気づいてください!敗北する日本


現在、中国や韓国とはまともな対話も交渉もできていない。彼らは勝手な都合やルールを押し付けてきて、しかも事態が変化すれば自分で作ったルールですら一方的になかったことにする。アメリカが欲しがるのが「金だけ」なのに対して、中国や韓国は「金も、領土も、技術も、権力も、資源も、そして歴史までも」要求する。

日本人の外交観


さて、日本は“なぜ”これほどまでに中国や韓国に言われっぱなしなのだろうか。

それは彼らの良いところだけ報道して暴言や妄言をひた隠すメディアや偏向した教育によって日本人から危機感や『国防意識』というものが徹底的に奪われているからである。

そのため、日本の選挙では候補者の国防意識の高さを選択基準にしない人が圧倒的に多いので、候補者側もその点をことさらアピールしない。だがそういった風潮は日本にとって非常に危険なものなのである。

では逆に、中国や韓国側は“なぜ”これほどまでに言いたい放題になれるのだろうか。それは、世界から見た日本人のズレ(弱点)を他国に見抜かれていることに起因する。

端的な例を挙げれば、まず、日本人が「外交とは“話し合い”のこと」と勘違いする傾向があることなどである。外交=話し合いではない。話し合いは外交の中の「ごく一部」である。

外交は、相手国に自国の言い分を飲ませるために互いに「あらゆる努力」をしあうものである。そして外交の最終的な目的は、(双方の国が)自国の利益を最大化することである。

「話し合い」も「国際親善」も「援助」も「論争」も「戦争」も「報道干渉」も「諜報」も「同盟」も「民間交流」も「制裁」も「封鎖」も、全てその目的における外交手段の一種である。

そもそも国の代表者は友達作りのために他国の代表者に会っているわけではない。「自分の国の全国民の代わりに」全国民に利益をもたらすために税金で雇われているのである。どんな国でも自国の目的のために様々な手段を駆使し、あらゆる努力をする責任があるのである。

「外交=話し合い」という形で誤解している場合、話し合い以外の手段、特に『恫喝的な手段』は野蛮な国だけのものだと思い込み、極端な話、たとえば“「戦争」と「外交」は正反対”というように誤解しがちである。しかし世界の現実は、それらの手段も「全て複合的に作用したもの」が外交なのである。

たとえるなら、「譲れない価値観を賭けた口喧嘩」と「譲れない価値観を賭けた殴り合いの喧嘩」が手段が違っても同質・同種のものであるように、話し合いと戦争は正反対ではなく、同一線上にある外交の一部なのである。

米国の代表は米国国民にとっての「損を最小に、得を最大に」するためあらゆる努力をする。
中国の代表は中国国民にとっての「損を最小に、得を最大に」するためあらゆる努力をする。
韓国の代表は韓国国民にとっての「損を最小に、得を最大に」するためあらゆる努力をする。

この外交の「目的」を、豊か過ぎる日本は見誤ることが往々にしてあるのである。余談になるが、アメリカの「国防総省」と「国務省」を日本の省庁にあてはめると(少々大雑把な括りになるが)両方とも「外務省」に該当すると考えていい。

“アメリカの2つの外務省”がどう違うかといえば、前者がアメリカの国防・軍事の統括に加えて「軍事に関する外交」を行い、後者が日本の外務省に似た形の「非軍事分野での外交」を行う。

そして国防総省はアメリカの官庁では「最大規模」である。この“両輪”がアメリカの外交政策を強固なものにしているのだが、日本には、その“大きいほうの片輪”が無いのだ。

「軍事」に関する全ての言葉に過敏なアレルギー症状を持つ日本人には盲点になりがちだが、世界の常識では軍事力とは、戦争のためだけのものではない。外交や交渉を行う上での前提条件としての意味もあるのである。

もちろん話し合いで解決するならそれが最も効率的で平和的であることに違いはない。だが、たとえば「銃を向け合う2人」の間には話し合いが成立するし、「互いに丸腰の2人」の間にも話し合いが成立するのに対して、「片方が銃を向けていて、もう片方が何も持っていない」場合は、たとえ話し合っているようにみえてもそれはまともな話し合いとはいえない。

ここでは銃を持つ人間が「発砲するかどうか」は全く関係なく、話し合いの前段階の双方の条件の問題である。持っているかどうか、構えているかどうか、備えているかどうか、だけの問題である。

ちなみに自衛隊がアメリカから購入、ライセンス生産する航空機などはわざわざ税金を使って改造し、攻撃能力を取り外す場合すらある。また、他国まで飛び続けることができないように空中給油装置を取り外すこともあった。

無力化のために金を使う行為が全くの予算の無駄であるとの指摘は当然ながら昔からある。日本は“金持ちの国”などと言われるようになって長いのに、北朝鮮の挑発が始まるまでは、自らの国が常に他国から狙われている危機感が薄く、たとえば国産偵察衛星の打ち上げにすら長い議論と手続きが必要だった。

逆に他国、たとえば中国の核弾道ミサイルは数十年も前から日本の主要都市に照準を合わせて配備されており、これらが飛来すればほんの数十分で日本は壊滅的打撃を受けることは間違いない。

日中友好、日中友好、とばかり報道しながら、このような「日本が今おかれている状況」を日本のメディアが報道しないことは明らかに異常である。

外交を“戦争と同質・同系統のもの”と正しく理解している普通の国ならば「外交に負けることは、戦争に負けることと同様に、自国民に実害が及ぶ」という現実を重く理解しているので、国家は自国民の利益を守ることに妥協はしない。被害を受ける可能性をも最小化するためあらゆる努力をはらう義務を感じるだろう。

その意味で、前述した「河野談話」という外交決着などは『敗戦』と同じといえる。

おさらい。『河野談話』とは。

1993年8月4日、当時の宮沢内閣の官房長官、河野洋平が史実を完全に無視して、あたかも「日本軍が朝鮮の女性を強制連行して性奴隷にした」かのように政治的に妥協した談話。

朝日新聞が「日本から金をとれる」というような触れ込みで朝鮮人を焚きつけて名乗り出させたが、慰安婦というのは、実際には「朝鮮の売春業者と契約して売春婦を間接的に雇った」ものなので、当然、何ひとつ証拠もなく、しかも日韓は条約を結んでいたので全ての補償を含め解決済みだった。

しかし韓国側は「それでは名乗り出た慰安婦の面目が潰れる」と日本に温情的妥協を迫り、 日本側はこの話を早期に決着させるため「“日本軍が”女性を“強制連行”して慰安婦にした」という何の証拠もない韓国側の嘘をそのまま日本政府の公式見解として容認した。

政治的な外交妥協の最も悪い例の一つといえる。

この「河野談話」を盾に、現在に至るまであらゆる方面から日本に圧力がかけられている。日本の教科書・子供の教育に中国や韓国が干渉し、将来的にも日本人に謝罪させようとしているし、日本人の道義的な正当性を失墜させ、これまでみてきたような歴史歪曲を欲しいままにしている。

一般の韓国人には日本人を敵視する理由付けや、反日デモの動機付けのひとつにもなっている。日本の修学旅行生を土下座させるようなケースすらある。

慰安婦問題はさらに広がり、中国や韓国の工作により、ほぼ無関係のアメリカの下院で日本に謝罪と賠償を求める決議案すら出された。同時にアメリカの新聞の一部は一面で日本の慰安婦を性奴隷(Sex Slaves またはSexual Slavery)と書きたてた。

同盟国であるアメリカでも「日本政府が自分で認めた」という事実(河野談話)を根拠にしているのである。河野談話を撤回するか、撤回しないまでも河野談話の不当性を論理的かつ証拠を揃えて否定しておかなければ、今もそうであるように、今後もそれは続くだろう。

だが、一度出した談話はたとえ古くなっても政府としては踏襲するケースが多い。河野談話ひとつをとってみてもわかるように、外交での敗北は、敗戦にも匹敵するのである。外交は互いに自国の“未来”を賭けて行われる以上、どちらの国にとっても感情論や甘えが許されない冷徹な駆け引きを行う「流血のない戦争」なのである。

しかし日本の大手メディアが外交を記事にすると、「外交で敗北した場合に蒙る敗戦と同等の損失」を無視した偽善と作為に満ちた「いわゆる隣国との友好記事」になることが多い。

そんな時、朝日新聞や北海道新聞、東京新聞などの左翼的メディアでは必ずと言っていいほど「日本側が譲歩すべき」「過去の戦争の反省」「アジアの感情を真摯に受け止めよ」など、「友好」や「親善」や「国際交流」などで味付けされた“前提のおかしい記事”が載る。昔の産経新聞のCMコピーではないが、「新聞を疑え」という言葉は肝に銘じておくべきかもしれない。

さて、外交の中に含まれる「話し合い」だが、これも日本は上手くない。軍事などの話にアレルギーがあるだけでなく、日本人は交渉ごとも苦手である。

本来、交渉ごとというのは、もし自国の要求が10であれば他所の国のように堂々と10〜15くらいを最初に提示し、そこから交渉を開始するのが基本中の基本だ。ちょうどアジア諸国や大阪などで買い物する時に、商売人が値付けの交渉のために最初の値段を高く言うことがあるのと似ている。

だが、この最初の段階で、日本人の多くは「遠慮」や「気の小ささ」などで10どころか5程度から交渉を開始してしまう。当然、5から始まった交渉では、得られる妥結点はせいぜい2か3になってしまう。

日本人は感覚の上でも、つい「欲張りすぎてはならない」であるとか「仲良く5対5で折衝するのが大人の態度」などと考え、さらには「こちらが先に譲歩すれば相手も少しくらい譲るんじゃないか?」などと甘いことを考えてしまいがちだ。

このような日本人同士でのみ通用する「日本流の交渉術」は世界標準ではないのである。

国際研究奨学財団会長の日下公人が、著書『これからの10年』の中で日本の外交の異常性について触れた部分がある。

要約すると、日本は外交の場で相手に無理な要求を吹っ掛けられても我慢や譲歩などをして「相手に合わせることで合意に辿り付こう」と考えてしまうが、そんなことをすれば相手の要求がエスカレートするだけで良い結果が得られないから、始めから“我慢”ではなく“交渉を”しなさい、というような内容だ。

この本の中で、イギリスの首相チャーチルの著書『第二次大戦回顧録』が引用されている。そのチャーチルが「日本人は外交や交渉ということを知らないらしい」と書いているという。

チャーチルも、外交の常道として、日本に対してまず最初に無理難題を吹っ掛けるところから外交交渉を始めたのだが、なんと日本は反論もせずに、いきなりその最初の無理難題を笑顔で飲んでしまった。

外交交渉としては肩透かしである。言い方を変えれば(イギリスにとっては)嬉しい誤算だったろう。だが、イギリスの外交にあたる者としては、当然、祖国のメリットを“最大”にする義務がある。

チャーチルは日本にはまだまだ吹っ掛けられるだろうと考え、要求をエスカレートさせる。だが、それでもまた、日本は相手の要求を笑顔で飲んでしまう。

日本が飲み続ける限り、イギリス側は無茶な要求を繰り返す。イギリスの代表としては、まず、そうやって様子をみながら日本の限界値を探り、そこから交渉を始め、結果的にイギリス国民に最大の利益を持ち帰れるような双方納得の着地点を模索する算段だ。

だがイギリスの要求が繰り返されると、ある時、突然日本人の顔つきが変わる。

 「イギリスは紳士の国だと思っていたが悪逆非道の国である。
  もうこれ以上は我慢ならない。刺し違えて死ぬ」

少し前まで日本人は笑って要求を飲んでいたので、日本人が牙をむくのはイギリス人からみれば「突然」だ。それは驚いたことだろう。そして、チャーチルがこの回顧録を書いた昭和16年の12月、イギリスは、当時“世界最強”といわれた主力戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と歴戦の浮沈艦「レパルス」の2隻を、日本海軍航空隊に撃沈されることになる。

