか3名の民団員宅に旧朝連系約20名が覆面して押しかけ、器物を破壊して逃走した。

また同時刻に姫路市内の交番4ヶ所に5〜30名の朝鮮人が押しかけて、警察官を軟禁し、多数の威力を示して脅迫した事件である。捜査の結果21名を検挙し、竹槍等の凶器を押収した。

八坂神社事件(1952年3月1日)

三・一事件記念の名目で集まった約70名の朝鮮人デモ隊が、大阪市東成区の八坂神社境内に突入しようとしたため、大阪警視庁機動隊と大乱闘となり、朝鮮人側に十数名の負傷者を出して解散した。

一時間後、いったん解散させられたデモ隊40名は近くの朝鮮人集落の広場でジグザクデモ行進を始めたので、東成署員約50名が現場に急行、解散させた。この事件で6名が検挙された。

宇治事件(1952年3月13日)

1952年3月13日午前1時頃、宇治市警小倉派出所・伊勢田臨時派出所及び警察官宅3ヶ所に、それぞれ5名の朝鮮人が押し入り、 表戸などの器物を破壊し、「殺すぞ」の暴言を吐いて逃走した。

そのため、宇治市警は国警京都府本部の応援を得て426名の特別検挙隊を編成し、宇治市ウトロ地区(朝鮮人集落)を捜索、小競り合いなどがあったが、6名を検挙した。また伏見税務署も密造酒の捜索を行い、密造酒2升を押収した。

多奈川町事件(1952年3月26日〜30日)

大阪府泉南郡多奈川町(現在の大阪府泉南郡岬町)において、密造酒取締の結果、9名を検挙し証拠物件をトラック10台に満載して引き上げようとしたところ、これを奪還するため約500名の朝鮮人が押しかけ、投石その他によりトラックの進行を阻止して、9台分の押収物件を破棄し、被疑者を逃走させて運転手に暴行を加えた。その後の捜査の結果27名を検挙した。

田川事件(1952年4月19日)

1952年4月13日、福岡県の七曲峠で花見をするために集まっていた日本人グループと朝鮮人グループが喧嘩になり、双方に死傷者が出た。国家地方警察田川地区警察署は両グループを検挙した。

ところが19日になって、朝鮮人の集団が田川地区警察署に押しかけ、犯人の即時釈放を要求した。警察は3名のアリバイを認め釈放したが、朝鮮人たちは引き続き全員の釈放を要求し続けた。

午後11時になり、警察が排除に乗り出したので、彼らはガラス戸に向かって投石をし始め、ガラス戸27枚が破損、警察官7名が負傷した。

21日に再度、田川地区警察署に押しかけて署長に面会を求め、署内に乱入しようとしたため、催涙弾を使用して鎮圧した。

岡山事件(1952年4月24日〜5月30日)

阪神教育事件の記念日である4月24日に、朝鮮人約200名が岡山市公安条例に違反する無届デモを敢行し、岡山市役所に突入しようとしたので、岡山市警が制止しようとしたところ、旗ザオに見せかけた竹槍で警察官2名を刺し、「プロムアセトン(催涙ガス)」入り瓶を投げつけたり投石したので乱闘になり8名を検挙した。

5月1日のメーデーでは、労組による合法デモに入り込んで警察官を追いかけたり、岡山新聞社の写真部員に投石したりした。

11日に岡山市警は傷害容疑で英賀朝鮮人学校に乗り込んだが、校内の約300名の朝鮮人の妨害を受けたため、公務執行妨害で8名を検挙した。その後、朝鮮人約500名は飾磨警察署を包囲して気勢をあげた。

血のメーデー事件(1952年5月1日)

第32回メーデー大会に参加したデモ隊の一部は、日比谷公園前において「人民広場(引用者注:皇居前広場のこと)に押しかけろ」を合図に同公園を通過し、警官隊の警戒線を突破して皇居前広場に殺到したため、警官隊と乱闘になった。

乱闘中に、3000〜5000名の旧朝連系(在日朝鮮統一民主戦線・祖国防衛隊)を先頭とする数万のデモ隊がこれに合流したため、双方の乱闘が一段と激化し皇居前は一大修羅場と化した。