この2隻はイギリスが世界に誇る戦艦であり、しかも当時の世界の常識では「作戦行動中の戦艦を“航空機で”沈めることは不可能」とされていた。また、チャーチルのお気に入りの戦艦でもあった。

彼は「まさか航空機を相手に」「まさかこの最強の2隻が」撃沈されることがあろうとは微塵も思っていなかった。同著の中でその時の気持ちを「戦争の全期間を通じてこれ以上の衝撃を受けたことがなかった」と述べている。

本来なら「最強の戦艦2隻を撃沈させるほどの力を持つ国」は、無闇に頭を下げたり愛想笑いする必要もないし、一方的に要求を飲み続ける必要などない。

今も昔も、軍事力を持つ国には「話し合い(外交)をする権利」があるのである。だが、当時の日本はおかしなことに、交渉せずに笑顔で要求を飲んでいた。だからチャーチルは「日本人は外交や交渉ということを知らないらしい」と書いているのだ。そして日本とイギリスの外交エピソードを引用した後に、日下公人はこう教訓づけている。

ここから得られる教訓は、 日本としては「国際社会は生き馬の目をぬく駆けひきの場だ」と知ることであり、イギリスとしては「実直に生きたいと念願している国を理解せよ」である。 こ

れはアメリカについてもアジア各国についても言えることで、これからの日本は、この教訓を活かした外交をすべきなのだが……ところが戦後の教育やマスコミは、あいかわらず反対のことばかり教えているから困ったものである。

日本で教える国際関係論は「国際親善論」ばかりである。そのうえ国際親善の手段は「謝罪」と「援助」と「交流」と「対話」だけだから、相手国から「恫喝」されたり「封鎖」されたり「制裁」されたり「侵略」されたときはどうするかを考えられない。

日本のエリートはそんな人ばかりだから、対策会議を開いても出てくる意見は「陳情」「説明」「逃げ」「先送り」「一時しのぎ」で、その先にあるのは「アメリカに相談」と「譲歩」だけ。これでは相手はますますつけこんでくるから、ある日、日本はカッとなって再度怒りだすのではないかと、これからの十年がほんとうに心配である。

(日下公人『これからの10年』PHP研究所 160ページ)

日本の文化の中で育った日本人は、「こちらが譲歩すれば、相手も多少譲歩する気になるだろう」と信じている。確かにこれは「日本人と日本人の間の交渉」においては通用することも多いだろう。

日本人の多くは「喧嘩両成敗」であるとか「三方一両損」などの「譲り合いの機微」に深く納得できるし、

「相手に先に譲歩されれば、自分も多少譲歩してもいいような気分」
または、
「相手が譲歩した場合、自分だけ譲歩しないのは悪いような気分」

になってくるものだ。

だがこれはある意味“日本人的”な感情であり、全世界で共有できる感覚ではない。少なくとも外交においては、相手も「その国のすべての国民の利益」を最大化する責任を背負って来ている。

そういった場面での『譲歩』というのは、「相手の譲歩に対する見返り」などではなく、「交渉上、止むを得ない場合に行う、条件付きの調整」である。つまり日本の交渉術は世界のそれと比して少しズレているのである。

だが、「戦後の」日本は、さらにおかしなことになっている。怒らない(怒れない)のである。

引用したチャーチルのエピソードの当時、日本人は外交は下手でも相手の要求が限度を超えれば激怒して実力行使で本気を見せていた。

信長や秀吉が海外(スペインやポルトガル)からの文化干渉と侵略をしてきた時に激怒して戦ったことで日本が植民地化を免れた歴史を思えば、第二次世界大戦などよりもっと昔から日本人というのは「ここぞという時には」ちゃんと意思表示できる民族だったのかもしれない。

だが現代の日本人は最期まで結局怒らない。特に過去の戦争のことを出されると思考を停止し、情報を精査することも止め、何を言われてもペコペコ謝り、けして怒らないのである。

現代の外交においては、日本と付き合いの長い「アメリカ、中国、韓国、北朝鮮」などはその日本人の“外交的無知”や“譲歩されると譲歩で応じてしまう癖”を呆れるくらい熟知しているので、それらを巧みに交渉に利用してくる。

米国は同盟国であるせいか、ある程度は「交渉」らしい形式で話を切り出すこともあるが、要所要所では力技を使ってでもアメリカのルールを半ば強引に押し付けてくる。中国や朝鮮などに至っては日本相手に手加減など一切なく、初めから高圧的に「日本は言うことをきくのが当然」という姿勢で自国の要求を打ち出してくる。

それは“なぜ”か?
大きくわけて2つ。

まず1つは、戦前と違って戦後日本の外交には軍事的なバックボーンがないので、相手国に内心では「多少、見下すくらいの態度をとっても危険はない国」と思われていること。彼らのこの心理的優位性は交渉上の態度や話の展開の方法に如実に表れている。

中国の外交姿勢を、対日本と対ロシアで比較してみればよくわかる。実は中国とロシアの間にも、かつて領土問題があったのだが、日本にはあれだけちょっかいを出す中国が、ロシアが相手の場合には、驚くほど慎重かつ穏便に処理している。

一般に「核保有国同士は揉めたがらない」というのは知られていることと思うが、その時に中国が諦めた領土の広さはなんと100万平方キロ。じつに日本の2.5倍もの広大な領土がロシアのものとして話し合いで確定されたのである。

中国国民は、よく知りもしない外国の首相が海の向こうにある外国の神社に個人で参拝しただけで、日の丸を引き裂いて燃やし、日本領事館を石を投げ、日本料理屋を壊して日本車をひっくり返した。だが、ロシアから領土が還ってこないまま確定されたことをほとんど知らされてないのだ。

つまり中国では反日報道は行うが、反露報道はしていないのだ。これはロシアは「対等な外交を行うに値する国」とみなされ、逆に日本は「怒らせても別に問題ない国」だと舐められているからに他ならない。

戦力を行使できない主権国家など、主権の一部が欠けているのだから舐められるのも無理はないのかもしれない。外交と軍事は同一線上にあり、どちらが欠けても国として異常なのである。

そして彼らが大きな態度をとるもう1つの理由。

それは、アメリカや中国、韓国、北朝鮮などが、戦後の日本人は「先に強気に出たほうが簡単に言うことを聞く」と思っており、現に、彼らの経験的にもその通りだったからである。

たとえば中国。彼らは、日本と交渉して10の要求を飲ませることを目標にしている場合には、日本が飲める限度が5であろうが3であろうが、最初から30の要求をふっかける。さきほど引用したチャーチルと同じだ。

初めから日本側が飲めないレベルの要求をし、同時に何らかの大義名分を用意して、「○○という理由で、中国にとってこの要求は絶対に譲ることはできないものである」という強硬な態度をとり続ける。

大義名分は何でもいい。「理由付け」があるだけで日本人は耳を傾けざるをえなくなる。そして強硬な態度によって、まるで本当に譲ることができない要求であるかのように信じ込ませる。そしてその状態で日本からの要求をしばらくの間は事実上、完全に無視する。

日本が抗議しようが交渉しようがすぐには取り合わず、そうすることによって日本側が交渉の根本を見直さない限り、全ての話し合いが無意味になると思い込ませるのである。

すると外交に不慣れな日本は簡単に焦り出す。閉塞した現状を打開するには“日本側が”どうにかしなければならない、または、「お互いが意地を張っていては何も解決しない」と日本側だけが考えるようになり、民主党などの提案で、日本人同士で勝手に「譲歩を検討する議論」を開始してしまう。

中国側は日本人同士の話し合う様子を黙ってみていればいい。そうやって日本が閉塞感から譲歩の論調を出す状態になるまで中国人は待ち続けた後、まるで日本の顔をたてているかのようなふりをして「最初にみせた30の要求」を「本来の要求レベルである10近く」まで下げ、友好的な笑顔を作ってみせるのである。

それまで『中国に作り出された閉塞感』に勝手に苦しんでいた日本人は突然現れた中国からの提案がまるで「唯一の解決策」であると勘違いし、飛びつく。そして朝日新聞あたりが即座に「中国が寛大さを示してくれたのだから、今度は日本もそれに応えるべきだ」というような主旨の記事を書いて“実際には中国が得をする中国の提案”を援護する。

そうすることによって、当初は日本にとって5や3程度しか飲めないはずの要求は結局のところ中国にとっての当初の要求通りである10前後で決着する。これが毎度のパターンである。

日本人は押しても引いても動かない相手を前にすると“自分が”何か条件を変えなければならないと考えがちである。この気質は日本人の良いところでもあり、数々の発明を生み、産業や技術を発展させ続けた根源でもある。しかし外交において、選択肢はもっと幅広くあるべきである。

こちら側が焦る状況でない場合には、なにも日本側が先に譲歩を検討する必要はない。中国がよくやる交渉術から学ぶならば、「両国の友好を重視しなければならない」というような抽象的なことを言葉だけで言っておいて、自分からは何も行動せず、相手にだけ「行動で示せ」と言い続け、根気よく相手の譲歩を待つ選択肢もあっていい。

だが、日本は多くの場合そのような選択肢を初めから放棄している。どうゆうわけか「交渉が膠着した場合“日本側が”打開策を用意しなければならない」という強迫観念に似た思い込みがある。少なくとも大手の新聞はほぼその論調である。

日本との交渉事において多くの場合相手国側が初めから主導権を握っているのは、相手国に「日本が怒るわけがない」「日本は怒っても恐くない」と思われているからだ。

普通は交渉相手への要求があまりに高すぎれば“挑発”になるし、一方的に相手が行動することを要求したりすれば場合によっては怒らせてしまう。だが、彼らにとっては日本が相手なら「そのリスクはない」と思われている。

だから彼らはゆったりと日本を見下し、大上段に構え、外交手段のバリエーションも豊富になるのである。本来なら中国や韓国はただでさえ日本からの技術や資本に依存している国なのだから隣にある温厚な経済大国を無闇に怒らせるのは損だと考えるのが自然である。

しかし日本は今まで「60年以上も昔の戦争の話」を出されるたびにまるで水戸黄門の印籠をみせられた悪代官のように無条件で土下座するような外交を延々と続けていたため、中国も韓国も味をしめてしまった。

彼らにとっての楽な外交、そして金も軍事力も使わずに『歴史問題だけで先進大国を屈服させる快感』を骨の髄から記憶してしまったのである。

そして国内の左派文化人やメディアが常に「過去の反省」「過去の清算」などの名目で「相手の要求を聞き入れる風潮」を作るので、世界の経済大国・日本の外交意識や国際政治における存在感は国家の規模に見合ったものにならぬままなのである。

国益をかけた外交交渉は国際親善や感情論とは完全に別にして語られるべき話であり、相手の立場を思い遣る優しさで譲歩などしたところで世界のどの国も日本を誉めない。それどころか安易に折れて国益を他国に譲るという失態を晒すことは日本という国家が“自国民をないがしろにする情けない国”と思われるだけである。

今まで朝日新聞あたりが「日本が先に折れた」「相手国の立場で譲歩した」といった愚行を嬉々として褒め称えてきたのは、それが愚かな行為だという国際常識を日本国民に理解させぬように、譲歩がまるで普通の外交であるかのように偽装する世論誘導である。

ただし、彼らの場合、中国や韓国に譲歩した場合には諸手を挙げて褒め称えるのに、アメリカに譲歩した場合には“正義(?)の怒り”に燃えて損失額を計算したり、“国民の声(?)を代弁する”ような形で猛烈な政府批判と責任追求を展開するので、彼らが“どの国の正義”を基準にし、“どの国の国民”のために記事を書く新聞社かは非常にわかりやすい。