この事件で2名が死亡し、日本人1078名、朝鮮人131名が検挙された。

上郡事件(1952年5月8日)

4月10日に左翼系朝鮮人5名は、兵庫県赤穂郡船坂村(現在の兵庫県赤穂郡上郡町)で、別の朝鮮人3名に対して日本の学校に入学させていたことを理由に「スパイ」と難癖を付け、巻き割りで殴打した。

その事件の容疑で5月8日に国警赤穂地区警察署は、朝鮮人8名を検挙した。

その後、容疑者は神戸地検姫路支所に護送されたが、その間朝鮮人の一団が赤穂地区警察署に押しかけ、容疑者の奪還を図ろうと南へ約50m離れた小谷薬局前で警察と乱闘になったが、容疑者の身柄は無事護送された。

大村収容所脱走企図事件(1952年5月12日〜25日、11月9日〜12日)

1952年5月12日、韓国に強制送還された朝鮮人のうち、125名が手続不備で逆送還されて、大村収容所に再収容された。

これに対し、民戦から数回にわたって抗議した後、5月25日になって50名が抗議に押しかけ、代表が当局と会談中、外部の者は盛んに収容者に対し、逃走をけしかけた。

そこで約100名は混乱に乗じて逃走を企図し、12名が逮捕されてようやくおさまった。

その後、11月9日〜12日にわたって、また民戦活動家数十名が押しかけ代表が当局と交渉中、654名の収容者が一斉に脱出を企図したので、催涙弾と消防車でこれを阻止し、首謀者12名を検挙した。

広島地裁事件(1952年5月13日)

駐在所と民家に放火した容疑で検挙した朝鮮人4名の裁判が広島地方裁判所で開かれたが、傍聴していた朝鮮人約200名が柵を乗り越えて法廷内を占拠、被告4名を奪還して逃走させた。

高田派出所襲撃事件(1952年5月26日)

5月26日早朝、名古屋市瑞穂区にある民団愛知県本部顧問宅へ旧朝連系の朝鮮人数十人が乱入した。そのため、顧問は瑞穂警察署高田派出所に助けを求めてきた。

警察官が顧問を助けようとしたところ、追跡してきた一団は火炎瓶や石を投げつけて派出所を焼き討ちにした。そして、裏口から逃げようとした顧問を追いかけて暴行を加え、全治10日間のけがを負わせた。

他にも同時多発ゲリラとして、米軍基地・民団愛知県本部・中村県税事務所に火炎瓶を投げ込んだり、名古屋簡易裁判所判事宅に投石を行ったりした。最終的に朝鮮人31名が検挙された。

奈良警察官宅襲撃事件(1952年5月31日)

奈良市警警備課巡査部長宅に約10名の朝鮮人が押しかけ、戸を開けた巡査部長の父に暴行を加え意識不明の重体にし、窓ガラスや障子を破壊して逃走した。

万来町事件(1952年5月31日〜6月5日)

山口県宇部市では、生活保護の適用をめぐって朝鮮人と対立していた。1952年5月31日以来、連日のように宇部市福祉事務所に押しかけていた。

6月3日には約400名が押しかけたので、宇部市警は全署員を非常招集し解散させたが、留守中の上宇部派出所が襲撃され、投石で窓ガラスが割られた。

6月5日になると、宇部市万来町(現在の宇部市新町9丁目)にある「朝鮮人解放救援会山口県本部」が「民主愛国青年同盟」の結成式を催すことになり、県内各地から朝鮮人たちが集まってきた。

その中の中核自衛隊員70名が宇部興産窒素工場に乱入し、阻止しようとした守衛に暴行を加えた。その後、民団員宅を襲って傷害を与え、解放救援会山口県本部事務所に引き揚げた。

警察は犯人を逮捕するために解放救援会事務所を包囲し解散を呼びかけたが、彼らは投石をしたり、棒を振って警官隊に突入を図ったため、遂にガス弾を投入して鎮圧した。

島津三条工場事件(1952年6月10日)

1952年6月10日、朝鮮人約50名が、京都市中京区にある島津三条工場に押しかけ、破防法反対のアジ演説を行ったので、工場側の要請を受けた警察官約15名が現場に急行、50代くらいの朝鮮人1名を検挙、京都市警南部警邏隊のパトカーに収容した。

同パトカーが春日通三条にさしかかった際、付近にいた朝鮮人約100名が前に立ちふさがり、車内に火炎瓶を投げ込み、乗っていた8名の警察官に重軽傷を負わせ、検挙者を逃走させた。

醒ヶ井村事件(1952年6月13日)

警察は滋賀県坂田郡醒ヶ井村(現在の滋賀県坂田郡米原町)で、民団系朝鮮人を暴行して全治2ヶ月の重傷を負わせた事件で容疑者7名を逮捕するために現地に向かったが、朝鮮人は事前に察知してピケを張るなどして妨害したため大乱闘となり、公務執行妨害で40人、検挙予定の7名の内6名を逮捕した。

葺合・長田事件(1952年6月24日)

6月24日に神戸市葺合区(現在の神戸市中央区)の東神小学校に約50名の朝鮮人が集まり、竹槍を持って無届デモを行ったので、2名を公安条例違反で検挙した。

これに対して9時半ごろ、葺合警察署に約100名の朝鮮人児童が押しかけて投石したため、実力で排除したが、別の一団が乱入し乱闘となった。

一方、長田区では、朝鮮人約150名が神楽職業安定所に向かったので警官隊が追跡したところ、投石したため、デモ隊を包囲して11名を検挙した。

吹田・枚方事件(1952年6月24日〜25日)

6・25朝鮮戦争前夜祭として、待兼山に参集した民戦系学生等約1100名は、山中に竹槍を用意し、二隊に分かれて伊丹駐留軍宿舎を襲撃したが、警備体制に圧倒されて目標を変更し、一隊は吹田操車場に駐留軍貨車を物色したがこれも発見できなかったため、

再び吹田駅に引き返す途中、警官隊と衝突し、拳銃2丁を奪い、さらに行進中交番2ヶ所および日本国粋党の笹川良一宅を火炎瓶・竹槍で襲撃した。そこへたまたま出会わした駐留軍司令官クラーク准将の自動車に火炎瓶を投げ込み、顔面に火傷を与えた。

また吹田駅周辺においても、デモ隊が停車中の米原発大阪行の通勤電車に飛び乗ってそこから拳銃を発砲したり、火炎瓶・竹槍などをもって抵抗したために、警察側も応戦し、両方に多数の負傷者を出した。

一方、朝鮮人を含む9人の遊撃隊は、枚方市の旧陸軍枚方工廠のポンプ室に侵入し、時限爆弾を仕掛けて爆破させた。これに呼応して、翌日朝、同市の小松正義(旧陸軍枚方工廠払い下げの取りまとめ役)宅に火炎瓶を投げ入れて放火しようとした。

逃走途中に警官隊に発見され、激しく抵抗したため警官隊は発砲した。この事件での検挙者は113名であった。

新宿駅事件(1952年6月25日)

国際平和デー閉会後、朝鮮人約3000名が新宿駅東口に到着し、駅玄関や駅前派出所に向かって火炎瓶を投げ込んで、窓ガラスや電線等を焼失させた。そのため、警官隊約600名が催涙ガスを使ってデモ隊を押し返した。

また、デモ隊の一部は新宿駅7番線ホームに入って、そこにいたオーストラリア兵4名を取り囲み、殴打・暴行を加えた。

大須事件(1952年7月7日)

大須球場で、ソ連・中国を訪問帰国した帆足計・宮越喜助両代議士の歓迎報告会終了後、日本共産党系の名古屋大学生に煽動された旧朝連系を含む約1000人が無届デモを敢行した。

岩井通りをデモ行進しながら、警官隊に硫酸瓶・火炎瓶を投げ、警察放送車、民間乗用車を燃やしたり、交番詰所に火炎瓶を投げ込んだ。そのため、遂に警官隊側が発砲する騒乱事件となった。

夜になっても、騒乱の現場から少し離れた鶴舞公園で、駐留軍軍用車を焼いたり、名古屋東税務署に火炎瓶を投げ込んだ。その結果、デモ側は死亡1名、重軽傷者19名を出した。

名古屋地方検察庁及び名古屋市警察はこの事件を重視し、261名(その内朝連系145名)を検挙した。

舞鶴事件(1952年7月8日)