また、新聞の見出し等にも、希に中国や韓国側から友好や親善を提案された、とするものがあるが、それはよく見ると“建前の部分”を強調した記事に過ぎない。全文を読めば必ず彼らの別の要求が書かれている。簡単に表現すれば“日中親善! …だから日本の先端技術を中国に与えよ”であるとか“日韓友好!…そのために日本の教科書を韓国に合わせよ”のような形である。

外交を友好や親善と混同してはならない。また、友好や親善を自国の利害より優先すると考えてはならない。相手が中国や韓国であろうとアメリカであろうと、法律というルールの中で常に「日本は日本を最優先にする」のが日本側の当然の態度だ。

もちろんアメリカはアメリカの国益を最優先にするし、中国が中国を最優先にし、韓国も韓国を最優先にするのは、「その国の政府としての責任であり義務」なのである。

少なくとも「政府の仕事とは何か」を考えれば、友好や親善は外交の“一つの方法”に過ぎない。それはケチでも偏狭でもない。世界的にみて“当たり前のこと”である。我々も認識を改め、どの国よりも日本を優先する政治家を選ぶべきなのである。

そういった数ある「日本のズレ・弱点」の最たるものは、『国防意識の薄さ』である。いわゆる“平和ボケ”のことなのだが、日本にはそれを生み出す風潮が戦後あたりからの構造として今も存在するようだ。

たとえば日本では、誰かが『国防』の話をしようとした時、テレビ・新聞のコメンテーターや共産党など、いわゆる“左寄りの人たち”がすぐに『戦争』の話に直結させるという、不思議な風潮のようなものがある。

彼らは、戦争の話題をしている時でなくても、すぐ「過去の戦争を反省する」話や、「日本が今後“戦争をする国”になることへの恐怖」というような話にしたがる。まずここに疑問を持って頂きたい。

国防意識というのは“外敵から国を守ること全般”を考えるもので、戦争はもちろんのこと、広義には外交とその延長にある資源争奪戦や経済競争、自国文化の保護を考えることなども当然含まれる。

たとえば竹島や尖閣諸島や北方四島の領有権を堂々と主張することや日本が持つ特許物や先端技術を海外に盗まれないようにすることも含む。要は、日本という国の“大切なもの”を他所の国から守る、という話である。

だが、日本のマスコミは軒並み左派に近いので、国防の話をする場合、『国家が国民の命・財産などを守る責任』や『世界の国々が戦争を回避する努力として何をしているか』などの話も無いまま、すぐに「右翼が戦争を煽っている!」とか「人が死ぬ!」というズレた話になることが多い。呼び方も右派が極右になり、左派が市民グループになる。

中国では、膨大な核ミサイルを日本に向け、人工衛星を破壊して近代兵器を無力化し、日本の領海を侵犯し、桁違いの軍事費拡大を続けながら日本から援助を貰い続けていることをほとんどの国民が知らず、日本の金で作った地下鉄に乗って日本大使館に石を投げ、日本の国旗に火をつけて若者が大暴れする。

だが不思議なことに多くの日本のマスコミは「中国側が戦争を煽ってる」とは言わない。左翼マスコミは「日本人が国防意識を持つこと」そのものが罪悪であるかのように誘導する。日本にとっての戦争は過去の遺物で、教科書の中だけに存在する概念のようになっているが、中国などその他の国にとっての戦争は現在を進行する彼らの外交の一部である。

日本人の国防意識


まず、よく耳にする、“日本は戦争を放棄したから平和だった”とか“日本は憲法9条があるから戦後60年間戦争をしなかった”というフレーズがあるがこれは完全に嘘である。

 平和の源は「戦争を放棄したから」ではないし、
 戦争をしなかった理由は「9条があるから」ではない。

では“なぜ”日本は戦争せずに済んできたのだろうか。
いわゆる平和憲法にはどんな力があったのだろうか。

ここで少し視線の角度を変える意味で「いじめ問題」という“個人の紛争”に形を置き換えて考えての例示を試みることにする。ここでは「いじめの原因」や「いじめを無くす方法」や「いじめる側といじめられる側どちらに問題があるか」などは述べない。

たとえ話のポイントを1つに絞る。それは、いじめられる側の一人がもし一方的に「戦いを放棄する宣言」をしたとして、その“いじめられる側による平和の主張”に力があるか、ということ。

もっと単純化すれば、いじめられる側が一人で戦いを放棄していれば「いじめがなくなる」だろうか、ということだ。答えは、残念なことにNOである。そんなに簡単にいじめがなくなれば苦労はない。むしろ戦えない事情のある者や戦う意思の無い者こそいじめられてしまう場合も少なくないのが現実だ。

“世界平和”であれ“いじめられない日常生活”であれ、理想というものを実現するには言葉だけでは足りないのである。

多くの日本人は“いじめ”が単純な方法ではなくならないことはすぐに理解するのに、“戦争”が単純な方法でなくならないということはなかなか理解せず、考える煩わしさから逃げ、ただただ「武装反対」「戦争反対」を連呼する。

しかし平和というのは、社会党が主張していたような「非武装中立」や共産党の主張する「自衛隊派兵反対・9条死守・反米」などで達成できるものではない。そして世界の国々は“話せばわかる善意の国”ばかりではない。

にも関わらず、日本が戦後60年間、中国やロシアや北朝鮮のような“価値観の全く異なる独裁共産主義国家”に包囲されながらも侵略されることなく平和に暮らしてこられたのは“なぜ”だろうか?

簡単である。日本の背後で世界最強のアメリカ軍が圧倒的な戦力を誇示していたからだ。決して平和憲法、憲法9条のおかげではない。

日本人の多くは「軍事力」という言葉を出すだけで抵抗を感じる傾向があるが、日本人が日々享受している日本の平和は「軍事力で」維持されているのである。もちろん戦争などするべきではない。野蛮だからではない。反省したからでもない。ただただ「互いに損だから」だ。

そして戦争反対という『理想』は人間が人間らしく生きるために絶対に必要な尊いものであり、今後も世界中がそうあるべきである。だがそれと同時に、『現実』からも目を逸らしてはならない。ある程度成熟した人間なら、理想と現実は「同時」に見るべきなのである。

古今東西、人がたくさん集まるところから喧嘩や紛争が根絶された例はなく、人間の欲望は“理性で制御できる者とそうでない者”が確実に存在し、そして実際に戦争という行為は地球上から消えることなく存続し続けている。

それが否定したくとも否定できない『現実』だ。国家は理想を語るだけでなく、同時に「現実的な方法」を選択し、戦争を避け、国民を守らねばならないはずである。

世界の国々と違って「戦争を未然に防ぐための力の裏づけ」を自前で持たないまま他国の軍事力に頼って「戦争反対」を叫んでいる日本は特に深刻な状況にある。

2006年、北朝鮮は近隣国に事前通告なしにミサイルを日本近海に7発発射した。その上で彼らは核実験を行い、自らを核保有国だと宣言した。そして北朝鮮は『日本との関係が最悪だ』『日本は六カ国協議に出る資格すらない』などと国家代表が公式発言で挑発し、「軍事的・政治的・経済的に圧力をかけているアメリカ」よりも日本が憎い、日本が邪魔だ、日本を排除せよ、と具体的に日本を名指ししている。

ちなみに今のところ彼らには「核」を弾頭化する小型化技術がないため“核ミサイル”を撃つことは(現時点では)できないが、他のものを弾頭にすることはできる。たとえば毒性を持つ重金属を弾頭にした劣化ウラン弾のようなものやBC兵器(生物化学兵器)などのことである。それらを使えば今の段階でも、北朝鮮の技術だけで日本に住む人間や動植物の大量虐殺を実行できるだろう。

北朝鮮が日本への攻撃を実行する場合には、攻撃対象を原子力発電所や首都圏にして都市中枢機能を麻痺させることも考えるだろうし、ミサイル発射の前後にそれに付随して日本国内の北朝鮮工作員による送電線の切断やガス噴霧などの陽動テロも懸念されている。

彼らの長距離ミサイルは(現時点では)アメリカ大陸には届かないし、「ミサイルは韓国に向けたものではない」と北朝鮮政府が公言している。そしてミサイルの射程内には日本列島全域が入っている。彼らが現実に「海を越えられるミサイル」を持ったということの意味は、それを利用して日本を脅すことが可能という意味である。

北朝鮮の長距離ミサイルは、米中露韓を狙って発射される可能性は低く、直接的兵器としての意味で警戒しなければならない国は関係国の中で日本だけである。だが日本側は、北朝鮮に自ら“ミサイルを発射することは損だ”と判断させるだけの交渉材料を日本単体では持ち合わせてはいない。

それどころか日本に向けて発射された「敵のミサイルを撃ち落とすため」の迎撃システムですら共産党などの野党が強硬に反対しているような国である。

そしてそもそも迎撃システムは技術的にもまだまだ不完全なので、配備したとしてもひとたびミサイルを大量に同時発射されたら、日本がそれを衛星から探知できたとしても今の備えでは「黙って家族が死ぬのを見ている以外の選択肢はない」状況なのである。

今の状態は、かろうじてアメリカが睨みをきかせて北朝鮮の動きを制しているに過ぎない。日本が単独で睨んだとしても北朝鮮にとってはどうということはない。

早い話、中国の核ミサイルどころか、北朝鮮のミサイルに対しても日本は“丸腰”なのである。そして北朝鮮や中国などの反日勢力は次に何を考えているかといえば、現在、各方面で猛烈な日米離反工作(日米を政治的に仲違いさせる工作)を加速させている。

いつまでも丸腰のままボーっと兵器の前に突っ立っているわけにはいかない。こんな時こそ、まず「どうするべきか」を議論すべきである。だが民主党の小沢などは「(北朝鮮が)今すぐ戦争を始めるとか他国を攻撃することはあり得ない」などと言って国防論議をひたすら妨害する。

確かに現状のまま日本を攻撃しても、アメリカ軍に報復されればひとたまりもないので、北朝鮮も今すぐ攻撃するほど愚かではないだろう。だが、それ以前の問題として小沢の話はズレている。そんな話は“仮にも日本国民の代表たる日本の政治家”に期待される「国防意識」ではない。

日本人の頭に銃口が突き付けられてる状態で、「(相手が)引き金を引くことはあり得ない」などと言っているようでは平和ボケなど通り越して利敵行為とされてもおかしくない。銃口というのは撃たないからといって頭の側で放置して良いものではないのだ。

「北朝鮮が引き金を引くか引かないか?」などの問題ではなく、問答無用で『銃を下げさせなければならない』のである。そして、それを“銃口を向けられている日本が自分で”やらなければその国家は「国家が国民の命を守るという責任」を果たしたことにならない。

国会中継を観れば多くの人がすぐに気付くだろうが、民主党・小沢などは「政敵を攻撃すること」だけに夢中になって主権者である国民や国家の安全を守ることを疎かにしている。敵に銃を下げさせるのは、政治家や政党の主張や思想や選挙のためなどではなく、全日本国民への責任なのである。

国防意識に関していえば、のんびり構えている場合ではない。日本の周辺国の脅威は今にはじまったことではないのだ。既に忘れている方もあるだろうが、北朝鮮は1993年5月にも日本海に向けてミサイルを撃ち、1998年8月には日本の領海を飛び越えて太平洋に着弾させている。これがどれだけ異常なことか。

その時はさすがに日本政府も反発したが、2006年7月(前回から8年後)にまたしてもミサイルを発射された段階で日本には抑止力となる防衛兵器も迎撃体制もできていなかった。朝鮮半島を24時間監視する人工衛星も不完全だった。(※現在は人工衛星を4機に増やすことで監視が強化された)

つまり“国民を今すぐ数万人殺せるミサイル”の射程圏内にいて、過去に実際に恐ろしい目にあっているのに、その危険な状態のまま8年間も有効な対策がされておらず、議論すら頻繁に妨害されていたということだ。