6月25日、朝鮮人約180名が舞鶴飯野造船所に侵入しようとして、それを阻止しようとした所員に怪我を負わせた事件が発生した。

7月8日にその事件の容疑者が舞鶴から綾部に逃走しようとしているのを警察が察知し、先回りして逮捕しようとしたところ、竹槍等で抵抗したため警官が発砲するなど大乱闘となった。

双方合わせて27名の重軽傷者を出し、12名を逮捕した。同日午後5時ごろ、朝鮮人数十人が、棍棒、石、ノコギリを持ち「逮捕者を返せ」と舞鶴西署に押しかけ同署のガラス数十枚を破り、警官ともみあいになり、8名を逮捕した。

五所川原税務署襲撃事件(1952年11月19日〜26日)

1952年11月19日、仙台国税局は青森県内の警察官の協力を得て、青森県北津軽郡板柳町周辺の朝鮮人が経営する密造酒工場を摘発し、証拠物件を押収し、酒税法違反として45名を検挙した。そのとき、激しく妨害したので、朝鮮人7名が公務執行妨害の現行犯で逮捕された。

これに対して朝鮮人は反発し、板柳地区警察署と五所川原税務署に連日抗議活動を行い、26日には、約60名の朝鮮人が五所川原税務署に押しかけて署内に乱入し、署内を占拠した。

参考資料


「何故『三国人』が差別用語になったのか」に出てくる各種事件の概要及び「用語の註釈」の説明については以下の資料を参照にしました。

書籍

法務研修所編『大須騒擾事件について』1954年
横幕胤行、富久公、船越信勝『吹田・枚方事件について』1954年
篠崎平治『在日朝鮮人運動』1955年
大阪市行政局編『大阪市警察誌』1956年
新潟県警察史編さん委員会編『新潟県警察史』1959年
名古屋市総務局調査課編『名古屋市警察史』1960年
瓜生俊教編『富山県警察史 下巻』1960年
山形県警察史編さん委員会編『山形県警察史 下巻』1971年
宮城県警察史編さん委員会編『宮城県警察史 第2巻』1972年
大阪府警察史編集委員会編『大阪府警察史 第3巻』1973年
警視庁富坂警察署編『富坂警察署100年史―新庁舎落成記念―』1975年
兵庫県警察史編さん委員会編『兵庫県警察史 昭和編』1975年
愛知県警察史編集委員会編『愛知県警察史 第3巻』1975年
青森県警察史編纂委員会編『青森県警察史 下巻』1977年
坪井豊吉『在日同胞の動き』1977年
警視庁史編さん委員会編『警視庁史〔第4〕』1978年
思想の科学研究会編『共同研究 日本占領研究事典』1978年
仙台市警察史編纂委員会編『仙台市警察史―仙台市における自治体警察の記録―』1978年
長崎県警察史編集委員会編『長崎県警察史 下巻』1979年
李瑜煥『日本の中の三十八度線―民団・朝総連の歴史と現実―』1980年
福岡県警察史編さん委員会編『福岡県警察史 昭和前編』1980年
山口県警察史編さん委員会編『山口県警察史 下巻』1982年
警察文化協会編『戦後事件史』1982年
日本国有鉄道公安本部編『鉄道公安の軌跡』1987年
講談社編『昭和・二万日の全記録 第9巻』1989年
朴慶植『解放後 在日朝鮮人運動史』1989年
百瀬孝『事典・昭和戦前期の日本 制度と実態』1990年
金慶海、堀内稔編『在日朝鮮人・生活擁護の闘い』1991年
荒敬『日本占領研究序説』1994年
百瀬孝『事典・昭和戦後期の日本 占領と改革』1995年
竹前栄治、中村隆英監修『GHQ日本占領史 第16巻 外国人の取り扱い』1996年

新聞

『秋田魁新報』1945年
『神奈川新聞』1951年
『西日本新聞』1951年
『中部日本新聞』1951年、1952年
『大阪新聞』1952年
『京都新聞』1952年
『神戸新聞』1952年
『山陽新聞』1952年
『中国新聞』1952年

Web

中野文庫(http://geo.d51498.com/henseilib/)