おまけに脅威は北朝鮮だけではない。韓国はその北朝鮮にコメや肥料や金銭を支援しつつ、日本の漁民を拉致・殺害した上に日本の領土である竹島を武装警官で制圧し、国民世論も核武装に前向きである。しかも、これまでみてきたように韓国の日本への敵愾心は国是レベルである。

中国は核ミサイルを数千発保有し、それを東京大阪福岡など日本の主要都市に向けている。そして日本の領土である尖閣諸島を「中国の領土である」と公言して憚らず、ガス田開発を勝手に始め、一方的な要求ばかりを押し付けてくる。

2004年11月、中国の潜水艦が日本の領海を侵犯した時は、米軍と自衛隊が監視していたため中国政府は領海侵犯したこと自体は言い逃れできずに公式に認めたものの「技術的なトラブルで日本領海に迷い込んだ」などと苦しい言い訳で謝罪を拒否した上に「日本が大げさに事件を騒ぎ立てた」として逆に不快感を表明する始末である。

韓国は、領土侵略に止まらず、日本の文化をも狙っている。侍、武士道、日本刀、柔道、剣道、空手、合気道、相撲、茶道、生け花、漫画、演歌、天皇、日本語に至るまで、「世界的に有名になった日本の文化」を次々に韓国の文化ということにしようとしている。

歴史問題でも領土問題でも文化の問題でも、外国に好きなことを言わせ続けていれば日本にとって大切なものを少しずつ失うことになりかねない。役人が遺憾の意に止め、メディアが言葉を濁しているこの事態について国民は声を大にして日本は侵略されていると、はっきり言うべきである。

このような状況にも関わらず、日本国民は国防意識も薄いまま、不完全な国防体制も放置したままだ。それどころか一部メディアでは「アジアに配慮して自衛隊も解散すべき」などという乱暴な意見も堂々と掲載される。しかしよく考えて欲しい。

どんな生物でも「自分の命を守ることを考える」のが当然であるのと同様にどんな国でも『自国の国防を議論する』のは当たり前の権利なのである。どんなに巨大な大陸国家だろうと、どんなに小さな辺境の島国であろうと、「自分の国の防衛を考える権利」は等しく侵されざるものである。

世界にはいろいろな国があり、善良で平和な国ばかりではない。もちろん善良な国もあるが、その国々ですら自国を守るための国防は(当然だが)国家による国民への最低限の“義務”として考えている。

この世界には北朝鮮のように国際社会で孤立することを恐れない国というのも残念ながら実在し、国際法を無視するのも厭わない国が存在するという「現実」を世界中の国々が正面から受け止めているからだ。

善良とはいえない国が「存在する」という現実をそのまま理解すれば自分の国を守るための防衛力の保持、百歩譲っても「そのための議論」は必要であり、当然の権利だと誰もが理解するだろう。

だが日本の場合、その当然の権利の行使すら迷わせるため「近隣国に配慮を!」「歴史に反省を!」などと中国や韓国と同じセリフを声高に叫ぶ者が国内にいるのだ。

「日本が国防を考えただけで近隣国に不信感や不快感を与える」という論が彼らの考えた議論をも妨害する苦肉の策である。しかしその“近隣国”である中国・ロシア・韓国・北朝鮮はどの国も毎年軍事力を増強し続けているのは周知の事実である。

彼らが軍事力増強をやめる気配などない。それどころか中国などは桁違いの勢いで凄まじい軍拡をしている理由を説明するよう日本やアメリカに名指しで問われてもまともな説明すらしない。そして日本国内にはそういった中国の暴挙をも擁護する者がいる。日本に「軍拡反対!戦争反対!」と叫びながら中国にはそれを向けない者である。

「日本人が自分を守る権利を“日本人だけは”放棄しろ」という一方で、「他国人が自分を守る権利は尊重してやれ」というのが日本国内左派の主張だ。これはどう考えてもおかしな話だろう。にも関わらず「戦争反対!だから軍備増強絶対反対!」などというのを絶対的な正義と勘違いして疑わない者がいる。これこそまさに『国防意識』の欠如である。

左翼が誘導したがっている主張の方向性は、ひらたくいえば「日本人が国防意識を持つ=軍拡=過去と同じ戦争=悪」という、いずれもイコールではないものを同一化させるイメージの普遍化である。

軍隊の保持、核武装の議論など、議論そのものは善でも悪でもない「戦争関連の話」を「悪」のイメージに誘導する言論を日本に住んでいれば誰でも見たことがあるはずだ。「軍備を整えること」そのものを「戦争」に直結させて「悪」というのなら、世界は“悪の国”ばかりということになってしまう。

それなら左派は日本よりも軍隊のある世界の国々をこそ批判すべきなのだが、米軍以外の軍隊を批判する左派言論はほとんどないに等しい。

「軍隊があるから戦争になる。だから日本は武装してはならない」というのもよく聞くフレーズである。これも欺瞞である。

古今東西、国家と国家が戦争になる理由は、「軍隊があるから」などではない。国家は「何かの要求を通すため(何かの要求を拒絶するため)」戦争をするのである。

「“世界に”軍隊というものが存在するから戦争になる」というなら部分的に理解できるが、「“日本に”軍隊という組織ができたら戦争になる」という主張はおかしいだろう。

物凄い勢いで巨大化する中国の軍隊には何も言わず、その軍をなくす主張もしていない者が、世界最強のアメリカ軍に守られている日本で、自らがアメリカの軍隊の恩恵を受けながら、まだ誕生する予定すらない「日本軍」だけ限定で否定するのは矛盾だらけだ。

また、日本にとっての戦争は日本に軍隊がなくても発生する。戦争を仕掛けられる場合である。これはたとえば、戦う力を持たない老人や子供や障害者などの弱者が犯罪のターゲットになる事件があるのと同じことである。

つまり日本に軍隊があろうが無かろうが、他国に軍隊があり、その国が日本や関係国に何か要求を飲ませたい場合には、軍事行動や軍事的恫喝も充分ありえるということだ。まさに北朝鮮が実証してみせたことの延長線上の話である。

弱者が犯罪の被害者になる事件があるというのを裏返してみると中には戦う力があれば防げる事件も多いという事実も見えてくる。これは何も「戦う力で犯罪者をやっつける」という意味ではない。「犯罪者は戦う力がある者をわざわざ狙わない」という意味だ。

犯罪者自身が、犯罪行為で得られるメリットと、相手の戦力によって自分が蒙るリスクを天秤にかけるからである。たとえば、中国は弱いチベットに軍を送って虐殺して領土を得る選択を実行したが、相手が「アメリカなら」中国は虐殺どころか軍を送ることすら無いだろう。結果、軍事衝突は発生しないことになる。

軍隊があるから戦争になるのではなく、軍隊があってもなくても相手国や関係国の都合次第で戦争は起きるので、戦争の「発生」そのものは軍隊の有無とは関係ない。だが、むしろ戦力を持たない弱い国のほうが相手国がちょっかいを出しやすくなるのでその地域での戦争の導火線になる可能性があるのが現実である。

左翼言論には「日本人は戦前のような軍事大国にならないと反省した!」と言って「日本は武装してはならない!」と説く者もある。これももっともらしく聴こえるが、よくよく見れば言葉の印象を操作して結論を誤誘導しているのがわかる。

これは、「軍事大国になる」のが悪いのではなく、「戦前のような」という部分にこそ否定の重心を置いて解釈すべきだろう。確かに戦前のような全体主義・社会主義的になることは少数の人間の判断だけで戦争を開始できるので危険である。だが一度完全に近代民主主義が根付いた国はそうそう元には戻らない。

また、「世界に誇る平和憲法の堅持を!」などという者もいる。だが自国防衛の大部分をアメリカに任せることで軍隊を持ってないだけの国の憲法は自慢げに世界に誇れるものか、他国の目線で考えてみるべきである。

もちろん“平和憲法の描く理念そのもの”は素晴らしい『理想』ではあるが、アメリカが日本に押し付けた憲法の本質は、アメリカなしでは日本という国家が成立しないようにするためのシステムであり、9条は「他国の軍事力に頼り切ることを“前提”とする憲法」である。そんなものを他国に誇れるだろうか。

日本の憲法9条に対して「素敵ですね」と言う無責任な外国人がいたとしても「では我が国も取り入れます」という国はひとつも無い。これが現実である。(※コスタリカの憲法は常備軍を持たないだけで集団的自衛権は認められているし、非常時には徴兵で軍隊を組織するので日本国憲法とは根本の部分で全く異なる)

「世界唯一の被爆国として非核を堅持せよ!」というよく聞くフレーズも似たようなものだ。 「核の傘の中で非核を主張する者の言葉」は全く説得力が無い。“少なくとも核の傘の外にいる非核国”にとっては呆れるような話だろうし、そんな主張を歓迎するのは“核保有国が増えることを喜ばない核保有国”だけだ。

そして「唯一の被爆国」という肩書きで世界に非核を唱えてみたところでそんな肩書きくらいでは絶対に核保有国に核を捨てさせることはできないのである。

民主党などは「核を持たない力を示せ!」などという意味不明な論を出したが国際政治や軍事の世界に「持たない力」などあるわけがない。完全にただの“言葉遊び”である。

もしそんな言葉を信じるのなら、金持ちとわかるよう毛皮と宝石で着飾って銃社会のどこかの国で「銃を持たない力」を発揮できるかどうかぜひ試して頂きたい。銃を持つ者側から見た「銃を持たない力」が何なのかは一向にわからないし、結果は、身包みを剥がれた金持ちが全裸で命乞いをするだけだろう。

そもそも日本に対しては嬉々として反核の主張をする国内左派が中国の核に対して批判や核放棄を主張しているのをほとんど聞かない。要は「日本“だけ”は永遠に弱いまま丸腰でいて欲しい」ということのようだ。

ここでは核を「保有せよ」とまではあえて述べないが、核保有の意味、使用条件や抑止力について国家レベルでの知識水準を上げておくためにも「“議論は”必要である」ということは疑いなく言える。

いずれにせよ「今後北朝鮮などの核からどう日本を守るのか」という部分がスッポリ抜け落ちたままの非武装理論はただの思考停止でしかない。

「どうやって日本を守るか」という問いへの非武装論者の答えは大きくわけてだいたい2種類になる。「中国(北朝鮮)は脅威ではない」という根拠不明の信頼を示す答えと、「アメリカが守ってくれる」という楽観的なものである。

まず「どんな国も自国の国益を最優先する」という大前提は忘れてはならない。もちろん「アメリカはアメリカの国益を最優先する」。もちろん「中国は中国の国益を最優先する」。

アメリカは中国の原潜が台湾に近づいた時に紛争化を恐れて遁走したこともあるし、北朝鮮が核実験を行っても経済制裁とテロ支援国家指定の解除をしてしまっている。日本の領土が中国や韓国に侵略されても「当事国の外交問題」として放置している。繰り返しになるが、「アメリカはアメリカの国益を最優先する」というのが大前提だ。

アメリカがアジアへの影響力を維持するためにも日本は重要な同盟国の1つだが、ニューヨークやワシントンへの報復の可能性がある「核を保有した敵国」に対しては、日本を「アメリカ本土よりも」優先することは100%ありえない。

つまりアメリカは、アメリカ本土を攻撃できない北朝鮮が日本を攻撃した場合には恐らく報復するだろうが、アメリカ本土を核攻撃できる中国が日本を攻撃した場合には報復することは絶対に無い。

実際に、中国やロシアが日本に核ミサイルを撃ち込んだ場合、アメリカは中国やロシアからニューヨークやロスアンゼルスやシカゴやワシントンDCなどを核攻撃されるリスクを負ってまで、日本のために中国やロシアへの報復核攻撃をしてはくれない。

ハンティントン、ウォルツ、ジャービス(コロンビア大学)国際政治学者
「米本土が直接、核攻撃されない限り、アメリカ大統領は決して核戦争を実行したりしない」と明言している。

元アメリカ国務長官 ヘンリー・キッシンジャー
「超大国は同盟国に対する『核の傘』を保障するため、自殺行為をする訳が無い」

元CIA長官 スタンスフォード・ターナー海軍大将
「もしロシアが日本に核ミサイルを撃ち込んだ場合、アメリカがロシアに対して核攻撃をかけるはずがない」

元アメリカ国務省次官補代理 ボブ・バーネット(伊藤貫の親友がプライベートの場で)
あれはイザとなれば役に立たない。もしロシアや中国が日本に核攻撃をかけたとすれば、米国大統領は決してミサイルを使って報復したりしない。残念だけど、アメリカは日本を見捨てるね。他にどうしようもないじゃないか。

米国大統領は、自国民を中露からの核攻撃の危険にさらすわけには行かない(しかし)今まで他の日本政府高官には、日本はアメリカの『核の傘』に頼っていればよい。日本は核を持ってはいけないと語ってきた

マーク・カーク議員(下院軍事委メンバー、共和党)
アメリカは、世界中のどの国と戦争しても勝てる、というわけではない。アメリカは核武装したロシアや中国と戦争するわけにはいかない。今後、中国の軍事力は強大化していくから、アメリカが中国と戦争するということは、ますます非現実的なものとなる。

だから日本は、自主的な核抑止力を持つ必要があるのだ。アメリカの政治家・外交官・軍人の大部分は、今後、アメリカが日本を守るために核武装した中国と戦争することはありえないことを承知している。そのような戦争は、アメリカ政府にとってリスクが大きすぎる。

当たり前だ。アメリカは「君主に仕えるサムライ」ではない。(もちろん日本も君主ではない)たとえるなら「金で雇われた用心棒」だ。

金ではなく忠義で仕えるサムライは、妻が殺される可能性があっても時に君主の命を守ることもあるだろう。だが、用心棒にそこまでの義理堅さはない。用心棒は妻が危険なら契約を破棄して妻と一緒に逃げるのが現実である。もちろん用心棒が妻より雇い主を優先したりすれば、妻は当然激怒するだろう。

他国のためにアメリカ国民の命を危険に晒すことなど、アメリカ国民が許すわけがない。そしてアメリカ国民が許さないことをアメリカ政府がするわけがないのである。これはつまり、日本の“いわゆる平和憲法”の、「他国に頼った防衛戦力」というものは100%“最後まで”日本を守ると確約されたものではないという意味だ。

今、日本が中国と戦争をすれば、日本は決して中国に勝つことは出来ない。通常兵器では日本が優勢だ。 だが、日本は専守防衛だから最高の結果で引き分けにしかならない。

その上、中国は核ミサイルを持っているので中国が日本に核恫喝をすれば、日本はかなり不利な条件を呑まされることになる。

結局、今のままでは日本は良くて引き分けだし、中国が日本に核恫喝をすれば日本は負けと等しい講和条件を受け入れることになる。

中国にしてみれば、核ミサイルを持っていない日本が相手なら恐いもの無しだ。最悪の場合には、日本は広島や長崎に次いで、3回目、4回目の核攻撃を受けることになる。MD(撃墜ミサイル防衛)に期待するのは無理だ。MD(撃墜ミサイル防衛)は実戦では役に立たない。

2006年6月22日、ペリー元国防長官
米国の弾道ミサイル迎撃システムが北朝鮮のミサイルに対し、効果的なのか証明されていない。迎撃に失敗した場合、ミサイル防衛の価値を損なうことになる。

2007年12月18日、フィリップ・コイル元兵器運用・試験・評価局長
(ハワイ沖で、イージス艦「こんごう」が迎撃ミサイル「SM3」の発射・迎撃実験に成功したことについて)「実験はお膳立てされたもの」「米国と良い関係を維持するために数千億円を無駄に費やす必要などない」「MDなんて、あまりにも現実離れしている」

以下は、『中国の「核」が世界を制す』伊藤貫著より抜粋

トーマス・クリスティ(国防総省の兵器運用・試験・評価局長)
MD(撃墜ミサイル防衛)システム成功率は、せいぜい0〜20%程度。これまでのMDシステムのテストで成功した例は、すべて非現実的な単純な条件のもとでしか行われていない。

これらのテストは、実際の戦争で核ミサイルが使用される場合の現実的な条件と比較することが無意味なテストだ。だから兵器運用・試験・評価局としては、このシステムの実際の成功率を推定することができない。

ディビッド・カレオ(ジョンズ・ホプキンス大学教授)
(中国軍とロシア軍は)、ICBM、SLBM、戦略爆撃機、中距離弾道ミサイル、巡航ミサイル等をすべて同時に使用して、核攻撃を加えることができる。

そのような同時核攻撃を受けたら、MDシステムは何の役にも立たない。私の知っている軍事専門家の中で、MDが本当に有効であると信じている者はいない。

MDはとても高価な装置だが、このMDシステムを無効にする能力を持つ対抗兵器や対抗戦術の実現には、それほどコストがかからない。

今後、限られた地域の軍事施設を守るためのテクニカルなMDシステムを構築することは可能かもしれない。しかし、民間人を敵国の核攻撃から守るためのMDの実現は不可能だ。

実はフランスも、ドゴール時代にこれと同じ結論に至り、核武装した。

「ソ連がパリを攻撃した時、アメリカがニューヨークを犠牲にしてまで ソ連に報復してくれるとは思えない。自ら10発持ち、やられたらモスクワをやり返す」ピエールガロワ将軍の「中級国家の核理論」である。国家の安全保障を他国に依存することの危険を考えれば当然の選択と言えるだろう。

どんな状況になっても100%“最後まで”日本を守り続けると確約された戦力は、世界中どこを探しても日本の自衛隊しかないのである。

非武装論者の「アメリカ頼みの楽観論」の問題点はそれだけではない。大統領制の国は大統領が変われば国家の方針はいかようにも変化しうることを忘れている。今の状況だけをみてアメリカが味方(?)だと思い込んでしまうのは危ない。親中派のクリントン政権時代に日本が苦しい状況に追いやられたことを教訓にする必要がある。

現在のブッシュ政権では大丈夫だろうが、ブッシュはもうじき任期切れである。もしアメリカが日本の敵、または、敵国と親密になったと仮定した場合、どう立ち回るのか。

「日本がアメリカ以外の国との軍事同盟を結べばいい」などと言う者もいるが、「我が国日本はあなたの国が別の敵国に攻撃されても国内法の規制で助けられないが、逆に日本が攻撃された時は、あなたの国は我が国を一方的に守って欲しい」などとアメリカ以外のどこの国に言う気だろうか。

2007年、日本はオーストラリアと準軍事同盟を結んだが、これはアメリカとセットだし、フィリピンでさえアメリカと軍事同盟を組んだ時は「米比“相互防衛”条約」を結んだのである。

資金も能力もあるくせに同盟国を守る気がなく、同盟国を守れない憲法まである日本には、基本的にアメリカ以外との軍事同盟は非常に難しいのである。

もちろんアメリカは重要な同盟国である。だが、左翼言論人が「日本の自力防衛を放棄させる理由付けのために」その時だけ必要以上にアメリカを過信するのは間違いである。

ほとんどの国が口を揃えて「戦争反対」などと叫びつつ戦争したりしている。日本も本当の意味で、これからも「戦争反対」を実行していけばいい。だが「戦争反対」と「軍備増強」は別問題として議論すべきである。

2007年5月20日放送のテレビ東京『ワシントンリポート』の番組中、米第18航空団の司令官であり米空軍嘉手納基地司令官のハロルド・モールトン准将は米国ハドソン研究所首席研究員である日高義樹のインタビューに対してこう言った。

「我々は、あらゆる緊急事態に備えている。兵力が即応体勢をとる事で地域の平和と安定維持という最も重要な任務を果たす事ができる。

備えていれば敵は米国やその同盟国に戦いを仕掛けてこない。歴史を見ると、我々が備えていなかった場所でいつも敵は襲い掛かってきた。まず軍事的な危機に対処できるように備えている」

つまりハロルド・モールトンが語ったのは『抑止力』の話だ。「戦って勝つこと」が平和を生むのではなく、「備えていること」そのものが戦いの“発生”を避け、平和と安定を生み出してきた、ということである。

日本が「やられても泣き寝入りします」と世界に予め公言するような弱々しい国防意識では、いつまでも中国や韓国に“言われっぱなし”になるだけだし、それどころか「備えていない地域」として紛争の発生地点になる可能性を生んでしまう。

日本の場合も、戦争に巻き込まれないために戦力を持つとすれば、もちろん“こちら側から積極的に戦争をしかけない”というのは当然だが防衛力の保持は否定すべきではないし、軍備拡張も否定すべきではない。戦争抑止力の保持そのものは否定すべきではないのである。

左翼教育によって極度に拡大解釈され、軍事や国防に関連した話題全て嫌悪する“いわゆる戦争反対キャンペーン”などと心中してはならないのである。そもそも国防というのは、強国にとって「地域的な義務」という一面も持っている。

日本は世界経済に影響力を持つ経済大国であり、世界中に手を広げて商売をして大きな成功を築き上げているにも関わらず、こと「軍事」に関することに対しては『独立国が負うべき自己責任』や『アジア地域を安定させる国家間の均衡』への参加を可能な限り拒み続けている。

実はこれは非常に不自然で不遜な態度である。国防というのは、国家が国民の安全を守る義務であると同時に地域の紛争を“減らすため”の「義務」でもある。戦後、日本が弱体化することによるアジアの軍事バランスの不安定化を懸念した一人にビルマの元首相・バーモウ氏がいる。戦後間もない頃、彼はこのように言った。

アメリカは日本に勝った。そして、日本の武力をなくしてしまうだろうが、それは果して正しいことかどうか。アメリカのマーシャルの国共調停は後退して、延安(中国)が次第に力を得てくるだろう。少なくともアジアでは、日本が無力であることは正しいことかどうか…

読売新聞社編『昭和史の天皇8』P153より

また、台湾政府の国策顧問である金美齢も似たようなことを言っている。※彼女は台湾人だが、「1934年生まれなので」11歳までは“日本人”だった。植民地時代の日本を肌で知る生き証人である。

「当時の日本人は誰もが必死だったんですよ。政治家も、役人も、軍人も、みんな「皇国の興廃」が自分の一挙手一投足に懸かっているという自覚を持っていた。

その必死の総和が奇跡につながった。これは日本人は誇っていいことだと私も思います。その誇りと、緊張をいま取り戻すべきなんです。

東アジアにあっては、やっぱり日本がリーダーシップを取るべきだと私は思います。かつてロシアの南下を押しとどめたように、二十一世紀初頭のいまは中国の覇権を押しとどめてほしい。それによって台湾や東南アジアの国々の安定と安全が確保される。中国に対してアメリカは充分じゃありません。

『入国拒否 〜なぜ『台湾論』は焼かれたか〜』P319-320より

2人とも、強かったころの日本を知っている世代の人だ。そんな彼らの言葉からはアジアの中から日本の力が消え、そこに中国の力だけが残ることへの不安が感じられる。「日本のため」というより、「彼ら自身の祖国のため」または「アジアの平和と安定のため」に発せられた言葉である。

政治・経済・外交・軍事など、全ての要素を繋ぎあわせて国と国はバランスをとっている。それら全ての要素を含めて「国際関係」というものが成り立っている。

たとえば、もしもアジアや中東からアメリカ軍がいなくなったら、日本も台湾も韓国もそれぞれの脅威にさらされ無事では済まない。同時にアメリカは石油などの資源を安定的に確保できなくなるだろう。