用語の註釈


(府県)警察部

戦前の警察制度は、内務大臣が全国の警察を掌握し、内務省警保局が警察行政を司っていた。各府県(東京を除く)においては、内務官僚である知事が内務大臣の指揮を受けて、府県警察部が警察業務をとるという形をとった。ただし東京の場合は、東京府ではなく内務省直轄の警視庁が警察業務をとっていた。

鉄道公安官

終戦直後から急激に悪化した国鉄内の治安を守るために、1947年設置の司法警察権を持つ国鉄職員のこと。鉄道公安官を統括するために、国鉄本社には「公安本部」を設け、現場の機構として「鉄道公安室」「鉄道公安分室」を設けた。1987年4月の国鉄分割民営化によって、鉄道公安官制度も廃止になり、各都道府県警察の「鉄道警察隊」に改組された。

在日朝鮮人連盟(朝連)

1945年10月15日に結成された組織。当初は生活安定や帰国の便宜を図るのを目的とした社会福祉団体であったが、同年10月10日の政治犯釈放により、出獄した日本共産党幹部の金天海(本名:金鶴儀)が実権を握ったことで、急速に左傾化し始めた。組織的不法行為を頻発させたため、1949年9月8日、朝連は暴力主義的団体として「団体等規正令」に基き解散を命ぜられた。

青年自治隊・青年行動隊

朝連による私的武装集団のこと。逮捕・監禁・人民裁判など数々の警察権力類似行為を行った。これらの名前の他にも「保安隊」「自衛隊」「警備隊」を名乗っていた。

軍政部(都道府県)

都道府県等の自治体を監視するために設けられたGHQの地方組織で、中佐クラスの部長以下3〜40人の人員がいた。

警防団

当初、市町村ごとに「消防組」が設置されていて、消火活動にあたっていたが、戦時体制に伴い、防空業務を行っていた「防護団」と統合し「警防団」に改組された。1947年に「消防団」となった。

軍事裁判

GHQが独自に設けた裁判制度で、主に連合国民の刑事裁判を担当していたが、占領政策に違反したり、GHQの要員に対する犯罪などは、国籍に関係なくこの裁判にかけることができた。重罪を裁く「軍事委員会(Military Commissions)」、中程度の犯罪を裁く「一般憲兵裁判所(General Provost Court)」、微罪を裁く「特別憲兵裁判所(Special Provost Court)」の3種類の裁判所があった。

市警察・大阪警視庁・国家地方警察

1948年制定の旧警察法では、警察組織は人口5000人以上の市町村に設けられる「自治体警察」と、それ以外の区域を担当する「国家地方警察」の二本立ての制度であった。ちなみに大阪市の警察は「大阪警視庁」と呼ばれた。
1954年、現行警察法が制定され、都道府県警察に一本化された。

非常事態宣言

GHQが発する「非常事態宣言」には、「小規模非常事態(Minor Emergency)」「限定付非常事態(Limited Emergency)」「大規模非常事態(Major Emergency)」の3種類があり、神戸で発せられたのは、「限定付非常事態」である。これにより、神戸では占領軍による直接軍政が確立され、対象区域の警察は占領軍司令官の指揮下に入った。

在日本朝鮮民主青年同盟(民青)

1946年1月頃から朝連では「保安隊」または「自治隊」と称する武装集団を結成して、暴力行為をほしいままにした。

GHQは同年2月9日に「刑事裁判権の行使に関する件」の覚書を発し、在日朝鮮人は日本の刑事裁判権に服すべきことを指令したが従わなかったため、ついに4月24日にこれらの武装集団の解散を命じた。

朝連ではこれに対抗するために、共産主義闘争を目的とする新たな組織を設けることになり、1947年3月6日に結成された。1949年9月8日、朝連とともに団体等規正令によって解散させられた。

経済調査官

経済統制法令違反の調査や隠退蔵物資の調査を行うため、1948年に設けられた公務員。経済調査官が所属する「中央経済調査庁」は統制経済を円滑に進めるために様々な監査・調査を行い、全国八管区に「管区経済調査庁」、都道府県に「地方経済調査庁」を持つ巨大な組織であった。1952年に廃止された。

在日本大韓民国居留民団(民団)

朝連から追い出された無政府主義者や民族主義者たちによって、1946年10月3日に結成された。当時の名称は「在日朝鮮居留民団」で、1948年の大韓民国の成立とともに「在日本大韓民国居留民団」に改称した(1994年に「在日本大韓民国民団」に改称)。組織の性格上、左翼系の朝連とは常に対立状態で、両者の間で流血の惨事を引き起こしていた。

法務府

戦前、司法行政は「司法省」が管轄していたが、GHQの指令により、1948年に(内閣)法制局と一緒に「法務庁」となり、翌年「法務府」と改称された。法務府の長は「法務総裁」で、団体等規正令に基づく業務を担当していたのは「刑政長官」部門の「特別審査局(後の公安調査庁)」であった。1952年、法制部門は分離され内閣に戻り、残りの部門は「法務省」となった。

団体等規正令(昭和24年政令第64号)

連合国の占領政策を遂行するために設けられた政令で、「秘密的、軍国主義的、極端な国家主義的、暴力主義的及び反民主主義的な団体」を取り締まる目的で制定された。後の「破壊活動防止法」の前身である。

占領目的阻害行為処罰令(昭和25年政令第325号)

連合国の占領政策の妨害を処罰するために制定された政令である。違反すると「十年以下の懲役若しくは二十万円以下の罰金」に処せられた。当法令などGHQの指示に基づいて出された法令は、「ポツダム勅令(現憲法施行後はポツダム政令)」と呼ばれ、憲法の制約を受けなかった。

東京都立朝鮮人中高等学校

朝連の解散により、朝鮮人学校も閉鎖されることになったが、閉鎖反対運動が激しかったため、幾つかの学校は、暫定的に公立学校として存続することになった。東京都では、「朝鮮人学校取扱要項」を制定して、「東京都立朝鮮人中高等学校」として存続することになった。1955年都立朝鮮人学校は廃止され、学校法人「東京朝鮮学園」運営の「東京朝鮮中高級学校」として再スタートした。

三・一事件

1919年3月1日に朝鮮独立を求めて勃発した騒乱事件のこと。デモの際に「マンセー(朝鮮語で「万歳」の意味)」と叫んだことから、別名「万歳事件」ともいう。

人民広場

皇居二重橋前の広場のこと。戦前は「宮城前広場」と呼ばれ、戦後は「皇居前広場」と呼ばれるようになったが、左翼が「天皇制反対」の意志を込めて、勝手に名付けた呼称。1953年以降、メーデー会場が明治神宮外苑などに移ったため、この呼称も廃れた。

在日朝鮮統一民主戦線(民戦)

朝連の解散後、旧組織の復活を模索していたが、1950年6月25日の朝鮮戦争の勃発によって急速に全国組織結成の機運が盛り上がり、1951年1月9日に結成された。1955年5月26日、在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)の結成により発展的解消をした。

祖国防衛隊(祖防隊)

民青の解散後、青年組織は分散し、各自ばらばらな行動をとっていた。朝鮮戦争の勃発によって統一組織の必要性が高まり、1950年7月に「祖国防衛委員会(祖防委)」が秘密裏に結成され、青年組織は「祖国防衛隊(祖防隊)」に再編成された。

大村収容所

不法入国をした外国人を強制送還するための収容施設である。かつては、朝鮮半島の密入国者を多く収容していた。現在は「大村入国管理センター」に名を改め、主にパスポート不所持の密入国者を多く収容している。

在日朝鮮人解放救援会(解救)

1946年12月20日の「首相官邸デモ事件」がきっかけで結成された組織で、朝連の闘争当事者の救援を行った。しかしながら活動範囲が狭かったため、活動が停滞気味であった。 ところが、朝連と民青が解散させられたため、合法団体であるこの組織が俄然注目を浴び、朝連の代役としての役割を果たした。

中核自衛隊

非合法軍事路線をとった日本共産党が、都市ゲリラ組織として設けた非合法武装組織のこと。農村ゲリラ組織の「山村工作隊」と合わせて、最盛期には全国で約500隊、1万人近くの武装組織を擁した。 なお、わが国の国防組織である「自衛隊」とは全く関係ないことはいうまでもない。

韓国・朝鮮人などは事あるごとに「歴史認識の共有」なるものを主張しますが、こういう歴史的事実も共有すべきでしょう。



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