アメリカの石油供給が不安定になるということはドルの機軸通貨の機能が揺らぐという意味である。そうなれば世界経済で最も負の影響を蒙るのは日本である。

また、アメリカと違って韓国だけを守る存在の韓国軍に何か異常が発生しただけでも東アジアへの影響は大きい。北朝鮮の動向やそれを見た中国やロシアが何か動きが見せる可能性も出てくる。

韓国と北朝鮮は停戦中とはいえ戦争は終わっておらず、互いにミサイルを持ち、韓国の首都ソウルは北朝鮮との軍事境界線からわずか60kmの距離にある。朝鮮半島で何かあれば亡命者や難民も出るだろう。

南北朝鮮のどちらかが周辺国に助けを求めるケースも考えられる。有事には国境を接するロシア・中国、もちろん日本も警戒を高めざるをえないのである。

その時、丸腰で国防意識の弱い金持ちの国があれば何らかの形で巻き込まれるのは必然だ。それぞれの国が力を持たなければその地域は安定しない。無関係ではいられないのだ。

そんな中、日本だけ「商売はする。でも商売以外は“他人事”」などというワガママを言うことは、本来なら許されるわけがない。

特に“アジアにおける日本”というのは、中国の暴走を止められる可能性を持つ唯一の大国なのである。アメリカに国防を丸投げする現在の日本の態度は、まともなアジアの国からみれば「平和主義」などではなく、内心「無責任」にしか見えていないだろう。

現在そんな日本のワガママがまかり通っているのは“なぜ”だろうか。それはアメリカと極東アジアの特殊な歴史と事情に関係する。当時の東アジアの地政学的条件において、日本にとってもアメリカにとっても共産圏(中露)の勢力拡大を防ぐことは絶対に必要なことだったのだが“間抜けな米ルーズベルト大統領”は戦前の日本の役割に気付いていなかった。

戦中、「日本が大陸進出したこと」に文句を言い続けていたアメリカは、
戦後、「日本がなぜ大陸進出したのか」にやっと気付くことになる。

そして今は「戦前に日本がやっていたことと全く同じ役割」をアメリカが日本の代わりにやらざるを得なくなっているという状況なのである。

戦前は日本がアジアに影響力を持ち、ロシアや中国など共産主義が拡大するのを抑えていたのだが、強烈な人種差別の時代にあっては、その見下すべき「黄色い猿」が順調に国力を蓄えてアジアに進出することはルーズベルトには侵略にしかみえなかった。

白人は、自分たちが全世界に植民地を拡大するため侵略を続けていたことは棚にあげて日本を攻撃した。(戦後その認識の一部は改められたようだが、基本的には今も「白人の戦争の大義名分」はそのまま主張され続けている)

そして戦後アメリカのGHQは、日本に「押し付け憲法」とともに言論統制を行い、アメリカにとって都合の悪い広い視野を焚書(本を焼くこと)などによって封じ込めた。(これが現在の左翼言論の直接的な祖先にあたると思われる)

日本の敗戦後まもなく、朝鮮半島は案の定「民主主義と共産主義」に分かれ火の海になる。そこでアメリカは日本がアジアで担っていた役割を知ることになっただろう。だがアメリカ自身が日本の軍備はおろか『国防意識をも解体』してしまったため、極東アジアに日本という丸腰で弱い国、つまり「不安定な地域」ができていた。

それゆえアメリカは日米同盟を組み、現在もなお「日本への攻撃は米国への攻撃とみなす」とまで宣言してやむをえず日本(という地理条件)を守っているのである。もちろん日本側からみればメリットは大きい軍事同盟ではあるが、これは決して日本のためではなく、アメリカの国益のためなのである。

ちなみに日本の自衛隊の最高指揮監督権は内閣総理大臣が有しているが、韓国の場合は、朝鮮戦争の停戦以降、現在も非常時の韓国軍は大統領にも韓国国防省にも軍事統帥権がない。韓国の軍事統帥権は首都防衛軍を除いて全てアメリカが握っているのである。

要するに、韓国軍の行動を米軍が掌握していることも、そもそもアメリカが朝鮮戦争に参戦したのも、日本に米軍基地を置いているのも元々は共産圏を抑え込む「アメリカの施策の一部」なのであるその施策は、日本が過去「貧しく弱い朝鮮」を併合したのと目的は同じである。

中国やロシアなどの利害がぶつかる不安定な極東アジア地域に貧しく弱い国があることは、この地域をより不安定化させる。それゆえ日本は赤字覚悟で自腹を切り、朝鮮に莫大な投資をして成長・近代化させて資本主義国として自立させることで赤化(共産主義化)を防ごうとしたのである。

つまり日本が併合で朝鮮半島への“一方的な経済的負担”に耐えることで日本の安全を守ろうとしたのと同様に、現在のアメリカは“日本側はアメリカのために血を流さないのにアメリカ側は日本を守るために血を流す”という特殊な同盟関係にある。

日本の珍妙な法律では、同盟国アメリカがどこかの国に攻撃されても、自称同盟国日本はアメリカの敵に攻撃どころかミサイルの迎撃も禁止されている。それに関して2006年12月、日本を訪れたローレス米国防副次官は石破茂元防衛庁長官との会談で

「ミサイルが米国に向かうことが明らかで、日本がそれを撃ち落とせるのに
 撃ち落とさないとしたらクレージーだ。そんなものは同盟ではない」

当然の発言だろう。北朝鮮のミサイルを補足する情報網すらアメリカに頼りっぱなしなのに、日本は「アメリカの若者の命を盾に日本を守ってもらうが、日本はアメリカを守らない」と言っているのである。

日本人は“議論”することすら避けて考えようともせずにいるが、「専守防衛」と「軍事同盟」というのはある部分で矛盾を孕むのである。また、こんな馬鹿馬鹿しい条件で日本と軍事同盟を結ぶ国を“特殊な事情のあるアメリカ”の他に探すのは非常に難しいと言わざるをえない。

だが、いつまでもアメリカに甘えてばかりもいられない。国際情勢がいつまでも変わらないわけもなく、一方的な軍事同盟が永遠に続くと信じて何もしないのであればそれは国家の怠慢である。

「国民を守る」のは最も重要で基本的な国家の義務。断じてアメリカの義務ではない。我々国民は、国家に“一番大事な仕事をサボるな!”と言う権利がある。アメリカに言うのではない。日本という国に言うべきなのである。

アメリカの世論も移り代わるし、世界情勢も指導者も代わってゆくのだから、いつかアメリカが中国やロシアを脅威と認識しなくなる日がくるかもしれない。

その時アメリカが“現在、自主防衛に移行させようとしてる韓国”のように日本との安全保障も“賞味期限切れ”とした場合に、日本は他のどの国に「自国は守って欲しいけど、相手の国を守らない軍事同盟」を要求する気か。

まるで“親の不幸や心変わりで突然仕送りを打ち切られた道楽学生”のように、突然ある日「自分の力で生活できていなかったという情けない現実」に気付かされ、「他に誰も助けてくれない」と理解した時、やっと「自分で働く」ようになるのか。

ただし、学生なら次の日からバイトをすればいいだけだが、国防というのは国民への周知も予算確保も法案の検討や審議も訓練などの実質的な準備も一朝一夕にはいかないのである。

日本は過去原爆攻撃を受け、その威力を世界の誰よりも実感をもって理解しているにも関わらず、中国・ロシア・北朝鮮などの核保有国と、韓国のような核保有に前向きで核開発未遂の前科がある国に囲まれているのに、なぜか議論すらしない。これは「異常なこと」だと認識すべきである。

ただ、議論だけでは間に合わない可能性のある問題もある。日本の「海」の問題だ。

中国は胡錦濤以降、明らかに外洋志向が高まっており、原子力潜水艦を含む尋常ならざる海軍力の強化と制海権の獲得に異常なほど固執している。

そこで重要になってくるのが、沖縄と台湾だ。

地図を見ればわかる通り、中国というのは大きくカーブした日本列島に“海を塞がれるような地形”になっているため、中国海軍が太平洋側に進出するための国際海峡は「2つ」だけしかない。その1つが沖縄の『大隅海峡』で、もう1つが台湾の『台湾海峡』である。

もちろんこの海域を通常通りに航行・通過することは可能だが、この海峡は米軍の監視が行き届くほど狭いため、中国はこの地域を「軍事行動に利用することができない」という中国側の事情がある。

だから中国は将来を見据えた戦略航路として、沖縄か台湾のどちらか一方、またはその両方を絶対に手に入れておかなければならない。そのため中国はあらゆる手段を使って沖縄や台湾を篭絡しようと手を尽くしている。

もしどちらか1つでも中国が得ることになれば、日米豪の海軍がどれだけ優秀だろうとその海域に連なる太平洋の全てを監視することはできず、中国を抑えることは難しくなる。アメリカ空海軍や海上自衛隊が沖縄・台湾の監視を重要視する理由はそこにあるといえる。

一方日本にとって、その海は『シーレーン』の一部である。シーレーン(海上航路帯)とは、石油を含む日本の貿易・物流の最重要ルートであり、文字通り「日本の生命線」といえる海路である。

あらゆる物を輸入に頼る海洋国家・日本は国内経済もほぼ海上交易に依存しており、日本が生存するのに不可欠な資源である石油、石炭、天然ガス(LNG)、原子力(ウラン)も輸入依存度が100%に近いほど高い。そしてそれらはほぼ全てシーレーンを通って日本にやってくる。

もしこの海路を他国に掌握・コントロールされることがあれば、オイルショックどころか核ミサイルを使われるまでもなく日本は身動きがとれなくなってしまう。

つまり「日本の生命線であり、防衛すべき最重要海路」と「中国が野心を燃やす戦略地域」が、沖縄・台湾の周辺で重なり合っているのだ。

その意味では、沖縄はもちろん、実は“台湾を守ること”も「日本の海を守ること(日本の生命線を守ること)」と同じ意味だといえる。(もちろん台湾は既に日本の領土ではなくなっているので、主権的な防衛はできないが)

すでに中国は台湾と沖縄を手に入れるために、もう既にあれこれ布石を打ち始めている。

たとえば彼らが「台湾や沖縄は歴史的経緯において中国の属領で文化も中国のもの」と強弁するのも今後領有を主張する時のための布石である。

台湾に関しては「中国の領土なので、台湾“省”である」と政府自ら公言し、沖縄に関しては「主権帰属は未確定だ」とお抱え学者に論文を書かせて主張している。

中国の呼称では沖縄は「大琉球」、台湾は「小琉球」とされているが、地理的にちょうど文化的の交差点ともいえる位置にあるため、中国だけでなく、古代琉球王国の文化や東南アジアの影響も残っている。

台湾も複雑な歴史によって文化も混在する土地で、昔はオランダの植民地であり、中国、日本の占領を経て今に至る。

古来沖縄は日中で奪い合いがあったが、日清戦争で勝利した日本が正式に領土とし、米軍の占領を経て、日本に返還された。以前は中国政府でさえ沖縄が日本領であることを公式に認めていたのだが、中国の学者はこの「返還」を認めないと言っている。

また、沖縄県石垣市の一部である尖閣諸島の周辺で資源(ガス田)が発見された途端に「尖閣諸島は中国の台湾省宜蘭県に属する」という主張まで始めている。

中国の工作活動は文化や歴史の面だけではない。沖縄や台湾に「有り余る中国人」を入植させ、言論メディア・世論風潮・地方政治を掌握させたり、諜報・スパイ活動を行ったりする動きもある。

このような「戦略的入植」は世界一(戸籍のある者で13億人)の人口を持つ中国の得意技で、チベットやウイグルなどの少数民族を人口的に占領しただけでなく、今やヨーロッパやアメリカの一部で選挙に影響力を持ちはじめるほどまでに移民人口を拡大させている。

台湾も中国からの渡来人(外省人)の入植が非常に多く、既に台湾の人口の13%は中国からの外省人であるる。既に彼らの言論・政治分野への進出も多くみられ、中国の代弁をするメディアも非常に多い。ただ、中国とは異なり、台湾は民主主義国家であるため中国と台湾の関係については両派わかれて喧喧諤諤の議論が続いている。

沖縄にも、台湾ほどではないが、中国人の戦略的入植が進んでいる。沖縄は、元来のおおらかな気質に加え、歴史的経緯と米軍基地が置かれる立地条件などから無防備都市宣言をしよう、などの盲目的ともいえる反戦論者もいるようだ。

「近隣諸国との平和友好関係を深めれば戦争を回避できる」とか「無防備宣言をすればジュネーブ条約が守ってくれる」とか「アジアの国々を敵に回すな」とか「軍隊がなければ戦争は防げる」であるとか、頭の痛い限りである。こういった問題は、理想だけでも現実だけでも不足なのである。理想と現実を両方とも考える必要がある。

『絶対的な正義』などというものが存在しないことは多くの人が理解するはずだが、不思議なことに日本では「反戦」というスローガンだけはまるで絶対的な正義であるかのように誤認される風潮がある。これも戦後教育の弊害のひとつだ。

無防備宣言をすべきと主張する者たちは、「無防備宣言をすれば侵略者はジュネーブ条約違反で法的に断罪される」との認識のようだ。

だが無防備宣言とは例えば「家の鍵を取り外し、自宅の住所を人目につくように宣伝する」のと同じようなもので、「厳格な法律があり、警察がいたとしても」空き巣や強盗に入られる可能性は高まる。それで結果的に被害にあっても「犯人が逮捕され、法が適用され、制裁されれば、それで解決」といえるだろうか?

無慈悲な強盗に入られた家の家族はどんな目に遭うだろうか。強姦された人や殺された人は犯人が断罪されても原状回復とはいかないだろう。盗まれた物の中にも犯人の手にかかって元に戻せないものもあるだろう。

無防備を宣伝している者が被害にあえば一部には同情する者もいるだろうが、一般的には「家の鍵を取り外したから強盗に入られた」と言われるだけだろう。

たとえば、街を全裸で歩いていた女性が外国人に強姦された場合、「その外国人は違法行為をした」という意見よりも「同情はするが、馬鹿だから強姦された」という意見のほうが多いだろう。

しかも強盗殺人などは場合によって裁判で死刑になることもあるのに対して国家の犯罪で死刑など存在しない。国家の犯罪に対する制裁には限度があるのだ。

無防備宣言とは暴力に対して「抑止」ではなく「後手にまわる法律頼りのもの」で虐殺・強姦・破壊・略奪をも覚悟した上で後に法的対処を期するものである。それでも無防備なら大丈夫と言う人たちは、おそらく根拠もなく心のどこかで「某国も馬鹿ではないから国際的に批判されるようなことをするわけがない」とでも期待しているのだろう。

馬鹿ではない国は(それが良い国でも悪い国でも)、「国際的批判」と「批判の代わりに得られる国益」を冷静に比較検討してメリットのほうが大きければそちらを選択するのである。

「他所の国があえて国際的に批判されることをするわけがない」と信じている人は北朝鮮が拉致や核実験を行い、フランスが今も植民地を持ち、アメリカが中東に内政干渉し、韓国が犬を食べて幼児を輸出し、中国が人権や著作権を無視し人工衛星を破壊し、ロシアで異常な人数の反政府ジャーナリストが暗殺されている現実をどう考えるのか。

なかには日本人からみて「批判にあたらないように思えるもの」もある。だが批判する国は批判するのである。(これはいわゆる『靖国参拝問題』を思い出せばわかることでもある)

国際的批判とは、実際には日本人が思うほど制裁としての効果も拘束力もないもの。その行為が良かろうが悪かろうが外国の主権国家のすることに対してはたとえ国連で非難決議が出たとしてもほとんど制約できないのが現実である。仮に「理想」と違ったとしても「現実」を考えに入れなければならないのである。

中国に襲われたチベットは一般人の虐殺・強姦・破壊・略奪どころか、僧侶・尼僧の陵辱や、伝統文化財の破壊、強制堕胎や強制断種(子宮や睾丸を手術で摘出してその民族の種を断つ)や、強制交種(チベット女性を中国男性と交わらせ民族の血統を絶つ)などの「民族浄化」に見舞われた。

もちろん後に中国が非難されることもあったが、中国政府は「チベットは歴史的にも中国の一部だ」との主張を崩さず、他国からの非難を不法な内政干渉として無視する常套手段をとった。

生き残ったチベット人の一部はインド北部などに逃れ亡命政府を作り、元来のチベットの地にはさらに中国人が入植し、投資・開発を続けている。

そもそもジュネーブ条約は、イラク戦争での米軍の捕虜虐待やNATOによるユーゴ空爆、アフガニスタンでの米軍の病院爆撃などにみるように完全に形骸化しており、罰則規はあるものの、実際には運用されていない。

ドイツのドレスデンという、歴史ある美しい都市も、第二次世界大戦時に無防備宣言していたにも関わらず、英米軍に徹底的な無差別絨毯爆撃を浴びて都市の半分以上は焦土になり、数万人の市民が焼死した。ドレスデンという土地が、戦略的な価値がある軍事的な要衝だったからだ。

沖縄という土地が、もし相手にとって戦略的価値がある軍事的な要衝である場合、「ジュネーブ条約で無防備宣言した所を攻撃してはならない!」と叫ぼうが泣こうが侵略する側にとってはその土地を手に入れなければ逆に自分が殺されかねないと考えているのだから、結果はみえているのである。

沖縄(琉球)は実際に中国の属領であった時期があるので、中国ならそれを利用して適当な大義名分をでっちあげることだろう。そして沖縄が占領されれば、日本という国全体が致命的な危機に陥る。

もちろん占領軍というのは占領地の人員を徴用することもある。その時彼らがの命令が「他所の国に戦争に行って労働力になれ」というものだった場合、「反戦」を掲げていた土地の男性は、どうするのだろうか。

日本には戦う自由も戦わない自由もあるが、占領後にその自由がある保証はない。沖縄は人口も少なく、中国の主張を代弁するメディアや地方政治家も数多くいることから、あやしい言論が蔓延すれば、中国の戦略にとって有利に動く危険がある。

中国の十八番は戦略的入植だけではない。心理的に軍事的脅威や生命への危機感を与え、人心を揺さぶることで言論を左右するのもロシアや北朝鮮などと同様に、独裁主義国家にとって常套手段である。

沖縄近海などでは、中国船籍と思われる不審船の領海侵犯も日常茶飯事だが、恐ろしいことに、無断で『原子力潜水艦に』不法越境されたことすらある。これは「その気があれば戦略海域にできる」という意味である。

元より戦争嫌いの日本人は外敵に脅威を感じた時、安易に白旗を振る場合がある。誰でも危険からは逃げたいと思うし、新聞などのメディアもそれを後押しする。それでも沖縄はまだいい。日本の領土であるため、台湾よりもそれらの直接的な脅威からは比較的守られている。

しかし台湾の場合はもっとストレートだ。中国は台湾を自国領とみなしており、台湾が独立を宣言した場合には「国家の分裂を防ぐという大義名分」により武力攻撃を行うことを認める国内法『反国家分裂法』を2005年に既に成立させている。つまり「独立したら殺す」と国内法で決めた、と言っているのである。

ちなみに1995年、1996年には実際に台湾海峡にミサイルを放っている。さらに数千発のミサイルを台湾に向けて恫喝し続けているのである。中国の野心の一部について簡単にみてきたが、軍事的恫喝を受けているのは海の向こうの台湾だけではない。

恫喝されているのは、
我々全ての日本人も同じなのである。

我々日本人が知らされていないだけで、中国の夥しい数のミサイルは東京・大阪・沖縄など、日本のほとんどの主要都市に向けられている。日本政府に正常な国防意識があるならば「ボタン一つで数千万の日本国民が死ぬ」という状況を放置すべきではないのは当然だ。

国家に国民を守る意志があれば「いかにして日本を守るか」「いかにして“ボタンを押す自由”を奪うか」について何らかの方策が確立されるまでは国家の最優先議題になっていてしかるべきである。

だが現在の日本はそのレベルにすら達していない。世界中の誰がどうみても「軍隊にしか見えない自衛隊」、それも英語表記では『Japan Self-Defense Forces(日本自衛軍)』という組織をいまだに軍隊とは認めず、新聞等のメディアは“自衛を考えること”だけで「右傾化」と揶揄する。(※自衛することは思想でも何でもないので、右派や左派などの概念とは無関係である)

戦争や軍備どころか、地域紛争や揉め事を「極度に」恐れて逃げ続けているのである。「考えたくない、議論したくない。面倒臭いし」という風潮は、メディアが嬉々として「考えるべきではない、議論すべきではない。……アジアに信頼されるために」という無責任で、いかにもそれらしい、一見すると平和的な言葉に変えてゆく。だから言われっぱなしであり、言う側からすれば、言い放題なのである。

いくら経済や技術や文化が立派でも、そんな弱腰では二流どころか三流の北朝鮮のような国からも馬鹿にされ、核やミサイルで恫喝されるのも当然の成り行きである。

戦争反対!と「願うだけ」では戦争がなくならないことは歴史が証明している。“侵略者を撃退するため”だけに武器を持つのではなく、“侵略を思いとどまらせるために”抑止力を持つ、であるとか、“侵略を思いとどまらせるために”多国間で軍事同盟を持つ、等の「前向きな行動」を起こさなければ戦争を避けることはできないのである。

戦争をしたくないからこそ、インドは考え、核を保有した。その途端にインドと仲の悪かった中国は態度を180度豹変させた。中国はインドにちょっかいを出さなくなり、近接した関係を築くことになった。

「核を持ち、戦争をしない」
これがインドが自ら選んだ「行動」である。

戦争をしたくないからこそ、イギリスのチャーチルは考え、1946年3月、有名な「鉄のカーテン演説」の中で米英の永久軍事同盟を提唱した。

これはイギリスとアメリカが同盟し、強大な軍事力によってソ連を牽制していればソ連のスターリンの「野心と冒険心を誘うといった事態」にはなりえず、結果的には米英同盟の“強大な軍事力を使うまでもなく”安全が保障されると考えたからである。

そして、それは完全ではないまでも実現された。「同盟を組み、戦争を避ける」これがイギリスが自ら選んだ「行動」である。

昨今の北朝鮮からの恫喝の例でわかるように日本の“無責任な丸腰スタイル”は東アジアのバランスを崩している。その「バランス」について、ケンブリッジ大学歴史学博士のエマニュエル・トッド(フランス人)は、朝日新聞論説主幹の若宮啓文(「いっそのこと竹島を韓国に譲ってしまったら」の発言で有名な左翼)との対談の中でこのようなことを述べている。

【トッド】 核兵器は偏在こそが怖い。広島、長崎の悲劇は米国だけが核を持っていたからで、米ソ冷戦期には使われなかった。インドとパキスタンは双方が核を持った時に和平のテーブルについた。中東が不安定なのはイスラエルだけに核があるからで、東アジアも中国だけでは安定しない。日本も持てばいい。

【若宮】 日本が、ですか。

【トッド】 イランも日本も脅威に見舞われている地域の大国であり、核武装していない点でも同じだ。一定の条件の下で日本やイランが核を持てば世界はより安定する。

【若宮】 極めて刺激的な意見ですね。広島の原爆ドームを世界遺産にしたのは核廃絶への願いからです。核の拒絶は国民的なアイデンティティーで、日本に核武装の選択肢はありません。

【トッド】 私も日本ではまず広島を訪れた。国民感情はわかるが、世界の現実も直視すべきです。北朝鮮より大きな構造的難題は米国と中国という二つの不安定な巨大システム。著書「帝国以後」でも説明したが、米国は巨額の財政赤字を抱えて衰退しつつあるため、軍事力ですぐ戦争に訴えがちだ。それが日本の唯一の同盟国なのです。

【若宮】 確かにイラク戦争は米国の問題を露呈しました。

【トッド】 一方の中国は賃金の頭打ちや種々の社会的格差といった緊張を抱え、「反日」ナショナリズムで国民の不満を外に向ける。そんな国が日本の貿易パートナーなのですよ。

世界各国、いろいろな意見がある。どんな道を選ぶにせよ、それは「日本人自身」が選ばなければならない。

新たな同盟や核保有以外の選択として、たとえば(あくまで一例として)、あえて中国でも韓国でも北朝鮮でもなく『ロシア』を鍵として考える方法もある。

中国が、アメリカや日本と戦争するためにクリアすべき絶対条件は「ロシアと協調して、ロシアから兵器と石油を得ること」である。そこで、日米自身がロシアと同盟を組まない(組めない)までも、中国とロシアを「分断する」だけでも戦争の“抑止”としては有効である。

要するに、今中国が慰安婦問題や靖国問題などのいろいろな方法を試している「日米離間工作」の逆に近い形である。

軍事力世界2位のロシアと3位中国を同時に敵にまわせば日米が不利だが、逆にロシアが敵にさえならなければ、(味方にならなかったとしても)「軍事力世界1位のアメリカ+5位の日本(+2位のロシア)」となり、「3位の中国」と仮に戦争になったとしても圧勝できるのである。

勘のいい方はもうお分かりかもしれないが、この、「たとえ戦争になってもどちらかが圧勝できる状態」というのは、「一方的な戦争が起きる」のではなく、『戦争が起きない』という状態である。

在日米軍がいる意味もそれである。今は日米が若干優勢であるため、沖縄や台湾が喉から手が出るほど欲しい中国ですら派手な軍事行動を起こすこともできずに機を待ちつつ言論工作する他ない。

中国にとってのアジア外交とはアジアにおける日米の影響力を低下させることに他ならず、日本にとってのアジア外交とはアジアにおける中国の影響力を低下させることである。だからこそ中国と中国に利する国は、日本が強くなることを恐れ、妨害するのである。

先ほど対談を引用したエマニュエル・トッドがこんなユニークな解釈を述べていた。

「核兵器は安全のための避難所。核を持てば軍事同盟から解放され、戦争に巻き込まれる恐れはなくなる。ドゴール主義的な考えです。」

「核を保有する大国が地域に二つもあれば、 地域のすべての国に「核戦争は馬鹿らしい」と思わせられる。」

同盟や外交などで軍事バランスを考えるのもひとつの選択肢だろうし、トッドが言うように、他国(同盟国)の戦争に巻き込まれるのが嫌ならば同盟ではなく、独自に核を持つというのもひとつの道だ。日本の新聞があまりそういった記事を書かないだけで、「謝罪」「援助」「友好」以外にもいろいろな考え方、選択肢があるのである。

国防についてのいろいろな考え方や選択肢についても、先ほどと同様に“いじめ問題”にたとえてみると簡単な言葉で説明できる。いじめには、必ず「強者と弱者」がある。そこで確かなのは「強ければ、いじめられる可能性は低くなる」ということ、そして「潜在的にいじめられる可能性があるのは弱い側にのみ」ということだ。

そして、いじめる側といじめられる側の二元論のみにこだわらないように見れば実際には様々な立場があり、「いじめられたくないので、関わらない者」や「いじめなければ、いじめられてしまう者」などがいると気づく。

弱い者が全ていじめられる側ではないが、強い者も全ていじめる側というわけではない。

しかし左翼や中国・韓国人の主張は、日本が武装した場合「必ずいじめる側になる」と決め付けている。彼らの主張の根拠はいつも「過去の戦争と反省」だ。

だが、そもそも彼らのいう過去の歴史には多くの捏造や誤解があるし、戦後60年国際貢献と平和主義を貫いた国民が突然「いじめる側」になるとは思えない。さきほど引用した台湾人・金美齢の本に“日本が中国の覇権を抑えることで台湾や東南アジアの国々も安定と安全が確保される”という意味の言葉があった。

その他、数多くの事例をみても、中国が「とても強く、いじめる者」なのは否定しようがない。今の日本は「弱くはないが、力を行使できず、いじめられる者」だ。それならば、さしあたって日本は「ある程度強く、いじめない者」を目標にし、ゆくゆくは「誰かをいじめから守れる者」を目標にして努力していけばいい。

綺麗ごとのようだが、未来を語るなら、現実だけでなく理想も忘れてはならない。その両方を見る、ということが日本人には必要だし、可能だと思われる。

日本人の国防意識について考える時、別に戦争の話だけに限定することはない。もちろん日本に戦争をしろなどとは恐らくどの国の誰も言っていないし、軍備は誰かに言われてするものではなく、国家が日本国民を守るという目的のために「戦争を回避するいくつかの方法のひとつの選択肢」をとして行うものだ。

ここでは日本にアメリカと同じことをしろとも言わないし、インドやイギリスやフランスやスイスと同じようにやれとも言わない。いろいろな意見はあるだろうが、いずれにせよ、議論することを避けず、妨げず、「どんな日本になるべきか」、それを日本人自身が議論すべきなのである。

だが、どうしても「議論すら」させたくない者がいる。「国家防衛について考えること自体が悪いこと」のような、ある種宗教じみた勘違いを今後も持ち続けさせたがっている者がいる。

彼らはまず「国防や軍備の話」を「戦争」と直結させる。すると今の日本では「戦争」を否定するのは簡単だ。戦争と国防は同じものではないのだが、同一視させれば否定しやすいのだ。

彼らは卑怯にも「核の傘」に守られながら「反核」を叫び、「日米同盟」に守られながら「軍事力による平和」を否定する。全ての国が当然考えなければならない自国を守る力について「日本にだけは永遠に考えさせない」ようにテレビや新聞を使って教育する。

彼らが「世界の国の中で日本だけ」を特例的に非武装に縛りつけ、生まれた国を愛すること、国を守ること、国を作ってきた先祖を敬うことなどの当然の権利から“日本だけを例外として除外”する、都合のよい大義名分とは何か?

  それが“過去の戦争で、日本を絶対悪とすること”である。

そしてそんな認識を日本国内で支える戦争アレルギー、核アレルギー、軍事関連議論思考停止の源の一つが、教育やメディアの与える情報から導き出される間違った歴史の反省=自虐史観なのである。

だからこそ、韓国も中国も、『歴史問題』を永遠に利用し続けるのである。

【参考】■江沢民「歴史問題、永遠に言い続けよ」と、在外大使ら一堂に集めた会議で指示

【北京=藤野彰】中国の江沢民・前国家主席(前共産党総書記)が在任中の1998年8月、在外大使ら外交当局者を一堂に集めた会議の席上、「日本に対しては歴史問題を永遠に言い続けなければならない」と指示し、事実上、歴史問題を対日外交圧力の重要カードと位置付けていたことが、中国で10日発売された「江沢民文選」の記述で明らかになった。

中国は胡錦濤政権に移行した後も一貫して歴史問題を武器に対日圧力をかけ続けており、江氏の指針が現在も継承されているとすれば、歴史問題をめぐる中国の対日姿勢には今後も大きな変化が期待できないことになりそうだ。

同文選(全3巻)は江氏の論文、演説などを集大成したもので、これまで未公開だった重要文献を多数収録。江氏は同年8月28日に招集した在外使節会議で国際情勢について演説、この中で対日関係に言及し、歴史問題の扱いをめぐる指針を示した。(後略)
読売新聞(2006年8月10日)

【参考】■日本の謝罪目的達成せず、中韓に受け入れ意思なし

【ワシントン=古森義久】日本の戦後の対外的な謝罪をすべて記録し、分析した「第二次世界大戦への日本の謝罪」と題する珍しい学術書が米国で出版された。

著者である米国人の新進日本研究者は、現代の世界では主権国家が過去の行動について対外的に謝罪することは極めてまれだとし、日本が例外的に謝罪を表明しても所定の目的は達成していないと述べ、その理由として謝罪される側に謝罪を受け入れる意思がないことを指摘した。

著者は、ミシガン州のオークランド大学講師で新進の日本研究学者のジェーン・ヤマザキ氏で、同書は今年初めに出版された。

米国の学術書としては、初めて一九六五年の日韓国交正常化以降の日本による国家レベルでの謝罪内容をすべて英文にして紹介し、日本の謝罪の異様で不毛な側面を詳述した点で異色であり、三月末の時点でも米国の日本研究者の間で注目され、活発な議論の対象となっている。

ヤマザキ氏は、二〇〇二年にミシガン州のウェイン州立大学で日本現代史研究で博士号を得た学者で、日本留学や在住歴も長い。本人は日系ではなく、夫が日系三世だという。

同書は、日本の「過去の戦争、侵略、植民地支配」に関する天皇、首相、閣僚らによるさまざまな謝罪を紹介しながら、「主権国家が過去の自国の間違いや悪事を認め、対外的に謝ることは国際的には極めてまれ」だと指摘している。

国家が過去の行動を謝罪しない実例として「米国の奴隷制、インディアン文化破壊、フィリピンの植民地支配、ベトナムでの破壊、イギリスによるアヘン戦争、 南アフリカ、インド、ビルマ(現ミャンマー)などの植民地支配」などを挙げ、現代世界では「国家は謝罪しないのが普通」だとし、過去の過誤を正当化し、道義上の欠陥も認めないのが一般的だと記す。

その理由については「過去への謝罪は自国の立場を低くする自己卑下で、自国への誇りを減らし、もはや自己を弁護できない先祖と未来の世代の両方の評判に泥を塗る」と説明している。

同書は、日本が例外的に国家謝罪を重ねていることの動機として、

(1)特定の国との関係改善(対韓国のように過去を清算し、和解を達成して、関係をよくするという目的)

(2)歴史の反省からの教訓(過去の過ちを認め、その教訓から新しい自己認識を作るという目的)

(3)道義的原則の確認(過去の当事者はもういないが、新たな道義上の原則を対外的に宣言し、誇示するという目的)

などを挙げる一方、日本のこれまでの国家謝罪は国際的に日本がまだ十分に謝罪していないという印象が強い点や、中国や韓国との関係がなお改善されない点で失敗だと総括している。

同書はさらに、日本の謝罪の評価指針として「過ちの特定」「謝りの用語」「謝罪表明の当事者選定」「謝罪への反応」などを挙げ、日本側にも問題があるとしながらも、「謝罪が成功するには受け手がそれを受け入れる用意があることが不可欠なのに、韓国や中国は謝罪受け入れの意思がなく、和解をする気がない」という点を強調している。

同書は基本的に日本の過去の戦争関連行為が悪であり謝罪や反省は必要だという立場をとりながらも、日本国内の保守派に根強い謝罪反対にも理解を示し、国家謝罪は

(1)その国家の政治的正当性に疑問を投げかける
(2)自国の先祖や伝統を傷つける
(3)現実の訴訟や賠償支払い義務の土壌をつくる

などの点を指摘した。
産経新聞(東京版)2006年4月3日 14版7面(国際面)
http://kuyou.exblog.jp/3433508

今、日本は確実に悪循環の“輪”の中にある。

政府を決定的に体質改善するには、多くの国民が認識を改めなければならない。
多くの国民が認識を改めるには、報道や教育が改革されなければならない。
報道や教育を改革するには、政府の体質が改善されなければならない。

逆にいえば、このループのどこかを壊せばいいのである。日本人はそろそろ認識を改めねばならない。図書館に行って関連図書を乱読されるのも良いだろう。ご自分の納得いく方法でいろいろなものを見て自由に判断して頂きたい。


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